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第2話
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瀬戸内をBL小説で旅しよう企画 参加作品
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【2】
高校を卒業してすぐ家業を継いで働き始めた同級生の新郎は、すっかり社会人として自立していて、悠太の目にはずいぶん大人びて見えた。
その上、いわゆる「おめでた婚」との事で、まもなく父親にもなるという。
幸せのお裾分けをもらったのは確かだが、同時に、大人への道のりをいつの間にか遅れて歩いていると知らされた気もした。感動と、懐かしさと、色んな感情に揺さぶられたひとときだった。
「で? 悠太はどうなんよ。彼女とか出来たん?」
悠太はーー絡まれていた。
新郎新婦が同級生だったために、披露宴には共通の友人が多く集まり、ちょっとした同窓会のようだった。
会費制の二次会を終えても積もる話は続いていて、仲の良かった数人で別の店に流れた。
そこまで来ると、新郎新婦と交流のない友達や、自分の恋人なんかを呼び付ける者も出てきて、もはや結婚式とは別の飲み会となっていた。
悠太も、今日1日ひとりで観光地めぐりをしていた直人に連絡をしてみた。
嫌がられるかもと思っていたのだが、直人は大喜びですっ飛んで来たのだった。
さっきから悠太に絡んでいる田村亜希は、小学校から高校まで一緒だった、クラスメイトというより幼馴染と呼んだ方がしっくりする存在だった。
「ねえねえ、どうなんよ~」
すっかり出来上がってしまっている。
「亜希、飲み過ぎ」
酔っ払いは相手にしないとばかりに、悠太は軽くいなす。
昔からそうだ。勝気でお節介焼きで、やたら悠太を構いたがる。
結婚披露のパーティー用に、とびきりのお洒落をしていても、中身はちっとも変わっていないようだ。
それにしても、亜希が「絡み酒」タイプだったとはーー
負けず嫌いなだけに、酔っ払った姿など見せない女かと思っていた。
付き合うのも大分疲れてきた悠太であった。
「ちょっと、そこの男前。友達やったら知っとるんやろ~? 悠太ってリア充なん?」
矛先が直人に向いた。
もちろん悠太の恋愛事情など彼が知っている筈も無いのだが、直人は亜希にニヤリと笑いかけた。
「さて、どうなんでしょうね~」
完全にからかう姿勢だ。
「なんなん、もぉ~」
亜希はぷっと膨れて突っ伏した。
「おーい、亜希ぃ?」
「にぇむい……」
この酔っ払いが……と、悠太は溜息をついた。
「もう帰った方がええよ。タクシー乗り場まで送って行くけん。タクシーチケット、もらったやろ? 」
悠太にポンポンと肩を叩かれて、亜希は、うん……と頷いた。
のそのそとバッグを開け、タクシーチケットを取り出すと、なぜか直人に差し出す。
「これ……男前にあげる。私ん家、徒歩5分やけん」
「え? ほーなん? 引っ越したん?」
悠太の問いにコックリと頷き、そしてパンパンと悠太の肩を叩く。
「そ。やけん悠太、送ってくれ~」
れっつご~♪ と拳を突き上げて、怪しげな足取りで立ち上がっている。
「あーはいはい」
悠太は面倒臭そうに返して、直人には「ゴメン」のポーズを向ける。
「とりあえず、こいつ家に帰します。直人さん、どうする?」
勝手にフラフラ歩き出そうとしている亜希の腕を掴んで、悠太は席を立った。
少しの間があってーー
じゃあ……と、直人も立ち上がった。
「お言葉に甘えて、このチケットもらうね、亜希ちゃん」
亜希に向かって言いながら、その手はこちらに伸びて、悠太は引き寄せられた。
耳元で、直人の低音が囁いた。
「ごゆっくり、悠太くん……」
「そっ……そんなんじゃないですからっ……!」
振り返って、悠太がしっかり否定すると、直人は笑いながらヒラヒラと手を振った。
「え? ここ?」
亜希の自宅マンションに着いて、ふらつく彼女を支えながらドアを開ける。
手探りでスイッチを探し、明かりをつけたらーー
その部屋は悠太が予想していたのとは違い、明らかに単身者向けの造りだった。
「引越しって、家族で……じゃなくて……」
「独り暮らし~」
亜希は歌うように言った。
そりゃいかん……と、悠太は身構えた。
じゃ、ここで……と、逃げの態勢に入ろうとしたところでーー
ぐにゃりと亜希がもたれ掛かってきた。
「おーい……」
「無理~。もう歩けん~」
「この酔っ払いが~」
仕方なく、半ば抱えるようにして彼女を部屋へ運び込む。
突然、強い力で、ぎゅっとしがみ付かれた。
体重を支えきれず、ふたりして倒れ込んだのはベッドの上だった。
「亜希……」
身体を起こして彼女を見ると、身動ぎもしないで目を閉じていた。
心の何処かでは気付いていた。
亜希がやたらと自分を構うのは、そういう事なんだろうと。
