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116 魔女の軟膏の効き目
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エミリアが帰路についてから、カモミールはもう一度マシューの傷痕を改めた。
3日前、もう一度彼の腕には薬を塗ってある。その経過がどうなったかを知りたかったのだ。
傷痕は、最初に見たときの半分ほどになっていた。
思っていたより治りが悪い。逆に、それはカモミールにとっては願ってもないことである。
薄めた軟膏をエノラの古傷に毎日塗ってはいるが、それはさすがに効果が出なかったのだ。
「新しい傷はあっという間に治ってしまったから、これはまずいって思ったんだけど。古傷はさすがに一度じゃ治らないのね」
「いやいや、これでも十分異常ですよ」
マシューの傷痕を眺めながら感心しているカモミールに、キャリーが冷静に指摘した。
たった2回で傷痕が半分まで消えるというのは、確かに普通ではない。
「そもそも、古傷ってのはもう安定しちまってて、『治る力』がねえんだよ。怪我したばかりの傷は、『治る力』がある。だから薬も良く効く。わかってるか?」
テオが今更入れてきた説明に、カモミールはぐっと詰まった。
「そ、それは……そうね。新しい傷と比較しちゃってた私が間違ってたみたい。そう考えると、古傷すら治すってとんでもない薬だわ」
「古傷に残っていない『治る力』を、傷の奥に働きかけて強制的に賦活するんだ。新しく皮膚ができあがるには本来日数がかかるが、白アロエとラベンダーは強力にそこを引き上げる。新しい傷ならその効果ですぐに治るし、古い傷でも綺麗な皮膚を作る手助けになるってことだ」
「ねえー! そういう説明は最初にしてよ!」
今更詳細に説明をしてくれたテオに、カモミールは思わず噛みついた。けれどテオは涼しい顔をしている。
「だっておまえ、大錬金術に興味ないだろ? 錬金医のことも興味ないじゃねえか。そのカモミールに傷が治る仕組みを説明したって意味ねえだろうが」
よりによってテオに正論を言われ、カモミールは黙るしかなかった。
確かに、錬金術師とはいえ魔力がないために生活錬金術師になるしかなかったのだが、同じ「錬金術」に括られる大錬金術は全く勉強しようと思わなかったし、ロクサーヌが修めていた錬金医の技術や知識も最低限しか触っていない。
錬金医の分野に口を出すかも、とガストンには言ったが、カモミールは圧倒的に知識不足だったのだ。
「あー、私ガストンのところへ行ってくる! マシュー先生、申し訳ないんですけどちょっと付き合って貰えませんか?」
「お嬢さんは老体に対して人使いが荒いのう……まあ、付き合うがな」
曲がった腰を叩きながらマシューがぼやく。マシューは石けんが関わることならすっ飛んで来るのに、自分の気が乗らないときだけ「腰が」とか「脚が」とか言うのだ。単に面倒なのだろう。
カモミールは最初にマシューの傷をスケッチしたメモを持つと、マシューの手を引いて工房を後にした。
ガストンの家へ着くと、患者がひとりいたのでその対応が終わるまで待つ。
ふと、マシューを連れてきた自分は知らない人が見れば「祖父と孫」に見えるのではないかと思った。
そういえば、エミリアがいる間にマシューの弟子が女性ばかりな件で、エミリアとカモミールとキャリーが「石けん三姉妹」と呼ばれたことがあった。その時エミリアはものの見事に「自分が長女、キャリーが次女、カモミールが三女」と間違えた。
その後、お約束の「私これでも20歳なんです」を経てエミリアの勘違いを解くことができたが、事前に年齢を言わないと確実にキャリーより若く見られるのは確かなようだ。
診察室になっている居間から、初老の女性が出て来てガストンに礼を言い、カモミールに会釈をして去って行く。
「ガストン、ちょっといい?」
「ああ、来ていたのか」
カモミールを見てガストンは一度家の外に出た。カランという音で「受付中」の札をひっくり返したのだとわかる。音だけでそれがわかるくらいには、カモミールはこの家に馴染んでいた。
