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94 お行儀悪く、楽しく
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お披露目会の晩は、その成功を祝して関係者だけの晩餐会が催された。
侯爵夫人以外はクリスティンとカモミール、そしてタマラとヴァージルだけという「晩餐会」らしくない平民だらけの顔ぶれである。
労いの場らしく、侯爵夫人が「形式張らないように」と気を配った結果、立食形式であちこちに移動しながら好きな物を食べるようになっている。豪華な食事は5人分とは考えられないほど用意してあったが、これは残った分は後で使用人たちに回されるという。
結局、全てが侯爵夫人のあらゆる方面への気配りの結果だった。
普通の晩餐と違う点がいくつかあるようだが、ひとつは妙に目立っている――屋台でよく見られる薄焼きパンが何枚も積んであるところだ。
不思議そうな顔をするカモミールに、侯爵夫人は少女のようにはにかんで意外なことを打ち明けてくれた。
「船の中でミリーが屋台の話をしてくれたでしょう? 私も興味が湧いてしまって、行ってみたくなったのよ。でも今は王都に貴族が多い社交シーズンだから、どこで誰に顔を見られるかわからなくて、お忍びもなかなか難しくて、ね。
それで料理長に相談したら、このように用意してくれたの。このパンでいろんな食材を包んで食べるのですって?」
「はい、煮込んだ豆やお肉もですが、果物とカッテージチーズを載せて蜂蜜を掛けた物もとても美味しくて、私は屋台では必ず食べております」
「私はあまり屋台は行きませんが……ふふ、屋台と言うには他の料理が立派ですこと。やはり侯爵家の方にお出しする格を下げるわけにはいかなかったのでしょうね。それでも、よく見れば薄焼きパンと合わせやすいように既に切ってあるものばかり。
たまにはよろしいと思いますわ、屋台気分は味わえるかと。ジョナス様やアナベル様もきっとお気に召しますわ」
平民とはいえ商団主のクリスティンは屋台へはあまり行かないらしい。彼女は平民ではあるが使用人がいる家に住む上流の富裕層だ。屋台は基本的に「忙しくて家で食事を作るのが難しい」「独身なので家で料理などしない」労働階級の人々が利用するものである。
そして、カモミールとヴァージルとタマラはそこにぴたりと該当する人間だった。
「マーガレット様、この薄焼きパンに好きな具材を載せて、お好みでしたら削ったチーズや溶かしたチーズを掛けたり、マッシュポテトにグレイビーソースを掛けたりして、歩きながら気軽に食べる物なのです。手をあまり汚さずにお肉もパンも一度に食べることができて、ある意味合理的と言えるかと思います」
「雨が降っていなければ、街のあちこちにある広場に屋台が並びますわ。祭りの時などには広場の縁を屋台がぐるりと埋め尽くして、ベンチや噴水の縁に腰掛けて片手にビールを持って片手にこの薄焼きパンを持って食べる人々で溢れかえります」
タマラはとても楽しそうだった。彼女の敬愛する侯爵夫人とこのような場で席を同じくし、庶民の文化である屋台に興味を持って貰えているのが嬉しいのだろう。
「とても楽しそうだわ。好きな物を好きなように注文して、片手にお酒を持っていただくなんて……うふふ、お行儀は悪いけど今夜は同じことをしましょう。ミリーのお披露目会は成功したのだし、そのために私も頑張ったわ。等しくご褒美を受け取ってもいいわよね」
カモミールはついクスリと笑った。屋台風の食事が「ご褒美」とは、いかにも上流貴族で好奇心旺盛な彼女らしい。
「社交シーズンでなければ、侯爵夫人は屋台に行ってみたいとお思いなのでしょうか?」
ヴァージルが興味深そうに尋ねている。確かに「社交シーズンだから、どこで誰に顔を見られるかわからない」と言うのが理由ならば、オフシーズンなら挑戦してみたいと言っているようにも取れる。
「そうね、でも私がひとりで外出するのは無理よ。お忍びでも護衛が変装してぞろぞろ付いてくるわね。そうだわ、ヴァージルにお化粧を頼んだら、私だとわからないようにして貰えるのではなくて?」
「いつでもお命じください。微力を尽くします」
ヴァージルが大げさにも見える礼をしたので、侯爵夫人とクリスティンが笑う。
「さあ、料理が冷めないうちにいただきましょう。――あら、よく考えると冷めてもいいのかしら。それもひとつの味わい方よね? まずはみんなグラスを持って」