けれどーー
ごめん亜希……
お前は友達やけん……
自分の袖口を掴んでいる亜希の手を、悠太は出来る限り優しく外した。
「おやすみ、亜希。また飲もな」
何も起こらなかったかのように立ち去りながら、いつもの声で「またね」を告げる。
意気地なし……
背中を追って来た呟きは、聞かなかった事にしよう。
亜希のマンションから出たところで、悠太は目を丸くして足を止めた。
エントランスの階段に座り込む、その後ろ姿に見覚えがあったからーー
「な……直人さん……?」
悠太の声に振り返って、直人はふっと微笑んだ。
「食わなかったんだ、据膳……」
悠太は、ぷいとそっぽを向いた。
「何ですか? 俺の意気地なしっぷりを見物に来たん?」
憎まれ口を言いながら、亜希の気持ちに応えてやれなくて沈んでいた心が、掬い上げられていくのを自覚していた。
直人は声を立てて笑った。
「それもあるけど……」
と、おどけてみせる。
「15分だけ、ここで待とうと思ったんだ。もし悠太くんが据膳ご馳走になるって事になったら、俺も君ん家には帰れないじゃん。嫁入り前の春香さんとひとつ屋根の下は、やっぱりマズイでしょ」
さっき振り返った直人の顔が、一瞬寂しそうに見えたのは錯覚だったのか。
あっけらかんとした口調に、悠太は拍子抜けした。
「……っていうか、据膳って決め付けるのやめてもらえませんか~」
「まだまだだね~悠太くん。彼女は君よりアルコール、イケる口だよきっと」
「え……そうなの?」
「間違いない。君はオオカミさんじゃなくて、赤ずきんちゃんの方だったよ、俺の目には」
「ちぇ~なんかムカつく~」
タクシーが捕まりそうな通りまで、ふたりで笑いながら歩き出す。
そして、直人が言った。
「お帰り悠太くん。すぐ会えて嬉しかったよ」
またーー
さっきの寂しそうな表情が重なる。
自分の心を掬い上げてくれたみたいに、直人の心も掬い上げられる存在でありたいと、悠太は思った。
「だだいま直人さん。待っててくれて嬉しかったよ」
笑顔で、告げた。
春香には、また必ず遊びに来ると約束させられて、悠太と直人は松山を離れた。
元の生活に戻るのだ。
東京には、悠太の知らない直人の日常がある。
宿を提供することも、車に乗せてあげる必要もない。
自分が居なくても、直人の生活に不便はないのだ。
悠太は寂しさを心の奥に押し戻して、努めて普段通りに振る舞った。
好きだと言ってくれたこの声を、少しでもたくさん聞かせたかった。
忘れないで欲しかった。
同じ沿線に住んでいると分かった時は嬉しかったが、羽田から最寄りの駅までの道のりが、こんなに早いと感じたのは初めてだ。
「悠太くん、またね。連絡するから……」
「はい。直人さん、お疲れさまでした。また……」
お互い笑顔で手を振った。
直人を乗せた電車が遠ざかるのを見送って、悠太はただ立ち尽くしていた。
たったの二泊三日だったのに、悠太の小さな城が、ものすごく久し振りの気がした。
部屋の真ん中に座り込んで、荷物を開く。
洗濯の終わっている物、これから洗うもの。細々した生活の道具を、日常の定位置に戻して行く。
いつもなら、まずコーヒーを入れて、テレビをつけて一休みしてーー
とことん怠け気分の時は、何日も荷物を解かない事だってあるのに。
黙々と、作業をこなしている方が楽だったのだ。
それでも、何とも言えない孤独感が悠太を包む。
大きな大きな溜息をついて、とうとう作業の手が止まった。
悠太はゆるゆると立ち上がり、サッシの掃き出し窓を開けてベランダに出る。
すっかり陽が落ちて、お気に入りの慎ましやかな夜景が悠太を待っていた。
ポケットの中で、ケータイが鳴った。
〔慎ましやかな夜景、見てるの? 悠太くん〕
「直人さん……」
さっきまで一緒にいたのに、とても懐かしい。
「慎ましやかな夜景の話、覚えててくれたんですか?」
悠太は知らず笑顔になる。それなのに、今にも泣き出してしまいそうだった。
〔もう声が聞きたくなっちゃったよ〕
直人が困ったように言った。
「直人さん、良い声の人に会ったら、すぐそんな事言うんでしょ……」
なんだか恨み言のひとつも言いたい気分になってしまう。
〔帰って荷物開けたらさ、俺の荷物の中に悠太くんのネクタイが混ざってたんだ〕
また想定外の方向に話題を振られて、悠太は言葉に詰まる。
そりゃ、大事な情報だけど、今それ? と責めてやりたくなるではないか。
〔ねぇ悠太くん。俺は確かに声フェチだよ。でもね、声にしか興味ないんだ〕
冷たい水を、頭からかけられた心地がした。
直人が好きだと言ってくれた声が、唇が震えて、喉が締め付けられたようになって、思うように出てこない。
耐えられなくなって通話を切ろうとした時、直人が続けた。
〔姿を見たいと思ったのは、君だけだ。方言で話すのを聞きたくて、気が付いたらストーカーみたく追っかけてしまってたのは……悠太くんだけだ……〕
何を、言ってるの?
