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ただいま

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 案外防音の効いたマンションなので、夕方を過ぎると静けさがひたひたと悠に迫ってくる。
 気を紛らわす為にテレビをつけて、ニュースバラエティを見ながら悠がぼんやりと今日の夕食は何にしようかと考えていると、カチリ、という音が玄関で響いた。

「ただいま」

 響いた低音の声に、身体が埋もれるクッションから悠は苦労して立ちあがる。

「夏生? なんで、今日帰るなら連絡……」
「連絡したよ? あ、未読だね」

 言われてメッセージアプリをチェックしてみると、確かに30分程前にメッセージが入っていた。運悪くトイレか何かで気付かなかったらしい。そもそも、悠はメッセージアプリの使用頻度自体が凄まじく低いので、確認するという癖が付いていない。

「あー、今日は意外にまだ蒸し暑いね。ちょっと急ぎ足にしたら汗掻いちゃったよ。先にシャワー浴びていいかな。その後でゆっくり話したい」
「ああ。何か飲むか?」
「麦茶がまだあったら飲みたいな」
「わかった」

 ボストンバッグを開けて荷物を仕分けている夏生の横を通って、冷蔵庫から冷たい麦茶を出す。クレインマジックに初めて行ったときにも飲んだこの麦茶は、大麦を粒のままで焙煎した夏生一推しの麦茶だった。夏生が作っていた分は飲みきってしまったので、昨夜悠が自分で煮出した。

「あー、冷たくて美味しい。これ、ハルくんが自分で作ったんだね」
「わかるのか、麦茶なのに」
「わかるよ。煮出す時間と粗熱を取る時間が僕は決まってるし、いつも飲む僕の味と違うからね。ふふ、なんだか嬉しいな。帰ったところに友達がいてくれて、自分以外が作った麦茶を美味しいって言って飲めるのが」

 間近で微笑まれて思わず笑い返す。この様子では話し合いは上手くいったのだろうと悠にもわかった。
 20分程で夏生が髪を拭きながらリビングに戻ってきた。悠の隣のクッションに腰掛けて、穏やかな目で悠を見つめてくる。

「どうだったんだ?」
「うん、全部、うまく行った。ハルくんが応援してくれたおかげだよ。最初の晩は父に会えなかったんだ。店の方が急に忙しくなったらしくてね。それで、昨日の朝から、父の時間のあるときに話し合ってきた。
 もう、色々びっくりしたよ。数年会ってなかったけど、白髪も一気に増えてるし、老け込んでるし。
 結果から言うと、父とは和解できた。父が年のために気弱になったせいもあるのかもしれないけど、やっぱりクレインマジックのCMや動画で僕の姿を見て気持ちが変わったんだって。思ってたような罵り合いとかにならなくてよかったし、父が忙しいから時間は掛かったけど、いい話し合いができたよ」

 シャワーを浴びた後に首からタオルを下げた部屋着で、夏生は思いきり伸びをした。彼の表情は晴れ晴れとしていて、自分がうめ咲の息子なのだと告白したあの日から時折見せていたかげりはすっかり消え去っている。
 この部屋を出て行く晩は図体に見合わず生まれたての子鹿のような頼りなさだったが、今はすっかり元の快活な夏生に戻っていた。

「父から聞いたんけどね、母が亡くなる前に最後に食べたがっていたのは、僕が作る餃子だったって。『あの味は私には何故か再現できなくて。夏生のじゃないと駄目なのよ』って母は言っていて、母の死期の近さを悟ってた父にとっては凄く悔しかったそうだよ。自分の料理じゃなくて息子の料理を望まれたのは、ずっと隣にいた夫としても、料理人としても悔しかったって。
 父も、自分の料理が目指すところと僕の料理が目指すところが違うということは理解してたんだ。ただ、僕の腕を惜しむからこそ、僕の道を認める訳にいかなかった――そう、言っていた。自分の跡を継いで欲しいという親心が、いつの間にかポリシーの対立で僕を追い出すという真逆の結果を生み出してしまった。自分でも、『自慢の息子』という気持ちがいつから『不出来な跡継ぎ』にすり替わったのかわからないって、悔しそうに言ってた。
 でも、僕がCMに出たことからクレインマジックで働いてることがわかって、公式チャンネルでも僕が楽しそうに料理をしているから、最近になってやっと考えが変わったって。『俺の道は間違っていないが、お前の道も間違っていない』――父が、そう言ってくれて、僕は本当に嬉しかった」

 夏生の声は弾んでいて、見るからに晴れ晴れとしている。彼が今まで背負い続けてきた確執は、父との会話により最善の形で雪解けの時を迎えたのだろう。

「そうか、よかったな」
「ハルくんが食べてるところもね、いい顔だって言ってたよ。それで、久しぶりにお互いに手料理を作りあって、それを食べてから帰ってきたんだ。元々厳しい人だったから、父の笑顔を見られて驚いたし、嬉しかった。ああ、よかった、本当に。――ハルくんや桑さんたちのいる、ここに帰ってこられて、よかった」
「うん、よかった」

 自分よりも頭半分大きい夏生の頭に思わず手が伸びる。大型犬を撫でるように頭をくしゃくしゃと撫でると、夏生が目を細めて笑った。

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