星のカケラ。

雪月海桜

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魔法の絵の具。

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 ある日わたしは、いい天気だからとお母さんに連れて行ってもらった隣町のフリーマーケットで、とっても素敵なものを見つけた。

 それは一見、どこにでもありそうな普通の絵の具セットだったけれど、とても不思議な『魔法の絵の具』だったのだ。

 普通の絵の具なら『あか』とか『きいろ』とか色の名前が書いてあるチューブには、『あまいもの』とか『かわいいもの』とか『かたいもの』なんて書いてある。

 そして『あまいもの』のチューブに入った絵の具は、ふたを開けるとお砂糖ともバターとも果物とも言えるような、不思議な甘い香りがするのだ。

「おいしそうな匂い……この前行ったパン屋さんみたい」
「おや、それが気になるのかい。お嬢ちゃんは見る目があるね」

 この絵の具を使って絵を描くと、欲しいものが何でも手に入るのだと、お店の人……魔女みたいに真っ黒い服を着て、しわしわの顔をした白髪のおばあさんは言った。

「ほら、試しにここに、甘いものを描いてごらん」
「何でもいいの?」
「ああ。ホットケーキでもジュースでもアイスクリームでも、好きなものを描くといい。ただし、欲しいものを強くイメージしながらだよ。想いは魔法の原動力だからね」

 おばあさんは絵の具セットの中から使い古されたような絵筆を出して、そこに直接『あまいもの』の絵の具を垂らす。
 パレットを使えばいいのにと思ったけれど、絵の具がついてパレットが甘いものになってしまったら大変だ。
 筆先に乗せられた絵の具は透明のように見えて、角度によって赤にも青にも色が変わる不思議なものだった。魔法の成分なのか、よく見るととてもキラキラとしていた。

「ほら、描いてごらん」
「えっと……こう?」

 絵の具の色にしばらく見惚れていたけれど、おばあさんに促されるまま差し出された絵筆と紙皿を受け取る。少し考えて、わたしはそこに簡単なドーナッツを描くことにした。
 ドーナッツなら、ただ丸を描けばいい。お絵描きはあんまり得意じゃないから、ケーキだとかパフェのような難しいお菓子は描けそうになかった。

「うーん……?」

 精一杯美味しいドーナッツをイメージしながら出来上がったのは、ちょっぴり欲張っていつものより大きくて、少し歪な形のドーナッツの絵。やっぱり下手くそだけど、自分の中では上手く描けた方だ。

 そして、絵の具は筆についたものだけしか使っていないのに、こんがり茶色いドーナッツ生地の上に金色のはちみつをかけたような、想像通りの鮮やかな色彩になった。
 色が変わるなんて、これは魔法の絵の具に違いない。それでも紙皿の上にあるのは、ただのドーナッツの絵でしかなかった。

「……なぁんだ、甘い香りはするけど、やっぱりただの絵だよ」
「まあまあ、焦らず見てなさい」

 自分の下手な絵を見ているのは何となく落ち着かなかったけれど、おばあさんの言葉に従いじっと待つことにする。
 するとみるみる内に紙皿の上には、わたしが描いたのとそっくりな、大きくて歪なドーナッツが浮かび上がった。

「わあ……!?」
「どうだい、すごいだろう?」
「すごい……これ、本物なの?」
「ああ。食べてもいいよ」

 信じられない気持ちでいっぱいになりながらドーナッツを手に取ると、さっき作ったかのようにあったかい。
 知らない人から食べ物をもらってはいけないとお母さんにいつも言われているけど、これはわたしが描いたものだから、わたしの物だろう。

「……いただきます」

 心の中で言い訳をして、甘い香りに我慢できず思わずかぶりつけば、口いっぱいに広がる甘さも柔らかさも、まぎれもなく本物だった。

「おいしい……!」

 イメージしていた通りの、はちみつのような甘くて優しい味。無我夢中であっという間に食べきって、お腹も心も満たされる。

「ごちそうさま……おいしかった」
「それは良かったねぇ」
「すごい……これがあれば、描いたものは何でも出せるの?」
「ああ。ただし、今やった通り、描いたものがそのまま形になるからね。お絵描きが上手にならないと、使いこなせないかもしれないよ」
「なら、たくさん練習する! あのね、お母さんが絵の先生なの。すっごく上手で……だから、教えてもらうことにする!」

