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前日譚②
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コンクールの応募の締め切りが迫ってきていた時。
「先輩、もう一回あの時間の湖に連れて行ってください!」
亜子は優人に両手を合わせて懇願した。優人は笑いながら、快諾してくれた。
だが。
「あれ、先輩」
「どうしたの?」
「前の所通り過ぎてますよね?」
「そうだよ」
「何でですか?」
「その方がいいと思って」
優人が微笑む。
「はぁ……?」
さらに車を走らせると、見えてきたのは畑薙湖という湖。
景色のいい、開けた所で車を止める。
「そろそろだね」
「あ……」
車を降りると、優人は亜子の目を隠した。
(あったかい……)
もう少しこのままで、とまた前と同じ事を願ってしまう。しかし、それは許されない。今日の目的は、それではないのだから。
パッと優人の手が外された瞬間、鮮やかな赤が飛び込んできた。
「ああ……」
―そうか。
優人が前回と違う場所に連れてきた意味が分かった気がした。
(心臓が、熱い)
燃えさかる炎のように熱を帯びる体。今、亜子の胸にはあの時と同じくらいの感動が押し寄せている。たぶん、それが答えだ。
亜子は画板を手にして夢中で描いた。
そして、日が沈んでいく。
「先輩」
「何?」
「帰り、できるだけ飛ばしてください」
「交通違反にならないくらいには頑張るよ」
優人は苦笑して答えた。
アパートに帰ると、亜子はシャワーも早々に、段ボールと新聞紙を広げた。
今回のコンクールの発表は展覧会の会場で発表になるらしい。もちろん、後日結果が送られてくるが、今回は皆で見に行こうということになった。
「お、みんな揃ったね。じゃあ、入ろっか」
会場の入り口には佳作の作品が並べられていた。金賞、銀賞、銅賞などは奥に飾られているのだろう。
「あ、やった! 私、佳作だ」
「おめでとう!」
塾生の中に佳作の者がいた。たかが佳作だが、それでも嬉しいものは嬉しい。
「はぁ……」
そこに亜子の作品はなかった。
「またダメかぁ……」
「元気出しなって! ほとんどの人が何ももらえないんだから」
女性の塾生に肩を叩かれた。
(確かにそうだけど……)
「あ、佐々木さん銀賞だ!」
「ホントだ! すごい!」
「おめでとうございます!」
「ありがとうございます」
(ああ、やっぱり先輩はすごいなぁ)
亜子はもう帰りたい気持ちになっていた。
「わぁ……」
「金賞の絵もすごいですね」
「うん、何か上手いというより、心がざわつくっていうか」
「うんうん、それ分かる」
「どこの人なんだろう…………え」
「どうしたの?」
「これ」
受賞者の氏名を指さす塾生。
「山下亜子……ってここにいる山下亜子さん?」
「そんな訳ないでしょ! だって亜子ちゃんはもっとこう青い感じの……。佐々木くんのことが好きで―」
「しっ!」
亜子が優人のことを好いているということは皆分かっていた。だが、そのことを本人は知らない。
「それより、山下さん!」
地面を見つめる作業に入っていた亜子は急に大声で呼ばれて顔を上げた。
「どうしたんですか?」
「これって、本当に山下さんの絵?」
ゆっくりと視線を件の絵に向ける亜子。
「あ。私の絵だ」
状況をよく理解できていない亜子は、それだけつぶやいた。
しかし、周りは大はしゃぎだ。
「え、やっぱりそうなの!?」
「すごいです!」
「こんな絵も描けるんだ!」
「やったじゃん!」
職場での昼休み。
亜子はなんとなくスマートフォンでコンクールで撮影した自身の絵を眺めていた。自分が金賞をとったことが信じられなくて、幾度となく見返した画像。
「金賞、とったんだよなぁ……」
最近になってようやくその実感が湧いてきた。
「その絵、誰が描いたの?」
「え、あ、はい?」
いきなりかけられた社長の声に驚く亜子。
「覗き見してごめんね。でも、その絵素敵だよね。誰の絵? 好きな画家さん?」