悠太の頭が、これまでのなんてちょっとした目眩だと思えるほどの混乱に陥った。
空港で荷物を取り違えたのは、偶然ではなかったのだと直人は白状した。
悠太と同じ飛行機に乗ったのも。同じ飛行機で帰って来たのも。
どうやってこの人は自分を知ったのか。
いつ、どこで、情報を得たというのだろう。
〔ネクタイだけど、返さなきゃね〕
直人が言った。
だから、今それはどうでも良いんだって……
本気で怒りそうになった悠太に、直人はくすっと笑った。
〔今、ここでね〕
え……?
ヒラヒラと、風になびくネクタイが、悠太の視界に入った。
隣の部屋のベランダから、こちらに腕が伸びていた。
その手に握られた見覚えのあるネクタイは、間違いなく悠太の物だ。
「直人さんっ……⁈」
慌てて隣の部屋との仕切りに近づく。
乗り出して覗き込むと、懐かしい姿がそこにあった。
「俺は、ここで出会ったんだ。君の声に……」
直人はそう言って、照れくさそうに笑った。
悠太は精一杯の笑顔を浮かべて見せた。
彼のお気に入りの声で、そっと言った。
こんばんは、直人さん
俺を見つけてくれて、ありがとう
END
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【2】
高校を卒業してすぐ家業を継いで働き始めた同級生の新郎は、すっかり社会人として自立していて、悠太の目にはずいぶん大人びて見えた。
その上、いわゆる「おめでた婚」との事で、まもなく父親にもなるという。
幸せのお裾分けをもらったのは確かだが、同時に、大人への道のりをいつの間にか遅れて歩いていると知らされた気もした。感動と、懐かしさと、色んな感情に揺さぶられたひとときだった。
「で? 悠太はどうなんよ。彼女とか出来たん?」
悠太はーー絡まれていた。
新郎新婦が同級生だったために、披露宴には共通の友人が多く集まり、ちょっとした同窓会のようだった。
会費制の二次会を終えても積もる話は続いていて、仲の良かった数人で別の店に流れた。
そこまで来ると、新郎新婦と交流のない友達や、自分の恋人なんかを呼び付ける者も出てきて、もはや結婚式とは別の飲み会となっていた。
悠太も、今日1日ひとりで観光地めぐりをしていた直人に連絡をしてみた。
嫌がられるかもと思っていたのだが、直人は大喜びですっ飛んで来たのだった。
さっきから悠太に絡んでいる田村亜希は、小学校から高校まで一緒だった、クラスメイトというより幼馴染と呼んだ方がしっくりする存在だった。
「ねえねえ、どうなんよ~」
すっかり出来上がってしまっている。
「亜希、飲み過ぎ」
酔っ払いは相手にしないとばかりに、悠太は軽くいなす。
昔からそうだ。勝気でお節介焼きで、やたら悠太を構いたがる。
結婚披露のパーティー用に、とびきりのお洒落をしていても、中身はちっとも変わっていないようだ。
それにしても、亜希が「絡み酒」タイプだったとはーー
負けず嫌いなだけに、酔っ払った姿など見せない女かと思っていた。
付き合うのも大分疲れてきた悠太であった。
「ちょっと、そこの男前。友達やったら知っとるんやろ~? 悠太ってリア充なん?」
矛先が直人に向いた。
もちろん悠太の恋愛事情など彼が知っている筈も無いのだが、直人は亜希にニヤリと笑いかけた。
「さて、どうなんでしょうね~」
完全にからかう姿勢だ。
「なんなん、もぉ~」
亜希はぷっと膨れて突っ伏した。
「おーい、亜希ぃ?」
「にぇむい……」
この酔っ払いが……と、悠太は溜息をついた。
「もう帰った方がええよ。タクシー乗り場まで送って行くけん。タクシーチケット、もらったやろ? 」
悠太にポンポンと肩を叩かれて、亜希は、うん……と頷いた。
のそのそとバッグを開け、タクシーチケットを取り出すと、なぜか直人に差し出す。
「これ……男前にあげる。私ん家、徒歩5分やけん」
「え? ほーなん? 引っ越したん?」
悠太の問いにコックリと頷き、そしてパンパンと悠太の肩を叩く。
