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玲一編
井上の気遣い
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「はぁ……」
その日何度目かわからない玲一のため息に、井上がとうとう隣の島のデスクから立ちあがった。
「仕事中に! 何度も何度もため息を吐くな!」
「あいたたた! ごめんなさい、もうしません!」
両手でぎりぎりと頬をつねられて、玲一は悲鳴を上げながら謝罪する。そのまま井上に耳を引っ張られ、休憩スペースの自動販売機の前まで連れ出された。
「……上司に言われれば、それは注意をされたことになる。だが、『仕事の鬼の俺』が『同期で仲の良いお前』に言うなら、それはただの小言だ。頬をつねっても『じゃれ合ってるねー』で済まされる」
「不本意ながら、その通りだね」
じゃれ合うどころか、頬は割と本気で痛い。鏡で見たら赤くなっているのではないかと玲一は気になった。
「まあ、仕事中にじゃれ合うな、というのが俺が外野だったら言うことだがな。殺伐としたじゃれ合いだから注意まではされないだろう。
本当に、何かあったのか? 周りの部下が不安になるからため息はやめろよ」
「……井上くんの部下になりたい」
「部長に直談判してこい。俺を昇進させるかお前を降格させるかしないと無理だからな。どうせだったら昇進の方で頼む」
「ごめん、それは冗談だ。気を張ってるときはそうでもないんだけど、一段落した瞬間とかにはーってため息吐いちゃうんだよね。無意識なんだよ」
玲一は肩をすくめた。胸に引っかかっていることはあるが、常に気がかりになっている程ではない。しかし、そのせいで余計に、気が緩んだ瞬間に欲求不満がため息になって表面に出てくるのだ。
「布団で寝たい」
「帰ったら寝ろ」
今の一番の欲求を素直に口に出すと、井上が鋭く切り返してくる。
「うちはベッドなんだ」
「ん? ……そういう意味か。畳の上で死ぬとか敷居を跨がせないとか象徴的なことじゃなくて、ベッドの対義語としての布団のことか。また最近まともに寝てないのかと思ったぞ」
「ああ、ごめん。そう、布団なんだ」
互いに喫煙者だったら一服しながら話すところだろう。心肺機能が落ちることはしないというのが井上のポリシーだし、玲一も煙草に興味を持たないままで過ごしてきたので、こういうときにお互い飲むのはだいたいコーヒーと決まっている。
自動販売機で玲一は缶コーヒーを2本買った。1本を井上に差し出すと、彼は当たり前のようにそれを受け取る。
井上がプルタブを開けてコーヒーを一口飲んだところで玲一は話しだした。彼がこの場で缶を開けたということが、今相談があるなら聞いてやるという意思表示だからだ。
「前にも話したと思うけど、枕を買いに行ったお店があって。そこで使ってた布団が凄く良かったんだよね。そのせいでうちのベッドが冷たいのがわかって布団乾燥機を買ったりしたんだけど」
「そういえば、そんな話を聞いたな。それで?」
続きを促されて、玲一は頷いた。
「この前たまたま、テレビでそこと同じ布団を見たんだ。最近行ってなかったけど、急に思い出しちゃってさ。はぁ、あの店の布団で寝たい」
「行けばいいじゃないか。前は行っていたんだろう? 行けていたなら時間的にも問題ないだろうし、俺だったら行きたければさっさと行くぞ」
玲一の事情を知らないが故に、井上の答えはシンプルだ。それがいつも羨ましくもあるが、今回ははっとさせられた。
深く考えすぎることも、意識しすぎることもない。ただ行って、ひとりで布団で寝ればいいのだ。今自分が欲しているのは、あの布団なのだから。
浅葱に会っても、笑って見せよう。しばらく来られなかったが、眠れるようになったと。そうすれば、玲一がひとりで寝るのは当然のことだ。
「――よし、明後日行ってこよう」
「そうしろそうしろ。だから、もうため息は吐くな」
残ったコーヒーを一気に喉に流し込んで、自動販売機の横に据えられたゴミ箱の中に井上は空き缶を押し込む。