「好きというか…………自分の絵なので答えづらいんですけど……」
「えっ、そうなの!?」
社長は目を丸くした。
「はい……お恥ずかしいです……」
「そうなんだ。いや、何かいつも淡々と仕事してて人生楽しんでなさそうだったから意外だよぉ」
「あはは……」
大きなお世話だと思いつつ、亜子は愛想笑いを浮かべた。
「何か一枚絵描いてよ! ここに飾るから!」
「え……それはちょっと」
突然の申し出に困惑する。
「あ、タダって訳にもいかないよね……いくらで描いてくれる?」
「い、いえ! そんな、お金なんてもらえません! 私の絵で良ければいくらでも描きます……!」
「お、じゃあ宜しく頼むよ!」
「はい!」
社長は満面の笑みで「お代は特別報酬ってことで入れとくから」と言い残して出張に出かけていった。
それを見送った亜子は、フツフツとやる気がみなぎってくるのを感じていた。
職場に自分の絵が飾られた頃、亜子は自信に満ち溢れていた。今なら、全てのことが上手くいく気がしていた。
(先輩にも言えるかもしれない)
ずっと言えないでいた優人への気持ちを伝えるチャンス、そう思った。
そして。
「先輩」
静かな夕方の教室。今は、亜子と優人しかいない。
「どうしたの?」
亜子の心臓は緊張で破裂しそうだった。対する優人は、ごく自然で、いつものように涼やかだった。
「調子でも悪いの?」
「いえ、あの……」
(頑張れ、亜子! 金賞、とったんだから!)
心の中で自分を叱咤し、勇気を振り絞る。
「私、先輩のこと……」
両手に力をこめた。
「ここに来た時から……ずっと好きでした! お付き合いしてください!」
(言っちゃった……!)
恥ずかしすぎて、目をつぶった。五秒、十秒。優人からの返事を待つ時間が永遠にも感じられた。
優人はそっと口を開いた。
「……知ってた」
(ああ、やっぱりバレバレだったか……)
苦笑いを浮かべて目を開けた時。
「何で、今なんだい?」
そう聞かれた。
「え?」
「金賞をとれたからかい?」
その口調はいつものように涼やかだったけれど、彼の顔に、笑顔はなかった。亜子は正直に答えた。
「……はい」
いくら待っても、彼からの返事はこない。代わりに、彼は別のことを話し始めた。
「僕ね、大学の時から金賞をとったことないんだ」
確かに、彼が金賞をとったところは見たことがなかった。とったのは全部銅賞や銀賞。
「君は、僕の絵は好きかい?」
「は、はい! 大好きです! いつも先輩みたいな絵を描きたいって思って……」
必死過ぎたかもしれない。優人はちょっとだけ微笑んだ。
「僕にも好きな絵があるんだ」
優人は遠い目をする。
「大学の時の僕の先輩に、とても綺麗な絵を描く人がいたんだ。青を基本にした、涼やかで、でも、心が温かくなるような不思議な絵だった」
「それって……」
「ああ、僕はその絵を描きたいんだ」
優人は亜子の声に出さない予想を肯定するように頷いた。
亜子が憧れていた絵を描く優人は、さらに他の人に憧れていたのだ。なんだか、胸の奥がチクリとした。
「でも、全然上手く描けなかった」
「そんなことないです! 先輩の絵はすごく素敵です!」
本心だった。
「ありがとう。でも、僕の目指してる絵じゃない」
だが、優人は否定した。
「今回のコンクールね」
「はい」
「最後のチャンスだと思って必死に描いたんだ」
「え」
「笑えるでしょ? 今までで一番頑張って描いた絵でも、金賞をとれなかったって」
優人が今まで見たことがない顔で自嘲した。
「君も、同じだと思ってたんだ」
「私が、ですか?」
「うん。僕の絵を必死に真似して、描けなくて落ち込む」
「……」
「だから、声をかけたんだよ。仲間ができたみたいで嬉しかった」
「私も! 誘ってもらえて嬉しかっ―」
「でも、違った」
「え」
「違ったんだよ」
夕焼けに照らされる優人の顔は泣きそうなような、怒ってるような、そんな不思議な顔だった。
(先輩って、こんなに感情を剥き出しにする人だったっけ……?)
