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【幕間】とある野良猫の話。

僕は、猫だった。

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 僕は、猫だった。
 そこら辺に居る、普通の野良猫。
 確か色は真っ黒で、人間の前を横切るだけで不吉だとか言われたし、夜道は車に気付かれずに何度も危ない目にあった。

 路地裏を通れば腐った物の臭いに鼻がやられるし、表通りを歩けば自転車に轢かれそうになる。塀を歩けば他の猫との縄張り争いになるし、店の前を歩けば追い払われる。

 居場所なんてどこにもなかった。そんな環境下で、僕たち兄弟を産んで育ててくれたお母さんが死んでからは、その日食べるものを探すのも困難を極めた。

 やがて冬になると虫も居なくなり、夏にあったような人間が外で飲み食いした食べ残しなんかもほとんどなくなり、ひもじさとあまりの寒さで兄弟達も次々死んでいった。

 僕は最後に残った兄弟と一緒に、その日も暖かい場所と食べ物を探して歩いた。

 そしてある家の庭先、一人の女の子が雪遊びをしているのを見付けた。
 子供は良い。猫を見ると好意的に接してくれる。特に女の子は、男の子のようにはしゃいだからといって石を投げたり追い回したり乱暴しないので安全だ。

 僕たちは生垣の隙間からこっそり様子を伺う。彼女に媚を売って、何か食べ物でも貰えれば御の字だ。しかし大人が側に居ると、近付くだけで追い払われる可能性が高い。野良猫は汚ないらしいのだ。毎日毛繕いもしているのに。

 しかし見ていてすぐに、彼女の違和感に気付く。
 雪の中には不釣り合いな寒そうな服装に、どこかぼんやりとした表情。赤い顔をした彼女の額には、何か白いものが貼ってある。

「あ! ねこちゃんだぁ」

 様子を伺おうとして、近付き過ぎたのか向こうにも気付かれた。思わず毛を逆立てる。
 しかし彼女から敵意は感じず、大人が出てくる気配もない。僕たちは僅かに警戒しながらも、その少女に近付いた。

「ねこちゃん、おさんぽ? かわいいねぇ」
「にゃあ」
「ふふ、私はね、すずんでるの」

 いや、涼んでるどころの話じゃない。さっきから雪だって降りしきっている。僕と同じ色の彼女の髪にも次々雪が積もるが、すぐに溶けるのが見えた。

「ふふ、ねこちゃん、かわいい……おいで!」

 臆面もなく野良猫を撫でる手に触れて、ようやく理解した。彼女は熱がある。冷えきった僕たちに触れる手が、燃えているように熱い。

「わあ、ねこちゃんつめたい!」
「にゃあ……」

 人間にとって熱が苦しいものだというのは、何となく知っていた。外に出て身体の熱を冷まそうとしたらしい彼女は冷え過ぎたのか、今度は寒そうに震え始める。

 親兄弟が冷たくなって死んでいくのを間近で見てきた僕たちは、慌てて彼女のパジャマの裾を噛んで、ぐいぐいと引っ張った。

 早く暖かい室内に入ると良い。
 君には、帰る家があるんだから。

「きょうはさむいね……ねこちゃんもひんやりしてるし……おうちはいる?」
「にゃあ!」

 野良猫を家に上げて、怒られないだろうか。
 心配になったものの、今は彼女を温めるのが先決だった。大人しく抱かれて、一緒に部屋に入る。

 ずっと寒空の下で凍えていた身体をじんわりと溶かすような暖かい室内と、体温の高い彼女の腕の中。ここが天国かと、兄弟と共に喉を鳴らす。

 彼女はふらふらとした足取りながら、きちんと布団まで向かうことが出来た。一安心だ。しかし、親は留守なのだろうか、広い家の中には物音も他の気配もせず、誰も居ないようだった。

 彼女は寂しかったのだろう、僕たちを離すことなく一緒に布団に潜り込む。

「ねこちゃんのおめめ、ほうせきみたい。きれいねぇ」
「にゃ……?」
「ほうせき、わかる? キラキラなの」
「にゃう……」
「ふふ。ねこちゃんも、ねんねしてはやくよくなってね?」
「にゃ……」

