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第一部 終章
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「おはよう御座いますエヴァ様」
「おはようアナベル、今クロワッサンを焼いている所なの」
「あ、あの、エヴァ様……何やら今日は随分クロワッサンの量が多いと思うのですが?」
台所の広い調理台の上には大きめのバスケット2つ分は優に入りそうなくらい多量のクロワッサンが焼きあがっているのだ。
まぁぱっと見た感じではあるが、約30個以上は確実にある。
果たして2人だけの生活なのに如何してこんな多量なクロワッサンが朝食に必要なのか……とアナベルは俄かに考え込む。
何時も2人でどんなに多く焼いたとしても6個。
なのに何故今日はこんなに……?
「あぁそれは持って行くものよ」
「はい?」
何処に――――と心の中でアナベルは思いっきりエヴァへと突っ込む。
それを知ってか知らない……多分エヴァ自身は気がついてはいないがしかし、彼女はそのままやや呆けた状態のアナベルへ続けて話していく。
いや、話すと言うよりは報告みたいなものだ。
「一つはマックスの所へ、ほらこの1ヶ月もの間ほぼ診療所を放置していたでしょう。それに昨夜のマックスは少し痩せていたと思うの、だから少しお料理とクロワッサンを届けようと思ってね」
「はぁ……」
それでもこの量は多すぎるだろう……けれど今エヴァ様は今一つ――――と仰ったが続きはあるのだろうか、いやそもそもマックスはエヴァ様が心配なされる程痩せ細ってはいないでしょう!!
あの者にはあのくらいが丁度良いのですっっ!!
不必要な餌付け等必要ありません!!
またしてもアナベルは心の中で突っ込みを入れてしまう。
そんな彼女も次の瞬間、ついにその突っ込みを心の中では収まらず、思いっきり声を大にして叫んでしまうとは、現段階では考えもつかなかったのだっっ。
いや、及びもしない。
「残りは私達の朝食と――――陛下へお届けするの」
エヴァはそう言って柔らかな笑みを湛えると同時にアナベルは巨大ハンマーで脳天を叩きつけられた様な衝撃を受けてしまう。
な・ん・で・す・と――――っっ!?
「ふふ、陛下もエルさんとして診療所へいらしていた時に、私の焼いたクロワッサンを凄く気に入って下さったの。だからお礼も兼ねてこれからお届け差し上げようかと思っているのよ。ほら、言っていたでしょう、アナベルが毎晩陛下の許へ行く隠し通路があるって」
にこやかに話すエヴァと対照的にアナベルの心は一気に氷点下まで冷え込んでいく。
そこはにこやかじゃないでしょうっ、エヴァ様っっ!!
「えっ、エヴァ様っ、あ、あのっ、如何して急にクロワッサンを持って行くというお考えに至ったのでしょうか!?」
アナベルは心の中が急激に冷え込む中で努めて冷静さを失わない様に、そして敬愛してやまないエヴァを脅えさせない様に慎重に、また声音が硬くならない様に努めて、最大限自身の心を律してエヴァへ質問をする。
でも彼女はそんなアナベルの心情を全くと言っていい程知らないのだ。
そうエヴァにとってアナベルは強くて優しい自慢の姉の様な存在。
決してエヴァへ心酔しきっている脳筋令嬢だという正体を知らないのだ。
だから何時もの様にエヴァは沸かした湯をポットに注ぎながら機嫌良く返答した。
「あら、アナベルは聞いていなかったのね。陛下と私は夫婦なのよ、だからお好きなモノを持って差し上げるのは当然でしょ?」
はああぁぁあああ゛あ゛っっ!!
「こほん、恐れながらエヴァ様それは――――」
聞いていましたともっっ!!
でもそれは余りの眠気で何時もの様になんでもいいからという感じでお返事なさったのでは……っっ!!
