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玲一編
友の提言
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まともに寝る。その一言に玲一は目を泳がせて、仕舞いには天井を仰いだ。
それこそが目下の所、一番の悩みである。原因は別の所にあるとしても、対処療法でもいいから睡眠をどうにかしたいとは思っているのだから。
「寝られないんだよね……眠りたいとは思ってるのに、最近寝付きが悪いんだ」
目を閉じて目頭を揉みながら玲一は渋々答えた。疲れが取れていないとはっきり感じるのは、パソコンの画面を見続けた後だ。画面の文字が読みづらくなってきて、効率も悪くなっていると感じていた。まだ二十代なのに熟年向けの目薬が必要なのかと悩んですらいる。
「その目に掛かりそうな鬱陶しい前髪をなんとかしろ。それのせいで見づらいんじゃないのか。ブルーライトカットの眼鏡でも買え。さもなくばお前の前髪を輪ゴムで結んでやる」
「輪ゴム、ダメ、絶対。……わかったよ、せっかくだし今日眼鏡を作りに行ってくる。確かに井上くんの言うことも一理あるとは思うからね」
「寝付きが悪いのは、寝る前にブルーライトを見続けるのも良くないと聞いたぞ。どっちにしろお前にはブルーライトカットの眼鏡は必要だな。後は……そうだな、枕でも変えてみたらどうだ? 合わない枕だと肩が凝るらしいからな」
隣席の社員が離席したので、とうとう井上はその椅子を引いて座り、本格的に玲一に向かい合った。就業時間中であるのに彼がこんな態度に出るのは本当に稀なことだ。
「どうしたんだい? レモネードもだけど、井上くんが会社で相談モードになってるのは若干怖いなあ」
玲一が内心の怯えを正直に吐露すると、井上は額に手を当ててあぁ、と呻いた。ただ玲一を心配しているのではなく、井上の顔には色濃い心痛が垣間見える。
「原田のことがあったからな。俺の管理が足りなかったせいだ。もう俺の近くで潰れる奴は見たくない」
井上が口に出したのは、3ヶ月ほど前に退職した元部下の名だ。入社2年目だった原田は責任感が強く真面目で、仕事熱心だった。いい加減なところがなく、教えられたことは素直に吸収して井上にも可愛がられ、将来を嘱望されていた。
その彼は、ある日突然会社に来なくなった。熱意と能力に隠されて見えなかった彼の内側はどんどん磨り減っていて、井上も、当の原田もそれに気付くことはできなかったのだ。風邪で休んだのがきっかけで走り続けることができなくなった原田の心は、強固に見えた外側の殻を修復することもできず、しばらくしてから診断書と共に退職届が井上宛に送られてきた。
申し訳ありません――白い便箋の上で井上に宛てて書かれたその言葉は何度も繰り返されていて、見慣れた字よりも崩れていた。手書きの文字の中に部下の苦しみを感じ取った井上は、やはり手紙で全ての事務処理は自分が行うことと、原田への労いの言葉をしたためて送り返した。
「一方的に言いたいことは、電話じゃなくてメールで片付けた方がいいんだ」
その時にぽつりと井上が呟いた言葉は、今でも玲一の胸の中に苦い記憶として焼き付いている。
メールではなくて手紙にしたのは、きっと原田に仕事のことを思い出させたくないからだろう。壊れていく部下に気付かずに期待だけを負わせ続けた井上の後悔は、キーボードを叩いて解消されるものではなくて、一文字一文字ブルーブラックのインクで紙の上に吐き出さなければならないものだったのかもしれない。
ひやりと、背筋を冷たいものが伝っていったような感覚に玲一は襲われた。
きっと今の玲一の様子は、井上が覚えている限りの退職間際の原田に似ているのだろう。
「最近、楽しいことはあるか?」
指を組んでまるでカウンセラーのように話しかけてくる同僚に、玲一はここ最近の生活を振り返った。思えば、帰宅してテレビを付けても見るのはニュースばかりで、娯楽というものが身近にない。以前は借りてきた映画を見たりしていたはずなのに、最近はサブスクでもっと気軽に見られるようになったというのに登録すらも億劫で、真実家と会社との往復で毎日が構成されていた。
そして、ニュースは見ているといっても、特に印象に残った話があるわけでもなかった。精々明日の通勤に傘は必要なのかどうかを気にしているだけだ。
「どうしよう、そう言われてみたら僕まずいかも。電車の路線図が樹形図に見えた時、仕事しすぎかなってちょっと思ったんだけど」
「大分まずいぞ、それは。まあ、自覚するだけでいくらかはましだ。解決できることは一個一個潰していくしかないな。ストレスは発散しろ。カラオケでもスパーリングでもなんでもいいから」
玲一は井上の顔をまじまじと見つめると、盛大にため息を吐いた。同期で昇進も横並びだったというのに、井上は玲一の心配をしてアドバイスをする余裕がある。この違いが友人としては頼もしくもあり、同期としては焦りを感じさせる点でもあった。
「なんだその顔は。言っておくがな、俺はお前より先に躓いたんだ。早めに転んだからこそ、自分の問題点も早く知ることができた。それと、俺には頭を空っぽにできる趣味があるからな」
「ああ、そうだね、なるほど。そう言われるとそんな気がするから井上くんって凄いなあって、今しみじみ思ってる」
「わかったら今日は眼鏡を作って、枕でも探して、帰ったらお笑い動画を見ろ」
「ありがとう、そうするよ」
感謝を表すためにホットレモネードの缶を掲げて、玲一は井上に微笑んで見せる。