白ワインが満たされたグラスをそれぞれが持ち、胸の辺りに掲げる。それを確認してから、何かを振り切ったように侯爵夫人は楽しげにグラスを掲げて声を張り上げた。
「みんな、よく頑張ったわ。これからのヴィアローズの成功とジェンキンス侯爵領の発展、そしてクリスティン商団の成功もタマラとヴァージルのお仕事もうまくいくように祈って、かんぱーい!」
「乾杯!」
乾杯、の掛け声でそれぞれがグラスを傾ける。軽めで少し辛口の白ワインは爽やかな喉越しで食事の始まりに相応しい。カモミールは一気に飲みたいのを堪えて半分でグラスを下ろしたが、意外なことに侯爵夫人が勢いよく一息でワインを飲み干していた。
「ああ、楽しい! お行儀悪く食べましょう! うふふふふ、こういうことをしてみたかったの!」
「なるほど……晩餐の場に侯爵夫人以外は貴族がいない……確かに、こんな機会は他にはありませんわね」
侯爵夫人の振る舞いを納得したようにクリスティンは頷いている。カモミールはさりげなく室内を見渡し、イザベラがいないことを確かめた。給仕は見覚えのない使用人しかおらず、このタウンハウスに勤めている人たちらしい。
「それでは、屋台らしくいただきます」
料理長も「格式を保ちつつ」「屋台らしく」なるように工夫を凝らしたのだろう。断面の美しいローストビーフが既に切られて積まれており、その横には黒いソースやグレイビーソースとおぼしき茶色いソースが置かれている。
肉汁から作られてたっぷりと肉のうまみが詰まっているグレイビーソースは、やはりジャガイモに合わせるのが最高だとカモミールは思っている。ワイングラスをテーブルに一度置いて、薄焼きパンの上にローストビーフを載せ、その上にマッシュポテトを載せてからたっぷりとグレイビーソースを掛ける。それをくるりと巻いて折りたたみ、汁がこぼれないようにして持った。
ふと気づくと、侯爵夫人がカモミールの手元をきらきらとした目で見つめていた。その表情があまりにもジョナスに似ていたので、思わずカモミールは手にしている巻いたパンを侯爵夫人に差し出していた。
「あら、私にくれるの? そうやっていろいろ載せるのねと思って見ていたのだけれど」
「し、失礼いたしました。マーガレット様の楽しみを奪うようなことをいたしてしまい……」
我に返って謝罪しかけたが、侯爵夫人は好奇心を隠しきれない表情でさっとカモミールの手からパンを受け取っている。
「いえ、これをお手本と思って食べてみるわ。私では何をどのくらい掛けたら美味しいのか、見当も付かないのだもの」
カモミールがドキドキしながら見つめる前で、侯爵夫人は薄焼きパンの端をささやかにかじった。当然、具のある部分までは届いていない。
食べ方が違いますと言いかけ躊躇しているカモミールの隣で、ヴァージルが酢キャベツとソーセージをパンで巻いた物に大口でかぶりついていた。こちらはいつも通りの遠慮ない食べ方で、けれど口の周りを汚したりはしていないので綺麗に見える。
「マーガレット様、このように普段されない大胆な食べ方をされるとより楽しいと思いますわ」
カモミールではなくタマラがヴァージルを指し示し、これがお手本だと言わんばかりに更にヴァージルが一口食べている。
その食べ方を見て、侯爵夫人は呆気にとられたようにしていた。手にパンを持ったまま、初めて大道芸人を見たこどものように動きが止まっている。
「ヴァージル……あなた、そんなに口が開くのね?」
今まで誰もが思っても言わなかったであろうことを、とうとう侯爵夫人が言った。
「ウフ……ごほっ!」
「んふっ……失礼しました」
今まで「そう思っていたけど言ったことはなかった」カモミールとタマラはそれぞれ堪えきれずに吹き出し、ヴァージルにジト目で睨まれていた。
ヴァージルは口の中の物を飲み込んでから、「大口なんて開けていません」と言わんばかりの品の良い笑顔で頷く。
「はい、屋台の物はこのように食べるのが作法と存じております。あまりゆっくり食べておりますとパンに汁が染みてきて破れたりいたしますので」
「パンに汁が染みて……そうね! それもそうだわ! 口を大きく開けて食べなければならない理由があるのね」
ヴァージルに言いくるめられた侯爵夫人が、目を閉じるくらいの勢いで口を開け、カモミールの作ったパンにかぶりつく。行儀悪く口いっぱいに食べ物を頬張るなど彼女にとっては初めての経験なのだろう。必死に口を動かしている侯爵夫人をカモミールはハラハラと見ていた。
