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109 侯爵の視察
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「カモミールさん、今日作る石けんの材料を買いに行ってくれんかな?」
エノラに軟膏を渡して戻ってくると、マシューからそんな頼みをされた。どうやらレシピの検討は終わったらしく、キャリーが必死に計算をしている。
工房主がお使いとは変な話だが、石けん作りに必要な鹸化値の計算が一番速いのはキャリーだし、マシューよりはカモミールの方がお使いには向いているのは確かだ。
「わかりました。買ってくるもののリストはありますか?」
「これです。お願いします」
キャリーからさっとメモが渡される。買ってくるものはポマースオイル1リットルだけのようだ。後の材料は工房にある物で足りるのだろう。
「錬金術ギルドにあるのかな?」
「ありますよ。取扱量はそんなに多くないですけどね。もし大々的に作ることになったら、ギルドの物流網で他の都市から持ってこられるから問題ありません」
さすがは元錬金ギルドの職員だ。キャリーはつくづく頼りになる。
「ポマースオイルって、なんだっけ?」
「あのノートに書いておいたじゃろう。オリーブオイルを絞った後の皮や種に溶剤を使って抽出したオイルじゃ。食用向きじゃないから安いぞい」
マシューが「残念な弟子」を見る目をカモミールに向けてくる。
そうはいっても、あの内容が濃すぎるノートを全部憶えきれるわけがないし、身近にないオイルは名前すら憶えていないものが多い。
「キートン先生、仕方ないですよ。カモミールさんは石けん作りより他のことをやった方が、工房的にも効率いいんですから」
「そうです。私は一応は弟子ですけど、もう先生の中では末端に置いてください。一番弟子の座はキャリーさんに譲りますから。そして、もうひとりくらい弟子を取ってください」
「弟子を取りたいのはやまやまじゃがのう……ヴィアローズの石けんがもっと広まらんと、冷製法に興味を持つ者がそもそもおらんじゃろ」
マシューは相変わらず自分から弟子を取りに行く気はないらしい。そういえば、とカモミールは王都の錬金術ギルドでの話を思い出した。
「王都の錬金術ギルドの職員さんで、奥さんも生活錬金術師で石けんを作ってる人がいたので、これから話題になる石けんに興味があったら連絡くださいと言っておきました。既に固まっているレシピなら、その職人がいるだけで王都で生産可能になりますし。最初の材料費だけ渡して、後は売上金で回して貰うようにすればいいかなって」
「それで、売上金の中から一部だけこの工房に入れて貰う仕組みですね。いいと思います。品質管理が徹底できればの話ですが」
キャリーの言うことはもっともだ。カモミールも懸念材料と言えるのはそこだと思っている。
「品質を落としたらヴィアローズのブランドに泥を塗ることになって、その場合は損害賠償をして貰うという脅しを掛けておくことも効果的だと思いますよ。真面目にやってくれる気がある人でしたら、手堅くて美味しい話のはずですし」
「そ、そうね。その辺は問い合わせが来てから考えましょ。じゃあ、行ってくるわね」
キャリーは有能だが、有能であるが故か時々発想が怖い。
信頼できる相手ならカモミールも仕事を頼みたいと思うのだが、実際に会わないとわからないことも多いだろう。
様々なことを考えつつ、カモミールは錬金術ギルドへ向かう足を速めた。
工房のドアがノックされたのは、石けん作りの準備が全て整ってからしばらく経った頃だった。
「アトリエ・カモミールはこちらでしょうか?」
執事服に身を包んだ初老で品のよい男性が問いかけてくる。話したことはないが、逗留中に確かに見かけた人物だった。
「はい、こちらでございます。お待ちしておりました。馬車までお迎えに上がった方がよろしいでしょうか?」
わからないことは素直に訊くに限る。男性は少し目を細めて首を振り否定を表すと、「旦那様をご案内して参ります」とその場を離れた。カモミールたち4人が工房の前に並んで侯爵を待つと、すぐに2人の騎士を連れた侯爵とたった今先触れとしてやってきた男性が歩いてくる。
