上 下
8 / 42
第一章 十年ぶりの母の帰宅と驚愕の真実

しおりを挟む
 暖かな光が窓から射しこむうららかな午後。

 居間に置かれた布張りのソファーに深々と腰かけて、エミリアは湯気を立てる紅茶の芳しい香りを、胸いっぱいに吸いこむ。

 紅茶はもちろん大好きなミルクティー。
 横には母の手作りのお菓子も添えられており、その母ももちろん、向かいの席に座って、にこにこと微笑んでいる。

 その日の午後のひと時は、エミリアがこの十年間、密かに心の中で思い描いてきた理想のティータイム――まさにそのものだった。

 しかし残念なことに、その時のエミリアは、とても落ち着いて今の状況を楽しんでいられるような精神状態ではなかった。

 母の思いがけない姿を目撃し、その場はともかく何も言わず、黙って家まで帰ってきたが、その道中、アウレディオと母との間で交わされたのは、「元気だった?」とか、「俺、今庭師の仕事をしてるんだ」とか、あまりにも普通の会話。

「お母さん! 家に帰ったら、絶対にきちんと説明してもらいます!」とはじめは息巻いていたエミリア自身も、目にした光景のあまりの荒唐無稽さに、いったい何から聞いていいのかがわからなくなってしまった。

 花柄のカップを膝に置いたたまま、少し困ったように上目遣いでエミリアの顔を見つめている母は、どうやら自分から話を切り出すつもりはないようだ。

(このままじゃ埒があかないよね……)

 紅茶をいっきに飲み干して自分を奮い立たせ、エミリアはついに口を開いた。

「お母さん! ……さっきのことなんだけどね!」

 パッと花咲くように笑った母は、エミリアに向かって心持ち体を乗りだし、その先をどうぞと言わんばかりにこくこくと頷く。

「あの、あのう……そのね……」

 しかしその先何と言っていいのかが、エミリアにもわからない。

(まさか自分を生んでくれた母親に向かって、「お母さんって、天使なの?」はないでしょう……)

 だからといって、他に何と聞いたらいいのだろう。

(こういう時こそ、ディオが助け舟を出してくれるといいんだけど……)

 隣に座るアウレディオに視線を向けてみても、さっきからずっと知らん顔して紅茶を飲んでいるだけ。

(もうっ!)

 当てにならない幼馴染にはさっさと見切りをつけて、エミリアはなんとか自分で、当り障りのない言葉を探しだした。

「さっきの羽……ほんものなの?」

 母は宝石のように綺麗な翠色の瞳を真っ直ぐにエミリアに向けたまま、こっくりと頷いた。

「お母さんの背中から生えてるの?」

 またもこっくり。

「それって……お母さんは人間じゃないってこと?」

 母はもう一度しっかりと頷き返してくれたが、その笑顔はどことなく寂しそうにも見えた。

「お父さんはこのこと知ってるの?」

 母の笑顔はもっと寂しそうになる。
 けれどエミリアのその質問にも、確かに肯定の意味で頷き返してくれた。

「そうか……」

 ただただエミリアを見つめ続ける母の表情は少女のように儚げで、まるでこれ以上何かを言ったら、泣きだしてしまいそうだった。
 同じことをアウレディオも思ったらしく、紅茶を飲む格好はそのままに、エミリアに視線だけで、(もう止めろ)と命令してくる。

(ディオに言われなくたってわかってる……だって私はお母さんの娘なんだから……!)

 同じく視線だけで言い返すと、エミリアはせいいっぱい声の調子を明るくして、母に向き直った。

「じゃあ、もういいや。お母さんが私のお母さんであることには変わりはないんだし。うん、もういいよ」

 見る見るうちに母の大きな瞳から涙が零れ落ちた。
 感極まってソファーから立ち、エミリアに駆け寄ってくる。
 首に縋りつくように両腕を回して、栗色の頭を抱きしめた。

「ごめんね、エミリア……黙っててごめんね。寂しい思いさせてごめんね……」

 母の華奢な腕にぎゅっと抱かれながら、エミリアはぼんやりと、この十年間のことを思い出していた。




 十年前のあの日、まさに忽然と姿を消してしまった母を、エミリアは恨んだり、嫌いになったりはしなかった。

 それは、いつになっても変わらず母を大好きな父と暮らしていたからだったし、アウレディオやフィオナのような小さな頃からの友だちが、母との思い出をエミリアと一緒に、宝物のように大事にしてくれたから――。

 母を思い出す時は、悲しいよりも寂しいよりも先に、温かく優しい気持ちになる。
 それはきっと、今でもずっと変わらず、エミリアだって母を大好きだからだ。

(ああ、お母さんが帰ってきたんだなぁ……)
 細い腕に抱かれていると、そのことを改めて実感する。

 涙が溢れてきた。
 普段は人前で泣いたりなどしないのに。
 今は、子供のように泣いてしまっても優しく頭を撫でてくれる人がすぐ傍にいる――そのことがとてつもなく嬉しかった。
しおりを挟む