「んっ……美味しいわ。別々で食べるのももちろん美味しいけれど、一度に口に入れたときにしか味わえない美味しさね」
空になったグラスに乾杯の時と同じワインを注がせ、侯爵夫人はそれもまた上機嫌でぐいぐいと飲み干す。
それを見てカモミールはやっと胸をなで下ろした。もう一度同じ物を作って、それをパクリと食べる。こちらはヴァージルほどの大口は開けていない。自分が食べやすい大きさという物はさすがにカモミールも把握している。
屋台でいつも食べるパンは乾燥しがちだが、このパンは柔らかい。薄く切られたローストビーフも屋台ではまず味わえないものだし、マッシュポテトとグレイビーソースがとてもよく合った。
思わず笑顔になりながら、左手にワインを持ってそれを飲みつつパンを食べる。
次は赤ワインを注いでもらい、パンは使わずに皿を使って厚めに切られたステーキを食べた。
「あら、パンを使わなくてもいいの?」
「はい、パンを毎回食べるとすぐにお腹がいっぱいになってしまいますので。屋台ではこういったお肉を4つほど串に刺して、歩きながらでも食べやすいようにして売られているのです」
「それが前にミリーが言っていた『串焼き3本』のことなのね! このお皿のお肉を串に刺し直して持ってきてちょうだい。私も串で食べてみたいわ」
給仕をしていた侍女がすぐに言われたとおりに皿を持って下がる。厨房は混乱するだろうなあと思うとカモミールは思わず遠い目になった。
「今日は……いつになくマーガレット様が……」
思わずクリスティンの側に寄って小声で話し掛けると、クリスティンも小さく頷く。
「昨日王妃陛下にお会いした上、今日はお披露目会だったのだもの。侯爵夫人もさすがにお疲れになったのよ、精神的に」
「とても……よくわかりました」
侯爵邸での礼儀作法の特訓を終えて帰宅した日、同じようなことをしたカモミールである。侯爵夫人の行動はあまりにも腑に落ちた。
「だから、私たちも遠慮なくいただきましょう? それが侯爵夫人への労いになるのですからね」
「そうですね。楽しく、そしてお行儀悪くいただきましょう」
クリスティンとカモミールは笑い交わして、それぞれグラスを手に料理とデザートを存分に楽しんだのだった。
侯爵夫人以外はクリスティンとカモミール、そしてタマラとヴァージルだけという「晩餐会」らしくない平民だらけの顔ぶれである。
労いの場らしく、侯爵夫人が「形式張らないように」と気を配った結果、立食形式であちこちに移動しながら好きな物を食べるようになっている。豪華な食事は5人分とは考えられないほど用意してあったが、これは残った分は後で使用人たちに回されるという。
結局、全てが侯爵夫人のあらゆる方面への気配りの結果だった。
普通の晩餐と違う点がいくつかあるようだが、ひとつは妙に目立っている――屋台でよく見られる薄焼きパンが何枚も積んであるところだ。
不思議そうな顔をするカモミールに、侯爵夫人は少女のようにはにかんで意外なことを打ち明けてくれた。
「船の中でミリーが屋台の話をしてくれたでしょう? 私も興味が湧いてしまって、行ってみたくなったのよ。でも今は王都に貴族が多い社交シーズンだから、どこで誰に顔を見られるかわからなくて、お忍びもなかなか難しくて、ね。
それで料理長に相談したら、このように用意してくれたの。このパンでいろんな食材を包んで食べるのですって?」
「はい、煮込んだ豆やお肉もですが、果物とカッテージチーズを載せて蜂蜜を掛けた物もとても美味しくて、私は屋台では必ず食べております」
「私はあまり屋台は行きませんが……ふふ、屋台と言うには他の料理が立派ですこと。やはり侯爵家の方にお出しする格を下げるわけにはいかなかったのでしょうね。それでも、よく見れば薄焼きパンと合わせやすいように既に切ってあるものばかり。
たまにはよろしいと思いますわ、屋台気分は味わえるかと。ジョナス様やアナベル様もきっとお気に召しますわ」
平民とはいえ商団主のクリスティンは屋台へはあまり行かないらしい。彼女は平民ではあるが使用人がいる家に住む上流の富裕層だ。屋台は基本的に「忙しくて家で食事を作るのが難しい」「独身なので家で料理などしない」労働階級の人々が利用するものである。
そして、カモミールとヴァージルとタマラはそこにぴたりと該当する人間だった。