「君は憧れた青い絵じゃなくて、気持ちの全てをぶつけた真っ赤な絵で金賞をとった」
「それは……私が優柔不断だから……」
「優柔不断の一言でっ!!」
優人が急に声を荒げた。亜子はもう本当に訳が分からなくなっていた。ここにいるのは、本当にあの涼やかで優しい先輩なのだろうか。
「優柔不断のたった一言で! 僕の十年間を片付けるのか!」
怖かった。怒っている男の人が、というのもあったが、自分の知らない優人がそこにいることがもっと怖かった。
「馬鹿にされた気分だったよ! 挙げ句の果てに君は……絵と、たかが恋を一緒にしたんだ!」
もう、何も考えられなくなっていた。瞳が、曇っていく。
(絵って何? 恋って何? 先輩って……何だっけ?)
「僕の十年間は、もう終わった」
最後にそう言い残して、優人は去っていった。
教室は、もう夜の色に染まっていた。
亜子が告白をしたあと、佐々木優人は教室に姿を現わさなくなった。
「……ねぇ、あれどうにかなんないの?」
「いや、無理だね。何回か話しかけたけど『はぁ』とか『うん』とかしか言わないから」
遠巻きに亜子を見て会話する塾生たち。当の本人はといえば、画板に向き合ってひたすら絵を描いている。
(全然、分からない)
優人の絵を真似してみれば、彼の考えてることが分かるかもしれないと思ったが、何一つ分からない。
「やっぱり、佐々木さんが最近来ないことと関係あるのかな」
「それ以外ないでしょ」
「あ、もうこんな時間だ」
「本当だ。僕も帰らなきゃ」
「おーい、山下さん私たち帰るよ?」
「……はぁ」
「あと、お願いしてもいい?」
「……はい」
理解できているか怪しいが、一応返事は返ってきた。
「じゃあさよならー」
教室で一人になった亜子は、しばらく動かし続けていた筆を止めた。
「先輩……」
あの日以来、来なくなった優人の画板を見つめる。
「やっぱり、私のせいかな……」
指先で、優人の画用紙をなぞる。
「先輩は、次に何を描く予定だったのかな……」
画用紙は何も描かれることなく、白紙のままだった。
「はぁ……」
ため息をついた時、亜子はあることに気がついた。
(画用紙の下に、画用紙?)
指でなぞったからか、白紙の画用紙がずれて、下にもう一枚の画用紙が現れた。
(見ても、いいよね?)
私はそっと画板の留め具を外し、画用紙をめくった。
「―」
言葉が、出てこなかった。視界を埋め尽くす、赤。情熱的でいて、哀愁漂うその絵は、
優人と二回目に出かけた場所だった。
(私と、同じ)
亜子がコンクールに出した絵と、同じ場所。
(だけど)
レベルが違った。優人の絵は、圧倒的なまでに亜子の遥か上をいっていた。そう、金賞をとった自分の絵よりも。
「下手くそ」、そう言われた気がした。
それと同時に、分かってしまった。
(こっちが、先輩なんだ)
素の彼はこっちが本物で、でも夢を追いかけて青い絵を描いていた。自分の半分の力も出せない絵で勝負して、あのクオリティ。それでも、その努力は亜子の気分一つで描いた絵に先を越されてしまった。
そして、亜子が恋した先輩はそこにはいなかった。
(これは、馬鹿にしてるって言われても仕方ないな……)
私は今、ひどく不細工な笑みを浮かべていることだろう。
この時から亜子は塾を休んだ。ショックを受けたからということもあった。でもそれ以上に、自分がどんな絵を描けばいいのかが分からなくなった。
「でも、これでいいよね」
自分のせいで優人は教室に顔を出さなくなった。
「丁度いい、罪滅ぼしかな……」
「先輩、もう一回あの時間の湖に連れて行ってください!」
亜子は優人に両手を合わせて懇願した。優人は笑いながら、快諾してくれた。
だが。
「あれ、先輩」
「どうしたの?」
「前の所通り過ぎてますよね?」
