80’Sシガレット

よし あき

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     80’シガレット


                        よし あき













プロローグ


2021年、多くのタバコが540円の時代に、

マイセン、180円?

知らない銘柄だ。何処の洋モクだろうか?


























第一章  大都会の片隅 


 午後9時。独り身で基本的に自炊はしない為、外食をすると帰宅はもう少し遅い時間になるが、会社近くの定食屋が臨時休業で食べ損ねてしまった。今日はコンビニ弁当で適当に済ませようと思う。
 自宅までは駅から約10分。西の出口を出て直進、次の曲がり角までは約200メートルあるが、生活道路を挟んだ両側に、床屋、コンビニ、クリーニング屋、居酒屋等、自営でやっている店が多く立ち並ぶ。何とか商店街という名前は特に無い。アーケードも付いていない。まあ、一癖も二癖もある店主揃いだから、商店街クミアイなんていう物を作ったとしても、彼らが様々な決め事に従うとは思えない。むしろ「決まり事は、破ってナンボ」、「唯我独尊」が服を着た様なヤンチャ者達にとっては、その商店街会則こそが、争いの火種にもなりかねないのだろう。
 そんな無頼者の城と城との隙間、まさにひっそりと存在している細長く小さな店らしき建物があった。あった、というのは、今までこの少し古びた商店の存在に気が付かなかったからだ。一人の若い女性が、この店のシャッターを締めて、すぐ隣の自宅らしき家屋に入って行く姿を目撃するまでは。
 看板を見ると、「TOBACCO」とあった。
 タバコ屋?
 この街には20年住んでいるが、どれだけ存在感薄いんだよ。
 そういえば、タバコはコンビニで買うもの、と思っていた。タバコ屋では買った事がない。というか、世間にタバコ屋がある事を忘れていた。
 それにしても、あそこのタバコ屋が~、等の世間話すら聞こえてこないとは。
 あと見た事がない、丁度人が一人通れるくらいの抜け道があった。覗くと向こうに道路が見えた。いつの間に出来たのかは分からないが、ここを通れば、方向的に自宅までショートカット出来そうだ。通路に何も置かれて無い事を確認し、10メートル程歩いて細道を抜けた。予想通り、自宅近くの道路と繋がっていた。おそらく3分くらいは時間短縮出来たはずだ。という事は通勤時も駅までの時間が短縮された訳で、朝の3分は大きい。建て替えされたのか、区画整理なのか、原因は不明だが、俺にとっては瓢箪から駒の有難い贈り物だ。
 もう一つ、良く分からない物を見つけた。
 近道を抜けると、唐突にタバコの自動販売機があった。良く分からない、というのは、売っている銘柄が一つしかなかった。ディスプレイも一個だけ。飲料の自販機であるような、良く売れるから購入レーンが複数あるとか、この商品を売る為だけの販売機で、五つくらいボタンがある様な仕様ではない。ポツンと一個売り。俺が知らないだけかもしれないが、こんな販売機は初めて見た。体色はまるでその存在を隠す様な、アスファルトや背にした建物と同じ色。どうりで足早に家路を急ぐだけの普段は気が付かない訳だ。さらに小さな機体も俺の目を避けさせた。遠慮がちな佇まいは、避妊具の販売機を思わせた。コンドームがタバコに入れ替わった様な感じだ。
 販売機の正面には、

「新発売!マイセン、180円!」

 というポップな字体が踊っている。
 マイセン?聞いた事がない銘柄だ。しかも値段が180円?洋モクかな?
 国産のタバコは大体500円だから、それより300円も安い事になる。
「大丈夫か、これ……」
 そもそも、これは本当にタバコなのか?と疑ってみたが、確かに機械の上部には「Cigarette」と書かれていた。
「まあ、いつもの半分以下だし、試しに買ってみるか」
 コイツちゃんと動くのか?と訝しがりながら、百円硬貨二枚を自販機に入れた。
「コイン飲み込まれて終わり、なんてオチはやめてくれよ」
 商品は一つだが、選択ボタンがある。ランプの様な物は点かない。不審さは増すばかりだったが、まさか爆発まではしない、大丈夫だろうと、覚悟を決めて、押した。丸い、ゴムの様な柔らかい素材の中に、人差し指の第一関節まで飲み込まれた。
「ブー、ガチャン!コトン。カチャーン、カチャーン」
 機械的な無駄に大きな音に、ビクッとした。刹那、ディスプレイと同じ商品と、お釣りの20円が出てきた。十円硬貨は、二枚とも縁にギザギザが付いていた。証拠品として、財布には入れずにポケットへ突っ込んだ。タバコはその場で封を破り、中身を確認した。匂いは確かにタバコだ。一本取り出して、軽く齧ってみた。シガレットチョコレートでもなかった。火もつけてみたかったが、路上喫煙になってしまうので家に帰ってからにする。後から問い合わせる為、自販機の機体に電話番号が無いか探したが、見つからなかった。
「今晩は」
 低く、重い声にまたしても俺はビクッとなって、声の方に振り向いたら、警察官が立っていた。
「ここで、何をされているのですか?」
 どうやら、職質の様だ。
「最近、自動販売機のつり銭ドロが目撃されていましてね。ちょっとお話を伺ってもいいですか?」
 普段なら、こんな面倒臭い事はないが、今日に限っては、渡りに船だ。逆にこちらから、この地域を熟知しているはずの専門家に色々と聞きたい事がある。
「つり銭ドロですか?その事なら、少しはお話出来るかと……」
 嘘は付いていない。確かに俺の右ポケットには、さっきのつり銭が入っている。
「それは有難い。では、派出所まで御同行願えますか?」
 少し関西訛りの標準語で俺を促すと、23歳の俺よりも30くらい年上に見える大柄な男は、先導する様に大股で歩き出した。

「身分証明書、見せて頂けますか?」
 野太い声に、俺は素直に免許証を、派出所の、良くある事務机の上に提示した。
「岡本健一さん。23歳。現住所でお間違いないですか?」       
「はい。変わっていません」
「このすぐ近くのマンションですね。あそこで何をしていましたか?」
 マニュアル通りと思われる、質問が続く。
「自動販売機でタバコを買っていました。つり銭は出ましたけど、自分が払ったお金ですから、俺の物です」
 田上、と名札を付けた警察官は、淡々と調書を書いている。
「自動販売機の周りをウロウロしていたみたいでしたが?」
「電話番号が無いか、探していました。タバコの値段があまりにも安く、怪しかったものですから。もし不良品でしたら連絡をするつもりでした」
「タバコのパッケージには、連絡先は無かったですか?」
「まだ見ていませんでした」
 今確認したら、「日本専売公社」の連絡先が書かれていた。
「専売公社?JTやないんですか?えらい古いタバコですねぇ」
 古い、と言われて賞味期限を確認したら、81年2月だった。
「そちら、拝見させてもらっても良いですか?」
 俺はさっき封を切ったタバコと、つり銭の20円を机に置いた。田上警察官?巡査?肩書きは分からないが、机の引き出しから取り出した白い手袋を両手にはめて、タバコを念入りに確認した。
「マイセンやないですか。懐かしいなぁ。これいくらで売っていたんですか?」
「180円です」
「180円言うたら、確かに1980年頃の値段やなぁ」
 懐かしさで一瞬気が緩んだのか、田上さんは急に関西弁で話し始めた。
「あの、関西では、そのタバコが今も180円で売っているのですか?」
 偏見だが、関西はバッタもん?と言われるものが多いと聞いた事がある。
「いやいや。関西でもお目に掛かった事はないですね。たまに帰省しますけど」
 一本、吸わせてもらってもいいですか?と田上さんが三分の一だけ封を切った正方形の隙間へ、太い人差し指と親指を器用に入れて取り出した。
「あ、賞味期限は大丈夫なんですか?」
「カビが生えていなければ、問題はないでしょう。風味は無くなっているでしょうけど」
 警察官のお墨付きがあれば、と思い、俺もソフトボックスの底を叩いて一本取り出し、火を付けた。

