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私のくまのぬいぐるみ。
しおりを挟むある日、庭の隅っこで放置されていた雑草だらけの花壇から『くまのぬいぐるみ』が生えてきた。
そんな状況説明をしたところで、大半の人は反応に困るだろう。実際、私にも訳が分からない。しかもそのくまのぬいぐるみは、まるで花のように土から上半身を生やしたまま、ほつれて綿の飛び出しそうな手を揺らして流暢に喋り出したのだ。
「こんにちは、メイちゃん! ちょっとお庭を借りてるよ」
「……、は?」
私は思わず、その土まみれのくまを凝視する。喋れて、手も動かせて、瞬きもするぬいぐるみ。誰かの悪戯にしては、手が掛かりすぎだ。
わざわざ普通の女子高生の私をつかまえて、こんなことをするメリットはない。
しかしくまは私の混乱などお構い無しに、そのまんまるの頭と首に付けられたリボンを揺らしながら、子供番組のお姉さんのような明るい声音で、のんきに自己紹介を始める。
「ぼくの名前はくまのくーちゃん、よろしくね!」
「驚くほど安直なネーミング」
「えー、結構気に入ってるんだよ?」
その声は録音などではなく、会話も成立するようだった。その仕組みを解明するべく私がくまの頭を鷲掴みにして土から引っこ抜こうとすると、くまは慌てて綿の詰まった柔らかな手で抵抗した。
「わーっ! まってまって、掘るにはまだ早いよ!」
「早い?」
「うーんとね、まだ足があれだから……収穫するなら一ヶ月後くらいかな」
「足があれ、とは。……というか収穫って。花っぽいって思ったのに野菜か何かなの……?」
そうして、謎と疑問しか残らない出会いから、私とくまの奇妙な一ヶ月が始まった。
*******
「今日は良い天気だねー」
「……どう見ても土砂降りだけど?」
ある日、くまは花壇から生えたまま、為す術もなくずぶ濡れになっていた。それでも土から出そうとすると拒むので、よっぽど花壇の中が好きらしい。
こんな未知の物体、見て見ぬふりをするのが一番なのだろうけれど、気が付くと窓硝子越しに真ん丸の瞳と目が合うので、気になって仕方なかった。
しばらく考えて私が傘を差し向けてやると、点三つで構成されたような単純な顔のぬいぐるみなのに、分かりやすくにっこりと微笑む。
「わあ、ありがとう! ふふ、メイちゃんは相変わらず赤い傘が好きだねぇ」
「……相変わらず?」
「ぼくも赤好きだよ、可愛いよねぇ。首のリボンの色なんだー」
「えっ、それ赤なの? 汚れてもはや茶色に近いけど……」
「ありゃー……」
それからくまは時々、私のことを昔から知っているかのように話した。
「今日のごはんはね、梅干しなの。メイちゃん、梅干し嫌いだったよね? わざわざおにぎりから出してお米だけ食べたり……」
「え、なんで知って……って、待って、くま梅干し食べるの!?」
「うん、はちみつ梅おいしいよー」
「……蜂蜜ってところは辛うじてくまっぽい」
話せば話す程くまの存在は謎に満ちていて、訳が分からなかった。これが果たしてぬいぐるみと呼んで良い物体なのかすらわからなくなってくる。
「いやそもそも、ぬいぐるみなのにご飯食べてるの……?」
「デザートのプリンもおいしかったー」
「デザートまで満喫してる!?」
「えへへぇ。明日ははちみつプリンがいいなぁ」
「……そう」
このくまの生態を、よく観察してみる必要がありそうだ。それから私は毎日庭の隅っこへ行き、その日の出来事を聞いたり、土から露出している部分のチェックをすることにした。
「んーと、今日はねー、足が痛かったよ」
「足? あるの?」
「うん、歩く練習してるんだけどね、やっぱり痛いんだー」
「土の中で練習してるの!?」
「うん、痛くてメイちゃんなら泣いちゃうねぇ……」
「歩行訓練ってそんなに過酷なの……?」
どうやら土の中で足を酷使しているらしい。見た目はくまだが、水中で必死にもがく白鳥と同類なんだろうか。
「あ、明日はね、お父さんが会いに来るんだって」
