添い寝屋浅葱

加藤伊織

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浅葱編

放っておけない客

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 浅木湯原あさぎゆのはらゆう
 長い名前だ。由緒ある家系故に持っている姓なのか、明治時代に祖先が適当に名乗ったものなのかはわからない。
 悠里という名前はともかく、浅木湯原という姓はインパクトが大きすぎる。字面が長いしトータルの画数も多い。特にテストの時などは文字の長さに殺意を抱いた。小学校で習う漢字で揃っていのがまた腹が立つ。それが彼の地味ではあるがなかなか解決できない悩みだった。

 お昼寝屋でのバイトが決まったときに、ネームプレートに入れる名前で一悶着起きた。
 長すぎると入らない。無理に入れると文字が潰れる。じゃあ略そうかとなると、「浅木」か「湯原」か。
「浅木」ではなく「浅葱」にしようと言い出したのは割合に適当な部分の多い店長だ。曰く、「風流じゃない。どうせ仮名なんだし」だそうだ。

 たった二文字の自分の名前を見て、世界が変わったように思えたくらいだ。
 浅木湯原悠里ではなくて、浅葱。自分であって自分でない、もうひとつの名前。
 
 ウリ専でもその名前を使っていたのは、「浅葱」を気に入っていたからだ。接客用のペルソナが「浅葱」だった。
 けれど、「浅葱くん」と呼ばれるとむず痒い気持ちになる相手もいると最近気付いた。

 公園で偶然に会ったあの男と別れてからすぐ、今晩の予定が全て埋まったことを知って浅葱は驚いた。多分、いや、ほぼ100パーセントあの男――赤羽根玲一だ。名刺を渡したのは、彼から向けられる好意に気付きながらも、それを馬鹿正直には受け止められないことを経験上知っていたから。
 ウリ専、ボーイ、そんな言葉を知らなくても、サイトを見れば浅葱がどういう嗜好を持っていて、どうやって金を得ているのかはわかる。友達になろうよという言葉を向けられた後で、異質なものを見る目を向けられるのは気分のいいことではない。

 浅葱くん、と優しい美声で自分を呼ぶ彼は、浅葱を受け入れてくれるのだろうか。これはひとつの賭けだった。


 お昼寝屋のドアを開けて玲一が店内に入ってきた時のことを、浅葱は今でも鮮明に覚えている。
 スマートなシルエットの黒いロングコートを着た長身の姿に一瞬見とれた。呆けたように見つめてしまい、そんな自分の顔を隠すようにいらっしゃいませと言いながら頭を下げたのだ。
 外国人モデルと比べても劣らないような恵まれたスタイルに、整った顔立ち。しかし、見目の良さがほとんど台無しになるくらい疲れた空気を纏っていて、肌の白さも相まって目の下の隈が目立っていた。
 間近で彼の顔を見て、これはまずいと思ったほどだ。自分は医者ではないが、睡眠に問題を抱えた人間が少なからずここを訪れてきたし、病院へ行くことを勧めたのも初めてではない。そういった人々と共通する何か――余裕のなさとでも言うのだろうか――それが玲一にはあった。

 定められたヒアリングをしている最中にも常に張り付いているような笑顔が痛々しい。楽しくて笑っているのでもなく、営業スマイルとも違う。無難な表情として選び、これ以上自分が傷つくまいとして被っている仮面に見えた。

 浅葱が何かを提案する毎に、笑顔を消して彼は縋るような目を向けてきた。常に笑顔でいるのは「問題ないから近づかないで」というサインにも見えるのだが、その綻びから苦悩して助けを求める彼の素顔が垣間見える。

「添い寝を試してみてもいいかもしれません」

 その一言を本当に口に出すかどうかは悩んだけれども、選ぶのは彼自身だと開き直って提案をしてみた。女性同士なら時には選ばれることがあるオプションだけれども、男性客がこれを選んだことはない。
 それでも彼にその存在を教えたのは、必死の面持ちの彼をひとりにしておけなかったからだ。

 餌やりをしているときに、こういう目をして、ずっと声をあげながら足元から離れなくなる猫がいる。猫だったらそのまますぐに抱き上げて、安全な場所へ連れて行く。シェルターでもそういう猫は人懐こくて比較的すぐに里親が見つかるから、最優先で手を伸ばしてきた。人間だからという理由で彼を放置するのは忍びなかった。
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