「ふぅ~~~」
「ふぅ~~~」

「やっぱり風味が無いと、ただ辛いだけやなぁ。最近は低タールのもんばっかり吸うてたから余計に重く感じますね」
「普段は、何を吸われているのですか?」
「アークの1㎜です。健さんに憧れましてね」
 そういえば、岡本さんも健さんですね、と笑いながら話を続けた。
「アークやその他の銘柄も一ミリの低タール・低ニコチンの物が増えてきましたからね。当時のマイセンも軽さが売りでしたけど、今の物と比べるとタールは多めだったかもしれませんね。タール10㎜くらいだった様な……」
 確かに今俺が吸っている銘柄よりも濃く感じる。香料が抜けている事もあるだろうけど、喉がちょっと痛い。でも味は、これがタバコ葉の純粋な味なのだろう。
「岡本さんは、普段何を吸われるのですか?」
「シリウスの1㎜です」
「おお、元・マイセンじゃないですか」
 田上さんの説明によると、シリウスは、マイセンが名前を変えて発売した商品だそうだ。 
「古いタバコが、なぜあんなところで売られていたのでしょうか?」
「昔の売れ残っていたマイセンが急に見つかって、在庫処分をしたかったのかもしれませんね」
 まあ、そう考えるのが自然だと、俺も思った。でも、値段まで当時のままとは。
「タバコは、確か自分で値段を決められないと聞いた事があるのですが」
 俺の問いに、田上さんが、答えてくれた。
「小売業者間で、商品のやり取りをする場合は、フリーみたいですね。でも消費者への売値は定価じゃないといけないはずです。小売価格を変更する場合は、確か財務大臣の許可が必要だったはずですね。まあ警察官が業者を取り締まる為の、ざっくりとした知識ですが」
「じゃあ、この値段設定、結構問題じゃないですか?」
「そうですね。自動販売機のオーナーさんが、許可を取っていなかったら、ですが」
「販売機に電話番号の表示が無いのは、凄く怪しいですよね」
「知ってしまった以上、私も動かない訳にはいかないですからね。販売機の確認をしようと思うのですが、岡本さん、もう少し捜査に御協力頂いても宜しいでしょうか?」
 俺も気になる。一人手探りで調べるより、田上さんと一緒の方が心強い。だから進んで捜査に協力する事にした。
「じゃあ、行きましょうか。あ、岡本さんはさっき吸ったタバコで、何か体調に変化はありますか?私は大丈夫なのですが……」

 ぐぅ~~
 ぐぅ~~

「岡本さん、食事まだでしたか?じゃあ先に何か食べましょう。カツ丼でいいですか?」

















第二章  スタンド・バイ・ミー


 俺、田上誠作のタバコデビューは八歳だった。
 
 父のお使いでタバコを買いに行くのが自分の仕事だった。近所の酒屋でタバコを取り扱っており、大体ワンカートンを頼まれる。
 様々な酒瓶が所狭しと並んでいた。飲みたいとは思わないが、色や形はカッコイイと思っていた。
 お使いはしていたが、まさかあの歳で自分が吸う事になるとは。
 近所で良く遊んで貰っていた十二歳の純お兄ちゃんが、親のタバコを拝借してきた。いつもの仲間の前で、おもむろにポケットから取り出した。
「ちょっと、吸ってみっか」
 流石に誰かの家とか、道端で堂々という訳にはいかないので、ブロック塀に囲まれた、草野球くらいは十分出来る広さの空き地で隠れて吸う事にした。俺達はそこを「塀の中」と言っていた。
 脱獄犯が自由を求める様に、ブロック塀を乗り越えた。背の小さな者は、大きい者に肩車をしてもらい、ブロックの上に乗った。ブロックの高さは約一メートル。そこから飛び降りるのだが、これから俺達は親にも言えない悪い事をするのだ、という歪んだ好奇心に満ち溢れたガキ共にとっては、度胸試しにもならない高さだった。
 五人が塀の中へ逆に「脱獄」すると、塀にぴったり近付き、皆しゃがんで円になった。タバコを持ってきたお兄ちゃんが一本取り出し、100円ライターで火をつけ、まず自分が吸って見せた。
「ふぅ~」
 いかにも慣れた風に煙を吐く。
「兄ちゃん、いつも吸っているの?」
「いや、初めてやで。親の吸い方を真似しただけや」
「どう?美味しい?」
「胸が熱い感じはするけど、どうって事は無いな」
 流石はお兄ちゃんだと思った。
 俺達は歳がバラバラだった。学年が上の者から順番に、一口ずつ回し吸いをする事にした。俺は四番目だった。
 皆、お兄ちゃんを真似て煙を吐き出し、何事も無く吸っている。余裕だな、と大人ぶった笑顔を見合わせていた。
 俺の番になった。俺は人差し指と中指で、火のついたタバコを受け取った。火から遠い、出来るだけ根元を持ったつもりだったが、それでも少し熱かった。中で何かが蠢いている感覚があった。今思えば、タバコの葉が少しずつ燃えていたからだろう。このままでは指を火傷する、と思った俺は、覚悟を決めて白いフィルター部分を口に運んだ。皆が先に吸っていたからか、ややしんなりとなっていた。
 誰も噛んではいない様だったので、俺も唇だけで、ストローでジュースを飲む様に、何も考えずに吸い込んだ。
「ゲホッ!ゴホッ!オエッーーエェッ!」
 今までに体験した痛みや辛さとは、全く種類の違う苦しみだった。
 皆は心配しているのかいないのか、大丈夫か、と笑う。
「俺は、もういい。タバコはニ度と吸わへん」
 そうだな、やめとけ、と言いながら、悪童達の遊戯は続けられた。最後の順番だった俺より年下の奴が、平然と吸っていたのには怖さも感じた。
「吸うんじゃなくて、口に含むんやで」
 それは正しいタバコの吸い方ではないのだが、
「どこでその吸い方覚えたん?」
「さっきお兄ちゃんがそうしとった」
 抜け目がなく、したたか。こいつは五人の中で一番ワルの才能がある、と思った。

 塀の中から出てきた俺達は、何食わぬ顔でそれぞれの家へ戻ったのだが、各家庭ではほどなく大騒動になった。

 一人の家では、弟が母親の膝に乗ってじゃれた時に、臭いでバレた。兄も芋づる式にバレた。
 一人の家では、洗濯物に着いた、やはり臭いを問い詰められて、白状させられた。
 純お兄ちゃんの家は、他の家のヤツが口を割って発覚した。
 俺の家は……
 自営業をしている父が、たまたま自宅に戻る途中で、近所の人から話を聞いた様だ。
 俺はその時二階にいたのだが、父が物凄い勢いで階段を昇って来た。
「お前、タバコ吸ったんか!」
 鬼の様な形相だった。あんな怖い父を見たのは、後にも先にも無かった。
 胸ぐらを掴まれ、投げ飛ばされた。
「他に誰が居たんや!」
 その時の俺には、友達を守ってやろう、という男気などは欠片も無かった。ただただその時の父が恐ろしかった。
「そいつらの家に、連れて行け!」
 悪童達は皆長屋住まいで、何処の家へ行くにも30秒と掛からなかった。
「ごめん下さい」
 父が隣近所にも聞こえそうな大声で、最初の家である五号室を訪ねた。玄関の電気が灯り、木製の引き戸がカラカラと開いて、割烹着姿のふくよかなお母さんと、修君が顔を出した。
「御夕食の時間に、申し訳ありません。実は……」
「タバコの事でしょうか?実はさっきまでこちらも叱りつけていたところでした」
「申し訳ありません。ウチの誠作も一緒になって吸っていたのです」
「誠ちゃんの事も聞きました。びっくりしましたよ。この子を膝に乗せたら、タバコの匂いがしたので。でも家で吸った形跡もないから、問い詰めたらブロック塀の向こうの空き地で、皆で吸っていたと言いまして……修がご迷惑をお掛けして、申し訳ありません」 
「見えなければ、バレないと思ったのでしょうね。子供が悪い事をして、親が気付かないとでも思ったのでしょうか」
 いや、お父さんは人から聞いたやろ、と思ったけど、もし聞かされていなくても、父か母、どちらかに多分バレただろうな、と感じた。
 その後、同じ様に各家庭を回り、父はその度に頭を下げていた。私が悪いんです、と。
「いいえ。誠作は悪く無いです。僕がみんなを誘ったんです」
 純お兄ちゃんが、悪いのは自分です、と父に言った時、後ろから一番大きなお兄さんが出てきた。
「田上さん、この度はご迷惑をお掛けして、申し訳ありませんでした」
 俺が悪い事をしたのに、何故大人達が謝っているんだろう、という疑問の答えを知るのは、もう少し後の事だった。ただ子供心に、自分がまだキチンと謝っていないのはズルいと思った。

「タバコを吸って、ごめんなさい」

 そう言うと、踵を返してこれまで訪ねた家へ独りで戻り、同じ様に謝った。
「誠ちゃん、偉いね」
 何故褒められたのかを知るのも、もう少し後の事だ。
 父とお兄ちゃん達が、俺が戻るのを待っていた。大きいお兄さんが、俺の頭を撫でてくれた。父は、俺を見つめる時は厳しい顔をしていたが、お兄ちゃん達には優しい顔だった。
「それでは、失礼します」
 仕事の途中だった父は店には戻らず、パチンコへ行く、と言い出した。
「今店に戻ったら、何をしていたんやとお母さんに聞かれるから、時間を潰してくる。お母さんには、今日の事は言うなよ。お前は飯食って風呂に入って早く寝ろ。」
 父と別れた俺は、砂利道を鳴らしながら駆け足で5秒ほどの自宅へ入り、引き戸の鍵を閉めた事を確認し、父に言われた通り飯と風呂を済ませて、あっという間に眠りに就いた。





