「そうだよ」
「何でですか?」
「その方がいいと思って」
優人が微笑む。
「はぁ……?」
さらに車を走らせると、見えてきたのは畑薙湖という湖。
景色のいい、開けた所で車を止める。
「そろそろだね」
「あ……」
車を降りると、優人は亜子の目を隠した。
(あったかい……)
もう少しこのままで、とまた前と同じ事を願ってしまう。しかし、それは許されない。今日の目的は、それではないのだから。
パッと優人の手が外された瞬間、鮮やかな赤が飛び込んできた。
「ああ……」
―そうか。
優人が前回と違う場所に連れてきた意味が分かった気がした。
(心臓が、熱い)
燃えさかる炎のように熱を帯びる体。今、亜子の胸にはあの時と同じくらいの感動が押し寄せている。たぶん、それが答えだ。
亜子は画板を手にして夢中で描いた。
そして、日が沈んでいく。
「先輩」
「何?」
「帰り、できるだけ飛ばしてください」
「交通違反にならないくらいには頑張るよ」
優人は苦笑して答えた。
アパートに帰ると、亜子はシャワーも早々に、段ボールと新聞紙を広げた。
今回のコンクールの発表は展覧会の会場で発表になるらしい。もちろん、後日結果が送られてくるが、今回は皆で見に行こうということになった。
「お、みんな揃ったね。じゃあ、入ろっか」
会場の入り口には佳作の作品が並べられていた。金賞、銀賞、銅賞などは奥に飾られているのだろう。
「あ、やった! 私、佳作だ」
「おめでとう!」
塾生の中に佳作の者がいた。たかが佳作だが、それでも嬉しいものは嬉しい。
「はぁ……」
そこに亜子の作品はなかった。
「またダメかぁ……」
「元気出しなって! ほとんどの人が何ももらえないんだから」
女性の塾生に肩を叩かれた。
(確かにそうだけど……)
「あ、佐々木さん銀賞だ!」
「ホントだ! すごい!」
「おめでとうございます!」
「ありがとうございます」
(ああ、やっぱり先輩はすごいなぁ)
亜子はもう帰りたい気持ちになっていた。
「わぁ……」
「金賞の絵もすごいですね」
「うん、何か上手いというより、心がざわつくっていうか」
「うんうん、それ分かる」
「どこの人なんだろう…………え」
「どうしたの?」
「これ」
受賞者の氏名を指さす塾生。
「山下亜子……ってここにいる山下亜子さん?」
「そんな訳ないでしょ! だって亜子ちゃんはもっとこう青い感じの……。佐々木くんのことが好きで―」
「しっ!」
亜子が優人のことを好いているということは皆分かっていた。だが、そのことを本人は知らない。
「それより、山下さん!」
地面を見つめる作業に入っていた亜子は急に大声で呼ばれて顔を上げた。
「どうしたんですか?」
「これって、本当に山下さんの絵?」
ゆっくりと視線を件の絵に向ける亜子。
「あ。私の絵だ」
状況をよく理解できていない亜子は、それだけつぶやいた。
しかし、周りは大はしゃぎだ。
「え、やっぱりそうなの!?」
「すごいです!」
「こんな絵も描けるんだ!」
「やったじゃん!」
職場での昼休み。
亜子はなんとなくスマートフォンでコンクールで撮影した自身の絵を眺めていた。自分が金賞をとったことが信じられなくて、幾度となく見返した画像。
「金賞、とったんだよなぁ……」
最近になってようやくその実感が湧いてきた。
「その絵、誰が描いたの?」
「え、あ、はい?」
いきなりかけられた社長の声に驚く亜子。
「覗き見してごめんね。でも、その絵素敵だよね。誰の絵? 好きな画家さん?」
「好きというか…………自分の絵なので答えづらいんですけど……」
「えっ、そうなの!?」
社長は目を丸くした。
「はい……お恥ずかしいです……」
「そうなんだ。いや、何かいつも淡々と仕事してて人生楽しんでなさそうだったから意外だよぉ」
