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6.思小南の来訪

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 季節はそろそろ、豊かな紅葉の美しい秋から、骨まで冷えるような厳しい寒さの冬へと、移行しようとしていた。

 宋桂影そうけいえい陸湖月りくこげつに拾われてから、三月が経過した。これまで五回、宋桂影そうけいえい陸湖月りくこげつの元から逃亡しようとしたが、その度に陸湖月りくこげつに易々と探し出され、時間をかけずに回収されていた。

 宋桂影そうけいえいは握っていた筆を硯の淵に置くと、不満が溜まって嘆いた。

「あー、もう、やってられないっ!」

 陸湖月りくこげつの居宅に身を寄せてから、宋桂影そうけいえいは体術と剣術、それに文字の読み書きを陸湖月から学んでいた。宋桂影そうけいえいは自身の名前しか書くことが出来なかったので、陸湖月はじっくりと初歩から読み書きの指導を行っていた。

 横から、陸湖月りくこげつは注意を入れた。

「ほらまた字が崩れ出して、いい加減な書き方になってる。きちんと手本を真似して書きなさい」

「俺、字の読み書きが出来なくたっていい。それよりも、もっと体術と剣術を教えてくれよ。その方が俺のためになるから」

 やれやれといった様子で、陸湖月りくこげつは軽くデコピンをした。

「何で君は毎日そうやって元気に、俺の言うことに逆らうんだ?いいから、ほら筆を取って。姿勢も崩れてる、直しなさい」

 諦めた口調で、姿勢を正しながら宋桂影そうけいえいは言った。

「どうせ俺みたいなのが字を習ったって、役に立つ日は来ないって」

「俺は、そう思わないよ。こら、口ばっかり動かしていないで、手を動かせしなさい。身につけるために練習をしてるんだから、適当な態度でやるんじゃない。いいな?」

 渋々ながら宋桂影そうけいえいはまた筆を握ると、手本を見ながら見よう見まねに文字を書き連ねた。
 真剣な表情で文字を書く練習を続ける宋桂影そうけいえいは、ひたすら集中して、手本通りの文字を書くことを目指した。

「後半は真面目に練習出来てたから、ほら、君に蜂蜜水をやろう」

 厨房から戻って来た陸湖月りくこげつは、宋桂影そうけいえいの前に、蜂蜜水の入った磁器の茶杯を置いた。ずっと筆を握り続けて、集中力も途切れて疲れを覚えていた宋桂影そうけいえいは、喜んで置かれた茶杯に手を伸ばすと急いで喉を潤した。

 立ち上がった陸湖月りくこげつの方を、宋桂影は見た。

「どこに行くんだ?」

「君に、渡すものがあるんだ」

 席を立った陸湖月が別室から戻って来ると、その手には、昨晩やっと縫い終えた、宋桂影のためにあつらえた外套があった。

 渡された外套を広げると、しげしげと宋桂影は見つめ、そして撫で始めた。その真剣な様子を、陸湖月はくつろいで眺めていた。

「縫ったのか、あんたがこれを?」

 得意げに、陸湖月は微笑んだ。

「あぁ、俺は手先が器用だから服作りだって出来るんだよ。意外だろ?」

 嬉しさを押し殺しながら、宋桂影は呟いた。

「誰かのお古で、別にいいのに俺。わざわざ縫う必要なんて、無かったのに」

「せっかく君のためにちまちま縫ってやったんだから、まずは俺にお礼を言ったらどうだ?」

「……ありがと」

「この刺繍してある花の名前、君はわかるか?」

 用意された綻びなく綺麗に縫われた外套には、ひっそりと品良く、花の刺繍が施されていた。
 花の名前を問われても、宋桂影には見当もつかなかった。

「正解は、桂花だ。君の名前の花なんだ」

「ふーん……そんなのを、刺繍したんだ」

 宋桂影は、桂花の刺繍に触れると、何か言いたげな表情で陸湖月に目線を送った。

 陸湖月は尋ねた。

「どうした?」

「別にーーなんでも無いよ。ねぇ、そろそろ体術の方を練習したい。いいでしょ?」

「そうだな、字はさんざ書いたから、今度は体を動かすか。それを飲み干したら、庭へ出よう」

 残っていた蜂蜜水を一気に飲み干した宋桂影は、溌剌として庭先へと飛び出した。
 宋桂影は、陸湖月から受ける体術や剣術等の指導の時間が好きだった。その際、陸湖月の軽やかで無駄のない、流麗な動作に見惚れてしまうことがしばしば発生し、その度に宋桂影は集中力を切らすなと指摘を受けていた。

「遅い、機敏に動け。それと過剰に力むな」

 宋桂影が汗を流しながら、陸湖月から細やかに指導を受けている時だった。その背後からたおやかな女性の声が、話しかけて来た。

「ーー陸湖月?」

 突然の旧友の来訪に、陸湖月は身動きを止めると眉を上げた。

「……どうした、急だな?」

 宋桂影は、庭先に佇む瀟洒しょうしゃな身なりをした目鼻立ちの整った女性を見て、驚くと固まった。

 女性は2人に歩み寄りながら、話しかけた。

「待っていたのに、あなたからは私に会いに来ないのね。ーーあら、その子は?初めて見る子だわ」

 視線を感じた宋桂影は、慌てて陸湖月の背後に身を隠した。

「この子は、俺の弟子兼同居人で、名前は宋桂影って言うんだ。宋桂影、この人は思小南ししょうなんだ。俺の古くからの友人なんだ、ほら、ちゃんと挨拶をしろよ」

 しかし、言葉を聞き入れず頑なに隠れたまま、宋桂影は思小南に挨拶をすることを拒んだ。

「その子、恥ずかしがり屋なのね。何だか私、親近感を覚えてしまうわ」

 思小南ししょうなんの雰囲気から、何か重要な話を持って来たということを陸湖月は察した。
 宋桂影は隠れながらも視線を注ぎ、思小南ししょうなんの観察を続けていた。


○●○


 姉・芳春ほうしゅんに、膨れっ面の宋桂影そうけいえいを預け終えると、陸湖月りくこげつ思小南ししょうなんとともに、県内有数の壮麗な妓楼・雲上夢院うんじょうむいんに到着した。