第三章  水色の雨

 
 掃き出し窓を開けて、部屋の空気を入れ替えた。東向きだからか、陽が落ちてくると夏でも少し空気が微温く感じる。逆に朝は大げさではなく、文字通り刺されるほどの陽射しを浴びる事になる。でも早く目が覚めた時、東の空がゆっくりと赤く色付いていく様子を眺めるのは、結構いとおかし、なのである。
 今晩は満月。雲も無く、くっきりと浮かんでいる。低い所にあるからか、大きく見える。側で光る明るい星は、木星だろうか?
 俺は携帯灰皿を持ちベランダに出て、タバコに火をつけた。届くはずもない満月に向かって、煙を吐き出した。
 田上さんから、まだ連絡はない。あの後自販機を確認しに行ったが、やはり連絡先は見付からなかった。もう一度、避妊具の販売機の様な小さめの機械にコインを入れて、購入出来るのか試してみたら、今吸っている物と同じマイセンが出てきた。
 まあ、商品に問題が無ければ、サイフにはとても助かる。喉の痛みにも徐々に慣れてきた。特に体調にも変化はない。
 一日一箱は吸っていたから、500円を30日で15000円。
 それが180円を30日で5400円。
 年間約10万円以上金が浮く事になる。机上計算だけではない、割とリアルな思わぬ臨時ボーナスに、素直にワクワクした。じゃあタバコをやめれば?という正論は受け付けない。
 但し、こんなに安いなら、おそらくあっという間に売り切れるだろう。在庫処分であればそれほど数があるとは思えないし、果たして一年も買い続けられるだろうか。
 やっぱり机上の夢計算かな……
「消費税、無くならないかな」
 俺はまた、大きく煙を吐き出した。
 
「熱ッ!」

 タバコを持つ手に何か熱い物が当たった。
 ぼんやりして、火のついた灰を落としたのかと思ったが、そもそもタバコを持つ手に灰が落ちるはずがない。ベランダの床と、体が濡れていた。何が起こったのか分からないでいると、上の方から声が聞こえた。見上げるとケトルを持った女が怒鳴っていた。

「ちょっとぉ!ベランダ喫煙は禁止って、掲示板にも貼ってあるでしょ!ルールは守ってもらえませんかね!?」
「あ、どうもすいません、って、おい!あんた、だからって熱湯をかけなくてもいいだろう?火傷したらどうするんだ!」
 手から落ちたタバコをベランダシューズで慌てて踏み消しながら、俺も怒鳴り返した。これは十分、暴行罪だ。確かにルールを守らなかった俺が悪いのだが、いくらなんでもやり過ぎだろう。 
「何か勘違いしている様ですけど、私はベランダでコーヒーを飲もうとしていただけよ。あなたに熱湯をかけるつもりは無かったわ。ドリップをしくじってこぼしちゃったのは、ゴメンナサイ」
 確かに右手にはケトル、左手には少し小さめに見えるマグカップを持っている。
「まあ、お湯がタバコを持つ手に当たった時は、少しだけザマアミロって思っちゃった事は否定しませんけど」
 この野郎、やっぱり確信犯じゃねぇか。田上さんに通報するぞ。
「ちゃんと部屋で吸って下さいよ」
「部屋は、壁が汚れるから嫌なんですよ。一応、貸して貰っている身なんで」
「ご自分で、どれだけわがままな事を言っているか、分かっていますか?」
 矛盾はしているかもしれないが、わがままではない、と心の中でささやかな抵抗をした。
「そんなに外で吸いたいんだったら、屋上へ行けばどうですか?」
「ベランダはダメで、屋上は良いんですか?」
「バカと煙は、高い所へ上るって言うでしょう?」
 一瞬、意味が分からなかったが、俺の真上でベランダの柵に両腕と顎を乗せて、ヤンチャな感じの笑顔を浮かべる彼女を見ながら、意味を理解した。
「煙が迷惑だった事は分かりました。でもバカとは誰の事なんですかね?」
 さあ?と、肩をすくめ、彼女はとぼけた反応を見せた。
「ねぇ、これから屋上に来ませんか?」
 空を指差しながら、さっきまでクレームを入れていた俺を誘ってくるとは、どれだけ空気を読まないというか、図太いんだよ。これ以上、関わりたくない。
「いいえ、今後は部屋で吸いますので、大丈夫です。お気遣い有難うございます。あと御迷惑をお掛けして申し訳ありませんでした。それでは、失礼します……」
「私、このマンションのオーナーの娘なんですけど、改訂された管理規約も渡したいので!」
「それ、あとでポストにでも入れといて下さ~い」
 面倒臭そうに返事をしたら、一段大きい声で、身を乗り出して彼女が叫んだ。

「早く渡したいんです!特にルールを守らない、310号室の岡本健一さんに~!」
 
 エレベーターで11階まで行き、そこから屋上までは階段を使う。少し錆びが目立ち、所々腐食もしている。折れたりしないだろうな、と心許ない足元を気にしながら、ゆっくり階段を上った。屋上に到着したら、オーナーの娘は先に来ていて、缶ビールを飲んでいた。一台だけど、椅子とテーブルが置かれていて、屋上テラスの様だ。さっき部屋から見た満月が同じくらいの高さにあった。まるで俺が浮いている様な、不思議な感覚だった。
「如何ですか?当マンション自慢の憩いスペースは?」
「これ、入居案内に載っていなかったと思うのですが?」
「そうですよ。私が昨日、引っ越して来てから始めましたから」
 彼女は、椅子を指し示し、俺に着座を促した。
「いいえ、管理規約を受け取ったら、失礼しますので……」
「改めまして、当マンションのオーナー代行、楠笑(くすのき えみ)と申します」
 俺の話に被せる様に、さっきと同じヤンチャな笑顔で、名刺を渡された。
「岡本さん、まだ、怒っていますか?」
 正直モヤモヤはある。でもこのマンションを借りている以上、これから何かと関わる事もあるだろうから、気まずいまま、というのも良くないだろう。
「いえ、俺も悪かったので。310号室の岡本です」
「宜しくお願い致します。和平交渉、成立ですね」
 そう言うと、楠さんはポケットからタバコを取り出し、火を付けた。美味そうに澄み渡った夜空に向かって煙を吐き出した。
「ふぅ~。ここで吸う一服は最高!」
 意外だった。
「あんなに煙を嫌がっていたので、吸わない方だと思っていました」
「ルールを守らないのが嫌なだけで、喫煙とビールは私の癒しですよ」
 灰皿に置かれたタバコから、副流煙が立ち上る。
「せっかくですから、岡本さんもどうですか?ここより上に、人は誰もいませんから気を使わなくていいですよ」
 月のうさぎくらいですかね~と、楠さんがおどけて笑った。
 不覚にも、三角形のサングラスを掛けたヤンキーっぽいうさぎが、餅つきの臼に腰掛け、杵を杖の様に使いながら偉そうにタバコを吸っている絵が浮かんで、思わず吹き出してしまった。
「え?私、何かおかしな事、言いました?」
「いいえ、何でもありません」
 俺は、笑いをこらえながら、マイセンに火を付けた。
「あれ?そのタバコ、ちょっと見せてもらってもいいですか?」
 俺は箱を手渡した。
「見た事のない銘柄ですね」
「吸ってみますか?賞味期限は過ぎていますが」
「それ、大丈夫ですか?」
「カビ等が無ければ、問題ないそうです。香料は消えてしまっているので、風味はしませんが。あと普段軽いものを吸っている人には、タール多めに感じるかも。俺は初めて吸った時、喉が痛かったので……」
 と、彼女がメンソール系の軽めのタバコを吸っている事に気が付いたので、一応教えてあげた。楠さんはためらわず細い人差し指と中指で一本抜き出し、小さなガスバーナーの様なライターで火をつけた。風で消えない強い火力にする為のアダプターを、100円ライターに付けたそうだ。
「うわっ辛っ! 確かにちょっと喉が痛いですね」
 タバコの味しかしない~おじさんの味だ~と感想をこぼす彼女に、あの自動販売機の事を話そうか迷った。迷ったのは、田上さんも絡んでいるのであまり騒ぎを大きくしたくなかった気持ちと、同じマンションという事は楠さんも見ていて、何か分かるかもしれないという気持ちが次の言葉を躊躇わせた。
「岡本さんも喉が痛かったそうですけど、普段は軽いものを吸っているのですか?」
「はい、これはたまたま安く手に入ったからで、普段は俺も1㎜です」
「え?安いって、タバコのディスカウントなんてあるのですか?」
 結局話の流れ上、このタバコを手に入れた経緯を話す事にした。

