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先生と私
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私があの人を先生、と呼びはじめてからどれほど経ったか。先生に出会ってから、長いようで短い時が流れた。
先生は作家の職で生活を送っている。
巷では名の売れた作家のようで、流行には疎い私にも、友人達を通じて先生の話は耳にすることがある。
前に1度、先生の書いた小説を読んだことがある。……内容はとても……語れるようなものではなくて。大人の世界とはとても怖いものね、としばらくの間悶々としたのは秘密だ。
先生は自身を多く語らない。先生には先生なりの、事情があるのだろうと分かってはいる。
先生、と私が呼ぶと、先生はいつも微笑んでどうしたんだいと尋ねる。
私の大好きな笑顔を浮かべて。
その笑顔が崩れる日が来ることが、私は酷く恐ろしい。
私が先生に拾われたのは14の頃。
私には両親と小さい弟がいた。
幸せだった。家族と囁かな生活を送って、それで十分だった。それ以上何も望まなかった。穏やかな日常を送っていたある日、戦争が全てを奪った。
戦争孤児になった私と弟は、余裕のない孤児院に詰め込まれた。親を失った寂しさと孤独さから、穏やかな日常を奪った全てを憎んでいた。孤児院の生活は楽ではなかった。人も多く食べ物も油断すれば誰かに奪われる。戦争は終わったけれど、孤児院では戦争の余波がまだ続いているようだった。お腹がすいた、寂しい苦しい。寒い。
そんな声が飛び交う貧しい孤児院内。
劣悪と言える環境下でも、明日を凌げるだけの食事ができるのは、異教の神の言う平等が説かれていたおかげだった。
姉ちゃん、と弟が苦しげに呼ぶ声。ここでは十分な治療ができない。ただの風邪でも、こじらせれば命取りだ。ましてや、この孤児院で十分な栄養を摂る、なんてことは酷く難しい。奪えば奪われる。度をすぎた行動はそれこそ諌められるが、基本、手が回らないここでは無法地帯同然。
医者を呼んでも、一体その金を誰が払う? 戦争が奪う前の生活ならば、両親が医者を呼んでくれたことだろう。厄介な病気にかかった弟は隔離され、長く持つこともなく儚く散った。
戦争は全てを奪った。両親を弟も。
戦争が無ければ幸せは続いただろうか?
神は死んだ! もう居ない。
弟が死んだ。孤児院ではそう珍しくない事だった。多い年では二、三人ほどーーもっと多ければ五人ほど死んでしまうことはある。
特に幼い子供を預かる場所でもあったから、病を拗らせてころりと逝くことはよくあったのだった。
その1人に、弟が加わっただけ。そんな孤児院にとってのよくある事は――私にとっては、良くあることの一つではなかった。
両親が死んで、弟が死んでも、孤児院での生活は変わらない。孤児院の職員は悲しむ素振りは見せるものの、新しく入ってくる孤児の席が空いたと安堵のため息を着く。当たり前のこととなっているのだろう。
空っぽだった。戦争が終わったと喜ぶ人々を後目に、孤児院の生活は変わらず進む。弟が死んで2年がたち、14歳になった。孤児院にいることが出来るのは16歳まで。
そうして空っぽの私に、ある一人の男が訪れる。だれか孤児を引き取りたいと考えている、様子見だと。
男と言っても、青年と呼んだ方が良いくらい若い容姿。
艶のある黒髪に、端正な顔立ち。仄暗い瞳でこちらを見入るその人。恵まれているとひと目でわかるような品質の服装(もっともそれは、彼にとっての一張羅なのかもしれない)に身を包んだ青年。柔和な笑顔を浮かべながらも、何処か瞳に憂いがある。
孤児院で孤児を引き取りたいという人は少なくない。もっともそれは、優秀な孤児がほとんどでありーー私のような食い扶持を削る孤児は引き取られないことが殆どだ。
だから、いつもの事だろうと興味を抱くことも無く無関心を貫いていた。
そんな私に、興味を持って近づいたのは青年の方だった。