 発熱で苦しんでいるはずの子供が、冷たい身体をした僕たちを心配してくれる。
 今まで人間から気紛れに愛でられたことはあったものの、こんな風に扱われるのは初めてだった。

 僕たちは、彼女が少しでも早く良くなるように願いながら、身を寄せ合って眠った。


*******


 あまりの心地よさに、つい爆睡してしまった。野生にあるまじき失態だ。
 しかし目を覚ました時に見たものは、彼女ではなくもっと大人の女性。恐らく彼女の母親だった。

「……!」

 瞬時に警戒し、部屋の隅まで駆ける。彼女に連れられてきたとはいえ、僕たちは家に勝手に上がり込んだ。
 道に出ただけで蹴られたり轢かれそうになるのだ、自分のテリトリーに侵入された人間の大人は、何をしてくるかわからない。

「シャーッ!」
「あら、そんなに怒らないでちょうだい……こっちの子は大人しいのに」
「にゃあ!?」

 良く見ると兄弟は警戒心の欠片もなく、女性の膝でゴロゴロと喉を鳴らしていた。
 その様子に呆れつつも、敵ではないと理解し威嚇をやめる。

「あなた達、愛ちゃんのことを見ててくれたのね、ありがとう」
「……にゃあ」

 愛ちゃんというのが、この少女の名前なのだろう。先程よりも穏やかな様子で寝息を立てている。安心していると、不意に女性が呟いた。

「……愛ちゃんの身体に引っ掻き傷ひとつでもあれば、丸焼きにしていたわ」
「!?」

 やはり警戒するべきなのかもしれない。
 兄弟は聞いていないのか、相変わらずゴロゴロと懐いた様子で膝の上に居座っていた。 

 その日は夕方から夜にかけ猛吹雪になり、外に出されることなく屋根のある家で一夜を過ごす事が出来た。

 生まれて初めての人間の家での泊まり。ぬるめのホットミルクとちぎったパンの欠片を貰った。それらは今まで食べたどんな御馳走よりも美味しくて、飢えた身体に染み渡る。
 彼女が宝石と呼んだ瞳が、熱を帯びた気がした。

 一晩過ごして、彼女は翌日にはすっかり熱も下がったようだった。
 彼女は僕たちのことを飼いたいと言ってくれたけれど、この桜木家と言う家は母子家庭で、猫を二匹も飼う余裕は無さそうだった。

 娘からの無邪気なお願いに、その母親は困ったように曖昧に笑った。
 大事をとってもう一日寝ているようにと言われた彼女は大人しく眠り、その間に僕たちは庭先に放される。

 今まで平気だったはずの雪が、酷く冷たく感じた。
 飼えないのは仕方ない。むしろ一宿一飯の恩があるので余計な迷惑はかけまいと僕は歩き出すけれど、兄弟が離れ難そうに何度も振り返る。

「飼ってあげられなくてごめんなさいね……」
「にゃあ……」

 白い庭に、黒猫二匹。僕たちが白猫なら、きっと雪に紛れて見えなかったろうに。
 目を覚ましたらしい彼女が、二階の窓からこちらを見下ろしているのに気付いた。

 彼女は急いで階段を降りてくる。その足音に追い付かれる前に、僕たちは来た時と同じように生垣の隙間に潜った。

 僕たちの足跡を見て去ってしまったのだと寂しそうにする彼女を、母親は申し訳なさそうに抱き締めていた。

 その光景に、昨日の腕の中の温もりを思い出す。

「……ねこちゃぁん! また、あそびにきてねー!」
「……、にゃぁ」

 彼女の声に小さく小さく返事をして、僕たちはまた、外の世界に戻った。


*******


 その後、与えられた温もりを糧に何とか冬を越して、春になり再び彼女の家を訪れた。

 雪がなければ足跡がバレずに済むはずだ。こっそり彼女の様子だけ見るつもりだったのに、庭先へと足を踏み入れるなり、早々に見付かってしまった。
 窓ガラス越しに、彼女とばっちりと目が合う。やはり黒は目立つらしい。

「ねこちゃん!」
「にゃっ!」

 あの日と同じように抱き上げられて、頬擦りされる。汚いらしいから顔は寄せない方がいいと僕の方から身動ぎするけれど、彼女はお構いなしだった。
 抵抗もむなしく諦め大人しくすると、春の気候よりも更に温かい彼女の腕の中は、やはり天国のようだった。自然と喉が鳴ってしまう。