彼が席へ戻っていくのを見ながら、玲一も缶コーヒーを急いで飲み干した。
その日何度目かわからない玲一のため息に、井上がとうとう隣の島のデスクから立ちあがった。
「仕事中に! 何度も何度もため息を吐くな!」
「あいたたた! ごめんなさい、もうしません!」
両手でぎりぎりと頬をつねられて、玲一は悲鳴を上げながら謝罪する。そのまま井上に耳を引っ張られ、休憩スペースの自動販売機の前まで連れ出された。
「……上司に言われれば、それは注意をされたことになる。だが、『仕事の鬼の俺』が『同期で仲の良いお前』に言うなら、それはただの小言だ。頬をつねっても『じゃれ合ってるねー』で済まされる」
「不本意ながら、その通りだね」
じゃれ合うどころか、頬は割と本気で痛い。鏡で見たら赤くなっているのではないかと玲一は気になった。
「まあ、仕事中にじゃれ合うな、というのが俺が外野だったら言うことだがな。殺伐としたじゃれ合いだから注意まではされないだろう。
本当に、何かあったのか? 周りの部下が不安になるからため息はやめろよ」
「……井上くんの部下になりたい」
「部長に直談判してこい。俺を昇進させるかお前を降格させるかしないと無理だからな。どうせだったら昇進の方で頼む」
「ごめん、それは冗談だ。気を張ってるときはそうでもないんだけど、一段落した瞬間とかにはーってため息吐いちゃうんだよね。無意識なんだよ」
玲一は肩をすくめた。胸に引っかかっていることはあるが、常に気がかりになっている程ではない。しかし、そのせいで余計に、気が緩んだ瞬間に欲求不満がため息になって表面に出てくるのだ。
「布団で寝たい」
「帰ったら寝ろ」
今の一番の欲求を素直に口に出すと、井上が鋭く切り返してくる。
「うちはベッドなんだ」
「ん? ……そういう意味か。畳の上で死ぬとか敷居を跨がせないとか象徴的なことじゃなくて、ベッドの対義語としての布団のことか。また最近まともに寝てないのかと思ったぞ」
「ああ、ごめん。そう、布団なんだ」
互いに喫煙者だったら一服しながら話すところだろう。心肺機能が落ちることはしないというのが井上のポリシーだし、玲一も煙草に興味を持たないままで過ごしてきたので、こういうときにお互い飲むのはだいたいコーヒーと決まっている。
自動販売機で玲一は缶コーヒーを2本買った。1本を井上に差し出すと、彼は当たり前のようにそれを受け取る。
井上がプルタブを開けてコーヒーを一口飲んだところで玲一は話しだした。彼がこの場で缶を開けたということが、今相談があるなら聞いてやるという意思表示だからだ。
「前にも話したと思うけど、枕を買いに行ったお店があって。そこで使ってた布団が凄く良かったんだよね。そのせいでうちのベッドが冷たいのがわかって布団乾燥機を買ったりしたんだけど」
「そういえば、そんな話を聞いたな。それで?」
続きを促されて、玲一は頷いた。
「この前たまたま、テレビでそこと同じ布団を見たんだ。最近行ってなかったけど、急に思い出しちゃってさ。はぁ、あの店の布団で寝たい」
「行けばいいじゃないか。前は行っていたんだろう? 行けていたなら時間的にも問題ないだろうし、俺だったら行きたければさっさと行くぞ」
玲一の事情を知らないが故に、井上の答えはシンプルだ。それがいつも羨ましくもあるが、今回ははっとさせられた。
深く考えすぎることも、意識しすぎることもない。ただ行って、ひとりで布団で寝ればいいのだ。今自分が欲しているのは、あの布団なのだから。
浅葱に会っても、笑って見せよう。しばらく来られなかったが、眠れるようになったと。そうすれば、玲一がひとりで寝るのは当然のことだ。
「――よし、明後日行ってこよう」
「そうしろそうしろ。だから、もうため息は吐くな」
残ったコーヒーを一気に喉に流し込んで、自動販売機の横に据えられたゴミ箱の中に井上は空き缶を押し込む。
彼が席へ戻っていくのを見ながら、玲一も缶コーヒーを急いで飲み干した。
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