一言二言質問をされ、当たり障りのない答えをし、ふとぽつりと呟く。
「……ああ、やっぱり君が欲しい」
欲しい、という言葉に驚き、変哲もない私に何故ーーと混乱する。
「ああ、すみませんが……この子を引き取りたいのですが」
そう言って案内役の職員に尋ねた青年に、職員も驚いた様子で本当にいいんですか、と繰り返し聞き返した。
職員との会話の声が遠のいていく。
その後かすかながらも、紹介した子ほど良くは無いですよ、とも。
その言葉に、言い表せない感情を掻き乱される。が、その言葉に青年が返した。
「僕は紛れもなくあの子がいいんですよ、他の誰よりも、あの子だけを」
その青年が後に先生と呼びしたうことになる人だった。
私が引き取られた当初から既に、先生は作家としての仕事をしていたようだった。常日頃仕事が舞い込むわけではないようだったが、それなりに名の知れた人だということを知らされた。
引き取られた私が連れていかれたのは、その青年の家だった。
青年はリョウと名乗った。
「君は今日から、この家でここで暮らすんだ」
ここで暮らすーーその言葉は、戦争の混乱に巻き込まれ数年間、孤児院で過ごしていた私にとっては特別な響きを持っていた。
ちらりと青年の方を見上げれば、私を見て薄く微笑んだ。
赤の他人に引き取られ、右も左も分からないまま。
私の新しい生活は、その日始まった。
リョウと名乗る私を引き取った青年は、巷では名のしれた作家だと言う。「僕の呼び名は自由でいいよ。僕は君を引き取ったけど、あくまでも、親代わりでしかないからね。君の意思を尊重するよ」
「僕は随分長いこと一人でいたからね。……人肌恋しくて、君を迎えたんだ」
そう言って笑み浮かべたその瞳には、人寂しさから迎えたと言うにはーーあまりにも真剣な、何処か怪しい光があった。
作家の職を得て生活をしている。親代わりと言えど父と呼ぶには無理があり、名前で呼ぶのも気恥ずかしいーーならば先生と呼べばいい。リョウと名乗った青年のーー"先生"のその言葉を、私は甘んじて受け入れた。
先生は作家の職で生活を送っている。
巷では名の売れた作家のようで、流行には疎い私にも、友人達を通じて先生の話は耳にすることがある。
前に1度、先生の書いた小説を読んだことがある。……内容はとても……語れるようなものではなくて。大人の世界とはとても怖いものね、としばらくの間悶々としたのは秘密だ。
先生は自身を多く語らない。先生には先生なりの、事情があるのだろうと分かってはいる。
先生、と私が呼ぶと、先生はいつも微笑んでどうしたんだいと尋ねる。
私の大好きな笑顔を浮かべて。
その笑顔が崩れる日が来ることが、私は酷く恐ろしい。
私が先生に拾われたのは14の頃。
私には両親と小さい弟がいた。
幸せだった。家族と囁かな生活を送って、それで十分だった。それ以上何も望まなかった。穏やかな日常を送っていたある日、戦争が全てを奪った。
戦争孤児になった私と弟は、余裕のない孤児院に詰め込まれた。親を失った寂しさと孤独さから、穏やかな日常を奪った全てを憎んでいた。孤児院の生活は楽ではなかった。人も多く食べ物も油断すれば誰かに奪われる。戦争は終わったけれど、孤児院では戦争の余波がまだ続いているようだった。お腹がすいた、寂しい苦しい。寒い。
そんな声が飛び交う貧しい孤児院内。
劣悪と言える環境下でも、明日を凌げるだけの食事ができるのは、異教の神の言う平等が説かれていたおかげだった。
姉ちゃん、と弟が苦しげに呼ぶ声。ここでは十分な治療ができない。ただの風邪でも、こじらせれば命取りだ。ましてや、この孤児院で十分な栄養を摂る、なんてことは酷く難しい。奪えば奪われる。度をすぎた行動はそれこそ諌められるが、基本、手が回らないここでは無法地帯同然。
医者を呼んでも、一体その金を誰が払う? 戦争が奪う前の生活ならば、両親が医者を呼んでくれたことだろう。厄介な病気にかかった弟は隔離され、長く持つこともなく儚く散った。
戦争は全てを奪った。両親を弟も。
戦争が無ければ幸せは続いただろうか?
