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⑥
しおりを挟む結局帰りが遅くなり、辺りは既に暗くなっていた。今日は特別にと灰谷先生に送って貰って、わたし達はそれぞれ家に帰った。
先に送り届けられた美月さんの家は正直あまりイメージ出来なかったけれど、ごく普通のアパートだった。彼女にも、彼女の生活がある。そんな当たり前が、とても新鮮だった。
先生と二人の車の中、わたしは目まぐるしい一日の疲労感から、つい助手席でうとうとしてしまう。
「白楽さん、ありがとうございました。黒崎さんのこと……僕なりに頑張って来たつもりなんですけど……やっぱり、大人に出来ることは限られてますね」
「……? 大人って、何でも出来るんじゃないんですか?」
「いえ。こんな時、大人は無力です。同じ土俵には立てず、かといって無理矢理引き上げるだけのエゴは最善たりえない」
「……わたしには、まだ難しいです」
「ふふ。あなた達くらいの、子供にも大人にもなれる子達が、一番色んな可能性を秘めているんですよ。それこそ、誰かの神様にだってなれるくらい」
先生はそう言って悪戯に微笑んだ。その表情は、まるで少年のようにも見える。
その後わたしの家までの数分間を、美月さんや星羅ちゃんのことを話しながら過ごした。そして不意に、初めて先生と話した日のことを思い出す。
「あっ、そういえば先生、あのラブレターは何だったんですか?」
「ら、ラブレター!?」
「ほら、黒崎さんへって書いた封筒持ってたじゃないですか?」
「……ああ、あれですか。よく覚えてますね? あれは黒崎さんへの課題と……絵です」
「絵?」
「僕は美術しか出来ません。先生なんて言っても、正直人付き合いは苦手ですし……絵が、僕なりの表現方法なんです。なので、黒崎さんに少しでも応援の気持ちを届けるには絵かと……」
「へえ、どんな絵を描いたんですか?」
「……ふふ、今度黒崎さんに見せて貰ってください。……ちなみに美術室の僕の席からは、案外屋上が良く見えるんですよ」
「?」
そうこうしている間に、わたしの家に着く。あばら家のような、壁の色も剥がれかけたぼろぼろのアパート。
わたしにとって、初めて見る美月さんの家が新鮮だったように、わたしの家が先生の目にどう映ったかは、分からなかった。
美月さんに見られなくてよかったと、心の底から思った。
わたしの帰る場所は、ここじゃない。あの日からずっと、夏の日差しに煌めく二人の屋上だった。
「……もう寝てるのかな」
いつもより帰りが遅くても気付きもしない家族は、先生の車から降りて来たわたしのことも当然気付かない。
酒瓶の転がるリビングを抜けて、まっすぐ物の少ない簡素な部屋に戻る。スマホをベッドに放り投げ、一緒になって寝転んで、一息吐いた。
せめて嫌われぬよう、排除されぬようコミュニケーション能力を磨いて、適当に外に居場所を求めたわたしと、保健室や屋上、閉じ籠りながらも自分の居場所を確立していた美月さん。
わたし達は違っているようで、少し似ているのかもしれない。互いに互いを居場所と認識して、それを守りたかっただけなのだ。
自分を保つための大切なものを、大切にしたかっただけなのだ。
「ひとりの女の子。大切な友達。優しい先輩。……わたしの、神様……」
二人だけの世界が、お互いの神様だった時間が、夏の幻のように崩れ落ちる。
それは寂しかったけれど、どんな関係だって構わない。彼女が何者でも構わない。
わたしの大事な居場所は、紛れもなくあそこだった。
*******
あれから、わたし達の時間に危惧したような劇的な変化はなく、けれど明確に人間同士の関係性で、いつもと変わらないかけがえのない日々を過ごした。
すぐに突入した夏休みには学校の外でも会ったし、ごく稀に部活が休みの星羅ちゃんと三人で会うこともあった。
初めこそ人見知りし抵抗があった様子の美月さんだったけれど、星羅ちゃんが灰谷先生の妹ということもあり、比較的直ぐ打ち解けたように思う。
二人だけの秘密の関係がなくなってしまったようで何と無く寂しかったけれど、彼女の世界が広がるのは良いことだと、わたしはそんな複雑な感情を見て見ぬふりする。
「わ、この絵いいですね! でもこれ、お兄ちゃんの絵……?」
「ええ、週一くらいで課題と一緒に灰谷先生がくれるの。本当に律儀よね……」
美月さんの手帳に大切に挟まれていた絵葉書サイズの水彩画は、彼の人柄を思わせる優しい色味をしている。そして見せて貰った内の一枚に、不意に見覚えのある光景を見付けた。
「あ、れ? これって……」
「全く、秘密の時間を盗み見なんて失礼よね」
「……? 陽茉莉ちゃんと先輩は、この絵のモチーフが何か知ってるんですか? どこかの屋上?」
「ふふ、内緒」
小さな紙の中描かれた、フェンスの取り払われた空想の屋上。
