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正しい玉子焼き

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「玉子焼き……」
 
 悠の記憶では玉子焼きは作ったことはないはずだった。食べたことは当然のようにある。ひとり暮らしを始めるまで、料理は親が作って目の前に出されるのが当然すぎて、自分で作ったことなどなかったのだ。調理実習ではあまりの手際の悪さに重要な部分からは外され、悠は今でもレンジで温めるもの以外はカップ麺と袋麺しか作れない。
 
「道具はそこら辺にあるから、適当に探して好きな物を使ってくれ」
 
 桑鶴の説明で、悠はシンク下を開けたりしてチェックをし始めた。
 玉子焼きは、フライパンが必要だ。さすがにそれはわかる。見慣れた丸いフライパンを取り出すと、いつの間にか周りに集まっていた理彩と高見沢が唸った。桑鶴は悠の様子をスマホで撮影し始めている。
 
「これは、なかなか……むぐっ」
「黙ってて、最後まで黙ってて」
 
 高見沢の口を後ろから理彩が手で塞ぐ。自分の行動に自分でも不安を覚えつつ、悠はフライパンをコンロの上に乗せた。
 
 コンコン、とフライパンの縁に卵をぶつけ、割ろうとしてみる。思ったよりも殻が固く、割りにくい。なんとか潰さずに卵を割って、フライパンに卵を落とす。そこで悠はとんでもない事実に気づいた。
 ――これで焼いてしまったら目玉焼きになってしまう、と。
 
 手を止めてしばらく考え、残りの卵もフライパンに割り入れてから、菜箸を手に取ってかき混ぜる。フゴッと誰かが吹き出す音がしたが、くぐもっていたのでおそらく理彩に口を塞がれている高見沢だろう。周りを見る余裕は、今の悠には一切無い。
 
 黄身と白身が混ざったところで、コンロに火をつける。少しすると、フライパンの中の卵は端から色が少し薄くなり、一枚の薄皮の下で沸騰しているかのようにぽこぽこと膨らみを見せた。
 そこまでいって悠は首を傾げた。母が作ったり市販の弁当に入っていたりする、自分の食べ慣れた玉子焼きは四角いのだ。丸くはない。このままだと丸くて薄い玉子焼きになってしまう。
 
 意を決してフライ返しを持ち、半分に折り返してみようとした。けれど、フライパンにくっついた卵は思ったようには折り返せない。フライ返しで力を入れた部分だけがぐしゃりと潰れて、もうそれ以上どうしたらいいのかわからなくなった。

 玉子焼きひとつで途方に暮れながら、これでは料理経験ゼロを強調しているだけではないかと軽い絶望が悠を襲う。しかし、自分の料理スキルに絶望していようがしていまいが、なんとか皿の上に乗せるまではしてみせないといけないだろう。
 悠はもう形が崩れるのも気にせず、自棄になって卵を掻き集め、皿に乗せてからフライ返しで申し訳程度に形を整えた。
 
「……玉子焼きです」

  元々無愛想と言われがちな悠だが、自分でも驚くほどにむっすりとした声が出ていた。顔に不本意と書いたような悠とは対極的に、桑鶴は何が楽しいのか満面の笑みで両手を頭上で打ち合わせている。
 
「ブラボー! 素晴らしい! こりゃ料理経験ゼロどころかマイナスだな! ますます君に惚れ込んだぞ」
 
 桑鶴の拍手がキッチンに響く。その後ろで、重い荷物がドサリと落ちるような音がした。気がつくとキッチンの周りには、さっきまではいなかった5人目の人物がいる。並外れて背が高く、驚くほど顔の整った男だった。
 
「え、玉子焼き? これ? えーと、アシスタント候補っていう速水さんの従弟の子だよね? ハルカくん、だっけ。料理ができないっていうのは確かに条件にしたけども……」
 
 男は箸を引き出しから出すと、悠の作った玉子焼きを一口食べた。男らしい精悍な顔になんとも言えない微妙な表情が浮かぶ。それはさながら、迷子になったシェパードのようだった。
 
「味が付いてないね。あと、焦げかけのところと妙に生っぽいところが。桑さん、彼はどうやって作ってた?」
 
 悠が玉子焼きを作り始めたときには彼はいなかった。キッチンの隅に南瓜が丸ごと一個転がっていて、さっきの重い音はどうもこれを落としたためらしい。
 スーパーのロゴが入った綿のマイバッグも一緒に置いてあるのを見ると、買い物に出ていたのが戻ってきたところのようだった。

「そう言うと思って動画を撮ってある。これを見てくれ、ナツキチ」

 ナツキチ、という呼び名でピンとくる。彼がなんとかナツキという、料理担当の人物なのだろう。
 夏生は桑鶴からスマホを受け取って動画を再生し、いきなり目を剥いて驚いていた。なかなか表情豊かな人物らしい。

「これ、多分いろいろ気になった場所にいちいちツッコミを入れてたらいけない奴だよね?」

 理彩に向かって確認している夏生の顔は引きつっている。理彩が真顔で頷いたのを見て、夏生は画面に視線を戻した。時折呻きながら最後まで動画を見ると、夏生は悠に場所を代わるように促し、自分がキッチンに立つ。

「玉子焼きの作り方、実際に見せてあげるよ。料理経験ゼロって誇張でも何でもなかったんだね……」

 自分も冷蔵庫から3つの卵を出し、夏生はボウルに卵を割り入れた。そこにみりんと白だし、そしてほんの少しのマヨネーズを入れる。塩はひとつまみ、砂糖はそれより少し多めに入れて、菜箸を使って丁寧に混ぜる。それだけで、白身と黄身が綺麗に混ざった卵液が出来上がった。

 悠も開けたシンク下から夏生が取り出したのは、四角いフライパンだ。それを見て悠ははっとした。高見沢が驚いていたのはこれなのかと一瞬にして理解する。
 考えてみれば、夏生が持っているフライパンには見覚えがあった。
 四角い玉子焼きを焼きたいなら四角いフライパンを使う。――わかってしまえば自明の理だ。 

 玉子焼き用のフライパンを火に掛けて十分にそれが温まったのを確認すると、夏生は油を垂らしてから折り畳んだキッチンペーパーを菜箸で挟み、むらの無いように油を塗り広げた。余分な油を溜めないためでもあるんだよ、と夏生は悠に向かって柔らかな声で解説も入れてくる。
 夏生はそのフライパンに卵を全て入れると、箸でゆっくりと混ぜながら焼いていく。卵が半分くらい固まったところで菜箸だけで器用に少しずつ端から返して、焦げ色も付いていない美しい一本の玉子焼きを焼き上げた。
 
「はい、これで出来上がり。食べてみて」

 まな板の上で切り分けたそれを白い皿に乗せて、夏生は悠に差し出した。皿を受け取り、理彩が差し出した箸を持って玉子焼きを一切れ取り上げると、確かに母の作った玉子焼きとよく似ていた。見た目で違うところと言えば、こちらの方がずっと整っているというところか。

 折り返し始めたときには卵は半熟だったのに、断面を見ると綺麗にくっついていて、まるで最初から一本の玉子焼きでしたよという声が聞こえてきそうだ。悠の作ったものとは根本からして違いすぎる。
 手渡された皿の玉子焼きからは、ほのかに出汁が香っている。見た目にも艶があって、いかにも美味しそうだった。
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