「まぁアナベルってば朝から顔色が優れないわ。さぁ何時までもそんな所で突っ立っていないでお食事にしましょう、今朝はニンジンのポタージュとフルーツサラダに薫製したサーモンもあるわよ」
「え、エヴァ様〰〰〰〰」
「え、なあにアナベル?」
ご機嫌な様子のエヴァとは対照的にアナベルの心は何処までも奈落の底に落ちていくが、それでも時間はアナベルにとって扱く残酷に時を刻み、朝食を終えたエヴァはそんなアナベルに伝達魔法でラファエルへ先触れを出す様に告げる。
そう、魔法の使えないエヴァにとってこういう時は何とも遣り切れない。
魔力は人並み以上なのに……。
「私は平民となんら変わらないわね、こんな初歩的な伝達魔法さえも出来ないなんて本当に私は王族なのかしら……?」
つまらない愚痴等言っても仕方ないと思いつつもつい出てしまう。
そうして物憂げな視線を外へと向けるエヴァにアナベルは思いっきり彼女へ食いついていく。
「何を仰いますエヴァ様っっ!! エヴァ様の魔力は私……いいえ、父王陛下の魔力よりも遥かに上ではないですかっ!!」
「でもねアナベル、そう言ってくれるのはとても嬉しいのだけれども、幾ら無尽蔵に魔力があるからと言ってそれを使う能力がなければ何もないのと同じ――――」
「いいえ、いいえエヴァ様それは違います。遥か昔たった1人いらっしゃったではありませんかっっ」
冷静なアナベルが何時にもまして両手に力を入れて力説する。
しかしそれを快く思わなかったのがエヴァだ。
美しい彼女には似合わないくらい眉間に皺をこれでもかと寄せて全く恫喝というものにはならないが、それでも幾分低温の声音でアナベルに問い掛ける。
「まさかアナベル……あの大変事を救った乙女の事を言っているのではないでしょうね?」
「――――そうだと言えばどうなさいます?」
「如何もしないわ。私は女神の様な力等ないただの人間に過ぎないの」
「ですが、古の光の乙女はライアーン王家の始祖ですわエヴァ様」
「だから? 血が繋がっているから? そんなのただの妄言よっ、まさかアナベルまでライアーンの長老達の様な考えだとは思わなかったわっっ!! もう10年、そう10年も時間が経ったのよ、そんな妄言を言う者がいなくなる――――アナベルが言うくらいだから帰国してもきっとまだ言う者達がいても可笑しくないわね。やはり……最初の予定通り第三国の方がいいのかしら? 私を全く知らない場所なら私は幸せになれるのかしら……」
最後はやや涙声で自分に言い聞かせるように彼女は言う。
そんなもの悲しいエヴァの姿を見たアナベルは自分が言葉にしてはいけない事を言ってしまった。
それに気付き慌ててエヴァへ謝罪する――――が、一度出てしまった言葉は元には戻せない。
それこそ覆水盆に返らず……だ。
「エヴァ様……申し訳、御座いません」
アナベルには珍しく両肩の力を落とし沈痛な面持ちをしていた。
一方エヴァもまた何時も煌めいていていたエメラルドグリーンの瞳に光はなく、何処か悲しみを湛えていた。
「――――陛下の所へ行ってくるわ」
「では私も――――」
顔を上げて自分も供をするとエヴァに言いかけた瞬間――――。
「お願い、少し1人にさせて頂戴」
やんわりとエヴァは拒否を示した。
2人だけの生活において初めての事だったが、悲しみを湛えた瞳をしたエヴァに言われるとアナベルはもう何も言えない。
そうしてエヴァはバスケットにクロワッサンを詰め、奥の部屋にある隠し通路を抜けて王宮の執務室にいたのはラファエルとチャーリーだった。
彼女は開かれた隠し扉より執務室へ入ると2人へ淑女の礼をし、焼き立てクロワッサンがいっぱい入っているバスケットをラファエルへ笑顔で渡す。