「お父さん居るの!?」
「いるよー?」
「その、ちなみにお父さんって、どんなの……?」
「えーとね、おっきくて、やさしくて、来る度に美味しいものをたくさんくれるんだけど……」
「だけど?」
「……最近ちょっとだけ、髪の毛がさみしい……」
「……、そっかぁ」
思わずくま父の生態よりも、頭髪事情が気になってしまった。そもそもぬいぐるみは全身柔らかな毛に覆われているのに、頭部の毛は別枠なのだろうか。
そんな好奇心から翌日はずっとくまの傍に居たけれど、結局、くまの父親らしき物体は現れなかった。
またある日は、くまの生えている花壇の荒れ具合が気になり、草取りをすることにした。
花壇もそうだが、庭自体近年ほとんど手を入れていない。折角なので庭から綺麗にすることにしたが、長年放置されていた雑草は相当しぶとく、その作業は難航した。
「ぼくもお片付けしようかなぁ」
「その手で草抜けるの?」
「……んー、無理かもー」
指もなく丸いだけの手。しかも土から出られずに、精一杯腕を伸ばしても半径十センチ程度のくまには、到底無理だった。
代わりに私が引っこ抜いたタンポポをくっつけるように持たせてやると、上手く綿と綿で挟むように摘まみ、まるで応援のポンポンのようにゆらゆらと揺らしていた。
ちょっと可愛いとか思ってしまったのは内緒だ。
「メイちゃん、お庭が綺麗になったら帰れるねぇ」
「終わらないと帰れないシステム!?」
結局庭の草取りだけで一日が終わってしまい、花壇は明日に持ち越しとなった。
*******
翌日、ようやく花壇の草取りをしながら、私は手持ち無沙汰な様子のくまへと尋ねる。
「ねえ、どうせなら綺麗になった花壇に花を植えようと思うんだけど」
「おお、いいねぇ……きっと綺麗なお花が咲くよ!」
「……それで、何の花が好き?」
「ぼく? ここはメイちゃんのお庭だから、メイちゃんのすきなのでいいんだよ?」
「そうだけど、あんたの家でもあるでしょ。……家って言うか、何だろ、生えてるし、いっそ花壇が親……?」
「親。確かに……ぼく、今お母さんと繋がってる……!? 生命の神秘……!」
「花壇もぬいぐるみも生命カテゴリーでいいのかな……」
私のツッコミなどお構いなしに、くまは土に触れ感動の再会のような真似事をしている。
私はもう、このマイペースかつ突飛なくまの生態や思考パターンについて、理解するのは諦めた。
くまと時間を共にして分かったことは、やけに私について詳しいことと、私に危害を加える様子はないということ。
それから、何だかんだ私もくまと居る時間は安心して、まるで幼い頃の友達と遊ぶように、変に気を使ったりせず楽しいということだけだった。
「ぼく、赤いお花が好きかも。メイちゃんは?」
「花……何だろ、桜? なんか、つい最近見た気がする」
「……春だからねぇ。でも、花壇に桜は植えられないね」
庭に当然桜はない。ついでに言えば、コンクリートもなく土と砂利と草の自然な庭だ。
けれどやけに、桜の淡い薄紅色とコンクリートの灰色が、目に焼き付いているような気がした。
「……あれ、何これ?」
思考の最中、不意に雑草の隙間から光る物が見えた。
手を伸ばし拾い上げると、それは土にまみれたビー玉だった。
「あー、メイちゃんの宝物だねぇ!」
「これが?」
無色透明のビー玉。土汚れを落とし光に翳すように見上げると、硝子の中に輝く青空を閉じ込めたようだった。この小さな宝物のような光景に、見覚えがある。
「……もしかして、私が小さい頃好きだったビー玉?」
「せいかーい!」
思い出すと、やけに懐かしく感じた。確か小さい頃とても大切にしていて、花や空や友達、あらゆるものを映して回っていた。これさえあれば、美しい世界は私の手の中だった。
そんなに大切にしていたのに、ある日うっかり失くしてしまい、探しても見つからず大泣きしたことを思い出す。まさかそれが、こんな所に埋まっていたなんて。
作業を続けると、その後も次々と土の中から見覚えのある物が出てきた。