 家の中にお絵描き専用の部屋があるくらい、わたしのお母さんは絵が上手。
 お母さんの絵をいつも見ているから、自分の下手くそな絵は恥ずかしくて。それをお母さんに見られたくなくて、お絵描きが嫌いになっていたけれど。きっと、頼めば教えてくれるはずだ。

 もうしばらくしたら妹が生まれるから、そうしたら三人でお絵描きして遊ぶのもいい。妹には、お姉ちゃんとしてお手本となるような、上手な絵を見せてあげよう。
 この魔法の絵の具でおもちゃを出してあげたら、喜んでくれるだろうか。赤ちゃんでも食べられるおやつを描けるようにならなくては。

 想像する内に、嫌いだったお絵描きが、段々楽しみになってくる。

「そうかい……それなら、きっと上手な絵を描けるようになるね。この絵の具は、お嬢ちゃんに譲ろう」
「ありがとう……!」
「ただし、一つだけ覚えておくんだよ。絵の具は絵の具。水に濡れたりしたら伸びてしまって、絵が崩れてしまうからね」
「……崩れたら、どうなるの?」
「形を保てずダメになるのさ。さっきのドーナッツみたいに、食べるものなら口の中やお腹の中で崩れても問題ないけどね……形のあるものを作ろうと思ったら、ちゃんと気を付けるんだよ」
「うん、わかった!」
「くれぐれも気を付けて。楽しくお絵描きするんだよ」

 おばあさんの忠告を受けて、わたしは絵の具セットを大切に抱き締める。秘密の魔法を手にしたドキドキでいっぱいだった。
 けれど、おばあさんに何度も手を振って不思議なお店を後にすると、人混みの中で不意に思い出す。
 そういえば、いつの間にかお母さんとはぐれてしまっていたのだ。

「どうしよう! 怒ってるかな……」

 束の間のわくわくもどこかへ行ってしまい、今さらになって、不安で一杯になってきた。
 絵の具セットの紐をしっかり握り締めて、お腹の大きなお母さんの姿を探して走り回る。

 わたしはもうすぐ、お姉ちゃんになるのだ。しっかりしないといけない。迷子になって泣いたりしない。
 そう自分に言い聞かせて、溢れそうになる涙を必死に堪える。

「もも……!?」
「……お母さん!」
「もう、どこに行ってたの、心配したのよ!」

 不意にわたしを呼ぶお母さんの声がして、振り返ると同時に抱き締められる。
 そのぬくもりに安心して、一生懸命堪えていた涙がぼろぼろと溢れて、頬を伝った。

「お母さん……おかぁさん……!」
「……やだもも、泣いてるの?」

 ぐちゃぐちゃの顔を見られたくなくて、わたしは慌てて首を振る。
 けれどお母さんにはお見通しで、引き剥がされて顔を見られてしまった。

「ああ……やっぱり、崩れちゃったのね」
「……え?」
「もう。お姉ちゃんなんだから泣かないようにって、言ったのに」
「あれ? ねえ、お母さん……何これ。変なの、なんだか、目が見えにくい……それに、顔が……」
「涙で濡れて、顔が崩れちゃったのよ」
「え……、え?」
「仕方ないか。帰ったらシャワーを浴びましょうね」
「……でも……ももはシャワーはダメって……」
「いいの。大丈夫よ。……この子が生まれてくるギリギリまで、子育ての練習をしたいもの。また一から描き直すわ」
「……お母さん?」

 訳がわからない内にお母さんの帽子を目深に被せられて、ほとんど見えない中、わたしは手を引かれながら歩く。

「ねえもも、今度はもう少しお姉さんになってみようか! そうしたら、泣いて崩れたりしないだろうし!」

 不安と混乱でいっぱいなわたしと違って、声から伝わるお母さんの楽しそうな様子は、さっきまでどんな絵を描こうかと想像していたわたしと似ていた。

「ふふ……でもまあ、多少濡れてもいいか。……安心してね。何度だって、素敵なももを描いてあげるから」
「……、うん……」

 お母さんが安心してと言うのなら、きっと大丈夫なんだろう。お母さんがわたしの絵を描いてくれるなんて、楽しみだ。

 そういえば、前に一度だけ入ったお母さんのお絵描き部屋の絵の具にも、桃色の『おんなのこ』なんて不思議なチューブがあったな、なんて、お母さんと繋ぐ反対の手で絵の具セットが揺れる音を聞きながら、ぼんやりと思い出した。

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