「そ。やけん悠太、送ってくれ~」
れっつご~♪ と拳を突き上げて、怪しげな足取りで立ち上がっている。
「あーはいはい」
悠太は面倒臭そうに返して、直人には「ゴメン」のポーズを向ける。
「とりあえず、こいつ家に帰します。直人さん、どうする?」
勝手にフラフラ歩き出そうとしている亜希の腕を掴んで、悠太は席を立った。
少しの間があってーー
じゃあ……と、直人も立ち上がった。
「お言葉に甘えて、このチケットもらうね、亜希ちゃん」
亜希に向かって言いながら、その手はこちらに伸びて、悠太は引き寄せられた。
耳元で、直人の低音が囁いた。
「ごゆっくり、悠太くん……」
「そっ……そんなんじゃないですからっ……!」
振り返って、悠太がしっかり否定すると、直人は笑いながらヒラヒラと手を振った。
「え? ここ?」
亜希の自宅マンションに着いて、ふらつく彼女を支えながらドアを開ける。
手探りでスイッチを探し、明かりをつけたらーー
その部屋は悠太が予想していたのとは違い、明らかに単身者向けの造りだった。
「引越しって、家族で……じゃなくて……」
「独り暮らし~」
亜希は歌うように言った。
そりゃいかん……と、悠太は身構えた。
じゃ、ここで……と、逃げの態勢に入ろうとしたところでーー
ぐにゃりと亜希がもたれ掛かってきた。
「おーい……」
「無理~。もう歩けん~」
「この酔っ払いが~」
仕方なく、半ば抱えるようにして彼女を部屋へ運び込む。
突然、強い力で、ぎゅっとしがみ付かれた。
体重を支えきれず、ふたりして倒れ込んだのはベッドの上だった。
「亜希……」
身体を起こして彼女を見ると、身動ぎもしないで目を閉じていた。
心の何処かでは気付いていた。
亜希がやたらと自分を構うのは、そういう事なんだろうと。
けれどーー
ごめん亜希……
お前は友達やけん……
自分の袖口を掴んでいる亜希の手を、悠太は出来る限り優しく外した。
「おやすみ、亜希。また飲もな」
何も起こらなかったかのように立ち去りながら、いつもの声で「またね」を告げる。
意気地なし……
背中を追って来た呟きは、聞かなかった事にしよう。
亜希のマンションから出たところで、悠太は目を丸くして足を止めた。
エントランスの階段に座り込む、その後ろ姿に見覚えがあったからーー
「な……直人さん……?」
悠太の声に振り返って、直人はふっと微笑んだ。
「食わなかったんだ、据膳……」
悠太は、ぷいとそっぽを向いた。
「何ですか? 俺の意気地なしっぷりを見物に来たん?」
憎まれ口を言いながら、亜希の気持ちに応えてやれなくて沈んでいた心が、掬い上げられていくのを自覚していた。
直人は声を立てて笑った。
「それもあるけど……」
と、おどけてみせる。
「15分だけ、ここで待とうと思ったんだ。もし悠太くんが据膳ご馳走になるって事になったら、俺も君ん家には帰れないじゃん。嫁入り前の春香さんとひとつ屋根の下は、やっぱりマズイでしょ」
さっき振り返った直人の顔が、一瞬寂しそうに見えたのは錯覚だったのか。
あっけらかんとした口調に、悠太は拍子抜けした。
「……っていうか、据膳って決め付けるのやめてもらえませんか~」
「まだまだだね~悠太くん。彼女は君よりアルコール、イケる口だよきっと」
「え……そうなの?」
「間違いない。君はオオカミさんじゃなくて、赤ずきんちゃんの方だったよ、俺の目には」
「ちぇ~なんかムカつく~」
タクシーが捕まりそうな通りまで、ふたりで笑いながら歩き出す。
そして、直人が言った。
「お帰り悠太くん。すぐ会えて嬉しかったよ」
またーー
さっきの寂しそうな表情が重なる。
自分の心を掬い上げてくれたみたいに、直人の心も掬い上げられる存在でありたいと、悠太は思った。
「だだいま直人さん。待っててくれて嬉しかったよ」
笑顔で、告げた。
春香には、また必ず遊びに来ると約束させられて、悠太と直人は松山を離れた。
元の生活に戻るのだ。