「以前マックスの所でクロワッサンを気に入って頂けたようなので、先日のお詫びも兼ねて焼きましたの、どうぞ皆様でお召し上がりになって下さいませ」
「エヴァンジェリン、これを私の為にか……?」
椅子より立ち上がり執務机より離れラファエルは差し出されたバスケットを何とも嬉しそうに受け取る。
彼女の焼くクロワッサンは確かに王宮の料理長が作るものよりも美味だった。
だがそれは料理長の腕が劣るという訳ではない。
ただ同じクロワッサンでも彼女が作っているというだけでそれが特別になってしまうのだ。
愛らしいエヴァを見て相好を崩しているラファエルを見たチャーリーは実に喜ばしいと感じた。
エヴァは兎も角アナベルも正確には彼の表の顔を知らないだろう。
彼女達の前では不甲斐ない姿しか見せていないが、それでもラファエルは一国の王なのだ。
それに今やルガートは新興国とは言ってもその勢いは大陸一と言ってもいいだろう。
エヴァの前にいる時は飼いならされた犬の様だが、実際国王としての彼は何処までも冷酷でルガートの益にならないモノならば即断で切って捨ててしまう。
政治手腕も長け然も整った顔立ちにエヴァ以外の女性を容易に近づけさせないオーラを常に放っている彼は、未婚既婚を問わず女性からの注目を一身に浴びている。
今日も山の様に縁談の書簡が山と積みあげているのだ。
無論エヴァの存在は誰も知らない。
だからこそこうして飽きもせず書簡を送ってくるものなのだが……。
勿論ラファエルもそんな書簡に目をくれる訳がない。
彼にとって何よりも愛しい存在がこうして傍にいるのだ。
おまけに初めて彼女からラファエルの許へ訪れてきてくれたのだ。
告白した翌日に彼女が笑顔で訪れたという事は――――誰でも期待してしまうだろう。
「エヴァンジェリン、昨夜の私の想いを受け入れてくれたのだろうか……?」
常に自信溢れる男も最愛なる存在の前では、その溢れる自信はこうも脆く崩れ去るものなのだろうか。
自信に漲っていた声は何処か覇気がなく、愛に飢えている様に喉の奥がカラカラに渇き、自然と声も掠れ弱々しくさえ感じてしまう。
こんな状態のラファエルは見た事がないとチャーリーは改めて思った。
彼の知る中でラファエルの初恋出合った女性マリアーナの時でさえこんな自信のない彼を見た事がなかったのだ。
だから今度こそ彼の恋が上手くいけばいいと一側近として、また愛する従兄弟としてチャーリーは穏やかに見守っていたのだが……。
早々彼らの思惑通りにいかないのがエヴァという女性である。
彼女はそんな自信なさ気なラファエルの問い掛けに天真爛漫な笑顔で答える。
「はい勿論ですわ陛下」
「エヴァンジェリンっっ」
歓喜に打ち震えるラファエルを覗き込む様にエヴァは続ける。
「ふふっ、偽装結婚の事に御座いましょう? それは……ね、まだあのお方が生きていらっしゃるようなのですもの、だから当然の事ですわっ、私はちゃんと心得ています!! それよりも私の事は大丈夫ですから陛下もどうかご無理をしないで下さいませ。あ、そうそうこれからもこうして私が作ったものを届けても宜しいのでしょうか? 勿論お嫌でしたら……ですが何も出来ない私に御座いますが、こうして少しでも皆様のお役に某かお役に立ちとう思い立ちました次第にて……」
「え、エヴァンジェリン……??」
「はい、何でしょう陛下?」
予想だにしなかったエヴァの態度に動揺を隠しきれないラファエルを余所に、彼女は何時でも通常運転である。
その通常運転状態のエヴァへ尚もラファエルは彼女のその白く柔らかな、白桃の様なまろみを帯びた胸のその内に秘められたる想いを何としても確認せずにはおられない。
譬え、そうエヴァの発する答えがラファエルを含め彼女を知る者達は容易に想像出来たとしてもだ!!