 気前よく放蕩して懐が寂しくなった千鳥足の客人を見送る、半貴石のかんざしや瑞々しい匂いを放つ生花で頭部を華麗に飾った妓女たちは、主人と並んで立つ陸湖月の姿に気がついた。
 心奪われうっとりする妓女たちは、あんな風にただ立ってるだけでも品格があり、申し分なく容姿の秀でた男の相手をぜひしたいものだと思いながら、嫣然と品を作った。

 この雲上夢院うんじょうむいんの女主人を務めているのが思小南であり、彼女の母方の祖父母が創業者だった。

 雲上夢院の創業者夫婦は、娘か孫のどちらかが自分たちの跡を引き継いで欲しいと切に願い口にも出していたが、思小南とその母はこの家業を嫌っていたので、継ぐことを拒絶し続けていた。
 そのため、年老いて一線を退いた創業者夫婦に代わって、雲上夢院の指揮は招万若しょうばんじゃくという雲上夢院で長く働いていた、親族関係には無い、外部出身の男が執ることとなった。
 しかし、指揮者が招万若しょうばんじゃくに交代すると、次第に雲上夢院の風紀は目も当てられなく乱れた。

 所属する妓女たちの大半が、一晩に何人ものお客を、拒否を許されずに立て続けに取らされた。妓女たちは、体調が悪く客の相手をできないと正直に上の者に言えば、言い訳をして怠けようとしているから躾をしてやると、血が飛び散るまで鞭を振るわれた。また、ささいな失態を彼女たちが演じれば、大袈裟に責められ、罰として給金や食事を減らされてということが、雲上夢院では当たり前に横行した。

 隠居していた思小南ししょうなんの祖父母は、雲上夢院で起こった蛮行を知ると、招万若しょうばんじゃくの平身低頭の謝罪を無視し、彼を追放した。
 そして、唯一の孫である思小南が跡を継ぐと言うのなら、雲上夢院は存続させるが、そうでないのなら雲上夢院は閉業すると高らかに宣言した。
 雲上夢院に籍を置き働く、この場所を生活の拠点とする妓女たちに、泣きつかれ哀願された思小南は、不本意ながら泣く泣く雲上夢院を引き継いだのだった。

 左右の隣室から聞こえて来る、景気の良い喧騒けんそうに耳を傾けながら、女給が用意した酒盃を陸湖月は手に取った。
 供された酒は、度数の高い芳醇な味わいの白酒だった。陸湖月は酒盃をあおりながら、思小南の様子を何気なく窺った。
 下を向く思小南は、器に盛られた粒の揃ったひまわりの種を時折齧りながら、白酒を一杯飲み干すと尋ねた。

「湖月、元気にしていた?」

「俺はいつも、大抵元気に過ごしているよ。ーー他のやつらはどうしてる?俐章りしょうはやっぱり顔を見せ無いままか?」

 思小南は空になった酒盃に、白酒を注ぎ入れた。

「うん。顔は見せてくれないし、何通送っても手紙の返事もくれないわ。……俐章りしょうちゃん、ますます霊力が乏しくなってしまったそうよ。その内霊力が消滅してしまうかもしれないって、噂されているわ。俐章りしょうちゃん、減り続ける霊力を高めるため、縋る思いで効力がありそうなことはありとあらゆるものを試しているけれど、残念だけど役には立ってはいないの。

どうしてかしら、何が原因でこうなってしまったのかしらね。14歳のある時期までは、あなたたちと遜色ない潤沢な霊力を持っていて、競い合って修練に励んで、将来を望まれていたのに」

 董俐章とうりしょうは、陸湖月の幼なじみだった。
 董俐章とうりしょうは14歳になったある時期から突如として霊力が減退し出し、今では道士を名乗るのもやっとの、乏しい霊力しか所持していなかった。なぜ霊力が失われ出したのか、その原因は全くもって不明であり、そのせいで董俐章とうりしょうの苦しみはひとしおだった。

 とう家は鎮星(土星)派を支える有力な世家の一つであり、優秀な道士を輩出する家柄だった。董俐章とうりしょうの身に起こった異変は世家界隈で知れ渡っており、そのため歴史あるとう家の後継ぎは今後どうなるものかと、周囲からは好奇の目で見られていた。

 陸湖月は子供の頃と変わらずに、董俐章と親しく付き合えたらと願うものの、両者の間に存在する歴然とした霊力の差から負い目、引け目を感じる董俐章の方は、陸湖月に会いたがらず接触を避けていた。

 だが、陸湖月にとって付き合いの間遠になった幼なじみは、彼だけではなかった。
 気持ちは沈み、陸湖月の酒盃をあおる手は止まっていた。
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