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第三章 夜間遠行

4.恋愛問題

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「もう……もう無理! ……絶対にもう無理!」

 地面に倒れ伏しながら息も絶え絶えにギブアップを申告した私の隣では、諒が座りこんで大きく肩で息をしている。

「俺だって……もう無理だ!」
「ハハハッ、確かに疲れたけど……でも結構楽しかったよね?」

 額にほのかに汗かきながらも、いつもと同じ笑顔で谷先生の前にできた長い列に並ぶ貴人を、私は驚愕の思いで見上げた。

(化け物……! 鉄人……?)

 どうやら諒も同じようなことを思ったらしい。

「ああ、もういい! こんなことではりあったって、貴人に勝つはずがねえ!」

 大の字になってゴロンと地面に転がった。

「大丈夫……?」

 顔を覗きこんだ私を見上げ、だるそうに「無理」と手を振り、思いのほかニッコリと笑顔を見せる。

「でも大丈夫じゃないのは、お前もだろ! 髪の毛、汗で張りついてる」

 持ち上げた右手で、諒が私の額にかかる前髪を一房持ち上げた瞬間、どうしようもなくドキリとした。

「…………!」

 絶対に、顔が真っ赤になったに違いない。
 その証拠に、諒は慌てて手を引っ込め、しばらくは起き上がりそうになかったその場所から、飛び上がらんばかりの勢いで急いで立ち上がった。

「す、水分! 水分補給!」

 横に投げ出していたリュックを漁りながら、私には背を向けてそんなふうに言うので、私も繭香に預かったままのリュックから、繭香の水筒を取り出す。

「わ、私も!」

 大事に飲まなければ、あとで繭香になんて言われるかわからないと気をつけていた水筒の中身を、思わず大量に飲んでしまって軽く後悔の念にとらわれた。

(諒が悪いのよ……急にあんなことするから!)

 大急ぎで早歩きさせられて、ただでさえパンク寸前だった心臓が、別の意味でドキドキする。

「問題、もらってきたよ」

 何も知らない貴人がニコニコと私たちのところに帰ってきたのと同時に、佳世ちゃんと渉と繭香も集まってきた。
 背中を向け合って水筒を抱きしめている私と諒に、「どうかしたの?」なんて平気で尋ねてくるのは渉ぐらいだ。

「どうもしないわよ。ねえ?」
「あ、ああ」

 あきらかに不自然に、目をあわさずに諒と会話をする私を、繭香は意地悪く追いつめてくる。

「いくら薄暗くて周りからあまり見えないからって、いちゃつくんだったら目は離せないな」
「いちゃついてなんかないわよ!」

 思わず叫んでしまって、貴人にククッと笑われた。

「はい、これ。一応数学の問題みたいだから、琴美が解く?」

 笑いながら、もらってきたプリントを私にさし出してくれる。

「う、うん……」

 素直に受け取ってはみたが、別に私じゃなくっても、諒でも貴人でもいいんじゃないかと思った。
 そしてふと思い当った。

(考えてみたら……私たちのグループに二年の学年トップスリーが揃ってるんじゃない? そりゃあ柏木がブツブツ言うはずだわ……)

 グループ決めをしたLHRで、さんざん文句を言っていた宿敵の姿を思いだした。

(でも全員参加の学校行事なんだし、さすがに難し過ぎる問題なんて出ないと思うけど……)

 そんなことを考えながら目を落とした問題用紙のプリント。
 ざっと目を通して、思わず呟いてしまった。

「……何これ」

 前後左右から、みんなが一斉に私が持つプリントを覗きこんでくる。

「え? 難しいの?」
「どれどれ」
「私にも見せろ」

 そして一様に、みんな絶句した。

「誰だ。こんな悪趣味な文章考えたの……」
「谷先生じゃないかな? ここのチェックポイントの係りでしょ?」

 佳世ちゃんの予想に、ゾゾッと背筋が寒くなりながら、私は仕方なくその問題文を読み上げた。
 


 
『私、谷口奈々。16歳。趣味は料理。特技は暗算。成績は中の上。見た目は十人並み。私には好きな人がいます。ずっとずっと大好きでした。でもその人を好きな子は、私の他にも八人もいます。私が両思いになれる確率はいったいどれぐらいなんでしょうか。――答えとその理由を簡潔に答えよ』
 