「マーガレット様、この薄焼きパンに好きな具材を載せて、お好みでしたら削ったチーズや溶かしたチーズを掛けたり、マッシュポテトにグレイビーソースを掛けたりして、歩きながら気軽に食べる物なのです。手をあまり汚さずにお肉もパンも一度に食べることができて、ある意味合理的と言えるかと思います」
「雨が降っていなければ、街のあちこちにある広場に屋台が並びますわ。祭りの時などには広場の縁を屋台がぐるりと埋め尽くして、ベンチや噴水の縁に腰掛けて片手にビールを持って片手にこの薄焼きパンを持って食べる人々で溢れかえります」
タマラはとても楽しそうだった。彼女の敬愛する侯爵夫人とこのような場で席を同じくし、庶民の文化である屋台に興味を持って貰えているのが嬉しいのだろう。
「とても楽しそうだわ。好きな物を好きなように注文して、片手にお酒を持っていただくなんて……うふふ、お行儀は悪いけど今夜は同じことをしましょう。ミリーのお披露目会は成功したのだし、そのために私も頑張ったわ。等しくご褒美を受け取ってもいいわよね」
カモミールはついクスリと笑った。屋台風の食事が「ご褒美」とは、いかにも上流貴族で好奇心旺盛な彼女らしい。
「社交シーズンでなければ、侯爵夫人は屋台に行ってみたいとお思いなのでしょうか?」
ヴァージルが興味深そうに尋ねている。確かに「社交シーズンだから、どこで誰に顔を見られるかわからない」と言うのが理由ならば、オフシーズンなら挑戦してみたいと言っているようにも取れる。
「そうね、でも私がひとりで外出するのは無理よ。お忍びでも護衛が変装してぞろぞろ付いてくるわね。そうだわ、ヴァージルにお化粧を頼んだら、私だとわからないようにして貰えるのではなくて?」
「いつでもお命じください。微力を尽くします」
ヴァージルが大げさにも見える礼をしたので、侯爵夫人とクリスティンが笑う。
「さあ、料理が冷めないうちにいただきましょう。――あら、よく考えると冷めてもいいのかしら。それもひとつの味わい方よね? まずはみんなグラスを持って」
白ワインが満たされたグラスをそれぞれが持ち、胸の辺りに掲げる。それを確認してから、何かを振り切ったように侯爵夫人は楽しげにグラスを掲げて声を張り上げた。
「みんな、よく頑張ったわ。これからのヴィアローズの成功とジェンキンス侯爵領の発展、そしてクリスティン商団の成功もタマラとヴァージルのお仕事もうまくいくように祈って、かんぱーい!」
「乾杯!」
乾杯、の掛け声でそれぞれがグラスを傾ける。軽めで少し辛口の白ワインは爽やかな喉越しで食事の始まりに相応しい。カモミールは一気に飲みたいのを堪えて半分でグラスを下ろしたが、意外なことに侯爵夫人が勢いよく一息でワインを飲み干していた。
「ああ、楽しい! お行儀悪く食べましょう! うふふふふ、こういうことをしてみたかったの!」
「なるほど……晩餐の場に侯爵夫人以外は貴族がいない……確かに、こんな機会は他にはありませんわね」
侯爵夫人の振る舞いを納得したようにクリスティンは頷いている。カモミールはさりげなく室内を見渡し、イザベラがいないことを確かめた。給仕は見覚えのない使用人しかおらず、このタウンハウスに勤めている人たちらしい。
「それでは、屋台らしくいただきます」
料理長も「格式を保ちつつ」「屋台らしく」なるように工夫を凝らしたのだろう。断面の美しいローストビーフが既に切られて積まれており、その横には黒いソースやグレイビーソースとおぼしき茶色いソースが置かれている。
肉汁から作られてたっぷりと肉のうまみが詰まっているグレイビーソースは、やはりジャガイモに合わせるのが最高だとカモミールは思っている。ワイングラスをテーブルに一度置いて、薄焼きパンの上にローストビーフを載せ、その上にマッシュポテトを載せてからたっぷりとグレイビーソースを掛ける。それをくるりと巻いて折りたたみ、汁がこぼれないようにして持った。
ふと気づくと、侯爵夫人がカモミールの手元をきらきらとした目で見つめていた。その表情があまりにもジョナスに似ていたので、思わずカモミールは手にしている巻いたパンを侯爵夫人に差し出していた。
「あら、私にくれるの? そうやっていろいろ載せるのねと思って見ていたのだけれど」
「し、失礼いたしました。マーガレット様の楽しみを奪うようなことをいたしてしまい……」
我に返って謝罪しかけたが、侯爵夫人は好奇心を隠しきれない表情でさっとカモミールの手からパンを受け取っている。
