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第四章

もうひとつの甲子園

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  障害者の就職先の一番手は、公務員だ。
  企業には、43.5人以上雇用している場合は、障害者を1人以上雇用しなければならない、という規則がある。
  しかし入退院を繰り返したり、検査をしたりで仕事を休むと、やはり会社に不利益を与える事になる。だから雇う方もためらうし、勤める方も気を使うので、なかなか理想通りには行かないのが現実だ。数字を達成出来ない企業には罰則もあるが、それを払ってでも雇わない企業もある。
  だけど国は、自分達がそういう方針を打ち出している以上、手本を示さなくてはいけないので、企業に比べて積極的に障害者を採用している。
  障害者用の公務員試験があり、障害者の採用枠が設定されている。受験資格も、一般の公務員試験に比べて高い年齢まで認められている。中途でも受験出来る様にという配慮である。
「俺、受けてみるよ」
「えらい簡単に言うな。前向きなのは大いに結構やけど、なかなかの倍率やで?」
  この子から初めて具体的な就職相談を受けた。もちろん出来る限りサポートしてあげたい。ただこの子は野球以外の進路は考えていなかった。受験勉強もろくにしていなかったはずや。
 試しに、過去の問題を解かせてみた。
 思った通りの結果だった。
「あんた、授業中寝とったやろ?」
 ウチがそう言うと、この子はへへへ、と頭をかきながら笑った。今までのどこか冷めた笑いではなく、本当に楽しそうな笑顔だった
「あ、でも俺、赤点は取った事が無いんだぜ」
  それは自慢なんか、と思うが、その実績?が功を奏し、入院で試験を受けられなかった哲坊を卒業させるかどうかの、最後の決め手になったそうや。
「出席日数はギリギリセーフだったからな。三年生は登校日も少なくて助かったよ」
  卒業証書は、野球部の子達が病室へ届けてくれて、御両親が大切に持って帰られた。
「やっぱり、もうちょっと、考えて、みるよ。仕事、は公、務員、だけじゃないだろ?」
 卵と納豆をかけたごはんをズルズルと掻き込み、モゴモゴと言いながら哲坊が答える。
「飲み込んでからしゃべりぃや。まあ確かに、焦る事はあらへん。こればっかりは、コンビニの弁当みたいにレンジでチンッというわけにはいかへんからな。お袋の手料理みたいに、じっくりじっくり手間暇かけんとな。始めちょろちょろ中ぱっぱ、赤子泣いてもふた取るな、っちゅうやつや。知っとるか?」
 哲坊は、なんだよ、それ、と吹き出すと、
「訳わかんねえよ。でも、確かばあちゃんがそんな事を言ってたな」
 と、“ほんの”十六歳の差を大げさに感じさせる様なセリフを口にした。
「ばあさん言うな!まあでもそういうこっちゃ。米の飯も、やわらかいより、少しおこげがあるぐらいの方が美味いって言うやないか」
「炊き過ぎて、本当に焦げちまったらどうすんだよ!」
 こんなやりとりも、出来る様になった。
「あと、車も欲しい」
 移動制約者にとって、車は必須だ。
 公共交通機関だと、逆に時間が読めない。色んなトラブルの起こる要因が多過ぎるからだ。
 例えば電車だと、ラッシュの時間はまず乗れない。
 仮に乗れても、降りられない事がある。
 混雑もそうだが、電車からホームに降りるまでの段差や隙間が問題なのだ。車椅子の車輪の大きさではクリア出来ない駅が結構ある。この大きな隙間は貨物列車の大きさに合わせて作った為、なのだそうだ。だから普通の車両だと余るのだ。
 もっと社会が成熟してくれば、周りにいる人が自然と手を貸してくれるのだろう。
 でも今はまだまだ駅員さんが頼りである。
 降りる駅に前もって、駅員さん同士で、何分後に車椅子の方が到着しますので宜しく、と連絡をしておく。するとその駅のホームで駅員さんが待っていて、移動可能な所まで運んでくれるのだ。
 ところが、この連絡が上手く取れていない場合がある。結果、降りたい駅で降りられず、乗り過ごしてしまう事がある。
 時間が決まっていない場合なら、そういうトラブルを経験しておくのも、ある意味リハビリのうちだと言えるだろう。だが仕事など遅刻が許されない場合は、道路の渋滞がある事を考えても車で移動する方が無難と言える。ただ車を使うか公共交通機関を使うかの選択を健常者が当たり前に出来る様に、障害者も自由に選択が出来る環境が整備されればええな、と思う。
 哲坊に関しては、こう言うとあれやけど不幸中の幸いで免許は持っている。
 後は障害者仕様の車の操作だけだ。
 足が使えない為、レバーでアクセルとブレーキを操作する。
 オートマチック車の変速レバーが、これに変わった様な感じだ。
 手前に引くとアクセル、奥に倒すとブレーキ、という具合。
 ハンドルは片手で回す事になるので、回しやすい様に取っ手が付いている。
 船舶のハンドルの様な感じだ。
 色々と免額もある。
 税金とか、あと高速道路の料金が半額になったりもする。
「車を買ったら、江戸さん、乗せてやるよ」
 さっき売店で買って来たという、移動制約者の為の観光ガイド(車椅子用のトイレの有無、盲導犬が可能かどうか、バリアフリー度の高いレストラン、ホテル、観光名所などが詳しく紹介されている)を見ながら、本当に楽しそうに言った。
 驚いた。
 たった一日でここまで変わるのか。
 改めてたまちゃんに感謝したいと思った。哲坊のサインくらいじゃ、とても足らへんな。
「そういえば昨日あの後、えらい盛り上がっとったやないか」
 ウチは哲坊の体を熱いタオルで拭きながら冷やかし半分で言った。
「うん。今日はええ顔しとるな。やっぱりあんたは根っからのスポーツマンやな」
 昨日までなら、それがもう歩けなくなった人間に言うセリフかよ、とか卑屈な言い返しをして来るのだが、何か吹っ切れたのか、全く気にならない様だ。
 ウチが哲坊の病室から出た後、彼は谷口にこう切り出したそうだ。
「谷口さん、今日ってグラブ、持っていますか?」
  そして、小さな勇者にも声を掛けた。
「たまちゃんも、一緒に来るか?」
 哲坊は久しぶりに持つボールの感触を楽しんでいた。
 ボールには108個の縫い目がある(と、哲坊から教えてもらった)。哲坊はそのすべてにまるで話しかける様に、ボールを掌の中で回しながら、1球毎に縫い目に掛ける指の場所を変えていた。真っ直ぐ、カーブ、シュートなど色んな球種を試している様だった。