ラファエルにとって聞きたくないであろう答えとしても、彼は敢えてその地雷を踏むしかない。
だから――――。
「そ、そのなエ、エヴァンジェリンっ、昨夜の私の気持ちの返答は――――」
「あ、はい、ええ、大丈夫ですわ陛下。あれは私を安心させようとして仰った事でしょう? ふふ、でも私はもう子供ではないのです、だからそのようなお気遣いは不要です」
そう言ってエヴァンジェリンは小さな花が幾つも一斉に咲き綻ぶ様な可憐な笑みを湛えたまま、彼女は美しい所作で再び淑女の礼をし、わかっていた筈なのにそれでも直接彼女の口より告げられたショックでカチコチに固まったラファエルが二の句を告げないでいる間にするりと執務室より辞していた。
「――――まだまだお子様の様で御座いますね王妃陛下は……」
チャーリーは小さな声でやれやれと両肩を竦め、また誰に言う訳でもなく呟いたが、明らかに目の前の主は肩をがっくりと落としたまましっかりと落ち込んでいた。
そうチャーリー曰くの瞬間のラファエルは、心の中で泣いている姿が容易に可視化されていたと言う。
あぁ今日も残業になりそうですね……深い嘆息と共に使い物にならなくなったラファエルの首根っこをぐいっ掴むとそのまま椅子に座らせ、エヴァの焼いたクロワッサンを一つ掴むとそのまま彼の口へ勢いよく突っ込んだ。
もぐもぐ……。
「……旨い」
「そうですね、王妃様のクロワッサンは大変美味ですよ。ですからエル、兎に角今回はそれを食べて次回へ向けてモリモリ馬車馬の如く働いて下さい。いいですね、これは今も昔も変わる事無く――――仕事の出来ない男は女性に嫌われる事間違いないですからね」
「あぁ……そうだな、まだ何も完全に終わった訳ではないのだからな」
「えぇそうですよ」
そうしてチャーリーは慣れた手つきで紅茶を淹れ、心理的疲労の濃い従兄弟を労わる様に濃いめの紅茶に砂糖とミルク多めのミルクティーを差し出す。
ラファエルは暫くの間……とは言ってもほんの少しの時間だが、甘い紅茶と愛する妃の焼いたクロワッサンを堪能する。
執務室を後にし足早に離宮へと戻る途中エヴァは深夜のラファエルの告白をそっと思い出していた。
そう、何を隠そうあの時の胸のざわつきも……。
ほんの少し立ち止まり、胸に手を当て瞑目するだけで、たった今あったかの様に鮮烈で、然も何やらとても甘酸っぱいだけでなく、心がほんのりと心地の良い温かさに包まれる。
そして初めて味わう想いに思わず笑みが零れてしまうが、エヴァは今暫くはこの気持ちが何というモノかがわかるまで心の中でそっと留めておく事にした。
そう、これは誰にも内緒……。
エヴァンジェリンだけの秘密である。
「おはようアナベル、今クロワッサンを焼いている所なの」
「あ、あの、エヴァ様……何やら今日は随分クロワッサンの量が多いと思うのですが?」
台所の広い調理台の上には大きめのバスケット2つ分は優に入りそうなくらい多量のクロワッサンが焼きあがっているのだ。
まぁぱっと見た感じではあるが、約30個以上は確実にある。
果たして2人だけの生活なのに如何してこんな多量なクロワッサンが朝食に必要なのか……とアナベルは俄かに考え込む。
何時も2人でどんなに多く焼いたとしても6個。
なのに何故今日はこんなに……?
「あぁそれは持って行くものよ」
「はい?」
何処に――――と心の中でアナベルは思いっきりエヴァへと突っ込む。
それを知ってか知らない……多分エヴァ自身は気がついてはいないがしかし、彼女はそのままやや呆けた状態のアナベルへ続けて話していく。
いや、話すと言うよりは報告みたいなものだ。
「一つはマックスの所へ、ほらこの1ヶ月もの間ほぼ診療所を放置していたでしょう。それに昨夜のマックスは少し痩せていたと思うの、だから少しお料理とクロワッサンを届けようと思ってね」
「はぁ……」
それでもこの量は多すぎるだろう……けれど今エヴァ様は今一つ――――と仰ったが続きはあるのだろうか、いやそもそもマックスはエヴァ様が心配なされる程痩せ細ってはいないでしょう!!
あの者にはあのくらいが丁度良いのですっっ!!
不必要な餌付け等必要ありません!!
またしてもアナベルは心の中で突っ込みを入れてしまう。
そんな彼女も次の瞬間、ついにその突っ込みを心の中では収まらず、思いっきり声を大にして叫んでしまうとは、現段階では考えもつかなかったのだっっ。
いや、及びもしない。
「残りは私達の朝食と――――陛下へお届けするの」
エヴァはそう言って柔らかな笑みを湛えると同時にアナベルは巨大ハンマーで脳天を叩きつけられた様な衝撃を受けてしまう。
な・ん・で・す・と――――っっ!?
