星のカケラ。

雪月海桜

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天国からの日記。

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 天国には、何でも揃ってると思ってた。
 争いのない平和な時間、いくら食べても太らない美味しい食べ物、心地の良い暖かな家に、綺麗で可愛い服。

 何の苦労もいらない、悩みだって持たなくて良い。前世で頑張った分、次の人生までのモラトリアムを謳歌して魂の浄化をする場所。

 でも……それでも。

「ここには、あの子が居ないじゃない……」

 私は天国に居るのに似つかわしくない、深い溜め息を吐く。私の目の前にある、下界を見下ろせる水面のような小窓。みんな死んですぐはしょっちゅう覗きに来るが、天国での生活に慣れると来なくなることが多いらしい。

 何にも害されることのない空間で、もう関与出来ない世界を思って胸を痛めるのは、無意味だとでも言うのだろうか。
 ここでの生活に慣れきった住民達は、いつまでも小窓に入り浸る私を見て珍しそうにする。

 例えるのならそこは、子供の頃好きだった絵本の世界。昔夢中になって何度も読んで、自分が登場人物だったらと想像する、手の届かない架空の場所。
 今まで必死になって生きて来た世界を、死後そんな風に遠いもののように感じるなんて思わなかった。

 まるで子供が大人になって、絵本を卒業するように。
天国に馴染んだ魂は前世を忘れ、やがて新たな命として歩み出す。
 けれどいつまでも絵本を手放せない私は、やはり異質なのだろう。私には、転生の予兆がまるでない。同じ日に天国入りした魂は、とうに旅立っていた。
 
 
*******
 

 ここに来たばかりの頃は、一緒に来た彼と小窓を覗いては、自分達の居なくなった世界を見て一喜一憂したものだった。

『大丈夫かな』
『ああもう、そうじゃなくて』
『置いていってごめんね』
『泣かないで、笑っていて』
『よかった』
『ああ、会いたいなぁ……』

 始めの頃は後悔があるとか、心配ごとがあるとか、ハラハラしたりもどかしくもあったけれど。会えなくて寂しくて、溜め息を吐いて泣いてしまう日もあったけれど。
 長い時を経て、色んな感情は麻痺していって、最後に残ったのはただ『愛』だけだった。

「会いたいなぁ……でも、会いたくないなぁ」

 あの子に会えると言うことは、あの子がここに来るということだ。出来れば永く、絵本の中で一生懸命な子供のままで居て欲しい。
 苦しみも悲しみも乗り越えて、ハッピーエンドの先も幸せに生きていて欲しい。それは見守る側のエゴだろうか。

「……どんな物語でも、最後まで見守らせてね」
 
 
*******
 

 私は今日も、小窓を覗く。愛する我が子の冒険譚を、間近で追えなかったのは残念だけれど。
 ここでなら、家事に仕事に、自分が生きるのに精一杯で見てやれなかったであろう瞬間も、見ることが出来る。

 そういう意味では、やはり天国なのかもしれない。平坦な日常ですら、栞を挟みたいくらい大切だ。私は一つも見落とさぬよう、日記をつける。

 叶うなら遠い未来で、いつかあの子が来た時にそれを見ながら『たくさん頑張ったね』と褒めてあげよう。

 私より年上になったあの子を思いながら、すべて褒め終わるのに一体何年かかるだろうかと、幸せな悩みに溜め息を吐いた。
 
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