 
 私が読み終わっても、しばらくの間はみんな沈黙していた。
 私たちのグループと同じように、問題文を手に入れたらしい人たちが、そこかしこで額をつきあわせて相談している。
 中には計算機をとり出したところもあるようだ。

「ようは『確率』の問題なんだから……九分の一じゃ……ないのか?」

 疑い疑いながらも口を開いた諒に、私は同意した。

「うん。そうだね……11パーセントぐらい……?」

 さらに賛同を得ようとチラリと貴人を見たら、彼は何かを考えこむみたいに、顎に軽く曲げた人差し指を当てていた。

(貴人……?)

 私たちのグループどころか、まちがいなく学年一位。
 ひょっとしたら学園随一かもしれない頭脳が、いったい何を考えているのか。
 私は好奇心にかられて、ずっと貴人を見続けた。

 その視線に気がついて、私に目を向けた貴人がそれはそれは嬉しそうに微笑む。

「なに? 琴美……どうしたの?」

 自分で言うのも恥ずかしいが、あまりにも優しいその笑顔に貴人からの好意をありありと感じてしまって、私は真っ赤になって俯いた。

「な、なんでもない……」

 隣からチッと小さな舌打ちが聞こえる。

「じゃあ、答えは11パーセントでいいな。書くぞ」

 私の手から問題用紙を取り上げた諒が、ちょっと怒ったようにしゃがんで、リュックから取り出したシャーペンで、答えを書きこもうとする。

「…………待って」

 制止の声をかけたのは、思いがけないことに貴人じゃなくて渉だった。

「そんな計算、実際の恋愛感情においては、全然成り立たないと思うんだけど……どう?」

 「どう?」と私に尋ねられても、本当に困る。

「確かに! あんなに好きだったのに、ずっと両思いだったはずなのに、私は渉にあっさりとフラれたもんね」とでもコメントして欲しいのだろうか。
 右の頬がピクピクひきつるのを感じた。

「そりゃあそうかもしれないけど……そんなこと言ってたら、答えなんて出ないでしょ……」

 なるだけ冷静に返事しようとしている私の神経を逆撫でするかのように、渉はどこか遠い目をしながら、話し続ける。

「答えか……答えなんてあるのかな……」

 その呟きを聞いた途端、貴人がパチンと指を鳴らした。

「そうか! わかった! わかったよ! ありがとう早坂君!」

 嬉しそうに叫びながら、渉の両手を掴んで、ぶんぶんと大きく上下に揺する貴人を、繭香がバチンと叩いた。

「バカ者! わかったんなら大声を出すな! IQ200だとか噂のあるお前の答えを盗もうと、周りの連中が集まってくるだろう!」

 ハッと周囲を見回してみれば、みんな自分たちのことに一生懸命で、幸いなことに貴人の声に反応したグループはなかったようだ。

 それもそのはず、私と諒が最初に計算したように、さっさと答えを決めてしまって、みんなこのチェックポイントはもう出発しようとしているところなのだから。

 それでも繭香の主張はもっともだというように、彼女に向かって頭を下げてから、貴人は今度は小声で話し始めた。

「答えっていうか……この問題が意図したところがわかった気がする。だからみんなちょっと耳を貸して」

 言われるままに、私を含めた他の五人は貴人の近くに顔を寄せた。
 整いすぎた貴人の顔ももちろんだけど、隣にいる諒の顔もぐっと距離が近くなって、そんな場合じゃないのに心拍数がどんどん上がる。

(もうっ! 静まれ心臓!)

 自分で自分に喝を入れながら、耳をそばだてて聞いた貴人の言葉に、私は驚いて口をポカンと開けた。
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