「ふふ、陛下もエルさんとして診療所へいらしていた時に、私の焼いたクロワッサンを凄く気に入って下さったの。だからお礼も兼ねてこれからお届け差し上げようかと思っているのよ。ほら、言っていたでしょう、アナベルが毎晩陛下の許へ行く隠し通路があるって」
にこやかに話すエヴァと対照的にアナベルの心は一気に氷点下まで冷え込んでいく。
そこはにこやかじゃないでしょうっ、エヴァ様っっ!!
「えっ、エヴァ様っ、あ、あのっ、如何して急にクロワッサンを持って行くというお考えに至ったのでしょうか!?」
アナベルは心の中が急激に冷え込む中で努めて冷静さを失わない様に、そして敬愛してやまないエヴァを脅えさせない様に慎重に、また声音が硬くならない様に努めて、最大限自身の心を律してエヴァへ質問をする。
でも彼女はそんなアナベルの心情を全くと言っていい程知らないのだ。
そうエヴァにとってアナベルは強くて優しい自慢の姉の様な存在。
決してエヴァへ心酔しきっている脳筋令嬢だという正体を知らないのだ。
だから何時もの様にエヴァは沸かした湯をポットに注ぎながら機嫌良く返答した。
「あら、アナベルは聞いていなかったのね。陛下と私は夫婦なのよ、だからお好きなモノを持って差し上げるのは当然でしょ?」
はああぁぁあああ゛あ゛っっ!!
「こほん、恐れながらエヴァ様それは――――」
聞いていましたともっっ!!
でもそれは余りの眠気で何時もの様になんでもいいからという感じでお返事なさったのでは……っっ!!
「まぁアナベルってば朝から顔色が優れないわ。さぁ何時までもそんな所で突っ立っていないでお食事にしましょう、今朝はニンジンのポタージュとフルーツサラダに薫製したサーモンもあるわよ」
「え、エヴァ様〰〰〰〰」
「え、なあにアナベル?」
ご機嫌な様子のエヴァとは対照的にアナベルの心は何処までも奈落の底に落ちていくが、それでも時間はアナベルにとって扱く残酷に時を刻み、朝食を終えたエヴァはそんなアナベルに伝達魔法でラファエルへ先触れを出す様に告げる。
そう、魔法の使えないエヴァにとってこういう時は何とも遣り切れない。
魔力は人並み以上なのに……。
「私は平民となんら変わらないわね、こんな初歩的な伝達魔法さえも出来ないなんて本当に私は王族なのかしら……?」
つまらない愚痴等言っても仕方ないと思いつつもつい出てしまう。
そうして物憂げな視線を外へと向けるエヴァにアナベルは思いっきり彼女へ食いついていく。
「何を仰いますエヴァ様っっ!! エヴァ様の魔力は私……いいえ、父王陛下の魔力よりも遥かに上ではないですかっ!!」
「でもねアナベル、そう言ってくれるのはとても嬉しいのだけれども、幾ら無尽蔵に魔力があるからと言ってそれを使う能力がなければ何もないのと同じ――――」
「いいえ、いいえエヴァ様それは違います。遥か昔たった1人いらっしゃったではありませんかっっ」
冷静なアナベルが何時にもまして両手に力を入れて力説する。
しかしそれを快く思わなかったのがエヴァだ。
美しい彼女には似合わないくらい眉間に皺をこれでもかと寄せて全く恫喝というものにはならないが、それでも幾分低温の声音でアナベルに問い掛ける。
「まさかアナベル……あの大変事を救った乙女の事を言っているのではないでしょうね?」
「――――そうだと言えばどうなさいます?」
「如何もしないわ。私は女神の様な力等ないただの人間に過ぎないの」
「ですが、古の光の乙女はライアーン王家の始祖ですわエヴァ様」
「だから? 血が繋がっているから? そんなのただの妄言よっ、まさかアナベルまでライアーンの長老達の様な考えだとは思わなかったわっっ!! もう10年、そう10年も時間が経ったのよ、そんな妄言を言う者がいなくなる――――アナベルが言うくらいだから帰国してもきっとまだ言う者達がいても可笑しくないわね。やはり……最初の予定通り第三国の方がいいのかしら? 私を全く知らない場所なら私は幸せになれるのかしら……」