「そういう自動販売機は見た事ないですね。それにしても180円は安いですね」
 箱を色んな角度から見つめながら、楠さんが続けた。
「でも、違法ですよね」
「警察の人も、そう言っていました」
 楠さんが、スマホで検索をした。
「マイセン、180円。1980年の商品ですね。ただ、もしそれが当時の正規価格なら、単に売れ残りを売るだけなので、違法じゃないのでは?」
 田上さんの話だと、今の販売価格と違う場合、必ず許可は必要、との事だった。
「厳しいのですね。タバコ屋さんも早く売り切ってしまいたいでしょうに」
「そうですね。賞味期限も大幅に過ぎていますし、定価では多分売れないでしょう。俺も安いから買っただけで」
「あとはそういうレトロなタバコを集めているコレクターとか?」
「いいかもしれません。500円で売れば、320円の利益が出ますね」
 ちょっと、真面目に転売を考えた。この濃いタバコを一箱吸い切るのは結構しんどくなってきた。でも、今何も解明されていないうちにそれをやると、俺も違法取引に加担した事になる。いや、解明されたらますます出来ないか・・・

 ふぅ~
 ふぅ~
 
 二人で月に向かって、煙を吐き出した。

「私、これ無理かも。口直しの飲み物取って来ます。岡本さんも何か飲みますか?」
「あ、お気遣いなく。俺はもう部屋に戻りますから大丈夫なんで……」
「顔が不味いって言っていますよ。住民の健康を見守るのも、オーナー代行の務めですから、私は水とビールにしますが、岡本さんもそれでいいですか?」
 それ以外を要求、拒否する事を許さない勢いで、満月をバックに彼女は素早く立ち上がった。つまみはあれかな~と言いながら踵を返すと、俺が慎重に登ってきた少し錆びた鉄階段を躊躇なく降りて、まるでウサギの様な軽やかさであっという間にエレベーターホールへ消えて行った。

 














第四章  そして僕は途方に暮れる


「働き過ぎは良くないぜ!過労死旬滅、サボラビッツ!」

 小さなトライアングル型のサングラスを掛け、杵を背中に担ぎ、足を組んで臼に腰掛け、ヤンキー風情の赤・青・黄色三匹のウサギが、タバコを旨そうに吸っている。只今ストライキ中、だって。臼には「月億興業」と書かれている。いかにも悪徳金融臭のする名前だと思った。
 先日、楠さんと話している時にイメージしたウサギ達のアニメがあったとは。俺は心を読まれた気がして、適当にチャンネルを変えた。

 普段より少し遅めの朝食を終え、タバコに火を付け、コーヒーのお代わりをサーバーからカップに注いだ。タバコの煙とコーヒーの湯気が艶かしく絡まり合い、ゆったりとした休日の時間を感じさせる。今日は何をしようか。過労死とは最も対岸にあるようなノープランには、一日を無駄に過ごしてしまった時の後悔で、気持ちが不完全燃焼のまま一酸化炭素中毒になってしまう様なリスクがある。開け放した窓に向かってマイセンの煙を吐きながら、その危機を回避する方法を模索した。
 他にする事もなかったので、この賞味期限切れタバコの謎を解明する為に、あの販売機の調査に一日を使う事にした。

「こんにちはー」
 田上さんの居る派出所に顔を出した。一際大きな田上さんがいればすぐに分かるはずだ。中を少し覗いてみた。
「おお、岡本さん!」
 田上さんが大きく手を振ると、指先が天井に届きそうだった。派出所の奥からでも届く、大きな太い声で、勤務中にも関わらず気さくに挨拶をしてくれた。どうぞどうぞ、と言う声に促され、前回と同じ中の椅子に座った。忙しそうだったらすぐ立ち去ろうと思っていた。
「例の販売機の件ですよね?」
「はい、その後何か分かりましたか?」
 田上さんは、手に抱えていたファイルを開き、俺に見せてくれた。あの販売機の写真が数枚収められていた。
「普通の古い販売機ですね。何処にでもありそうな。昔はこういう販売機も珍しくなかったですからね。普通じゃないのは、自動販売機統一ステッカーが無い事ですね。ただ剥がれただけかもしれませんが」
 色の変わった部分を指して、ここに貼ってあった可能性がありますね、と説明してくれた。
「それが無いと、販売出来ないんですよね?」
「義務ですから。認可が下りていないという事です。なので販売元に言わないといけないのですが、連絡先が分かりません。近隣の店舗や住民に聞き込みをしても知らない、との事なので、撤去する事にしました。あと、鑑識に調べさせたのですが……」
 田上さんが、突然俺の手を取った。
「指紋が、無いんですよ」
 え?
「岡本さん、買いましたよね?ボタンを押して、取り出し口からマイセン取りましたよね?」
 田上さんが自分のスマートフォンを出し、画面が点いていない液晶の上に、俺の指を押し付けた。べっとりと、俺の指紋が刻印された。そしてメガネ拭きで、その指紋を軽く拭いた。完全には取れず、うっすらと指の形が残っていた。
「岡本さんがしっかりと自分で拭き取っていなければ、指紋は残ります。それが無いという事は、誰かが拭き取った訳です。だから所有者は必ずいるはずなのですが……」
 写真に写っている自販機のボタンの辺りを芯が出ていない状態のボールペンでトントンと叩きながら、独り言の様に問いかけた。
「普通、わざわざ、拭き取りますかね?」
 確かに、俺がもし所有者だったら、余程汚れていなければ拭かないだろう。
「しかも、雑巾などで拭いたのなら細かい傷が付くので直ぐに分かります。また傷が消える様な研磨剤を使っても分かります。つまり磨いた形跡が無いのに、指紋が消えているのです」
「たまたま、俺の指紋が薄かったとか……」
「手前味噌ですが、うちの鑑識は優秀ですよ」
 しかも俺は仕事帰りで少し汗もかいていた。付けない方が難しいだろう。
「俺以外の人の指紋も、全く検出されてないですよね?」
「はい。一つも出ませんでした」
 でもそれは分かる。俺以外が単に触っていないだけだろう。
「指紋を残さない犯罪も事例はありますが、岡本さんですからね……」
「俺が闇ルートで仕入れたタバコを、不正転売した、と?」
「それをするメリットって、ありますか?定価で売るなら意味はありますが、安く売ってまで」
「麻薬の隠し場所としてあの販売機を媒介にしているとか?」
「解体出来れば良いのですが、所有者の許可なく中を開けられないのが悔しいですね」
「マイセンの中に仕込んであるとか……」
「先日吸った味で、麻薬ではない事は分かりました」
「そうですよね……」
「迷宮の入口ですね。とりあえず追求してみますよ。日本の警察を舐めんなよ!絶対に謎を暴いてやりますよ。岡本さん、お時間を取らせて申し訳ありませんでした。もしかしたら危険な事に巻き込まれる可能性もありますから、ここから先は私達にお任せ下さい。岡本さん、捜査に御協力、有難うございました」
 
 その二日後。
「無くなりましてね。販売機が……」
 え?
「昨日です。一昨日、岡本さんと一緒に現場検証をした時にはまだあったじゃないですか。改めて昼間に確認をしたら撤去されていたのです。近くのタバコ屋の店主に聞いても、ウチでそういう販売機は扱っていません、無店舗個人じゃないでしょうか?と言うので、財務局に確認したら、この地区で申請は上がっていない、との回答でした」
 という事は、楠さんと販売機の話をしていた時は既に無くなっていた訳だ。でも、昨日仕事の帰りは販売機があり、購入もした。その旨を田上さんに伝えると、
「では、再度検証という事で、現地に行ってみましょう。このあとの予定は大丈夫ですか?」
「はい。買い物へ行くだけでしたので」
「捜査への御協力、有難うございます!」

 現場に来たら、販売機は変わらずそこにあった。

「あれ?昨日は無かったのに!」
 田上さんは、まさに神隠しにでも会った様な顔をしている。
「まさか、岡本さんがいる時だけ見える販売機とか……」
「いやいや、俺にはそんな特殊能力は無いですよ……と思います」
「最後、ちょっと弱気になりましたね。まあええですわ。どっちにせよ財務局の申請が下りていないウラは取れていますから、見えている間にこちらで回収しますわ」
 レッカー車?の様な物が来て、手際良く販売機を回収していった。
「岡本さん、捜査に御協力、有難うございます!」
 田上さんは、少し改まって、俺に敬礼をした。
 俺は、何だか釈然としないまま、彼の背中を見送った。田上さんが嘘を付くとは思えない。という事は、昨日の時点で販売機が無くなっていたのは事実だと思う。でも、今俺の目の前には販売機が確かにあった。昨日もあった。田上さんだけの時は姿を消していた。これは、俺がいる時だけはあの場所に販売機が存在しているという仮説が成り立つ。でも、誰が、何の為に……
「楠さん、今部屋にいるかな……」
 確かめる為に、第三者の目を借りようと思った。俺はマンションに戻り、エレベーターで4階へ上がり、俺の310号室の真上の部屋、410号室の呼び鈴を鳴らした。
「はい。え?岡本さん!」
 インターホン越しに、慌てている様子が手に取る様に分かる。
「あの、どうかされましたか?」
「先日お話した、タバコの自販機の事で、御相談がありまして……」
「はい」
「あの、ここではちょっと話辛いですので、屋上へ行きませんか?」
 部屋へ上がらせて貰う訳にもいかないし、かといって俺の部屋へ来て貰う訳にもいかない。
「分かりました。準備をしますので、15分後に屋上で」
「有難うございます。では後ほど」
 インターホンが切れて、俺も一旦部屋に戻る事にした。今日は自分で飲み物を準備しておこう。
 