「この度はこのような場所に足をお運びいただき、光栄の至りにございます。アトリエ・カモミール従業員一同皆様を歓迎いたします。狭い工房ではございますが、心ゆくまでご覧くださいませ」
「ほう……古い工房と聞いていたが、外壁などは綺麗に塗り直されているじゃないか。今日は突然の話ですまなかったね。邪魔にならないよう仕事を拝見する」
外壁の塗りを褒められてテオが得意げにしている。確かに外観は新しく見えるが、中までは塗っていないので、結局築年数が至る所に出ている。しかしそれは侯爵にとってはあまり気にならないのだろう。
カモミールが侯爵の一行を中に案内すると、騎士のひとりが外で待機し、もうひとりが内側の入り口近くで待機した。
それでも、7人がいると工房の中はかなり圧迫感がある。しかも今日は錬金釜で石けんを作るのではなく、試作なのでテーブル上で作る。テーブルを6人で囲むとかなり狭い。
「立派な椅子ではございませんが、よろしければお掛けくださいませ。
本日は新ブランドとして展開を検討しております、新しい石けんの試作を行います。こちらがそのレシピでございます」
材料が全て決まってから清書したレシピを侯爵に差し出すと、彼は意外そうな顔でそれを受け取った。
「新製品のレシピなんてものを部外者に見せていいのかい?」
「それは石けん作りをしている者でないと価値のない情報でございます。侯爵様はそのようなものを外部に漏らされるわけがございません。制作過程をお目に掛ける際、そちらをご覧いただく方がよりご理解頂けると考えました」
カモミールの説明に、侯爵と執事は頷き合っている。そしてマシューが材料をひとつひとつ説明し、キャリーが大きめのガラス製のボウルに材料を入れていく。ココナツオイルだけは事前に温めておいたが、油脂を全部入れた時点で温度が低く、少し湯煎で温めることになった。
その間に侯爵はカモミールに向けて尋ねてくる。
「新ブランドと言ったが、これはヴィアローズで出さないと言うことかな? そうならば理由も聞きたいところだが」
「この石けんは主な購買層を労働者と設定しております。汗を掻き、汚れやすい環境で働く人たちが心地よく脂っぽさをを洗い流せるように、白粉の材料ともなるクレイを使っております。更にメインで使うオリーブオイルのグレードを落とし、ポマースオイルを主材料としております。これによって原材料費を抑え、庶民でも気軽に手に取れる価格になるよう計算いたしました。
こちらはわたくしではなく、石けん作りの熟練の技術者であるこちらのキートンと、彼の弟子に当たるブライアンの担当で、ヴィアローズとは路線が違いすぎますので新ブランドで運用したいと思っております」
「何故、労働者向けの石けんを? 利益が下がるのではないか?」
労働者が主な購買層と言うことで、侯爵はやや驚いたらしい。ヴィアローズは貴族向けであるが故に、逆に価格を低く設定することが難しい。言うならば、そちらの方を作っている方が儲かるのだ。
確かに、利益だけを追求するならば、もっと高い材料を使って付加価値のある商品を作った方がいい。
けれどマシューの石けんを知ってしまったからには、それを広めたいというのがカモミールとキャリーの一致した意見である。
カモミールはキャリーと目を合わせて微笑み、胸を張って侯爵に向かって答えた。
「それは、マーガレット様もお使いでいらっしゃる、この冷製法で作る石けんが素晴らしい物だからでございます。様々な材料を使い、使い心地を追求した石けんはマルセラ石けんの理念とは全く方向性を異にします。
ですので、この石けんは全く知られておりません。わたくしたちは、それを残念に思います。
利益も確かに大事です。ですが、より多くの人に使ってもらうことで、石けんの持つ可能性はもっともっと広いものだと知らせたい。そして、いずれは様々な石けんから自分に合う物を選べるようにしたいと思っております。
ヴィアローズのお披露目会の日程が延びたのは、冷製法で石けんを作ると熟成に時間がかかるのが理由でございました。ですが、マーガレット様は仰いました。『この石けんひとつで美容の世界に革命が起きて、石けんが生活必需品から嗜好品になる』と。
嗜好品は裕福な人のみのものではないと心得ます。ごく平凡な生活をしている人にもこの楽しみを知ってもらいたいのです」
