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第二章 夜の街で見つけたキミ

2.初めての感覚

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(一目見た瞬間に思わずタクシーを飛び降りてしまったこの気持ちが、もし彼女への恋心なんだとしたら、俺は今こんなにもあっさりと、失恋したことになるんじゃないか……?)
 虚しくなるような問いを自分に投げかけながら、俺はその人と並んで、夜の町を歩き続けた。
 
 いつの間にか泣くのを止めた彼女は、歩きながらポツリポツリと自分のことを話してくれる。
 予想したとおり、彼女には同じ大学に通う恋人がいたし、夜目にも痛々しい左頬の傷も、体中あちこちに残る傷痕もその『幸哉』とかいう男から受けた暴力の跡だった。
 
(なんなんだよ、そいつは!)
 心の中ではおおいに憤慨しながらも、口に出してはなんと言っていいのかわからない。
 
 さっきまでよりはあきらかに明るい口調で、あまり見ず知らずの人間に話すような内容じゃない話を、俺にスラスラと語ってくれる彼女の真意もわからなかった。
 
「大学に入ってすぐのコンパで知りあったんだ……気があってすぐにつきあい始めた。学部が違うから講義では全然一緒にならなかったけど、お互いが選択している講義に潜りこんだり、一緒にお昼を食べたり……あの頃は楽しかったな……」
 
 彼女の家だという二階建てのアパートの前に着いても、
「それじゃあ、さよなら」
 なんてことにはならなかった。
 ガードレールに腰かけて、話を続けていられるのは嬉しかったが、『彼女の恋人』の話を聞いているのは、正直あまり心穏やかじゃなかった。
 
「でも……あんまり私のこと、信用してくれなくてね。ちょっと男の子と話したぐらいで焼きもち焼くんだ。最初はそれも嬉しかったけど、あんまり度が過ぎて、ちょっと怖くなった……」
 その内容が、彼女の声を震えさせるような内容になってくれば、なおさらだ。
 
 俺の目には、彼女の華奢な体に残る無数の傷痕や、腫れた左頬なんかが、痛いくらいに焼きついている。
 もう一度見直して確認なんてする必要もないくらいに、残ってしまっている。
 
 辛そうな声を聞きながらも、真っ直ぐに前を向いて、なんでもないフリを通そうと努力してみたが、その実、
(ちくしょう! その男、俺がぶん殴ってやろうか!)
 ぐらいの怒りは、心の中で渦巻いていた。
 
 もちろん俺の十六年の人生の中で、この拳で誰かと戦ったことなど、ただの一度もないのだけれど――。
 
「部屋からも出してもらえなくなって、大学には行けなくなって、でも生活のためのバイトだけは許してくれたから、そのうちバイトが私の全てになっちゃった」
 ちょっと笑いながら寂しそうに彼女が呟いた言葉で、俺の中で何かが切れた。
 
 それじゃあ、「また学校に行きたい」と泣き出すほどの彼女の思いを、踏みにじっているのはその男なんだろうか。
 辛そうな顔をしながらも、懸命に自分を保とうと努力している彼女を、守るどころか傷つけているその男が、彼女を守る立場であるはずの『恋人』なんだろうか。
 
(そんな奴、別れちゃいなよ)
 思わず口に出してしまいそうになって、遠くを見つめる横顔に目が止まった。
 その瞬間、言葉は俺の喉の奥でスーッと消えた。
 
 古いアパートの二階の右端だという彼女の部屋を見上げて、俺たちは道路の反対側のガードレールに腰かけている。
 
 今夜初めて会ったばかりにしてはかなり近い距離で、寄り添うように肩を寄せあっていたが、彼女の瞳は決して隣にいる俺を見ているわけではなかった。
 切なそうに瞬きながらも、夜空を見上げて、初めからずっと遠い誰かを見つめていたのだ。
 そのことに気がついた瞬間、俺のヤワな心臓は、あらためてまたチクリと痛んだ。
 
(俺は全然関係ない……今この瞬間も、この人が想っているのは違う男だ……)
 そう自覚するのが苦しくてたまらない。
 
 顔を歪めるようにして、無理に小さな笑顔を作る彼女の横顔は、哀しいくらいに綺麗だった。
 けれど俺にはわかる気がした。
 こんな苦笑じゃなくて、心からの笑顔だったら、この人はもっと綺麗なはずだ。
 そう……そうに違いない。
 だから――
 
(彼女が本当に優しくして欲しい相手ではないかもしれないけど、俺にだって彼女を笑顔にすることはできないか?)
 と頭を捻る。
(俺には時間がない。こんなポンコツの心臓を抱えたままじゃ、きっと何をやったって、人並みにやり抜く力だってない)
 いつだって心の奥に隠し続けてきた卑屈な思いは、もっと奥に押しこんで、懸命に考えた。
 全身全霊で考えた。
 それなのに――
 