神は死んだ! もう居ない。
弟が死んだ。孤児院ではそう珍しくない事だった。多い年では二、三人ほどーーもっと多ければ五人ほど死んでしまうことはある。
特に幼い子供を預かる場所でもあったから、病を拗らせてころりと逝くことはよくあったのだった。
その1人に、弟が加わっただけ。そんな孤児院にとってのよくある事は――私にとっては、良くあることの一つではなかった。
両親が死んで、弟が死んでも、孤児院での生活は変わらない。孤児院の職員は悲しむ素振りは見せるものの、新しく入ってくる孤児の席が空いたと安堵のため息を着く。当たり前のこととなっているのだろう。
空っぽだった。戦争が終わったと喜ぶ人々を後目に、孤児院の生活は変わらず進む。弟が死んで2年がたち、14歳になった。孤児院にいることが出来るのは16歳まで。
そうして空っぽの私に、ある一人の男が訪れる。だれか孤児を引き取りたいと考えている、様子見だと。
男と言っても、青年と呼んだ方が良いくらい若い容姿。
艶のある黒髪に、端正な顔立ち。仄暗い瞳でこちらを見入るその人。恵まれているとひと目でわかるような品質の服装(もっともそれは、彼にとっての一張羅なのかもしれない)に身を包んだ青年。柔和な笑顔を浮かべながらも、何処か瞳に憂いがある。
孤児院で孤児を引き取りたいという人は少なくない。もっともそれは、優秀な孤児がほとんどでありーー私のような食い扶持を削る孤児は引き取られないことが殆どだ。
だから、いつもの事だろうと興味を抱くことも無く無関心を貫いていた。
そんな私に、興味を持って近づいたのは青年の方だった。
一言二言質問をされ、当たり障りのない答えをし、ふとぽつりと呟く。
「……ああ、やっぱり君が欲しい」
欲しい、という言葉に驚き、変哲もない私に何故ーーと混乱する。
「ああ、すみませんが……この子を引き取りたいのですが」
そう言って案内役の職員に尋ねた青年に、職員も驚いた様子で本当にいいんですか、と繰り返し聞き返した。
職員との会話の声が遠のいていく。
その後かすかながらも、紹介した子ほど良くは無いですよ、とも。
その言葉に、言い表せない感情を掻き乱される。が、その言葉に青年が返した。
「僕は紛れもなくあの子がいいんですよ、他の誰よりも、あの子だけを」
その青年が後に先生と呼びしたうことになる人だった。
私が引き取られた当初から既に、先生は作家としての仕事をしていたようだった。常日頃仕事が舞い込むわけではないようだったが、それなりに名の知れた人だということを知らされた。
引き取られた私が連れていかれたのは、その青年の家だった。
青年はリョウと名乗った。
「君は今日から、この家でここで暮らすんだ」
ここで暮らすーーその言葉は、戦争の混乱に巻き込まれ数年間、孤児院で過ごしていた私にとっては特別な響きを持っていた。
ちらりと青年の方を見上げれば、私を見て薄く微笑んだ。
赤の他人に引き取られ、右も左も分からないまま。
私の新しい生活は、その日始まった。
リョウと名乗る私を引き取った青年は、巷では名のしれた作家だと言う。「僕の呼び名は自由でいいよ。僕は君を引き取ったけど、あくまでも、親代わりでしかないからね。君の意思を尊重するよ」
「僕は随分長いこと一人でいたからね。……人肌恋しくて、君を迎えたんだ」
そう言って笑み浮かべたその瞳には、人寂しさから迎えたと言うにはーーあまりにも真剣な、何処か怪しい光があった。
作家の職を得て生活をしている。親代わりと言えど父と呼ぶには無理があり、名前で呼ぶのも気恥ずかしいーーならば先生と呼べばいい。リョウと名乗った青年のーー"先生"のその言葉を、私は甘んじて受け入れた。
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