東京には、悠太の知らない直人の日常がある。
宿を提供することも、車に乗せてあげる必要もない。
自分が居なくても、直人の生活に不便はないのだ。
悠太は寂しさを心の奥に押し戻して、努めて普段通りに振る舞った。
好きだと言ってくれたこの声を、少しでもたくさん聞かせたかった。
忘れないで欲しかった。
同じ沿線に住んでいると分かった時は嬉しかったが、羽田から最寄りの駅までの道のりが、こんなに早いと感じたのは初めてだ。
「悠太くん、またね。連絡するから……」
「はい。直人さん、お疲れさまでした。また……」
お互い笑顔で手を振った。
直人を乗せた電車が遠ざかるのを見送って、悠太はただ立ち尽くしていた。
たったの二泊三日だったのに、悠太の小さな城が、ものすごく久し振りの気がした。
部屋の真ん中に座り込んで、荷物を開く。
洗濯の終わっている物、これから洗うもの。細々した生活の道具を、日常の定位置に戻して行く。
いつもなら、まずコーヒーを入れて、テレビをつけて一休みしてーー
とことん怠け気分の時は、何日も荷物を解かない事だってあるのに。
黙々と、作業をこなしている方が楽だったのだ。
それでも、何とも言えない孤独感が悠太を包む。
大きな大きな溜息をついて、とうとう作業の手が止まった。
悠太はゆるゆると立ち上がり、サッシの掃き出し窓を開けてベランダに出る。
すっかり陽が落ちて、お気に入りの慎ましやかな夜景が悠太を待っていた。
ポケットの中で、ケータイが鳴った。
〔慎ましやかな夜景、見てるの? 悠太くん〕
「直人さん……」
さっきまで一緒にいたのに、とても懐かしい。
「慎ましやかな夜景の話、覚えててくれたんですか?」
悠太は知らず笑顔になる。それなのに、今にも泣き出してしまいそうだった。
〔もう声が聞きたくなっちゃったよ〕
直人が困ったように言った。
「直人さん、良い声の人に会ったら、すぐそんな事言うんでしょ……」
なんだか恨み言のひとつも言いたい気分になってしまう。
〔帰って荷物開けたらさ、俺の荷物の中に悠太くんのネクタイが混ざってたんだ〕
また想定外の方向に話題を振られて、悠太は言葉に詰まる。
そりゃ、大事な情報だけど、今それ? と責めてやりたくなるではないか。
〔ねぇ悠太くん。俺は確かに声フェチだよ。でもね、声にしか興味ないんだ〕
冷たい水を、頭からかけられた心地がした。
直人が好きだと言ってくれた声が、唇が震えて、喉が締め付けられたようになって、思うように出てこない。
耐えられなくなって通話を切ろうとした時、直人が続けた。
〔姿を見たいと思ったのは、君だけだ。方言で話すのを聞きたくて、気が付いたらストーカーみたく追っかけてしまってたのは……悠太くんだけだ……〕
何を、言ってるの?
悠太の頭が、これまでのなんてちょっとした目眩だと思えるほどの混乱に陥った。
空港で荷物を取り違えたのは、偶然ではなかったのだと直人は白状した。
悠太と同じ飛行機に乗ったのも。同じ飛行機で帰って来たのも。
どうやってこの人は自分を知ったのか。
いつ、どこで、情報を得たというのだろう。
〔ネクタイだけど、返さなきゃね〕
直人が言った。
だから、今それはどうでも良いんだって……
本気で怒りそうになった悠太に、直人はくすっと笑った。
〔今、ここでね〕
え……?
ヒラヒラと、風になびくネクタイが、悠太の視界に入った。
隣の部屋のベランダから、こちらに腕が伸びていた。
その手に握られた見覚えのあるネクタイは、間違いなく悠太の物だ。
「直人さんっ……⁈」
慌てて隣の部屋との仕切りに近づく。
乗り出して覗き込むと、懐かしい姿がそこにあった。
「俺は、ここで出会ったんだ。君の声に……」
直人はそう言って、照れくさそうに笑った。
悠太は精一杯の笑顔を浮かべて見せた。
彼のお気に入りの声で、そっと言った。
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