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142 逃れられない責任

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 エノラに地の精霊の加護が付いているという話は、以前聞いた気がした。
 あれは、そう――石けん職人のエミリアの手紙にサラマンダーの気配を感じるとテオが話したことが切っ掛けだった。
 ガストンはその頃まだこの工房に来たことはなかったから、水の守護が付いているという話が出なかったのは仕方がない。

 カモミールはヴァージルの看病をしているエノラに声を掛け、工房に来て貰えるようにと頼んだ。

「ええ……ヴァージルちゃんを助けるためですものね」

 協力を快諾しながらも、エノラは腰をすぐには上げない。
 昨日の夜、今にも死んでしまいそうだった時よりもヴァージルはいくらか状態がよく見えるが、楽観視できる要素は何ひとつない。側を離れるのは不安でならないだろう。

「これからガストンを呼びに行くんですが、タマラにも声を掛けてきます。手を貸してくれる人は多い方がいいし……それに、タマラに教えなかったらきっと後で怒られちゃう」
「そうね、それがいいわ。……ええ、そうよ、こういう時に蚊帳の外に置かれたら、心配で居ても立ってもいられなくなるわ。私にできることがあることを喜ばなければね」
「できること……」

 確かにそれはそうだろう。ガストンだけに何もかもを任せ、祈ることしかできなかったら、カモミールも理性を保っていられたかどうかわからない。

 最後の錬成へ向けてテオとギルド長は準備をし、キャリーは念のためにもう一度食べる物を買いに行った。今は、動いている方がカモミールも気が楽だ。

「ヴァージル、あとちょっとよ。待っててね」

 ぎりぎりまで体温を下げられた恋人の冷たい手をそっと握って、ほんの僅かだけ体温を移す。
 不安を口に出さないのは、そうなってしまったら怖いからだ。
 待っててねと言えば、今までの彼は必ず待っていてくれた。
 カモミールの願いの中で唯一ヴァージルが叶えなかったのは、彼女の記憶を消すことだったのだ。

 彼の側に付いていたい気持ちもあったが、カモミールはエリクサーを作らなければならない。
 あとちょっと、は自分に言い聞かせる言葉でもあった。


 魔法毒を確実に解毒するためにエリクサーを作っていることを話すと、ガストンは椅子から落ちた。こちらも昨日の夜から診察に検査と忙しく、睡眠を取れていない状況だ。
 今もヴァージルの血液を調べて毒を割り出す検査は暗礁に乗り上げており、錬金医の頭を大いに悩ませていた。

「確かにエリクサーならば、どんな毒であろうとも癒やせるだろう。通常医学の枠を飛び越える治癒だからな」

 ガストンはすぐに白衣を脱ぎ、外出の支度を始めた。それを見守りながらもカモミールは尋ねずにはいられない。

「ねえ、ヴァージルはエリクサーがあれば助かると思う?」
「テオが言ったのならそうなのだろう。テオドールが生きた時代の錬金術は私たちには想像するしかできないが、テオはその目で見ているのだから」
「そう、だよね」

 錬金術のことに関して、テオ以上に知っている存在はいない。
 1000年を経た錬金釜の精霊であり、存在そのものが錬金術の申し子なのだから。

 テオの言葉は信じられる。けれど、薄布のような不安がカモミールにまとわりついている。

 信じることができないのは、自分のことだ。


 タマラにヴァージルのことを簡潔に話して看病を頼むと、彼女は手早く準備をしてエノラの家へと歩きながらも、散々ヴァージルに対して罵詈雑言を吐いた。
 けれどそれはタマラの心配の裏返しだ。それくらいはカモミールにもわかる。
 エノラと看病を交代したタマラは、痛ましげな目をヴァージルに向け、輸液についてガストンから受ける説明を真剣に聞いていた。

 もし異変があったらすぐに工房に来て欲しいとだけ頼んで、カモミールはエノラとガストンを伴って工房へ戻った。
 時刻は既に正午になっているが、緊張のせいか食欲はない。

「よし、やるか」

 テオには気負いは一切ないようだった。精霊の加護を持つ人間が揃ったのを見ると、彼は4属性の最上位素材をぽんぽんと手渡していく。
 エノラには土の華、ガストンにはセイレーンの涙、マシューには炎の核、そしてギルド長にはグリーンドラゴンの鱗。