最後はやや涙声で自分に言い聞かせるように彼女は言う。
そんなもの悲しいエヴァの姿を見たアナベルは自分が言葉にしてはいけない事を言ってしまった。
それに気付き慌ててエヴァへ謝罪する――――が、一度出てしまった言葉は元には戻せない。
それこそ覆水盆に返らず……だ。
「エヴァ様……申し訳、御座いません」
アナベルには珍しく両肩の力を落とし沈痛な面持ちをしていた。
一方エヴァもまた何時も煌めいていていたエメラルドグリーンの瞳に光はなく、何処か悲しみを湛えていた。
「――――陛下の所へ行ってくるわ」
「では私も――――」
顔を上げて自分も供をするとエヴァに言いかけた瞬間――――。
「お願い、少し1人にさせて頂戴」
やんわりとエヴァは拒否を示した。
2人だけの生活において初めての事だったが、悲しみを湛えた瞳をしたエヴァに言われるとアナベルはもう何も言えない。
そうしてエヴァはバスケットにクロワッサンを詰め、奥の部屋にある隠し通路を抜けて王宮の執務室にいたのはラファエルとチャーリーだった。
彼女は開かれた隠し扉より執務室へ入ると2人へ淑女の礼をし、焼き立てクロワッサンがいっぱい入っているバスケットをラファエルへ笑顔で渡す。
「以前マックスの所でクロワッサンを気に入って頂けたようなので、先日のお詫びも兼ねて焼きましたの、どうぞ皆様でお召し上がりになって下さいませ」
「エヴァンジェリン、これを私の為にか……?」
椅子より立ち上がり執務机より離れラファエルは差し出されたバスケットを何とも嬉しそうに受け取る。
彼女の焼くクロワッサンは確かに王宮の料理長が作るものよりも美味だった。
だがそれは料理長の腕が劣るという訳ではない。
ただ同じクロワッサンでも彼女が作っているというだけでそれが特別になってしまうのだ。
愛らしいエヴァを見て相好を崩しているラファエルを見たチャーリーは実に喜ばしいと感じた。
エヴァは兎も角アナベルも正確には彼の表の顔を知らないだろう。
彼女達の前では不甲斐ない姿しか見せていないが、それでもラファエルは一国の王なのだ。
それに今やルガートは新興国とは言ってもその勢いは大陸一と言ってもいいだろう。
エヴァの前にいる時は飼いならされた犬の様だが、実際国王としての彼は何処までも冷酷でルガートの益にならないモノならば即断で切って捨ててしまう。
政治手腕も長け然も整った顔立ちにエヴァ以外の女性を容易に近づけさせないオーラを常に放っている彼は、未婚既婚を問わず女性からの注目を一身に浴びている。
今日も山の様に縁談の書簡が山と積みあげているのだ。
無論エヴァの存在は誰も知らない。
だからこそこうして飽きもせず書簡を送ってくるものなのだが……。
勿論ラファエルもそんな書簡に目をくれる訳がない。
彼にとって何よりも愛しい存在がこうして傍にいるのだ。
おまけに初めて彼女からラファエルの許へ訪れてきてくれたのだ。
告白した翌日に彼女が笑顔で訪れたという事は――――誰でも期待してしまうだろう。
「エヴァンジェリン、昨夜の私の想いを受け入れてくれたのだろうか……?」
常に自信溢れる男も最愛なる存在の前では、その溢れる自信はこうも脆く崩れ去るものなのだろうか。
自信に漲っていた声は何処か覇気がなく、愛に飢えている様に喉の奥がカラカラに渇き、自然と声も掠れ弱々しくさえ感じてしまう。
こんな状態のラファエルは見た事がないとチャーリーは改めて思った。
彼の知る中でラファエルの初恋出合った女性マリアーナの時でさえこんな自信のない彼を見た事がなかったのだ。
だから今度こそ彼の恋が上手くいけばいいと一側近として、また愛する従兄弟としてチャーリーは穏やかに見守っていたのだが……。
早々彼らの思惑通りにいかないのがエヴァという女性である。
彼女はそんな自信なさ気なラファエルの問い掛けに天真爛漫な笑顔で答える。
「はい勿論ですわ陛下」