「座って投げていると、俺の方がキャッチャーみたいじゃね?」
「お前の二塁送球を取る、セカンドとショートは可哀想だけどな」
  谷口がグラブを付けた左手を、痛そうにヒラヒラさせた。
「今の俺のボールじゃあ、ハエが止まりますよ。肩、肘から指先の感覚は残っていますけど、下半身が使えないのはやっぱり、(ボールが)イった感じがしないですね」

『いや、回転とか、(グラブを)突き上げる感じとか相変わらずイイよ。最高だ』

  この病院は、全ての病室から中庭が望める様になっている。花木が季節毎に咲き変わり、患者さん達の目と鼻と、心を楽しませている。
  この贅沢なキャッチボールに気付いた患者や看護師、先生達が、一人、また一人と増えてゆき、ついには黒山の人集りが二人をぐるりと囲んでいた。
 哲坊のボールが谷口のミットに届くと、乾いた音が中庭に響く。
「オォーッ」と歓声が上がる。
  あの子が優勝した甲子園の大歓声には遠く及ばない。
  テレビの全国中継ももちろんない。
  だけど哲坊のリハビリをずっと見ていて、同じ辛さを持った人達の拍手は、五万人の声援にも負けないぐらい温かかった。
  噂を聞いたウチは、ナースセンターを抜け出して、この光景を少し低い建物の屋上から眺めていた。特等席や。
  あんなに生き生きとした哲坊を見るのは、あの子がこの病院に来てから初めてだった。
  空は真っ青に晴れ渡っていた。まるで哲坊が投げる伸びやかなストレートの様な飛行機雲が、ウチの視界を対角線に横切って行く。梅雨明け前。もうすぐ夏が来る。
 空を見上げながら、この時泣いた事は、ウチと、眩しいほどの青空とだけの秘密にしておこうと、ちょっとキザに思った。

「なあ、哲坊。人が幸せになるのは権利やない。義務なんや。だから自分の手で捕まえなあかんねんで」

  トントン…
  
  ウチらの会話と回想シーンに、ドアをノックする音が割り込む。
「あの…」
 ドアを開けると、車椅子に乗った男がぺこりと頭を下げて、少々緊張気味に切り出した。
「すいません、実は今、ここの体育館で車椅子バスケをやっているのですが、人数が揃わなくて。それでもし坂本君さえ良ければ、一緒にやって頂けないかと思いまして…」
  
  どうやら昨日のキャッチボールを見て、スカウトに来た様だ。
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