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3.不安

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 時刻はとっくに夜の七時を過ぎていた。
 
 リビングのソファーに座ったまま、テレビを見るでもなく、ただただ木製の小さな置き時計とにらめっこしている私に、キッチンからママが声をかける。
 
「それにしても遅いわね……いつもならとっくに帰ってきてる時間なのに……」
 
 二時間前から幾度となく心の中でくり返していた思いを、そっくりそのまま言葉にされたから、私はついに決意を固めた。
 
 海里にだって自由な時間は必要だからとか。
 私がとやかく言うようなことではないからとか。
 必死で自分に言い聞かせていた無駄な努力をやめて、スマホを手に取る。
 
 緊急の時以外は使わないようにしようと、これまで一度も自分からは連絡したことになかったた海里に、ドキドキしながら電話した。
 
 たっぷりと十回以上のコールを数えてから、なんとも呑気な声が聞こえてくる。

「もしもし……?」
 
(ああよかった……どこかで急に具合が悪くなったわけじゃなかったんだ……!)
 
 瞬間的に心に浮かんだ安堵の思いをふり払うかのように、必要以上に気あいの入った声で怒鳴ってやった。

「遅いっ!」
 
 こっちは怒っているというのにまるで悪びれない飄々としたいつもの顔が、携帯の向こうに見えるような気がするから、尚更声を荒げる。
 
「家に帰ってくるのも……電話に出るのも……どっちも遅すぎるっ! 夕飯、ちゃんとうちで食べるのか。それともいらないのか。聞いてみろってママが言ってるんだけど……!」
 
 くすりと海里が笑った気配がした。
 あまりにも耳元近くに息遣いを感じて、不覚にもドキリとする。
 
「ごめん。すぐ帰る。だからご飯も家で食べます……」
 
 これ以上会話を続けていると、本来の目的も忘れて、『このまま切りたくないな』なんて乙女思考モードに入っていきそうだ。
 
 そんな自分が嫌で、思いっきりぶっきらぼうに電話を切った。

「わかったっ!」
 
 電話の向こうで大笑いを始めた海里の声が、聞こえるはずもないのに、やっぱり聞こえてくるような気がした。



 
 陸兄が海里に持たせたスマホは、海里を束縛するための道具ではない。
 あくまでも具合が悪くなった時に、すぐに私たちと連絡を取るためのものだ。
 
 だからこちらから電話をかけるのはなんだかルール違反な気がしたし、何かに負けたようで、これまで極力やりたくなかった。
 
 何に負けたのかと考えてみれば――海里への恋心とか、嫉妬心とか、なんとも面白くない答えしか浮かんでこない。
 
 他の女の子に会いに行っている海里の帰りを、毎日今か今かと待っている不毛な想いを、自分自身で肯定してしまうようで、なるべくならやりたくなかった。
 
(あーあ……なんで私、こんなどうしようもないことやってんだろ……)
 
 きっかけは何だったのかとか。
 いったいいつから好きだったのかとか。
 答えられるような想いではないから、尚更厄介だ。



 
「ねえ……帰ってくるって言ったのよね……? それにしちゃあ遅くない……?」
 
 平静を装ってテレビをつけてはみたものの、放送されている内容はまったく上の空。
 
 イライラする気持ちを落ち着けようと、手にしたクッションを自分が座っているのとは反対側のソファーに投げるのにも、我知らず次第に力がこもって。
 
 いつの間にか立ち上がって、部屋の中を行ったり来たりとし始めていた私を見かねて、ママが恐る恐る尋ねてきた。
 
 顔にかかった長い髪をふり払うようにして、キッチンに向かって敢然と顔を上げる。
 
「確かに『すぐ帰る』って言ったのよ! まったく信じられないわ……あのバカ!」
 
 時刻はとっくに九時を過ぎていた。
 
 どんなに遠くまで行っていたとしても、『すぐ帰る』と宣言した以上は、そろそろ帰り着いていなければさすがにおかしい。
 ひしひしと迫りくる嫌な予感を必死にふり払おうと、私は怒りの感情のほうを大きくする。
 
「どこで道草したらこんなに時間がかかるわけ? 子供じゃないんだから……それとも子供なの? 体だけ大きくなっても、中身のほうはまだまだ小学生並み?」
 
 次第に大きくなる不安をうち消すかのように、声を荒げる私をママが宥めにかかる。
 
「きっと大丈夫よ……ね、ひとみ……」
 
(どうせ私の複雑な思いぐらい……きっとママにはお見通しだ……それもこれも全部、海里のせい!)
 
 そんなことを思った時、家の前に車が止まった音がした。
 
(タクシーを使った海里が、ようやく帰ってきたんだ!)

 なんて頭で考える前に、私の体はもう玄関に向かって駆けだしていた。



 
 何かがおかしいと思ったのは、本来なら運転席に座ったままで後部座席の自動扉を開閉する運転手さんが、わざわざ車から降りて、海里が乗っているらしい後部座席を外から覗きこんでいたからだった。
 玄関から出てきた私の姿を見ると、ホッとしたように頭を下げる。

「どうやら具合が悪いらしいんですが……」
 
 靴を履くのももどかしいくらいの気持ちでタクシーに駆け寄り、急いで後部座席に横たわる海里の姿を確かめた。
 
 かなり顔色が悪かった。
 汗をびっしょりかいて、肩で大きく息をくり返している。
 
(どうしてこんなになるまで連絡してこないのよ!)
 