「俺とピクニックに行かない?」
 
 上手く考えがまとまる前に、またしても俺の口は勝手に動きだす。
 自分で言ったセリフのあまりの間抜けさに、
(なんだよそれ!)
 と自分自身でつっこみたくなった。


 
 幼稚園の頃、少し長めの入院が続いていた俺に、母さんが絵本を買ってきてくれたことがある。
『――のピクニック』という題名のその本は、森の中でいろんな動物たちが食べ物を持ち寄ってピクニックをするという話だった。
 カラフルな敷物を敷いて、それぞれが持ってきたお弁当を並べて、みんなで仲良くご飯を食べるというだけのその絵本が、俺は大好きで、何度もせがんでは母さんに読んでもらった。
 
『いいなーピクニック。ぼくもいきたいなーピクニック』
 無邪気にくり返す俺に、ニッコリと笑って、母さんは約束してくれた。
「じゃあ、今度海里が退院したらみんなで行こうか、ピクニック」
「うんっ!」
 さし出された母さんの小指に、俺は大喜びで自分の小指を絡めた。
「ピクニックに行くためにも、今はがんばろうね」
「うんっ!」
 母さんの励ましに、笑顔で何度も頷いた。


 
 しかしその約束が果たされることはなかった。
 その三日後に母さんは自宅で倒れ、あっという間に、俺より先に遠いところへ逝ってしまった。
 
 約束が果たされなかったことより、母さんが亡くなってしまったことのほうが悲しくて、今の今まで『ピクニック』の約束のことは忘れていた。
 でもこんな大事な場面で、思わず口をついて出てきたところをみると、どうやら内心諦めきれていなかったらしい。
 
(俺って案外しつこいな……)
 苦笑するしかない。
(あーあ。この年になって『ピクニック』って……しかもいきなり! ……誰だって引くよなあ……)
 そう思って見つめた隣の人は、確かに驚きに目を見開いていた。
 
「ピクニックって……」
 大きな瞳を更に大きくしたびっくり顔は、さっきまでの哀しそうな顔よりは、よほど安心できる表情だった。
 パチパチと何度も瞬きしながら、懸命に俺の言葉の意味を理解しようとしてくれている顔は、なんだかひどく俺を満足させた。
 
 辛いことや悲しいことを胸いっぱいに抱えて、心から血を流し続けているように見えた彼女が、ほんの少し間だけでもその痛みを忘れることができるんだったら、俺なんかいくら笑われたってかまわない。
 本気でそう思った。
 
 思うとすぐに、調子に乗ってしまう。
 それが俺の良いところであり、悪いところだ。
 
「そう、ピクニック。お弁当持ってどこかに行くのって、そう言わなかったっけ?」
 満面の笑みで問いかけると、それにつられたように、彼女の小さな顔もついにクシャッと笑顔になる。
 
「キミってお坊ちゃま? それとも、見た目よりもっと若いの?」
 どんな言葉を投げかけられたって、その表情を見られるんなら、それでいいと思った。
 
「行ってみたかったんだよな、ピクニック。お弁当持って、どこかに。ねえ、俺と行かない?」
 しつこいようだが、俺自身本気で言っていたわけではない。
 ただ、辛い人生を歩んでいるらしい彼女が、このひと時だけ心から笑うことができるなら、そしてその顔を、ほんの少しの間だけでも隣で見ていられるのなら、俺はそれでじゅうぶん幸せだった。
 
 それなのに、ちょっと考えるようなそぶりをした後、彼女はまた夢としか思えない返事を俺にくれた。
「じゃあ、行こうか。一緒にピクニック」
 首を傾げるようにして俺の顔をのぞきこみ、目があった瞬間に、ニッコリと微笑む。
 予想もしていなかったその反応に、自分の顔の筋肉がどんどん緩んで、締まりもなにもあったもんじゃない笑顔になっていくのがわかった。
 
 止めようったって止まるもんじゃない。
 一目見ただけで自分の気持ちを抑えきれなくて、思わず声をかけてしまったぐらいの相手が、こんなに近くにいて、こんなに魅力的な笑顔で、自分のことを見つめてくれる状況に置かれたら、誰だって俺と同じようになるに違いない。
 
(えええっ? 本当に? 本当に?)
 しつこいくらいに確認する代わりに、俺は何度も彼女に頷いてみせた。
 頷くたび、どんどん頬が緩んでいく俺につられるように、彼女の小さな口もどんどん大きく開いていく。
 しまいには、俺に負けないくらいの大きな口を開いて、真っ直ぐに俺を見て笑ってくれた。
 
 そのことが嬉しかった。
 ただその笑顔が、本当に心から嬉しかった。
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