傷の治りが早い石けん、肌の潤いを守る石けん、豊かな泡立ちでこどもたちが喜ぶような石けん――いろいろな石けんが広まればいいと、少なくともこの工房の人間は思っていた。
エノラに軟膏を渡して戻ってくると、マシューからそんな頼みをされた。どうやらレシピの検討は終わったらしく、キャリーが必死に計算をしている。
工房主がお使いとは変な話だが、石けん作りに必要な鹸化値の計算が一番速いのはキャリーだし、マシューよりはカモミールの方がお使いには向いているのは確かだ。
「わかりました。買ってくるもののリストはありますか?」
「これです。お願いします」
キャリーからさっとメモが渡される。買ってくるものはポマースオイル1リットルだけのようだ。後の材料は工房にある物で足りるのだろう。
「錬金術ギルドにあるのかな?」
「ありますよ。取扱量はそんなに多くないですけどね。もし大々的に作ることになったら、ギルドの物流網で他の都市から持ってこられるから問題ありません」
さすがは元錬金ギルドの職員だ。キャリーはつくづく頼りになる。
「ポマースオイルって、なんだっけ?」
「あのノートに書いておいたじゃろう。オリーブオイルを絞った後の皮や種に溶剤を使って抽出したオイルじゃ。食用向きじゃないから安いぞい」
マシューが「残念な弟子」を見る目をカモミールに向けてくる。
そうはいっても、あの内容が濃すぎるノートを全部憶えきれるわけがないし、身近にないオイルは名前すら憶えていないものが多い。
「キートン先生、仕方ないですよ。カモミールさんは石けん作りより他のことをやった方が、工房的にも効率いいんですから」
「そうです。私は一応は弟子ですけど、もう先生の中では末端に置いてください。一番弟子の座はキャリーさんに譲りますから。そして、もうひとりくらい弟子を取ってください」
「弟子を取りたいのはやまやまじゃがのう……ヴィアローズの石けんがもっと広まらんと、冷製法に興味を持つ者がそもそもおらんじゃろ」
マシューは相変わらず自分から弟子を取りに行く気はないらしい。そういえば、とカモミールは王都の錬金術ギルドでの話を思い出した。
「王都の錬金術ギルドの職員さんで、奥さんも生活錬金術師で石けんを作ってる人がいたので、これから話題になる石けんに興味があったら連絡くださいと言っておきました。既に固まっているレシピなら、その職人がいるだけで王都で生産可能になりますし。最初の材料費だけ渡して、後は売上金で回して貰うようにすればいいかなって」
「それで、売上金の中から一部だけこの工房に入れて貰う仕組みですね。いいと思います。品質管理が徹底できればの話ですが」
キャリーの言うことはもっともだ。カモミールも懸念材料と言えるのはそこだと思っている。
「品質を落としたらヴィアローズのブランドに泥を塗ることになって、その場合は損害賠償をして貰うという脅しを掛けておくことも効果的だと思いますよ。真面目にやってくれる気がある人でしたら、手堅くて美味しい話のはずですし」
「そ、そうね。その辺は問い合わせが来てから考えましょ。じゃあ、行ってくるわね」
キャリーは有能だが、有能であるが故か時々発想が怖い。
信頼できる相手ならカモミールも仕事を頼みたいと思うのだが、実際に会わないとわからないことも多いだろう。
様々なことを考えつつ、カモミールは錬金術ギルドへ向かう足を速めた。
工房のドアがノックされたのは、石けん作りの準備が全て整ってからしばらく経った頃だった。
「アトリエ・カモミールはこちらでしょうか?」
執事服に身を包んだ初老で品のよい男性が問いかけてくる。話したことはないが、逗留中に確かに見かけた人物だった。
「はい、こちらでございます。お待ちしておりました。馬車までお迎えに上がった方がよろしいでしょうか?」
わからないことは素直に訊くに限る。男性は少し目を細めて首を振り否定を表すと、「旦那様をご案内して参ります」とその場を離れた。カモミールたち4人が工房の前に並んで侯爵を待つと、すぐに2人の騎士を連れた侯爵とたった今先触れとしてやってきた男性が歩いてくる。
「この度はこのような場所に足をお運びいただき、光栄の至りにございます。アトリエ・カモミール従業員一同皆様を歓迎いたします。狭い工房ではございますが、心ゆくまでご覧くださいませ」
「ほう……古い工房と聞いていたが、外壁などは綺麗に塗り直されているじゃないか。今日は突然の話ですまなかったね。邪魔にならないよう仕事を拝見する」