 喉までせり上がって来た叫びを飲みこんで、私は、背後で困ったようにウロウロしている運転手さんをふり返った。
 
「このまま病院までお願いします! すぐに準備してきます!」
 
 救急車を呼ぶよりも、もうそのほうが早いと思った。
 
 ママにひと言言ってこようと駆けだす私に、海里が苦しい息の下から小さな声を絞りだす。

「ごめん……ひとみちゃん……」
 
(謝るくらいなら無茶しないで! すぐに連絡して!)

 心のままに言葉を紡ぎだしたら、一緒に涙まで溢れてしまいそうだったので、海里には背を向けたまま、一言だけ叫んだ。
 
「海里のバカ!」
 
 いつものようにくすりと笑い声が聞こえないことが、胸が張り裂けそうに辛かった。



 
「ごめん。ひとみちゃん……」

 タクシーに乗って病院に向かう間も、海里は何度もそう言い続けた。
 口を開くと泣き出してしまいそうで、唇をひき結んで懸命にこらえているのに、あまりに何度も謝られるから言ってしまいたくなる。
 
 私に謝る必要はないんだと。
 勝手に海里のことを心配して、勝手に怒ってる私のことなんて、今はどうでもいい。
 
 今大切なのは、海里が大事に至らないことだけ。
 このまま大きな発作を起こしたりなんてしないことだけ。
 
 だからもう気にしなくていいのに。
 静かに容態を安定させることにだけ集中していればいいのに。
 どうして私を気遣う言葉ばかり口にするんだろう。
 
(絶対辛くって、苦しくってたまらないはずなのに、なんでこんな時まで、私の気持ちのほうを優先するのよ……!)
 
 優しい海里。
 優しすぎる海里。
 他の人を好きになったくせに、なんて残酷なやつ。
 
「海里はなんにもわかってない……私の気持ちなんて全然わかってない……!」
 
 このままだんまりを続けていたら、いつまでも海里が私に謝り続けてしまいそうだったので、やっとそれだけを言葉にした。
 涙が零れないだけの、ぎりぎりの意志表明だった。
 
 なのに海里は、苦しい息の下ながらも、微笑みさえ滲ませたような声を私に返してくる。

「うん。心配かけてごめん……それと心配してくれてありがとう」
 
 我慢できなくって涙が溢れた。
 顔を見られないようにあらかじめ背を向けていて良かったと、心からそう思った。
 
「やっぱりわかってない……!」
 
 もう本当に口を開かなくていいと。
 これ以上、私に海里を好きだという気持ちを再確認させるような言葉はくれなくていいと。
 
 決して口にすることはできない本音の代わりに、ぶっきらぼうに最終通達を言い渡した。
 自分でも呆れるくらい、可愛げのない、嫌な言い方だと思った。



 
 急な来院ということもあって、海里が通された処置室に主治医の石井先生が駆けつけて来るまでにはかなりの時間があった。
 
 その間に看護師さんたちの手によって、点滴を打たれたり、心電図を取られたり。
 できるだけの処置をしてもらって、海里の顔色が良くなっていったのは、傍から見ているだけの私にもよくわかった。
 
(よかった……これなら今回はそんなに長い入院にはならないはず……)
 
 それでも入院の準備をしに、一度は家に帰らなければならないなんて、時計を確認しながら考えていた私の耳に、思いがけない言葉が飛びこんできた。
 
「ちょっと無理したかな? ここへ帰りたくないんだったら、もっと慎重にならなきゃ……」

 石井先生の穏やかな声。
 
「はい。これからは気をつけます」

 海里の珍しく殊勝な声。
 そして――。
 
「うん……じゃあ帰ってもいいよ」

 思わず海里と石井先生のほうを、もの凄い勢いでふり返ってしまった。
 
(え? ……帰るの? 今から?)
 
 心の中で首を捻った次の瞬間には、もう私の口から、語気を荒げた疑問の言葉が飛び出していた。

「どうしてですか? 入院しなくていいんですか?」
 
 一瞬ピクリと海里の肩が跳ねたような気がした。
 それに対し、石井先生のほうは顔色一つ変わらない。
 いつもどおりの優しい笑顔を浮かべて、海里ばかりではなく、私にも微笑みかけてくれる。
 
「ああ。ちょっと病院に来てもらう回数は増えるかもしれないけれど、今のところは大丈夫だからね」
「でも……」
 
 それ以上は口にできなかった。
 
「本当に大丈夫なんですか?」なんて質問。
 もし「実は……」なんて言葉が返ってきたらどうすればいいのだろう。
 そんなことは恐くて、考えたくもなくて、私は口を噤む。
 
 これまで何度も、ちょっと具合を悪くして海里が病院に担ぎこまれた時は、必ず『念のための入院』が一、二日は付いてくるものだったのに、今回はなぜそれがないのか。
 
 ――突きつめるととんでもない答えが返ってきそうで、それを確かめることが恐くて、納得いかない自分の思いを無理に押し殺して、口を噤む。
 
(そんなの……先生が言うように、今回はたいしたことなかったらからに決まってるじゃないの! ……他にどんな理由があるっていうの……?)
 
 自分を安心させるかのように、何度も心の中でそうくり返していること自体が、誰よりも私自身が不安を感じているという証拠だった。
 
 なんとも読めない曖昧な笑顔で、ちょっと困ったように私をじっと見つめる海里の表情が、妙に印象的な夜だった。
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