「この人は私の今の石けんの師匠で、マシュー先生。先生、腕を見せてあげてください」
古傷をスケッチして測った大きさとともにメモした紙をガストンに差し出しながら、カモミールはマシューをガストンに紹介した。
ガストンのことはここに来るまでの間にマシューには説明してある。かつて家を追い出されたことも、今は同じ目的のために和解したことも。
「これは……」
ガストンは灯りを付け、眼鏡の位置を直すとマシューの腕をじっくりと見た。
「1回目が約10日前で、2回目が3日前。それで傷が半分ほどになっているとは。残りの傷を見るに、色素沈着があったはずなのにそれも消えている。――予想外の効果だ。それに、腰が曲がっている年齢とは思えないほど肌の状態がいい」
「それは石けんのおかげじゃ」
得意げにマシューが胸を張る。カモミールは、今作っている石けんが既存のマルセラ石けんとは全然違うと言うことを今説明しないといけなかった。
「なるほど、使っている石けんがそもそも違うと。確かに、傷に関係ない右腕や顔も乾燥が見られずにいいですね。ふむ……カモミール、この薬の材料を訊いてもいいか」
「えーっと、白アロエとラベンダーと、ムラサキ草と……あれ、なんだっけ」
テオから一度しか聞いていないので、肝心の材料を忘れてしまっていてカモミールは焦った。ポーションと共通している部分があるという事は憶えているのだが、材料の名前までは憶えていない。
けれど、ガストンは呆れた様子も見せず「おまえに興味のない分野だからな」と一言で済ます。全くもってその通りなので、言い返すこともできなかった。
「私の方でも調べたが、生憎古傷に対する経過観察はできる対象がいなかった。しかもマリアさんの顔の傷はマシューさんの傷と同じように色素沈着を起こしているから、切り傷などとは対処を変えねばならない。しかし、よく身近でこんなに条件の揃った被検体を見つけられたものだ」
何故か最後には感心された。ガストンが言うには、大錬金術をやっている人間は実験の失敗で怪我を負いやすいらしい。しかも圧倒的に多いのが爆発による器具での切り傷と火傷だそうだ。
マシューの石けん作りでの怪我も確かにそれに類するものだろう。逆に、実験をすることが少ない錬金医と、石けんをあまり作らないタイプの生活錬金術師は怪我をすること自体が稀だ。
「白アロエ……文献では見たが実物は見たことがないな。それはどうやって入手したんだ? いや、それ以前にレシピの全てを知りたい。私がこれを作った精霊に会うことは可能だろうか?」
独り言のようにぶつぶつと呟いていたかと思うと、ガストンは急にカモミールに尋ねてきた。確かに、作り方を訊くのならばテオに直接訊いた方が早い。
「いいわよ」
「いいのか?」
自分で会うことは可能かと訊いたくせに、カモミールが許可をしたことにガストンが自分で驚いている。
だが、気持ちはわかる。ガストンは和解した今でも、自分のカモミールに対する仕打ちに罪悪感を抱えているのだろう。
カモミールは特に寛容なわけでもないが、自分の分野というものはわきまえるべきだと思っているので、「これはやはりガストンの分野」と判断しただけだ。合理的判断と感情は別の物である。
「だって、私の専門分野じゃないんだもの。作ったばかりの切り傷がすぐ治るから、これはとんでもない効果だって使い方を悩んでたわ。でも、古傷と新しい傷は根本的に治療方針が違うのよね。そこのところ、私はほとんど知らないから詳しい人同士で話した方がいいに決まってるでしょ。
さっき、古傷を治す原理について軽くテオに説明されたけど、それを聞くまで私は全くそこに思い至らなかったし、あっちもあっちで私が興味ないだろうからって説明省いてたのよ。そういう奴なの、精霊って。だから、要点を的確に訊けるガストンが話した方がいいわ」
「……ありがとう。さっそく工房へ行ってもいいか?」
頷きながらも、ガストンがお礼を言ったことにカモミールは驚いていた。