「あはは……」
大きなお世話だと思いつつ、亜子は愛想笑いを浮かべた。
「何か一枚絵描いてよ! ここに飾るから!」
「え……それはちょっと」
突然の申し出に困惑する。
「あ、タダって訳にもいかないよね……いくらで描いてくれる?」
「い、いえ! そんな、お金なんてもらえません! 私の絵で良ければいくらでも描きます……!」
「お、じゃあ宜しく頼むよ!」
「はい!」
社長は満面の笑みで「お代は特別報酬ってことで入れとくから」と言い残して出張に出かけていった。
それを見送った亜子は、フツフツとやる気がみなぎってくるのを感じていた。
職場に自分の絵が飾られた頃、亜子は自信に満ち溢れていた。今なら、全てのことが上手くいく気がしていた。
(先輩にも言えるかもしれない)
ずっと言えないでいた優人への気持ちを伝えるチャンス、そう思った。
そして。
「先輩」
静かな夕方の教室。今は、亜子と優人しかいない。
「どうしたの?」
亜子の心臓は緊張で破裂しそうだった。対する優人は、ごく自然で、いつものように涼やかだった。
「調子でも悪いの?」
「いえ、あの……」
(頑張れ、亜子! 金賞、とったんだから!)
心の中で自分を叱咤し、勇気を振り絞る。
「私、先輩のこと……」
両手に力をこめた。
「ここに来た時から……ずっと好きでした! お付き合いしてください!」
(言っちゃった……!)
恥ずかしすぎて、目をつぶった。五秒、十秒。優人からの返事を待つ時間が永遠にも感じられた。
優人はそっと口を開いた。
「……知ってた」
(ああ、やっぱりバレバレだったか……)
苦笑いを浮かべて目を開けた時。
「何で、今なんだい?」
そう聞かれた。
「え?」
「金賞をとれたからかい?」
その口調はいつものように涼やかだったけれど、彼の顔に、笑顔はなかった。亜子は正直に答えた。
「……はい」
いくら待っても、彼からの返事はこない。代わりに、彼は別のことを話し始めた。
「僕ね、大学の時から金賞をとったことないんだ」
確かに、彼が金賞をとったところは見たことがなかった。とったのは全部銅賞や銀賞。
「君は、僕の絵は好きかい?」
「は、はい! 大好きです! いつも先輩みたいな絵を描きたいって思って……」
必死過ぎたかもしれない。優人はちょっとだけ微笑んだ。
「僕にも好きな絵があるんだ」
優人は遠い目をする。
「大学の時の僕の先輩に、とても綺麗な絵を描く人がいたんだ。青を基本にした、涼やかで、でも、心が温かくなるような不思議な絵だった」
「それって……」
「ああ、僕はその絵を描きたいんだ」
優人は亜子の声に出さない予想を肯定するように頷いた。
亜子が憧れていた絵を描く優人は、さらに他の人に憧れていたのだ。なんだか、胸の奥がチクリとした。
「でも、全然上手く描けなかった」
「そんなことないです! 先輩の絵はすごく素敵です!」
本心だった。
「ありがとう。でも、僕の目指してる絵じゃない」
だが、優人は否定した。
「今回のコンクールね」
「はい」
「最後のチャンスだと思って必死に描いたんだ」
「え」
「笑えるでしょ? 今までで一番頑張って描いた絵でも、金賞をとれなかったって」
優人が今まで見たことがない顔で自嘲した。
「君も、同じだと思ってたんだ」
「私が、ですか?」
「うん。僕の絵を必死に真似して、描けなくて落ち込む」
「……」
「だから、声をかけたんだよ。仲間ができたみたいで嬉しかった」
「私も! 誘ってもらえて嬉しかっ―」
「でも、違った」
「え」
「違ったんだよ」
夕焼けに照らされる優人の顔は泣きそうなような、怒ってるような、そんな不思議な顔だった。
(先輩って、こんなに感情を剥き出しにする人だったっけ……?)