いつの間にか顔に貼り付けるのが習い性になってしまった仮面の笑顔ではなくて、友人に心から笑顔を向けたのは久しぶりの事だった。
それこそが目下の所、一番の悩みである。原因は別の所にあるとしても、対処療法でもいいから睡眠をどうにかしたいとは思っているのだから。
「寝られないんだよね……眠りたいとは思ってるのに、最近寝付きが悪いんだ」
目を閉じて目頭を揉みながら玲一は渋々答えた。疲れが取れていないとはっきり感じるのは、パソコンの画面を見続けた後だ。画面の文字が読みづらくなってきて、効率も悪くなっていると感じていた。まだ二十代なのに熟年向けの目薬が必要なのかと悩んですらいる。
「その目に掛かりそうな鬱陶しい前髪をなんとかしろ。それのせいで見づらいんじゃないのか。ブルーライトカットの眼鏡でも買え。さもなくばお前の前髪を輪ゴムで結んでやる」
「輪ゴム、ダメ、絶対。……わかったよ、せっかくだし今日眼鏡を作りに行ってくる。確かに井上くんの言うことも一理あるとは思うからね」
「寝付きが悪いのは、寝る前にブルーライトを見続けるのも良くないと聞いたぞ。どっちにしろお前にはブルーライトカットの眼鏡は必要だな。後は……そうだな、枕でも変えてみたらどうだ? 合わない枕だと肩が凝るらしいからな」
隣席の社員が離席したので、とうとう井上はその椅子を引いて座り、本格的に玲一に向かい合った。就業時間中であるのに彼がこんな態度に出るのは本当に稀なことだ。
「どうしたんだい? レモネードもだけど、井上くんが会社で相談モードになってるのは若干怖いなあ」
玲一が内心の怯えを正直に吐露すると、井上は額に手を当ててあぁ、と呻いた。ただ玲一を心配しているのではなく、井上の顔には色濃い心痛が垣間見える。
「原田のことがあったからな。俺の管理が足りなかったせいだ。もう俺の近くで潰れる奴は見たくない」
井上が口に出したのは、3ヶ月ほど前に退職した元部下の名だ。入社2年目だった原田は責任感が強く真面目で、仕事熱心だった。いい加減なところがなく、教えられたことは素直に吸収して井上にも可愛がられ、将来を嘱望されていた。
その彼は、ある日突然会社に来なくなった。熱意と能力に隠されて見えなかった彼の内側はどんどん磨り減っていて、井上も、当の原田もそれに気付くことはできなかったのだ。風邪で休んだのがきっかけで走り続けることができなくなった原田の心は、強固に見えた外側の殻を修復することもできず、しばらくしてから診断書と共に退職届が井上宛に送られてきた。
申し訳ありません――白い便箋の上で井上に宛てて書かれたその言葉は何度も繰り返されていて、見慣れた字よりも崩れていた。手書きの文字の中に部下の苦しみを感じ取った井上は、やはり手紙で全ての事務処理は自分が行うことと、原田への労いの言葉をしたためて送り返した。
「一方的に言いたいことは、電話じゃなくてメールで片付けた方がいいんだ」
その時にぽつりと井上が呟いた言葉は、今でも玲一の胸の中に苦い記憶として焼き付いている。
メールではなくて手紙にしたのは、きっと原田に仕事のことを思い出させたくないからだろう。壊れていく部下に気付かずに期待だけを負わせ続けた井上の後悔は、キーボードを叩いて解消されるものではなくて、一文字一文字ブルーブラックのインクで紙の上に吐き出さなければならないものだったのかもしれない。
ひやりと、背筋を冷たいものが伝っていったような感覚に玲一は襲われた。
きっと今の玲一の様子は、井上が覚えている限りの退職間際の原田に似ているのだろう。
「最近、楽しいことはあるか?」
指を組んでまるでカウンセラーのように話しかけてくる同僚に、玲一はここ最近の生活を振り返った。思えば、帰宅してテレビを付けても見るのはニュースばかりで、娯楽というものが身近にない。以前は借りてきた映画を見たりしていたはずなのに、最近はサブスクでもっと気軽に見られるようになったというのに登録すらも億劫で、真実家と会社との往復で毎日が構成されていた。
そして、ニュースは見ているといっても、特に印象に残った話があるわけでもなかった。精々明日の通勤に傘は必要なのかどうかを気にしているだけだ。
「どうしよう、そう言われてみたら僕まずいかも。電車の路線図が樹形図に見えた時、仕事しすぎかなってちょっと思ったんだけど」
「大分まずいぞ、それは。まあ、自覚するだけでいくらかはましだ。解決できることは一個一個潰していくしかないな。ストレスは発散しろ。カラオケでもスパーリングでもなんでもいいから」
玲一は井上の顔をまじまじと見つめると、盛大にため息を吐いた。同期で昇進も横並びだったというのに、井上は玲一の心配をしてアドバイスをする余裕がある。この違いが友人としては頼もしくもあり、同期としては焦りを感じさせる点でもあった。
「なんだその顔は。言っておくがな、俺はお前より先に躓いたんだ。早めに転んだからこそ、自分の問題点も早く知ることができた。それと、俺には頭を空っぽにできる趣味があるからな」
「ああ、そうだね、なるほど。そう言われるとそんな気がするから井上くんって凄いなあって、今しみじみ思ってる」
「わかったら今日は眼鏡を作って、枕でも探して、帰ったらお笑い動画を見ろ」
「ありがとう、そうするよ」
感謝を表すためにホットレモネードの缶を掲げて、玲一は井上に微笑んで見せる。
いつの間にか顔に貼り付けるのが習い性になってしまった仮面の笑顔ではなくて、友人に心から笑顔を向けたのは久しぶりの事だった。
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