あなたにおすすめの小説

断る――――前にもそう言ったはずだ

鈴宮(すずみや)
恋愛
「寝室を分けませんか?」  結婚して三年。王太子エルネストと妃モニカの間にはまだ子供が居ない。  周囲からは『そろそろ側妃を』という声が上がっているものの、彼はモニカと寝室を分けることを拒んでいる。  けれど、エルネストはいつだって、モニカにだけ冷たかった。  他の人々に向けられる優しい言葉、笑顔が彼女に向けられることない。 (わたくし以外の女性が妃ならば、エルネスト様はもっと幸せだろうに……)  そんな時、侍女のコゼットが『エルネストから想いを寄せられている』ことをモニカに打ち明ける。  ようやく側妃を娶る気になったのか――――エルネストがコゼットと過ごせるよう、私室で休むことにしたモニカ。  そんな彼女の元に、護衛騎士であるヴィクトルがやってきて――――?

「あなたのことはもう忘れることにします。 探さないでください」〜 お飾りの妻だなんてまっぴらごめんです!

友坂 悠
恋愛
あなたのことはもう忘れることにします。 探さないでください。 そう置き手紙を残して妻セリーヌは姿を消した。 政略結婚で結ばれた公爵令嬢セリーヌと、公爵であるパトリック。 しかし婚姻の初夜で語られたのは「私は君を愛することができない」という夫パトリックの言葉。 それでも、いつかは穏やかな夫婦になれるとそう信じてきたのに。 よりにもよって妹マリアンネとの浮気現場を目撃してしまったセリーヌは。 泣き崩れ寝て転生前の記憶を夢に見た拍子に自分が生前日本人であったという意識が蘇り。 もう何もかも捨てて家出をする決意をするのです。 全てを捨てて家を出て、まったり自由に生きようと頑張るセリーヌ。 そんな彼女が新しい恋を見つけて幸せになるまでの物語。

愛する義兄に憎まれています

ミカン♬
恋愛
自分と婚約予定の義兄が子爵令嬢の恋人を両親に紹介すると聞いたフィーナは、悲しくて辛くて、やがて心は闇に染まっていった。 義兄はフィーナと結婚して侯爵家を継ぐはずだった、なのにフィーナも両親も裏切って真実の愛を貫くと言う。 許せない!そんなフィーナがとった行動は愛する義兄に憎まれるものだった。 2023/12/27 ミモザと義兄の閑話を投稿しました。 ふわっと設定でサクっと終わります。 他サイトにも投稿。

【完結】もう辛い片想いは卒業して結婚相手を探そうと思います

ユユ
恋愛
大家族で大富豪の伯爵家に産まれた令嬢には 好きな人がいた。 彼からすれば誰にでも向ける微笑みだったが 令嬢はそれで恋に落ちてしまった。 だけど彼は私を利用するだけで 振り向いてはくれない。 ある日、薬の過剰摂取をして 彼から離れようとした令嬢の話。 * 完結保証付き * 3万文字未満 * 暇つぶしにご利用下さい

伝える前に振られてしまった私の恋

メカ喜楽直人
恋愛
母に連れられて行った王妃様とのお茶会の席を、ひとり抜け出したアーリーンは、幼馴染みと友人たちが歓談する場に出くわす。 そこで、ひとりの令息が婚約をしたのだと話し出した。

慰み者の姫は新皇帝に溺愛される

苺野 あん
恋愛
小国の王女フォセットは、貢物として帝国の皇帝に差し出された。 皇帝は齢六十の老人で、十八歳になったばかりのフォセットは慰み者として弄ばれるはずだった。 ところが呼ばれた寝室にいたのは若き新皇帝で、フォセットは花嫁として迎えられることになる。 早速、二人の初夜が始まった。

どうやら夫に疎まれているようなので、私はいなくなることにします

文野多咲
恋愛
秘めやかな空気が、寝台を囲う帳の内側に立ち込めていた。 夫であるゲルハルトがエレーヌを見下ろしている。 エレーヌの髪は乱れ、目はうるみ、体の奥は甘い熱で満ちている。エレーヌもまた、想いを込めて夫を見つめた。 「ゲルハルトさま、愛しています」 ゲルハルトはエレーヌをさも大切そうに撫でる。その手つきとは裏腹に、ぞっとするようなことを囁いてきた。 「エレーヌ、俺はあなたが憎い」 エレーヌは凍り付いた。

婚約者に消えろと言われたので湖に飛び込んだら、気づけば三年が経っていました。

束原ミヤコ
恋愛
公爵令嬢シャロンは、王太子オリバーの婚約者に選ばれてから、厳しい王妃教育に耐えていた。 だが、十六歳になり貴族学園に入学すると、オリバーはすでに子爵令嬢エミリアと浮気をしていた。 そしてある冬のこと。オリバーに「私の為に消えろ」というような意味のことを告げられる。 全てを諦めたシャロンは、精霊の湖と呼ばれている学園の裏庭にある湖に飛び込んだ。 気づくと、見知らぬ場所に寝かされていた。 そこにはかつて、病弱で体の小さかった辺境伯家の息子アダムがいた。 すっかり立派になったアダムは「あれから三年、君は目覚めなかった」と言った――。

処理中です...