「エヴァンジェリンっっ」
歓喜に打ち震えるラファエルを覗き込む様にエヴァは続ける。
「ふふっ、偽装結婚の事に御座いましょう? それは……ね、まだあのお方が生きていらっしゃるようなのですもの、だから当然の事ですわっ、私はちゃんと心得ています!! それよりも私の事は大丈夫ですから陛下もどうかご無理をしないで下さいませ。あ、そうそうこれからもこうして私が作ったものを届けても宜しいのでしょうか? 勿論お嫌でしたら……ですが何も出来ない私に御座いますが、こうして少しでも皆様のお役に某かお役に立ちとう思い立ちました次第にて……」
「え、エヴァンジェリン……??」
「はい、何でしょう陛下?」
予想だにしなかったエヴァの態度に動揺を隠しきれないラファエルを余所に、彼女は何時でも通常運転である。
その通常運転状態のエヴァへ尚もラファエルは彼女のその白く柔らかな、白桃の様なまろみを帯びた胸のその内に秘められたる想いを何としても確認せずにはおられない。
譬え、そうエヴァの発する答えがラファエルを含め彼女を知る者達は容易に想像出来たとしてもだ!!
ラファエルにとって聞きたくないであろう答えとしても、彼は敢えてその地雷を踏むしかない。
だから――――。
「そ、そのなエ、エヴァンジェリンっ、昨夜の私の気持ちの返答は――――」
「あ、はい、ええ、大丈夫ですわ陛下。あれは私を安心させようとして仰った事でしょう? ふふ、でも私はもう子供ではないのです、だからそのようなお気遣いは不要です」
そう言ってエヴァンジェリンは小さな花が幾つも一斉に咲き綻ぶ様な可憐な笑みを湛えたまま、彼女は美しい所作で再び淑女の礼をし、わかっていた筈なのにそれでも直接彼女の口より告げられたショックでカチコチに固まったラファエルが二の句を告げないでいる間にするりと執務室より辞していた。
「――――まだまだお子様の様で御座いますね王妃陛下は……」
チャーリーは小さな声でやれやれと両肩を竦め、また誰に言う訳でもなく呟いたが、明らかに目の前の主は肩をがっくりと落としたまましっかりと落ち込んでいた。
そうチャーリー曰くの瞬間のラファエルは、心の中で泣いている姿が容易に可視化されていたと言う。
あぁ今日も残業になりそうですね……深い嘆息と共に使い物にならなくなったラファエルの首根っこをぐいっ掴むとそのまま椅子に座らせ、エヴァの焼いたクロワッサンを一つ掴むとそのまま彼の口へ勢いよく突っ込んだ。
もぐもぐ……。
「……旨い」
「そうですね、王妃様のクロワッサンは大変美味ですよ。ですからエル、兎に角今回はそれを食べて次回へ向けてモリモリ馬車馬の如く働いて下さい。いいですね、これは今も昔も変わる事無く――――仕事の出来ない男は女性に嫌われる事間違いないですからね」
「あぁ……そうだな、まだ何も完全に終わった訳ではないのだからな」
「えぇそうですよ」
そうしてチャーリーは慣れた手つきで紅茶を淹れ、心理的疲労の濃い従兄弟を労わる様に濃いめの紅茶に砂糖とミルク多めのミルクティーを差し出す。
ラファエルは暫くの間……とは言ってもほんの少しの時間だが、甘い紅茶と愛する妃の焼いたクロワッサンを堪能する。
執務室を後にし足早に離宮へと戻る途中エヴァは深夜のラファエルの告白をそっと思い出していた。
そう、何を隠そうあの時の胸のざわつきも……。
ほんの少し立ち止まり、胸に手を当て瞑目するだけで、たった今あったかの様に鮮烈で、然も何やらとても甘酸っぱいだけでなく、心がほんのりと心地の良い温かさに包まれる。
そして初めて味わう想いに思わず笑みが零れてしまうが、エヴァは今暫くはこの気持ちが何というモノかがわかるまで心の中でそっと留めておく事にした。
そう、これは誰にも内緒……。
エヴァンジェリンだけの秘密である。
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