「お待たせ致しました。御相談と言うのは……」
 屋上の日差しを気にしてなのか、ややつばの広い白帽子に、白いブラウス、先日のアクティブな印象通りの、腰が高めで裾が短めのブルーデニムに白いスニーカー、という服装で楠さんが現れた。手にはタバコとライター、ビールではなくペットボトルを持っていた。
「すいません、お部屋にお呼びする訳にもいかないと思いまして屋上で。でも結構暑いですね。俺は大丈夫ですけど、楠さんは大丈夫ですか?」
 それなら、と楠さんは倉庫から日除けのパラソルを出してきてテーブルに取り付け、手際良くハンドルを回して傘を開き、俺に座る様に促した。
「実は、販売機が回収されました」
「じゃあ、やっぱりその販売機は違法だったという事ですか?」
「そうですね。警察が調べたら許可申請が無かったので……」
 そして警察が確認出来なかった後、俺だけは販売機の存在を確認した事を伝えると、楠さんはじっと俺の顔を覗き込み、肩や腕等ボディチェックを始め、最後に俺の左胸に右手を当てて、目を閉じた。
「心臓は、ちゃんと動いていますね」
「まさか、俺が幽霊か何かだと思いましたか?」
「不自然な事を説明する方法は、限られていますから。一番確率が高そうな事を疑うのは当然ですよ」
 幽霊の存在する可能性って、そんなに高確率なのか?
「霊の存在を、信じているのですか?」
「私は、無神論者です。でも否定はしません」
 それは、存在を認めているって事だよな……でも、そう言われると妙な感覚になってきた。
 
 俺は、本当に俺なのか。もしかしたら自分で自覚していないだけで、実は俺は幽霊なんじゃないか?
 
 そういえば一年前に、事故に合って意識不明の重体になった。
 その時実は俺は既に死んでいて、今のこの体は霊体で、今俺がいるこの世界は霊界なんじゃないか……
 だから、指紋が無かった、と。いや、田上さんのスマホにはちゃんと映っていた。

「どうやら、思い当たるフシがある様ですね?」
 怪しげな呪術師の様に、楠さんが聞いてきた。
「いやいや。無いですよ。今触って確認しましたよね?」
「触れられた、様な気がしただけかもしれませんよ?」
 どうしても、この人は俺を幽霊にしたいらしい。
「楠さん、何か変な宗教に入られていますか?勧誘ならお断りですから」
「先程も言いましたけど、私は無神論者ですよ」
 俺の中で、すっかり見慣れたヤンチャな笑顔を浮かべて言った。
「どうすれば、俺が霊体じゃない事が証明出来ますか?」
「とりあえず、販売機が回収されたという現場へ行ってみましょうか?お話を聞いた後、まだ現場へ行っていなかったので、案内してもらっても良いですか?」

 え?

 自販機がある。

「これが、問題の自販機ですか。お話の通り、小さめですね」
「いやいや、さっき、ほんの一時間ほど前に警察が回収したばっかりで……」

 プルル……
 
「はい、岡本です。あ、田上さん。先程はどうも」
「岡本さん、お忙しいところ申し訳ありません。実はさっき回収した自販機が回収場所から盗まれたみたいでして……」
「あの、それなのですが、今ここに……さっき回収した場所に戻っています」
「どういう事だ?岡本さん、確かに一緒に確認しましたよね?うちのレッカーに載せて、運ぶところを見送りましたよね?」
「はい、確かに」
「盗み出して、と言っても、うちの保管場所からあの大きさのブツを誰にも見られずに運び出すなんて不可能。引田天功ばりのイリュージョンでも使わないと」
 でもあれはタネがあるから、と楠さんが横でツッ込む。
「人の電話、盗み聞きしないで下さい!」
「そんな大きな声で話していたら、盗まなくても聞こえますよ」
 そういえば、と田上さんが申し訳無さそうな声で切り出した。
「岡本さんの指紋が検出されなかった事と、何か関係があるのですかね」
「え?」
 やっぱりね、と楠さんがヤンチャに笑い、
「岡本さんの霊力、ですね」
 間違いなく、と我が意を得たとばかりに、ウンウンと頷いた。
「俺は警察の保管物を盗んだりしませんし、そんな能力もありませんから!」
 勝ち誇った様な楠さんの顔は、今まで見た中で一番嫌いだった。

 






第五章  ミッシング


 俺が所属していた高校の野球部は、夏の甲子園出場を掛けた地区予選の決勝戦を前に、部員が喫煙事件を起こし、決勝戦を辞退した。俺は吸わなかったが、「止めろ」とは言わなかった。見て見ぬ振りは、それを行った者と同罪なのだという事を、俺は身に染みて学んだ。
 自分で言うのも気恥ずかしいが、俺は地区でそれなりに注目された投手だった。甲子園に出場して、目一杯アピールしてプロに行く事が夢だったが、事件を起こした高校の、「それなり」の投手に声が掛かる事は無かった。
「岡本、お前にはどれだけ謝っても足りないくらい、申し訳ない事をしたと思っている。それで進路は、もう決めたのか?」
 監督が俺に頭を下げながら、聞いてきた。
「見て見ぬ振りをした、俺も悪いんです。仲間の将来を心配してやれなかった、選手としても、人としても俺は未熟でした。野球を続けたいとは思っていますが、プロの指名や大学・社会人からまだ声が掛かりませんので、自薦で大学のセレクションを受けてみたいと思っています」
「そうか。じゃあ、俺の母校で良ければ、受けてみるか?お前の話をしたら、来て欲しい、と言われたんだ。今はまだ二部なんだが、お前の力で一部に引き上げてみないか?」
 監督の後輩が、そこで監督をしているそうだ。
 もし本当に一部へ引き上げるくらいの力が今の俺にあれば、他の大学から多少は声が掛かっていただろうと思う。大方、後輩氏へ俺の面倒を見てやってくれ、と頼んで下さったのだろう。それが考え過ぎでは無いと感じたのは、セレクションに来ていた選手のレベルが想像していたよりもずっと高かったからだ。皆体もデカい。うちの監督に頼らないといけないほど、選手に困っている感じでは無かった。
 とはいえ、おそらくここのチャンスを逃したら、俺は硬式野球を続けられないと思ったので、野球は今日が最後、のつもりで今までに無いくらい全力でプレーをした。
 他の選手より、俺が唯一秀でていたものは、この悲壮感だったのかもしれない。実力はあっても、他にセレクションを受ける予定だったり、コネがあったりすると、それはプレーに表れる。いわゆる「練習受験」みたいな雰囲気だ。あまり強くない学校のセレクション会場ではありがちだと、あとから聞かされた。
 何とか合格した俺は、四年間この大学で投手のローテーションを守り、四年時には主将も任された。
 だが、夢だったプロからの声は掛からず、俺は自分の実力に見切りを付け、ここで野球をやめる決断をした。プロに行けなければ、社会人では仕事に専念しようと、大学入学の時に決めていたからだ。
 大学ではタバコは一切やらなかった。同じゼミの連中は講義の合間に吸っていたけど、喫煙ルームに付き合う事はなかった。スタミナの事を考えるとマイナスでしかないし、高校の時の事もあってタバコにはネガティブな印象しかなかった。
 社会人になってからは、まるで別人の様に吸い始めた。
 理由はまさに、別人になりたかったからだ。
 仕事のストレスも原因ではあるが、野球をやっていた自分と完全に決別したかった。過去の自分と絶対的に違う行動や嗜好を選択する事により、生まれ変われるんじゃないかと思った。俺にとって喫煙とは、それくらい今までの人生で最も対岸にある世界だった。
 その前自未到の場所の中毒性は、想像以上だった。
 始めは、そうは言っても一日に数本くらい吸えば十分だろうと軽く思っていたら、日に日に本数が増えていった。そんな矢先に、このとんでもなく安いマイセンと出会ってしまった。金の負担が減った事で、消費にますます抵抗が無くなった。今では平均二箱は吸っている。このペースはヤバく、ブリンクマン指数で肺がん発症の危険値と言われている400に、あと9年で到達してしまう。流石に33歳では死にたくない。
 
「岡本さん、こちら、会社の健康診断の予定です。ご自身の日時を確認して、受診を宜しくお願い致します」
 総務の人が俺の部署にやってきて、検査セットを手渡していった。他の社員にも渡している。俺は入社してから二回目の健康診断になるが、今回はちょっと怖いな。肺が真っ黒になっているのではないだろうか。まあ逆に、このタイミングで体に悪いよ、と医者に言って貰えた方が、吸う本数にブレーキが掛けられるかもしれない。黒い肺の写真を見せられたら、危機感が薄い心へ響くのではないだろうか。俺は早速封を開け、一週間後の午前10時に設定されていた日時を確認して、書類の角が折れない様に、鞄の中に閉まった。帰りに飲みながら夕飯を食べようと思っていたが、今日は酒を止めておこうと思った。