外壁の塗りを褒められてテオが得意げにしている。確かに外観は新しく見えるが、中までは塗っていないので、結局築年数が至る所に出ている。しかしそれは侯爵にとってはあまり気にならないのだろう。
カモミールが侯爵の一行を中に案内すると、騎士のひとりが外で待機し、もうひとりが内側の入り口近くで待機した。
それでも、7人がいると工房の中はかなり圧迫感がある。しかも今日は錬金釜で石けんを作るのではなく、試作なのでテーブル上で作る。テーブルを6人で囲むとかなり狭い。
「立派な椅子ではございませんが、よろしければお掛けくださいませ。
本日は新ブランドとして展開を検討しております、新しい石けんの試作を行います。こちらがそのレシピでございます」
材料が全て決まってから清書したレシピを侯爵に差し出すと、彼は意外そうな顔でそれを受け取った。
「新製品のレシピなんてものを部外者に見せていいのかい?」
「それは石けん作りをしている者でないと価値のない情報でございます。侯爵様はそのようなものを外部に漏らされるわけがございません。制作過程をお目に掛ける際、そちらをご覧いただく方がよりご理解頂けると考えました」
カモミールの説明に、侯爵と執事は頷き合っている。そしてマシューが材料をひとつひとつ説明し、キャリーが大きめのガラス製のボウルに材料を入れていく。ココナツオイルだけは事前に温めておいたが、油脂を全部入れた時点で温度が低く、少し湯煎で温めることになった。
その間に侯爵はカモミールに向けて尋ねてくる。
「新ブランドと言ったが、これはヴィアローズで出さないと言うことかな? そうならば理由も聞きたいところだが」
「この石けんは主な購買層を労働者と設定しております。汗を掻き、汚れやすい環境で働く人たちが心地よく脂っぽさをを洗い流せるように、白粉の材料ともなるクレイを使っております。更にメインで使うオリーブオイルのグレードを落とし、ポマースオイルを主材料としております。これによって原材料費を抑え、庶民でも気軽に手に取れる価格になるよう計算いたしました。
こちらはわたくしではなく、石けん作りの熟練の技術者であるこちらのキートンと、彼の弟子に当たるブライアンの担当で、ヴィアローズとは路線が違いすぎますので新ブランドで運用したいと思っております」
「何故、労働者向けの石けんを? 利益が下がるのではないか?」
労働者が主な購買層と言うことで、侯爵はやや驚いたらしい。ヴィアローズは貴族向けであるが故に、逆に価格を低く設定することが難しい。言うならば、そちらの方を作っている方が儲かるのだ。
確かに、利益だけを追求するならば、もっと高い材料を使って付加価値のある商品を作った方がいい。
けれどマシューの石けんを知ってしまったからには、それを広めたいというのがカモミールとキャリーの一致した意見である。
カモミールはキャリーと目を合わせて微笑み、胸を張って侯爵に向かって答えた。
「それは、マーガレット様もお使いでいらっしゃる、この冷製法で作る石けんが素晴らしい物だからでございます。様々な材料を使い、使い心地を追求した石けんはマルセラ石けんの理念とは全く方向性を異にします。
ですので、この石けんは全く知られておりません。わたくしたちは、それを残念に思います。
利益も確かに大事です。ですが、より多くの人に使ってもらうことで、石けんの持つ可能性はもっともっと広いものだと知らせたい。そして、いずれは様々な石けんから自分に合う物を選べるようにしたいと思っております。
ヴィアローズのお披露目会の日程が延びたのは、冷製法で石けんを作ると熟成に時間がかかるのが理由でございました。ですが、マーガレット様は仰いました。『この石けんひとつで美容の世界に革命が起きて、石けんが生活必需品から嗜好品になる』と。
嗜好品は裕福な人のみのものではないと心得ます。ごく平凡な生活をしている人にもこの楽しみを知ってもらいたいのです」
傷の治りが早い石けん、肌の潤いを守る石けん、豊かな泡立ちでこどもたちが喜ぶような石けん――いろいろな石けんが広まればいいと、少なくともこの工房の人間は思っていた。
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