 その後も何度も顔を出して、その度に抱き締めて貰った。
 母親は居る時と居ない時があったけれど、彼女はいつもその家に居て、僕たちを歓迎してくれた。その度に、僕は生きる希望を得たように思う。

 そして季節は巡り、彼女は会う度に成長していった。

「ゆーちゃん、見て、ぬったの!」
「にゃあ?」
「ふふ、はじめてやったんだよ。上手にできたでしょ。ぬうなら何がいいかなぁって考えたんだけどね、やっぱりあなたたちがいいなって」
「にゃ」

 彼女は『ゆーちゃん』と、いつのまにか僕をそう名付けて呼んでいた。因みに兄弟は『みーちゃん』だ。
 家族の名前が『愛』と『舞』だからと言っていたが、基準が良くわからない。

 近頃は結構な頻度で会いに来る僕たちのことを、彼女は外飼いの猫と認識しているのかもしれない。

 僕たちを大切そうに膝に乗せて縁側で見せてくれたのは、既にぼろぼろのハンカチにされた、歪だけど丁寧な、僕たちに似た黒い猫の刺繍。

 熱があるのに雪の庭に出るような子だったのに、こんなことまで出来るようになったのだ。

 子供の成長は早い。そして、人間と猫の寿命の差は、残酷だ。

 次の冬を、僕達はとうとう越えることが出来なかった。
 最期に思い出したのは、春の日溜まりのような彼女の温もり。

 いつかまた出逢えるのなら、今までたくさん抱き締めて貰った分、今度は僕が抱き締めてあげたいと願いながら、冬の寒さの中で永く深い眠りについた。


*******


 次に目が覚めた時、僕は一国の皇子だった。
 幼い頃から、双子の兄よりも大人びているだの、思慮深いだのと評価されることも多く、その度に野良猫時代の賜物だろうかと感じた。

 しかし前とは真逆の、凍えたり飢えたりすることのない新しい人生。目まぐるしい皇族としての日々に、猫の頃のことはあまり思い出さなくなっていた。
 いつしか、そんな前世の記憶すら、夢の中での出来事ではないかと思い始める。

 けれどある日、ひょんなことから赴いた公爵邸で目にしたのは、あの時見たのとは違う綺麗なハンカチにされた、歪だけど丁寧な猫の刺繍。
 見覚えのあるそれは、あの頃の彼女と同じくらいの歳の、この春色の少女がしたのだと言う。

 また出会えたのだと胸の内から沸き上がる喜びと共に、何度も見たその縫い目の手癖から、彼女もまた記憶を持っているのだと気付いた。

 誕生日プレゼントを要求し、半ば無理矢理また会う約束を取り付けて、その日は大人しく帰路につく。

 兄の前ではいつも通り振る舞っていたけれど、自室に戻りようやく一人になると、涙が溢れて止まらなかった。

 兄を支える第二皇子として日々過ごしていた僕が、こんな風に感情を抑えきれないのは初めてだった。

「ミア・モルガナイト……やっと会えた……」

 それまで当たり障りなく接していた婚約者のルビー侯爵令嬢は、貴族間での評判も悪く、兄の名に傷が付く前にどうにかすべきだと考えてはいた。

 皇室に利をもたらすであろう『聖女』ステラと縁が出来ればその折にと思っていたが、こうしてずっと探し求めていた少女、ミアと出会ってしまったのだ。

 もうタイミングを見計らうのも無意味だと、彼女にまた会う約束をした僕たちの誕生日までに、婚約関係を清算することにした。

 彼女とまた会える。かつて幾度も庭先での逢瀬を繰り返したように僕から出向くのではなく、彼女が僕の元に会いに来てくれる。それだけのことが、酷く嬉しい。
 いつも煩わしいだけの誕生日記念式典が、生まれて初めて楽しみだった。

 この気持ちが恋なのか、ただ懐かしさから手を伸ばしたくなっただけなのか、わからないような、わかりたくないような、不思議な高揚感。
 また彼女に会えた時には、この想いの正体がわかるだろうか。

「……にゃあ」

 もう使わなくなった猫の言葉で、僕はぽつりと、彼女との再会を想って鳴いた。


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