 健康診断の会場であるクリニックへ到着すると、事前に準備をした排出物と問診票を受付に提出して、ほぼ待たされる事無く案内された。用意された服に着替えると、ベルトコンベアに乗った部品の様に手際良く、残業続きで摩耗した俺の各部の検査は順調に行われた。胃カメラ前のバリウムと炭酸を除いて。昨年もここで時間が掛かったが、口の中で泡が破裂しそうになるのを何とか堪えて飲み込んだ。
 検査を終えて、最後の問診の部屋へ入った。各項目の説明があり、特に目立った疾患はありませんね、と言われ、ホッとした。
「最近、タバコの量が増えていたのですが、肺が黒くなっていませんでしたか?」
 俺のこの問いに、問診担当の女医が少し馬鹿にした様な笑い方をした。
「それ、良く言われますが、レントゲンで喫煙の有無までは分かりませんよ。肺がん等はある程度判りますけど」
 肺を取り出したら、タールが付着しているでしょうけど・・・と言ったあと、
「まだ23歳ですよね?もしかしたら小学生くらいから吸われていましたか?」
 俺は、そんなに荒んで見えるのだろうか?
「いいえ、喫煙歴一年くらいです」
「一日100本くらい吸っていますか?」
「そこまでは……二箱くらいです」
 40本、と言わなかったのは、安タバコに手を出して本数が増えたヘビースモーカーという、自分自身の若さ故の過ちを認めたくないという想いが、無意識に働いたのかもしれない。
「それを十年くらい続けたら危険かもしれません。もちろん個人差はありますが、まだ心配するレベルではないでしょう」
 でも、早めに禁煙される事を強くおすすめしますよ、と問診の紙を検査センターの名前が入った封筒に入れながら、
「タバコは百害あって一利無し、ですから」
 お大事に、と最後は笑顔で見送ってくれた。
 俺は、ひと仕事を終えた様な開放感から、ちょっと落ち着きたいと思い、スマホを取り出し、喫煙の出来る喫茶店を探した。

 
 
 









第六章  探偵物語


「で、これを私に見せて、どうしろと?」
 楠さんは、俺があげたマイセンの呼出煙を、ドヤ顔の俺に軽く吐き出した。
「いや、だから、健康診断の結果を……」
「それは、見れば分かります。喫煙の影響も無く、肺も異常無し。良かったですね!」
「なので、俺は幽霊では無いという事で……」
「それを言う為に、わざわざ私を呼び出したのですか?」
「はい。身体に異常が無ければ、俺は人間っていう事ですから」
 楠さんは、今度はテーブルに置かれた健康診断の結果シートに、マイセンの煙を吐きかけた。灰皿の中で次の一服を待っている俺と楠さんの、マイセンの副流煙が立ち上がる。この絵面だけを見ると、原稿にダメ出しをしている編集者に、ボツを回避すべく何とか食い下がっている作家とのやり取りみたいだ。
「病気じゃなくても、成仏していなければあなたは幽霊なのです。健康診断の結果は関係ないですから。憑依している肉体に問題がないだけで、霊としての本質は変わりません」
「だから!俺は幽霊じゃ無い。今をちゃんと生きているんです」
「霊としてね」
「霊だったら、既に死んでいるでしょう!霊として生きるって、意味が分からないんですが!」
 多分このやりとりも、周りから見れば物語の設定について激論を交わしていると思われているのだろう。ほかにこんな事をガチで言い合うのは、宗教の勧誘か頭がおかしいかのどちらかだろうから。
「そんなに俺を幽霊にしたいのは何故ですか?」
「今まで起こった事に対して、一番説明が付くからです」
「じゃあ、俺じゃなく、田上さんが幽霊って事もありますよね?」
「田上さんが一人の時は見えなくて、岡本さんと一緒の時はあの販売機が見える。ハッキリしているじゃないですか」
「でも……」
「あ、ちなみに私も見えませんでしたよ」
 ちっ、先に言われたか。
「わかりました。誰も幽霊じゃない。それでいいでしょう?」
「私はそれでも構いませんが、何の解決にもなっていないですよね?」
 確かに。ここでもう何も考えない様にする事は簡単だ。今後何が起こっても、無視。販売機にも、近付かない、あのタバコも買わない。丁度良かったじゃないか。医者にも禁煙をすすめられていた。本数が減れば、俺の肺がんのリスクも減る。
「岡本さんが、自分が霊だと言う事を認めないと、先には進めないと思いますよ」
 まだ言いますか。
「じゃあ、俺が自分は霊だと認めたら、この謎は全て解決すると言うのですね?」
「はい」
「その根拠は?」
「岡本さんが霊であれば、霊と対峙する事が出来ます。その霊を成仏させる事が出来れば、霊は消えますから。どうやらあの販売機は霊力を纏っている様ですね」
「霊を成仏させるのは、霊じゃなくても出来ませんか?」
「霊感、は必要ですね。岡本さん、霊感はありますか?」
「いや、無いです。今まで感じた事も出会った事もないです」
「突然、覚醒する事もありますよ。あとはやはり御自身が霊になる事……」
「俺はどうすれば?」
「さっきも言いましたが、霊が成仏する理由を突き止める事ですね」
 とりあえず、楠さんとあの販売機をまた見に行く事にした。

「やっぱり、ありましたね。本当は警察が保管しているはずでしょう?」
 霊力を纏っている、と言われてこいつと向き合うと、今にも何か語りかけてくる気がするから、意識の刷り込みとは怖いものだと思う。
「岡本さん、話し掛けてみては?」
「何を?」
「何でもいいです。例えばスマホへ話し掛ける様な感じで。この子に意思があるかのチェックなので」
「じゃあ。OK、ルールル。明日の天気は?」
「岡本さん、真面目ですね」 

「明日の天気は、晴れです」

 ウワッ!
 いきなり、ビンゴ!
「楠さん、反応しましたよ!」
 楠さんが、俺の左手を指さした。
 どうやら、俺のスマホのルールルが返事をした様だ。ビックリした。
「岡本さん、力み過ぎです」
 でも、反応はしなかった。俺はスマホを楠さんに預け、もう一度試してみた。
「OK、ルールル。マイセン下さい」

「……」

 反応無し。
「この子が成仏出来そうな事、聞いてみたらどうですか?」
「それが分からないから、困っているんですけどね……」
「妄想でいいですよ。この子が昔どんな場所にいて、どんなお客様に買われて、雨の日は大変だっただろうな、とか、暑かったり寒かったり、機嫌の悪いお客様とか、酔っ払いとか、八つ当たりで蹴られたりしたのかな、とか……」
 自販機の人生、とは言わないか、歴史?
 成仏出来ないって事は、この世に思い残す事があるって事だよな。
 タバコの自販機が後悔している事って、なんだろう?
 たまたま故障していて、せっかく買いに来たお客様に、商品を提供出来なくて御免なさい、という気持ちとか?
「そう言えば、お釣りなんですけど、いつもギザギザの十円玉が出てくるのは、何かあるのでしょうか?」
「岡本さん、今そのコイン持っていますか?」
「ありますよ」
「試しに、入れてみてもらえますか?」
 俺は財布からギザギザの入った十円を取り出し、自販機に投入してみた。

「カチャーン」

 普通に吸い込まれただけだった。俺はレバーを動かし、返却口から十円を取り出した。同じギザギザの入った十円硬貨が返ってきた。
「……」
 俺はもう一度、ギザ十を投入し、レバーを倒した。今度も同じ、ギザギザの十円玉が返ってきた。
「……」
「岡本さん、どうしました?」
「俺の知り合いに自販機メーカーの奴がいるのですが、一度入れたコインは中で収納されて、返却の際は同じ金額の違う硬貨が出てくるらしいです。今は偽造硬貨対策で、新型の機械は入れたコインがそのまま返却されるのですが、これは明らかに旧式。もしかしたら、こいつの中には、釣り銭の十円硬貨はギザ十しか入っていないのかもしれません」
 俺は同じ動作を五回ほど繰り返してみた。やはりギザギザの十円しか出てこない。どうやら俺の仮説はまるで見当違いでも無い様だ。
「ギザ十に、何か特別な思い入れがあるのでしょうか?」
「聞いてみましょう」

「OK、ルールル。お前の、ギザギザの十円玉の思い出を教えて?」
「その、オッケーって、もういらなくないですか?」

「ブーッ!」

「ウワッ!楠さん、俺のスマホのバイブじゃないですよね?」
「違います!この子が反応しました!」
「よっしゃ!成仏の手掛かりはギザ十で合っていますね!」
「でも、今の音、何となくダメ出しの音っぽくないですか?」
「間違いって事ですか?でもさっき天気の話や、タバコの自販機のくせにマイセンの話には無反応だったじゃないですか?という事は、ギザ十は何らかのキーワードにはなっていると思うのですが……」
 楠さんは、腕組みをしながら、じっと自販機を見つめている。
「岡本さん、ちょっと……」
 楠さんが俺に近付き、耳打ちをした。
「分かりました。やってみます」
 オホン。