5年一緒に暮らしたが、日頃から礼を言うことなどほとんどなかった人なのだ。それだけでも、この2ヶ月あまりで彼がどれだけ変わったかがわかった。
3日前、もう一度彼の腕には薬を塗ってある。その経過がどうなったかを知りたかったのだ。
傷痕は、最初に見たときの半分ほどになっていた。
思っていたより治りが悪い。逆に、それはカモミールにとっては願ってもないことである。
薄めた軟膏をエノラの古傷に毎日塗ってはいるが、それはさすがに効果が出なかったのだ。
「新しい傷はあっという間に治ってしまったから、これはまずいって思ったんだけど。古傷はさすがに一度じゃ治らないのね」
「いやいや、これでも十分異常ですよ」
マシューの傷痕を眺めながら感心しているカモミールに、キャリーが冷静に指摘した。
たった2回で傷痕が半分まで消えるというのは、確かに普通ではない。
「そもそも、古傷ってのはもう安定しちまってて、『治る力』がねえんだよ。怪我したばかりの傷は、『治る力』がある。だから薬も良く効く。わかってるか?」
テオが今更入れてきた説明に、カモミールはぐっと詰まった。
「そ、それは……そうね。新しい傷と比較しちゃってた私が間違ってたみたい。そう考えると、古傷すら治すってとんでもない薬だわ」
「古傷に残っていない『治る力』を、傷の奥に働きかけて強制的に賦活するんだ。新しく皮膚ができあがるには本来日数がかかるが、白アロエとラベンダーは強力にそこを引き上げる。新しい傷ならその効果ですぐに治るし、古い傷でも綺麗な皮膚を作る手助けになるってことだ」
「ねえー! そういう説明は最初にしてよ!」
今更詳細に説明をしてくれたテオに、カモミールは思わず噛みついた。けれどテオは涼しい顔をしている。
「だっておまえ、大錬金術に興味ないだろ? 錬金医のことも興味ないじゃねえか。そのカモミールに傷が治る仕組みを説明したって意味ねえだろうが」
よりによってテオに正論を言われ、カモミールは黙るしかなかった。
確かに、錬金術師とはいえ魔力がないために生活錬金術師になるしかなかったのだが、同じ「錬金術」に括られる大錬金術は全く勉強しようと思わなかったし、ロクサーヌが修めていた錬金医の技術や知識も最低限しか触っていない。
錬金医の分野に口を出すかも、とガストンには言ったが、カモミールは圧倒的に知識不足だったのだ。
「あー、私ガストンのところへ行ってくる! マシュー先生、申し訳ないんですけどちょっと付き合って貰えませんか?」
「お嬢さんは老体に対して人使いが荒いのう……まあ、付き合うがな」
曲がった腰を叩きながらマシューがぼやく。マシューは石けんが関わることならすっ飛んで来るのに、自分の気が乗らないときだけ「腰が」とか「脚が」とか言うのだ。単に面倒なのだろう。
カモミールは最初にマシューの傷をスケッチしたメモを持つと、マシューの手を引いて工房を後にした。
ガストンの家へ着くと、患者がひとりいたのでその対応が終わるまで待つ。
ふと、マシューを連れてきた自分は知らない人が見れば「祖父と孫」に見えるのではないかと思った。
そういえば、エミリアがいる間にマシューの弟子が女性ばかりな件で、エミリアとカモミールとキャリーが「石けん三姉妹」と呼ばれたことがあった。その時エミリアはものの見事に「自分が長女、キャリーが次女、カモミールが三女」と間違えた。
その後、お約束の「私これでも20歳なんです」を経てエミリアの勘違いを解くことができたが、事前に年齢を言わないと確実にキャリーより若く見られるのは確かなようだ。
診察室になっている居間から、初老の女性が出て来てガストンに礼を言い、カモミールに会釈をして去って行く。
「ガストン、ちょっといい?」
「ああ、来ていたのか」
カモミールを見てガストンは一度家の外に出た。カランという音で「受付中」の札をひっくり返したのだとわかる。音だけでそれがわかるくらいには、カモミールはこの家に馴染んでいた。
「この人は私の今の石けんの師匠で、マシュー先生。先生、腕を見せてあげてください」
古傷をスケッチして測った大きさとともにメモした紙をガストンに差し出しながら、カモミールはマシューをガストンに紹介した。