「いえ、これをお手本と思って食べてみるわ。私では何をどのくらい掛けたら美味しいのか、見当も付かないのだもの」
カモミールがドキドキしながら見つめる前で、侯爵夫人は薄焼きパンの端をささやかにかじった。当然、具のある部分までは届いていない。
食べ方が違いますと言いかけ躊躇しているカモミールの隣で、ヴァージルが酢キャベツとソーセージをパンで巻いた物に大口でかぶりついていた。こちらはいつも通りの遠慮ない食べ方で、けれど口の周りを汚したりはしていないので綺麗に見える。
「マーガレット様、このように普段されない大胆な食べ方をされるとより楽しいと思いますわ」
カモミールではなくタマラがヴァージルを指し示し、これがお手本だと言わんばかりに更にヴァージルが一口食べている。
その食べ方を見て、侯爵夫人は呆気にとられたようにしていた。手にパンを持ったまま、初めて大道芸人を見たこどものように動きが止まっている。
「ヴァージル……あなた、そんなに口が開くのね?」
今まで誰もが思っても言わなかったであろうことを、とうとう侯爵夫人が言った。
「ウフ……ごほっ!」
「んふっ……失礼しました」
今まで「そう思っていたけど言ったことはなかった」カモミールとタマラはそれぞれ堪えきれずに吹き出し、ヴァージルにジト目で睨まれていた。
ヴァージルは口の中の物を飲み込んでから、「大口なんて開けていません」と言わんばかりの品の良い笑顔で頷く。
「はい、屋台の物はこのように食べるのが作法と存じております。あまりゆっくり食べておりますとパンに汁が染みてきて破れたりいたしますので」
「パンに汁が染みて……そうね! それもそうだわ! 口を大きく開けて食べなければならない理由があるのね」
ヴァージルに言いくるめられた侯爵夫人が、目を閉じるくらいの勢いで口を開け、カモミールの作ったパンにかぶりつく。行儀悪く口いっぱいに食べ物を頬張るなど彼女にとっては初めての経験なのだろう。必死に口を動かしている侯爵夫人をカモミールはハラハラと見ていた。
「んっ……美味しいわ。別々で食べるのももちろん美味しいけれど、一度に口に入れたときにしか味わえない美味しさね」
空になったグラスに乾杯の時と同じワインを注がせ、侯爵夫人はそれもまた上機嫌でぐいぐいと飲み干す。
それを見てカモミールはやっと胸をなで下ろした。もう一度同じ物を作って、それをパクリと食べる。こちらはヴァージルほどの大口は開けていない。自分が食べやすい大きさという物はさすがにカモミールも把握している。
屋台でいつも食べるパンは乾燥しがちだが、このパンは柔らかい。薄く切られたローストビーフも屋台ではまず味わえないものだし、マッシュポテトとグレイビーソースがとてもよく合った。
思わず笑顔になりながら、左手にワインを持ってそれを飲みつつパンを食べる。
次は赤ワインを注いでもらい、パンは使わずに皿を使って厚めに切られたステーキを食べた。
「あら、パンを使わなくてもいいの?」
「はい、パンを毎回食べるとすぐにお腹がいっぱいになってしまいますので。屋台ではこういったお肉を4つほど串に刺して、歩きながらでも食べやすいようにして売られているのです」
「それが前にミリーが言っていた『串焼き3本』のことなのね! このお皿のお肉を串に刺し直して持ってきてちょうだい。私も串で食べてみたいわ」
給仕をしていた侍女がすぐに言われたとおりに皿を持って下がる。厨房は混乱するだろうなあと思うとカモミールは思わず遠い目になった。
「今日は……いつになくマーガレット様が……」
思わずクリスティンの側に寄って小声で話し掛けると、クリスティンも小さく頷く。
「昨日王妃陛下にお会いした上、今日はお披露目会だったのだもの。侯爵夫人もさすがにお疲れになったのよ、精神的に」
「とても……よくわかりました」
侯爵邸での礼儀作法の特訓を終えて帰宅した日、同じようなことをしたカモミールである。侯爵夫人の行動はあまりにも腑に落ちた。
「だから、私たちも遠慮なくいただきましょう? それが侯爵夫人への労いになるのですからね」
「そうですね。楽しく、そしてお行儀悪くいただきましょう」
クリスティンとカモミールは笑い交わして、それぞれグラスを手に料理とデザートを存分に楽しんだのだった。
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