青空に程近い場所でら鮮やかなシャボン玉の中微笑む二人の神様は、あの日確かに存在した、今は遠いわたし達だけの宝物だった。
*******
やがて暑さの厳しい季節を越え、秋の名残は消え去り、すべてが白く染まるこの頃。
放課後になると、わたしは閉ざされてしまった屋上ではなく、彼女の居る場所に遊びに行く。
まだ美月さんの保健室登校は続いているものの、わたし達と過ごす時間が自信に繋がったのか、近々教室に顔を出してみるのだと彼女は笑った。
「まあ、卒業まであと少ししかないんだけどね」
「教室に行けなかったことをいつか後悔して、高校生活最悪だったーって思い出になるより、一瞬でも自信になるならずっとずっといいです。応援してますね!」
「ふふ、ありがとう。……ねえ。あなたのあだ名、考えてみたの」
「えっ、本当ですか!?」
「ええ……初めて会った日、突っぱねてしまったから、反省して」
正直、今言われるまでそんなことすっかり忘れていた。約半年間、ずっと考えてくれていたのか。
美月さんは、とても真面目で、繊細な人だ。だからこそ、たくさん悩んで傷付いて来たのだろう。
彼女の傷や痛みの全てを知ることは、別の人間であるわたしには出来ない。それでも、彼女の不器用な歩みに合わせて一緒に進むことは出来るのだと、近頃思う。馬鹿なわたしに根気よく勉強を教えてくれた、神様のように。
「その、でも、こういうの慣れてないから、おかしかったらごめんなさい」
「おかしくても、美月さんの付けてくれたのなら何でも嬉しいです!」
「……そう? なら、あなたのあだ名は……『ひまわり』なんてどうかしら。私達の出会った季節に咲く、あなたに似た元気一杯の花の名前」
「ひまわり……」
「……やっぱり、変?」
「いえ! すっごく嬉しいです! わたし、ひまわり大好き!」
「本当? なら、良かったわ。……あなたは、太陽のように眩しいけれど、太陽はずっと見続けられないもの。……見上げるなら、手の届く距離で光の方角を教えてくれるひまわりがいいわ」
安心したように微笑む美月さんの笑顔は、いっそ夏の太陽よりも眩しくて。それでもこれからもずっと、こうして傍で見ていたいと思った。
そしてわたしは、躊躇うことなく素直に口にする。彼女は三年生だ、この学校で過ごせる時間は、もうあまり残されてはいない。
それでも、その先の未来も共に描けるのなら、それはなんて素敵なことだろう。
「ねえ美月さん、またひまわりの季節を……ううん、これからもずっと、何度でも一緒に、色んな季節を迎えましょうね!」
「……ええ。その願い、叶えてあげるわ」
出会ってから今までで一番神様ぶって答える彼女は、自分で言っておいて直ぐに笑ってしまう。そしてお互い目が合うと、悪戯っぽく微笑み合った。
自らを傷付け死にたいと願った彼女が、未来を描き希望を誓う。その現実は、どんな光より眩しく見えた。
「はい、願いを叶えましょう……二人で!」
わたしは指切りを交わそうと、小指を差し出す。それは子供じみた約束だけど、大人になりきれない今のわたし達には丁度良い。
絡んだ小指はやっぱり細くて小さくて、わたしは胸の中がじんわりとするのを感じながら、小さく手を揺らす。
今もまだカーディガンに隠されて見えないけれど、彼女の傷だらけの腕は、すぐには治ったりしないのだろう。
それでも、新しい傷が増えないように、刃物を握る代わりに手を繋ぐことは出来る。
苦しみを自分にぶつけるよりも、分け合うことが出来るはずだ。
そしていつかの夏、彼女がカーディガンを着ずに過ごせる日が来るかもしれない。
そんな少し成長した未来を、わたし達は想像し、願い、きっと叶えることが出来る。痛みも傷も孤独も全てその腕に抱えて、歩き出すことが出来るのだ。
「……指切った!」
「ふふ、神様に誓って、約束ね」
「それは破れませんね?」
眩い夏の日差しが作る影が色濃いように、光も闇も併せ持った、不安定で愛しい今しか過ごせない季節を噛み締めよう。
変わらないはずの日の光が時には鋭く、時には柔らかく世界を包み込むように、時に疲れてしまっても、ゆっくり一緒に日の当たる場所を進もう。
それが、今のわたし達に出来る最善だと信じて。もしも迷子になったって、一緒ならきっと、大丈夫だ。
離れた小指の先、二人の間に冬の澄んだ匂いを纏った風が吹く。彼女の黒髪がふわりと靡くのを見て、あの夏の日の放課後の屋上を思い出した。
一歩ずつ、ひとりひとりのペースで時は進む。夢見るだけの子供から、やがて大人に至るまでのこの刹那の時間を、わたし達は、今この瞬間もひとつひとつ光に向かって積み重ねていくのだろう。
放課後の日差し、夏の陽炎、切り取られた空の青さ。あの日出会ったひとりぼっちの屋上の神様は、もう居ない。
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