「君は憧れた青い絵じゃなくて、気持ちの全てをぶつけた真っ赤な絵で金賞をとった」
「それは……私が優柔不断だから……」
「優柔不断の一言でっ!!」
優人が急に声を荒げた。亜子はもう本当に訳が分からなくなっていた。ここにいるのは、本当にあの涼やかで優しい先輩なのだろうか。
「優柔不断のたった一言で! 僕の十年間を片付けるのか!」
怖かった。怒っている男の人が、というのもあったが、自分の知らない優人がそこにいることがもっと怖かった。
「馬鹿にされた気分だったよ! 挙げ句の果てに君は……絵と、たかが恋を一緒にしたんだ!」
もう、何も考えられなくなっていた。瞳が、曇っていく。
(絵って何? 恋って何? 先輩って……何だっけ?)
「僕の十年間は、もう終わった」
最後にそう言い残して、優人は去っていった。
教室は、もう夜の色に染まっていた。
亜子が告白をしたあと、佐々木優人は教室に姿を現わさなくなった。
「……ねぇ、あれどうにかなんないの?」
「いや、無理だね。何回か話しかけたけど『はぁ』とか『うん』とかしか言わないから」
遠巻きに亜子を見て会話する塾生たち。当の本人はといえば、画板に向き合ってひたすら絵を描いている。
(全然、分からない)
優人の絵を真似してみれば、彼の考えてることが分かるかもしれないと思ったが、何一つ分からない。
「やっぱり、佐々木さんが最近来ないことと関係あるのかな」
「それ以外ないでしょ」
「あ、もうこんな時間だ」
「本当だ。僕も帰らなきゃ」
「おーい、山下さん私たち帰るよ?」
「……はぁ」
「あと、お願いしてもいい?」
「……はい」
理解できているか怪しいが、一応返事は返ってきた。
「じゃあさよならー」
教室で一人になった亜子は、しばらく動かし続けていた筆を止めた。
「先輩……」
あの日以来、来なくなった優人の画板を見つめる。
「やっぱり、私のせいかな……」
指先で、優人の画用紙をなぞる。
「先輩は、次に何を描く予定だったのかな……」
画用紙は何も描かれることなく、白紙のままだった。
「はぁ……」
ため息をついた時、亜子はあることに気がついた。
(画用紙の下に、画用紙?)
指でなぞったからか、白紙の画用紙がずれて、下にもう一枚の画用紙が現れた。
(見ても、いいよね?)
私はそっと画板の留め具を外し、画用紙をめくった。
「―」
言葉が、出てこなかった。視界を埋め尽くす、赤。情熱的でいて、哀愁漂うその絵は、
優人と二回目に出かけた場所だった。
(私と、同じ)
亜子がコンクールに出した絵と、同じ場所。
(だけど)
レベルが違った。優人の絵は、圧倒的なまでに亜子の遥か上をいっていた。そう、金賞をとった自分の絵よりも。
「下手くそ」、そう言われた気がした。
それと同時に、分かってしまった。
(こっちが、先輩なんだ)
素の彼はこっちが本物で、でも夢を追いかけて青い絵を描いていた。自分の半分の力も出せない絵で勝負して、あのクオリティ。それでも、その努力は亜子の気分一つで描いた絵に先を越されてしまった。
そして、亜子が恋した先輩はそこにはいなかった。
(これは、馬鹿にしてるって言われても仕方ないな……)
私は今、ひどく不細工な笑みを浮かべていることだろう。
この時から亜子は塾を休んだ。ショックを受けたからということもあった。でもそれ以上に、自分がどんな絵を描けばいいのかが分からなくなった。
「でも、これでいいよね」
自分のせいで優人は教室に顔を出さなくなった。
「丁度いい、罪滅ぼしかな……」
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