 エクスポーションはビーカーに入ったままで美しい若草色をきらめかせており、側には深紅の輝きを持つ賢者の石のかけらがある。
 あとは、これらを調合すれば、エリクサーができあがる――理論上はそうなのに、カモミールは急激な緊張に襲われてカタカタと奥歯を鳴らした。

「最終的に水属性にする必要があるから、入れる順番は風火土水だな。カモミールはもう賢者の石をエクスポーションに入れていいぞ。んで、グリーンドラゴンの鱗から……」
「待って」

 焦るカモミールの心を置き去りにして、テオの説明が進む。カモミールの震える手は賢者の石を手に取ることはできず、頼りなく宙を掻いた。

「わたし、できない……無理よ、魔力無しだもの。私に大錬金術はできない」

 今まで押さえていた不安が、ここに来て心の堤防を決壊させようとしていた。
 ここにある4元素の最上位素材はいずれも稀少な品だ。お金を掛ければ再度錬成できるセイレーンの涙や炎の核はともかくとして、グリーンドラゴンの鱗や土の華を入手することは難しいだろう。
 金に糸目を付けないならば、グリーンドラゴンの素材は手に入る。けれど、王都で偶然手に入れただけの土の華は、替えられる存在がない。まして、賢者の石はこれが最後のかけらなのだ。

「もしも私が失敗したら――ヴァージルは助からない」

 カモミールの知る最も優秀な錬金医であるガストンにも毒は特定できず、エリクサーを作る機会を失ってしまったら。
 急激に恐怖がせり上がってきて、カモミールは嗚咽した。

 震える背中に、そっと手が当てられる。皺の刻まれた老いた手は、マシューとエノラのものだった。
 言葉の慰めではなく、そっと寄り添われる温かさに心が少しだけ力を取り戻す。

「恐れるべからず――とはいえ、カモミールさんのその不安もわからないでもない。ただグリーンドラゴンの鱗を入れるだけだというのに、私もこの通り震えているからね」

 錬金術師の最初の心得を語るギルド長は、その言葉の通り白くなった指先を震えさせていた。この場でカモミールと同じくらいに素材の貴重さを思い知っているのは彼なのだろう。

「大錬金術の水の最上位素材だと? そんな物を渡されて平気な顔でいられるわけがない」

 吐き捨てるように言ったのはガストンだ。彼も先程より若干顔色が悪い。

「カモミールさんがやらないなら、私がやりますよ。魔力無しでもできるんでしょう?」
「待って、キャリーさん! でも私がやらないと」

 ガラス棒に手を伸ばしたキャリーを、カモミールは思わず止めた。そして、うっすらと口元に笑いを浮かべたキャリーと眼が合う。してやられたと気づいたのは一瞬経ってからだった。

「大丈夫だ、自分を信じろ。おまえには魔力はないが、これだけの素材や人を集めて繋げた力がある。おまえのそういう根性は、この俺も本当に一目置いてるんだぜ? カモミールひとりで作るんじゃない、ここにいる全員が関わってるんだ」

 最後に背中を押したのはテオの言葉だった。ぴしゃりと自分の頬を叩いて、カモミールは両足に力を入れた。

「ああ……もう。うん、わかってるの、やるわ。――もしも王都で土の華を手に入れてなかったら、ここでもう詰んでいたかもしれないのよ。全ての物事は繋がっている。だから自分の望む未来があるなら、それをたぐり寄せる努力をしなきゃ」

 どんなにか細い糸であろうと、まず引かないことには事態は動かないのだ。
 そして、事態が動かなければ、ヴァージルは刻一刻と悪化していくばかりである。

「ガストン、マシュー先生、エノラさん、ギルド長――ヴァージルを助けるために力を貸してください。キャリーさん、テオ、お願いだから私の背中を支えてて。ひとりじゃ怖いの」
「いくらでも支えますよ、いつもしてることじゃないですか」
「おう、おまえ自身が責任を負うなら、支えるくらい軽いもんだぜ」

 歳上の知人たちは頷き、テオとキャリーは頼もしい表情でカモミールの揺らぐ心を支えてくれる。
 ひとりではない。ここにいる全員でエリクサーを作るのだ。

 そう実感できるようになって、指の震えがようやく止まる。
 白く細い指先で賢者の石を摘まみ上げたカモミールは、深呼吸をしてからエクスポーションにそれを落とした。
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