昔好きだった香りつき消しゴム、すっかりぼろぼろの絵本、キラキラの玩具のネックレス。
かつての宝物だったそれらは、記憶の端に追いやられ、いつしか忘れてしまった物ばかりだった。手に取ると、懐かしさに胸がぎゅっとする。
「私、こんなに花壇で失くし物してた……?」
流石に引っ掛かりを覚え呟くと、発掘作業を眺めるだけだったくまが、ふと思い出したように声を上げる。
「あ、ねえメイちゃん。あのね、今日でぼくが生えてきて一ヶ月なんだよ」
「えっ、もうそんなに経つ!?」
「たつー」
突然の話題変換に戸惑うのも一瞬で、毎日くまと過ごして来たおかげでこのマイペースさにも慣れてきた。……が、やはり花壇から生えているくまのぬいぐるみなんて謎の物体が何者なのかは、結局分からなかった。
「ってことは、もう引っこ抜ける?」
「いいよー」
あっさりとした許可を受け、私は軍手を脱いであの日と同じようにその丸い頭を鷲掴む。一ヶ月越しの謎が解けるかもしれないのだ、さすがに少しわくわくした。
「……ねえメイちゃん? もっとこう、他の掴み方、ない?」
「腕でもいいけど、掴んで引っ張ったらもげそうじゃない?」
「……、このままでいこう!」
「よし。せーの!」
私は勢いよく、土からくまを引き抜いた。見た目から予想していた以上の重みと手応えに動揺しつつも、一気に引き上げたくまの足には、何故か私の通学用の靴の紐が巻き付くように括られていた。
「えっ」
「わあ!?」
思わず、くまを投げ捨てるように土の上に落とす。くまが顔面を土に埋もれさせ悲鳴を上げるけれど構っていられない。
よく見ると、くまの居た穴の中には、画面の割れたスマホや汚れた通学鞄が埋まっていた。すべて、私の物だ。
慌てて掘り起こしたスマホを確認すると、勝手に電源がつく。そこには、最後に撮ったらしい写真が表示されていた。
「……桜?」
「メイちゃん、桜に夢中で車に気付かなかったんだねぇ」
「え……?」
汚れた靴を引きずり歩く土まみれのくまの姿を見て、ぎょっとすると同時に、頭が痛んだ。
土から抜いた時鷲掴みにしたせいで僅かに歪んだくまは、足に括りつけられた靴があらぬ方向に放り出されて、それを引き摺りながら近付いてくる。
不意に、先程投げ飛ばされたくまの動きと、今の歪な姿が、とあるイメージと重なった。
車に轢かれ、頭をぶつけ、地面に転がされ、土にまみれながら折れた足を引きずる、私。
そんな光景を鮮明にイメージしてしまった私は、思わず自身の姿を確認した。
「わ、私……?」
「花壇が綺麗になって、思い出した?」
「どういう、こと……?」
「花壇は、記憶を埋めるところだからねぇ」
「記憶を……」
再び頭がずきんと痛み、唐突に思い出す。
そうだ、私はあの日、車にはねられたのだ。それなのに気が付くと、無傷でこの庭に居た。
轢かれた後の記憶が、全くない。それどころか、今までそのことすら忘れていた。
最後に目に映った桜と、投げ出されたコンクリート。くまのリボンのような赤と茶色の間の色をした液体が視界を覆い、意識を手放した。
けれど全身の激しい痛みも、今は感じない。あの事故は、いつのことなのだろう。
「もしかして私、死んだの……?」
そうだ、そもそもこの空間はおかしかった。
見た目は紛れもなく、私の家と庭。けれどこの一ヶ月間、家の敷地の外には出られなかったし、出ようとも思わなかった。
両親の居ない家に違和感も覚えず、日課だった走り込みだって一度もしなかった。部活の大会が近いのに、学校にだって行かなかった。
「……っ!」
私は、咄嗟に家の門へと向かう。嫌な考えを払拭したかった。けれど庭から続く門まで辿り着けず、外界から見えない壁で断絶されたように、庭から一歩も出ることが出来なかった。
「やだ、なんで……!」
「大丈夫。ぼくがメイちゃんを死なせるもんか」
「え……」
重たいであろう靴を引きずりながら必死に追い掛けてきたくまは、そっと私の手を握る。といっても指がないから、握るというよりも手を押し付けてくる。それはいつまでも触れていたいくらい柔らかくて、無機物のはずなのに、少しだけ温かく感じた。