「自動販売機様。大変恐縮なのですが、あなた様のギザギザの十円玉にまつわる思い出を、お聞かせ頂けると有難いのですが、宜しいでしょうか?」

「カチャーン、カチャーン……」

 次々とギザ十が、返却口に落ちてきて止まらない。溢れそうなので慌てて取り出した。
「今度は何だっていうんだ!?」
 枚数を数えたら、十八枚あった。
「180円か。マイセンと同じ金額ですね」
「ギザ十が18枚。これがどうやら成仏のキーワードみたいですね」
「楠さん、良く見抜きましたね」
「屋上でマイセンを吸った時、味がおじさんタバコだった事を思い出して。おじさんって、礼儀に厳しい人もいるじゃないですか。さっき岡本さん、お前、って言い方だったから、もしかしたらそれがお気に召さなかったのかなって」
 面倒臭い。なんで自販機にそこまで気を使わないといけないんだ。確かに俺の方が「歳下」だけど。こっちの意思が通じるなら、もったいぶらずにさっさと教えろや。
「さて、謎の鍵は手に入りました。次はこの鍵の持ち主を探しましょう!」
 楠さん、楽しそうだな。
 良く考えたら、俺は何故こんな面倒な事に関わっているのだろう。
 自販機に敬語まで使って。
「これで、岡本さんが霊だと言う事が確定しましたね!」
 はいはい。俺は霊です。なんだっていいよ。
「でもそれは、もう一つの謎を増やした事にもなりますね」
「?」
「もし霊だとしたら、自販機だけじゃなく、岡本さんも成仏しないといけないじゃないですか。あなたの成仏の条件も一緒に探しましょう!」 
 俺がこの世でやり残した事って、なんだろう? 
 俺は18枚のギザ十を、財布には入れず、ポケットへ無造作に流し込んだ。 














第七章  デリケートに好きして


 楠笑。23歳。職業、家業手伝い。父が管理をしているマンションに住み込んで、建物の運営や経理・事務等の仕事を手伝っている。娘を目の届く所に置いておきたい両親と、一人暮らしをしたいが、経費をなるべく抑えたい私の思惑が一致した訳だ。小さい頃あなたはヤンチャだった、と良く聞かされた。
「目を離すと、あなたは直ぐに居なくなるんだから」
 小さなあなたが視界から消えるとね、心配で生きた心地がしないのよ、あなたも子供を産めば解るわ、と言われたのは一度や二度ではない。うちのマンションは、建物自体はかなり古い。現在の耐震基準前に建てられた物件なので、修繕や部屋のリノベーションを掛けながら売り貸しをしている。部屋のデザインや機能については、私の意見がかなり取り入れられていると思う。部屋が不満で出て行かれてはたまらん、という事なのだろうか。   
 まあ、娘が住みやすい部屋は、他のお客様も住みやすいと考えたのかもしれない。
 一番のお気に入りは、バスルームだ。
 自動で浴槽にお湯を溜められ、温度調節も簡単に出来る。洗い場も浴槽も広さは十分で、足を真っ直ぐ伸ばしても余る。おそらく、男性でもゆったり入れるサイズだ。レバー式の水栓とシャワーはステンレス製で錆びにくく、手入れも簡単で清潔感がある。素材についてはキッチンの水栓も同様だ。数多ある汚れの中で、水回りの汚さは特にテンションが下がる。マメに掃除をするタイプではない以上、物理的な性能に頼りたい。現代人の労力は、その補助に過ぎないのである。
 
 喫煙歴は約三年。二十歳になったら、直ぐに吸い始めた。大学に入ったら周りが皆喫煙者だったので、流されたところもあるし、浪人の末何とかギリギリで合格し、受験勉強を終えた開放感が、タバコという大人だけに許される世界への冒険心を掻き立てたのかもしれない。
 浪人せず、簿記の専門学校へ行く選択肢もあったが、それでは家の仕事に全てを捧げてしまう様な気がした。それは避けたかった。
「そう思うなら、何故現役で合格出来なかったの?」
 御両親様の、仰る通りでございます。せめて予備校に掛かった学費は、仕事でお返し致しますので。でも受験とは、とても理不尽だと思う。例えば300点の人が受かって、299点の人が落ちる。まるでアスリートのタイムの様な一点で、人生をカジュアルに仕分けされるのだから、もう実力や学力というよりは、運命としか言いようが無いと思う。 
 好きな男に振られた、くらいの感覚じゃないだろうか。
 大学なんて、男みたいなもの、星の数ほどある。
 落ちた当初は、そう自分に言い聞かせていた。
 ちなみに後から聞いた点数は、1点差どころでは無かったそうだ。
 
「おばあちゃん、今日の夕飯は何?」
「笑の好きな、肉じゃがだよ」
 一人暮らしの悩み、食事を時々祖母が作りに来てくれる。昔ながらのタバコ屋をやっているおばあちゃんの家は、うちから徒歩10分くらい。出来た物を届けてくれる事もあれば、ここで作ってくれる事もある。
「あなたのところのキッチンは、本当に綺麗で立派だねぇ。これなら料理の腕もさぞや上がるでしょうね」
 カウンター越しに話しかけてくる目は、意地悪だった。料理を作る事と、ちらかったキッチンを片付けるのが、「良い料理人は作り終わった時には片付いている」が口癖の、祖母の仕事だ。
「まずは、ビールばっかりの冷蔵庫を何とかしなさいな」
 ビール、チーズ、キムチ、塩辛等々、主につまみ類が常備されている。友人に言わせると、私の冷蔵庫は「居酒屋・えみ」なのだそうだ。電気代を節約する為に付けているカーテンが、まるで暖簾みたいだという。ひどい話だ。
「そもそも材料がないと、作れないからねぇ」
「私って、簿記とか計算得意じゃない?だから、材料が余らない様に買い物するの、得意なのよね」
 祖母は、三口コンロの一番右側を指差して、ここしか使っていないでしょう?と言った。
「鍋を乗せると、バーナーのキャップは汚れないのよ。お湯を沸かすか、せいぜい目玉焼きを作るくらいかねぇ。そのケトルも乗せっぱなしでしょう。でも他の二つは汚れている。使っていない上に、掃除もしていないね。私が今磨いたから綺麗だけど」
 指で埃を拭って、嫌味を言う姑か!
「彼氏でも出来れば、ちょっとは変わるのかねぇ」
 おせっかい婆さん!
「そんな事を言って、私が何でも出来る様になって、彼氏も出来ておばあちゃんに会う時間が減ったら淋しいくせに」
「そういう気持ちを、死ぬ前に味わってみたいねぇ」
 私の事を心配してくれているのだろう。
「洗い物は、私がやるよ」
 安定の旨さの肉じゃがを食べ終わり、鍋の残りを保存容器に詰め替え、冷蔵庫の暖簾の奥に閉まった。
「それ、ちゃんとおかずとして食べるのよ」
 ちっ、相変わらず鋭いな。胃に入れば一緒じゃない。相方が、麦(ビール)か米かの違いだけでしょ。
「おばあちゃん、食後のコーヒーとお茶、どっちがいい?」
「じゃあ、コーヒーを貰おうかね」
 リクエストに応えて、ハンドドリップの準備を始める。
(普段あまり使っていない)左側のコンロにケトルを置いて、火を掛けた。コーヒーメーカーは格好いいけど、手入れが面倒くさそうなので今の所買う予定はない。
 お湯が沸くまでの間、ベランダに出た。今日は空が澄んでいて月が綺麗だ。
「あら、良いお月様」
「うん。大きくて、真ん丸」
 お湯が沸いた音を聞き、キッチンへ戻り火を止めた。お湯を細く出し、ゆっくりケトルを回して、三回に分けてドリップをした。
「私、ベランダで飲むね」
 カップ片手にスリッパを履き、手すりに手を掛け、改めて月を見上げた。
「今月は月齢が15.0なんですって。本当の満月ね」
 どおりで。しかも丁度今の時間なのだそうだ。ますます今宵の月を有り難く思える。
 ん?何か匂うな……
 部屋を見たが、さっき火は止めたはずだ。
「おばあちゃん、私、火、止めたよね?」
「ええ、消えているわよ。どうかしたの?」
「何か変な匂いがするの。あ、これタバコだ」
 おばあちゃんは、タバコ屋をやっているけど、自分では吸わない人だ。なのでおばあちゃんがいる時は、私も吸わない様にしている。
 そう思っていたら、下から煙が上がってきた。
「え?何?火事なの?」
 慌てて下を見たら、若い男がベランダでタバコを吸っていて、その煙だった。
「もう、ベランダ喫煙は禁止だって書いてあるのに。下って事は、310号室か」
 私は、入居者リストを確認した。
「岡本健一。23歳。私と同じ歳じゃない。なにやってんのよ!」
「それ、年齢は関係あるのかね」
 おばあちゃんの言葉には反応せず、私は部屋に戻り、まだ熱さが残っているお湯が入ったケトルを手に取った。
「笑、あなた、何をするつもりなの?」
 私はベランダに戻り、コーヒーをドリップするくらいの細いお湯を、マナー違反のタバコを持つ手に向かってゆっくりと落とした。