ガストンのことはここに来るまでの間にマシューには説明してある。かつて家を追い出されたことも、今は同じ目的のために和解したことも。
「これは……」
ガストンは灯りを付け、眼鏡の位置を直すとマシューの腕をじっくりと見た。
「1回目が約10日前で、2回目が3日前。それで傷が半分ほどになっているとは。残りの傷を見るに、色素沈着があったはずなのにそれも消えている。――予想外の効果だ。それに、腰が曲がっている年齢とは思えないほど肌の状態がいい」
「それは石けんのおかげじゃ」
得意げにマシューが胸を張る。カモミールは、今作っている石けんが既存のマルセラ石けんとは全然違うと言うことを今説明しないといけなかった。
「なるほど、使っている石けんがそもそも違うと。確かに、傷に関係ない右腕や顔も乾燥が見られずにいいですね。ふむ……カモミール、この薬の材料を訊いてもいいか」
「えーっと、白アロエとラベンダーと、ムラサキ草と……あれ、なんだっけ」
テオから一度しか聞いていないので、肝心の材料を忘れてしまっていてカモミールは焦った。ポーションと共通している部分があるという事は憶えているのだが、材料の名前までは憶えていない。
けれど、ガストンは呆れた様子も見せず「おまえに興味のない分野だからな」と一言で済ます。全くもってその通りなので、言い返すこともできなかった。
「私の方でも調べたが、生憎古傷に対する経過観察はできる対象がいなかった。しかもマリアさんの顔の傷はマシューさんの傷と同じように色素沈着を起こしているから、切り傷などとは対処を変えねばならない。しかし、よく身近でこんなに条件の揃った被検体を見つけられたものだ」
何故か最後には感心された。ガストンが言うには、大錬金術をやっている人間は実験の失敗で怪我を負いやすいらしい。しかも圧倒的に多いのが爆発による器具での切り傷と火傷だそうだ。
マシューの石けん作りでの怪我も確かにそれに類するものだろう。逆に、実験をすることが少ない錬金医と、石けんをあまり作らないタイプの生活錬金術師は怪我をすること自体が稀だ。
「白アロエ……文献では見たが実物は見たことがないな。それはどうやって入手したんだ? いや、それ以前にレシピの全てを知りたい。私がこれを作った精霊に会うことは可能だろうか?」
独り言のようにぶつぶつと呟いていたかと思うと、ガストンは急にカモミールに尋ねてきた。確かに、作り方を訊くのならばテオに直接訊いた方が早い。
「いいわよ」
「いいのか?」
自分で会うことは可能かと訊いたくせに、カモミールが許可をしたことにガストンが自分で驚いている。
だが、気持ちはわかる。ガストンは和解した今でも、自分のカモミールに対する仕打ちに罪悪感を抱えているのだろう。
カモミールは特に寛容なわけでもないが、自分の分野というものはわきまえるべきだと思っているので、「これはやはりガストンの分野」と判断しただけだ。合理的判断と感情は別の物である。
「だって、私の専門分野じゃないんだもの。作ったばかりの切り傷がすぐ治るから、これはとんでもない効果だって使い方を悩んでたわ。でも、古傷と新しい傷は根本的に治療方針が違うのよね。そこのところ、私はほとんど知らないから詳しい人同士で話した方がいいに決まってるでしょ。
さっき、古傷を治す原理について軽くテオに説明されたけど、それを聞くまで私は全くそこに思い至らなかったし、あっちもあっちで私が興味ないだろうからって説明省いてたのよ。そういう奴なの、精霊って。だから、要点を的確に訊けるガストンが話した方がいいわ」
「……ありがとう。さっそく工房へ行ってもいいか?」
頷きながらも、ガストンがお礼を言ったことにカモミールは驚いていた。
5年一緒に暮らしたが、日頃から礼を言うことなどほとんどなかった人なのだ。それだけでも、この2ヶ月あまりで彼がどれだけ変わったかがわかった。
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