こんな謎の空間で、正体不明のこのくまが正直一番怪しいのに、不思議と怖いとは感じなかった。
「前に言ったでしょ? 花壇が綺麗になったら、帰れるよって。ぼくも花壇から出られたし」
そう言いながら、小さな手で私を再び花壇まで誘導する。
「あのねメイちゃん。向こうは痛いも苦しいもあるけど、本当はずっと、一緒にここに居たいけど……」
そしてくまは不意に、私を押した。予想外の力強さに思わず尻餅を付く。そしてそのまま、私はくまの埋まっていた穴へ落っこちた。
「わ!?」
「メイちゃんなら、きっと大丈夫。昔の大切も、見たら思い出せた。忘れてなかったもん。形が変わっても、辛くても、大切は大切って、ちゃんと思えるもんね」
私の混乱や驚きを他所に、昔好きだった絵本の少女みたいに、抗う術もなくやけに大きな穴の中へと深く深く落ちていく。
「メイちゃん、赤いお花、約束だよー」
私は手を振りながら遠ざかるくまを、やがて何も見えなくなるまで、呆然と見上げ続けるしか出来なかった。
*******
「芽依、大丈夫? 急にぼんやりして……何処か痛む? 看護師さん呼ぶ?」
「……え?」
穴を落ち続け、暗闇に突然光が差したかと思うと、そこは見知らぬ白い部屋のベッドの上だった。
そして、心配そうに私を覗き込む両親の姿。つい先程まで、くまのぬいぐるみと庭に居たはずなのに。
「……お父さんお母さん、ここ、どこ? 私、なんで……」
「芽依!? もしかして、思い出したの!?」
思い出すも何も、寧ろ何もわからないから聞いてるのだが。しかし神に感謝しながら泣く両親を見て、私はそれ以上何も言えなかった。
そしてしばらくして、ようやく落ち着いたお父さんから、衝撃の事実を聞かされる。
「芽依はこの一ヶ月、ずっと記憶喪失だったんだぞ」
「記憶喪失!? ……え、覚えて、ない」
記憶喪失。漫画やドラマで良く聞く単語だ。それを実際体験することになるとは、夢にも思わなかった。
記憶喪失なんて一口に言っても色んな種類があって、すぐに記憶を取り戻したり、ずっと忘れたままだったり、今回の私のように、元の記憶が戻るとその拍子に記憶喪失期間の記憶が抜け落ちることもあるそうだ。
懇切丁寧に説明されたけれど、にわかには信じがたい。だって私には、意識や記憶が途切れた感覚もないのだ。
「……私、一ヶ月間ずっとこの病院に居たの?」
「ええ、頭を打っていたし、足も骨折しているのよ」
「……そっか。じゃあ、これからも入院しながらリハビリとか?」
「あ、今日が退院日ね」
「……入院を自覚した瞬間退院とか、新手のRTAかな……?」
陸上部でいつも速さを追い求めていたとはいえ、これは想定外だった。くまに穴に落とされてから、驚きの連続に頭がついていかない。
「退院の荷造りをしてたら、事故の時履いていた靴を持って急にぼーっとするから、びっくりしちゃった」
「……この靴、くまがつけてたやつ」
「くま?」
「……何でもない」
頭の整理が追い付かぬ内に退院手続きを済ませ、お父さんの車に乗り込む。
一ヶ月経ったとはいえ、足は固定されていても痛みを伴った。その痛みが、容赦なく現実を突きつける。
車の中で聞かされたのは、部活帰りに桜並木を歩いていた私の方に、乗用車が突っ込んで来たこと。ここまでは何と無く覚えている。
単に打ち所が悪かったのか、大事な試合前に足を怪我したショックからか、目を覚ますと私は記憶喪失になっていたらしい。そして記憶喪失中もどうやら普通に生活して、早々に始まったリハビリも真面目に行っていたようだ。
「芽依、小さい頃のことだけは覚えてたのよ。だから、最近の記憶だけ飛んじゃったんじゃないかって、少しは安心してたんだけど……でも、人が変わったみたいで……」
「人が変わった……って、何、暴れたりとかしたの?」
「その逆。何て言うか……少しのんびりさんだったわ。間延びした話し方とか」
「え……」
「ダイエットだとか気にせずデザートのプリンも美味しそうに食べるんだもの、お父さんったら、お見舞いに来る度にお菓子買ってきてたのよ」
のんびりした間延びした話し方の、プリンが好きな子を、私は知っている。
「リハビリだって相当辛いはずなのに、泣き言も言わずに『メイちゃんの身体のために頑張らないと』なんて、他人事みたいに言うし……」
「……」
「でも、一生懸命頑張って偉かったわ。芽依は昔から、痛いの嫌いなのにね」
記憶には全くない。それでも、やはり一匹だけ、心当たりがあった。
*******
退院してからもリハビリは続き、あれだけ熱を注いでいた部活も、結局試合に出ることも叶わずそのまま引退を決めた。
散々泣いて、しばらくは何もする意欲が湧かなかった。大好きだった陸上を、仲間を、嫌いになりそうになった。
唐突に失われた、私の大切だった日々。自分だけの宝物を失くした幼い頃のような、不安と喪失感。
それでも、悲観して自棄を起こさなかったのは、どんな形になっても好きだったものを大切でいられたのは、のんびり屋のあの子との一ヶ月があったからだろう。
あの子が私のことを守ろうとしてくれたのだから、それを無下には出来なかった。
痛みが苦手な私の代わりに、辛かったであろう事故後のリハビリだって頑張ってくれたのだから、それに報いなくてはと、私も頑張れた。
そして、しばらくして私は、部活のない分家の片付けや、庭の草取りに精を出し始めた。庭については実質二度目だ、痛む足でも随分手際よく行えた。
そんなある日。お母さんと一緒にスコップを探しに物置に入ると、やけに見覚えのある、点三つで描ける単純な顔をしたくまの落書きを壁の隅に見付けた。
「これ……」
「あら懐かしい。このくま、芽依が小さい頃毎日抱き締めて連れ回してたのよ」
「ねえ! この子、今はどこにあるの?」
「ええと、確かどこかに出掛けた時落としたか忘れてきちゃったのよね。『くーちゃんが居ない』ってしばらくわんわん泣いてたのは覚えてるんだけど……」
「……そっか」
その終わりを、覚えていない。
でも、私はこの子を知っている。
触れるとほんのり温かい柔らかな毛並みと、黒くて真ん丸のつぶらな瞳。首には鮮やかな、あの子の好きな赤いリボン。
「……あの花壇は、私の忘れた記憶が眠る宝箱、だったのかな」
土にまみれたビー玉や消しゴム、絵本やネックレス。そして、くまのぬいぐるみ。たくさんの昔の宝物。
その中に埋もれたあの子はきっと、目を向けることもなくなり雑草の生えた、古く忘れ去られた記憶の庭の隅っこで、それでも変わらず私を見守ってくれていたのだろう。
私には相変わらず、あの一ヶ月の病院での記憶はない。
あの子が私の体に入り、事故直後の痛みや絶望を引き受けて心と身体を守ってくれていたのか。
それとも、深層心理の中で作り上げていた、幼い頃の友達であるくまの人格が、事故をきっかけに表に出てきたのか、真実はわからない。何しろ、あのくまの生態は、最後まで謎だったのだ。
だけど、きっとあの子は私とは別の存在だ。だってあの子は、私とは似ても似つかない。食べ物の好みも、性格も、何もかも。
今でも目を閉じれば、すぐにでも会える気がする。柔らかくて、のんびりさんで、おおらかで、温かくて、優しい、私のくまのぬいぐるみ。
「……ありがとう、くーちゃん」
久しぶりに呟く名前は、やけに口に馴染む。私は改めて綺麗にした庭の花壇へと向き直り、花の種を埋めた。
幼い私は色んなものを失くして、悲しみ、忘れ、出会って、繰り返しながら大きくなってきた。
苦手だった痛みだって、涙だって、きっといつかの糧となると、あの子が教えてくれたから。
「……また、会おうね」
もう二度と忘れないように、私はそっと約束を交わす。
いつの日かひょこり花壇に咲いたあの子が、のんびりと赤い花弁を揺らしながら、また私を見守ってくれると信じて。
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