「ちょっとぉ!ベランダ喫煙は禁止って、掲示板にも貼ってあるでしょ!ルールは守ってもらえませんかね!?」

 流石にちょっとやり過ぎたかしら?岡本さん、メチャメチャ怒っている。まあ、それはそうよね。でもやり取りするうちに、彼が悪い人でない事はわかった。

「そんなに吸いたかったら、屋上へ行けばどうですか?」
 
 ふぅ、と溜息を付きながらリビングへ戻った。 
「笑、何をぎゃあぎゃあ言っていたの?」
「この下の岡本さん。ベランダでタバコ吸っていたから管理者として注意したのよ。全く、最近の若いヤツは常識ってもんを知らないんだから」
 おばあちゃんは、吹き出した。
「おばあちゃんも、許せなくない?タバコを販売する者として。ああいう輩がいると、喫煙者の肩身がますます狭くなるじゃない?それでタバコが売れなくなったり、また税が上がったりしたら、商売あがったりだよ」
「有難うね。私の商売の心配までしてくれて」
 おばあちゃんが、少し嬉しそうに言う。
「じゃあ、おばあちゃんの商売に協力する為に、屋上でタバコ1本減らして来ます」
「ここで吸えば良いじゃない?」
「ダメよ。副流煙を吸わせる訳にはいかない」 
 私は正しい愛煙家の矜持にかけて、分煙は厳格に行う事にしている。まして相手はおばあちゃんだ。
「そんなに身体に悪い物だと思っているなら、タバコ止めれば?」
 この人は、いつもいつも、何故さらっと人が痛がる本質を突けるのだろう。当分、ボケる心配はなさそうだわ。
 だからこそ、その健康をいつまでも守ってあげたいと思う。
「今日も元気だ。タバコが旨い。屋上は、一番誰にも迷惑が掛からないのよ。上は誰も住んでいないし」
「あらあら。私が空へ逝っちゃったら、笑の煙をしこたま吸わされる訳だね」
「やめてよ。そんな死亡フラグみたいな事を言うのは!」
「天国の神様も大変だね。空とか雲が黄色くなっちゃって……」
「もう。分かったわよ。タバコは『なるべく』控えますぅ」
 ただ、岡本さんと改訂された管理規約を渡す約束をしたので、屋上へは行かないと。
「それ、ポストへ入れてあげれば?わざわざ岡本さんを呼び出したのかい?」
「そうよ。今後の事もあるし、挨拶代わりにちゃんと注意しておかないと」
「笑ちゃんって、案外肉食系なんだねぇ」
「下衆の勘ぐりどうも。これも管理者の務めですから。ちょっと行ってきます」
 私は、管理規約に名刺を挟み、テーブルのタバコとライターをポケットへ無造作に突っ込み、冷蔵庫からビールを取り出した。
 全く、ああいうのはガツンと締めなきゃ、とブツブツ言いながら、EVA素材のサンダルを慌てて突っ掛けて、ちょっとドキドキしながらドアノブに手を掛けた。






















第八章  グロリア


「間違いなく、有りますね」
「はい、間違いなく」
「もう一度、確認致しますが、有りますね」
「はい、これはあの販売機です」
 田上さんは、大きく長い手を広げ、自販機の背中に手を回して、抱きしめた。
「何処にも行くな。もう離さへんぞ」
「田上さん、ほおずりは、いいです……」
 無精髭が、チクチクして痛そうだ。
 こいつ、いや、この自動販売機様は、心が分かる。しかもおじ様……
 今の田上さんのアクションをどう思っただろう。田上さんと別れた後、聞いてみよう。
 この自販機が霊体である事は、まだ言わない方が良いだろう。混乱させるだけだと思うし、今は多分信じて貰えないだろう。
「分からない。誰が何の為に、わざわざ警察の保管設備から盗み出して、また同じ場所に戻すのか」
 霊体だからね。そもそも実体が無い訳だし。
「厳重なセキュリティをくぐり抜けて、ましてあの大きさを持ち出すなんて不可能や!畜生、どんなトリックを使うねん、犯人は!」
 まあ、霊体だからね。
 張り込みを続ける訳にもいかないので、防犯カメラを設置する事にした。犯人は必ず犯行現場に戻る、と、田上さんは言う。
 普通の事件ならそうなのだろう。
 でも、どうやらこの販売機様は、この場所に居たいのかもしれない。だから何度収監されても、脱走をしてくるのだと思った。
 まるで幾多の困難を越えてバルコニーで落ち合う恋人、ロミオとジュリエットの様に。  
 それならカメラを設置する意味はある。その彼女?と再会したら、販売機様が何かしらの反応をされるかもしれない。
 でも楠さんが言うところのおじ様って、何歳くらいなのだろうか?50、60歳?
 商材がタバコなので、当時おじ様は少なくとも二十歳は超えていたはず。昔の恋人、年齢が近いと仮定すれば、2021年現在の彼女は還暦を超えているだろう。
 でもその彼女は販売機様が見えるのだろうか。もし見えたとしたら、彼女も幽霊だという事だ。もし見えない場合は、俺が仲介役になってあげればいいとは思うが……

「カメラは、24時間監視・録画しています。怪しい奴は、片っ端からしょっ引いてやりますよ」
 それはそれで問題かもしれない。
 ただカメラに映り続けるのだろうか?俺が居ないと存在が可視化されないはずだ。また販売機が無くなりました~とか、田上さんが振り回されないだろうか。ともかく、やってみないと分からない。
「それでは一旦、署に戻ります。捜査に御協力、有難うございます」
「そういえば、今日は販売機を回収しないのですか?」
「ここにある時の、犯人の動きが見たいのです。保管設備のカメラには何も映っていなかったんですよ。多分回収しても同じ事の繰り返しでしょう」
 まあ見ていて下さい、失礼致します、と田上さんは、自信満々で帰って行った。
 でも、カメラか。
 もし俺がカメラで監視していたら、霊的には有効なのだろうか?
 俺が見ている、という事で、そこに居る事と同じ霊力が得られないだろうか?
 
「今日は。ボーッとして、どうされました?」
「あ、楠さん、今日は。また販売機の事で、田上さんと話していたところだったんです」楠さんは、そうなんですね、と、ポンポンと販売機を叩きながら、いつものヤンチャな笑顔を浮かべた。
「また戻ってきちゃったの?まあ、そりゃそうですよね。岡本さんに引っ張られているのですから。で、成仏の手掛かりは掴めましたか?」
「推測ですが、誰か待ち人がいるんじゃないかと。恋人とか。だから待ち合わせの為にここに戻って来る、と仮説を立ててみたんですけどね」
「恋人か。案外、その線かもしれませんね。心当たりが……」
 楠さんは、自分のおばあちゃんの事を話し始めた。
「もし、自販機さんが先に亡くなった祖父だとしたら、うちのおばあちゃんと若い頃は恋人同士だったでしょうし、祖母はタバコ屋です。昔この販売機を取り扱っていたとしても、不思議ではありませんね」
「おじいちゃんとおばあちゃんは、何か不幸な別れ方を?」
「祖母から、祖父についての悲しい思い出は聞いた事ないですね。笑い話はいっぱいありますけど。すごく楽しそうに。孫にまでノロけるって、どれだけ好きだったのよ。あ、ただ、死に際を看取ってあげる事が出来なかった、それだけは心残りだって。ずっと看病をしていたのですが、たまたま買い物に出かけている間に息を引き取ったそうです。『いくら照れ屋な人でも、最後は目を見てさよならがしたかった、それだけが心残りだね』と言っていました」
「未練には、十分な理由だと思いますよ」
 それほど好きだった人なら、なおさらだろう。
「また販売機様に聞いてみますか」
 オホン。

「自動販売機様、あなたは誰かとお待ち合わせをされているのでしょうか?」

「ブルルル・・・」

 ウワッ!
 ポケットのスマホが鳴った。田上さんからだ。
「あ、岡本さん、田上です。今、監視カメラを見ていたのですが、バッチリ、お二人の御様子を拝見させて頂いていますよ」
 やばい。自販機の事がばれた!
 俺は楠さんに、どうしよう、と目配せをした。
「ちょっとお伺いしたいのですが、そちらの女性は岡本さんとどういう御関係でしょうか?あ、これは職務質問ですので」
 いつもの気さくな口調とは違い、わざわざ職務だと釘を刺す事も含め、プロの警察官としての声色だった。
「こちらは、私の、マンションの管理?事務?をされている方で……」
 と、あたふたと言いかけたところで、楠さんが、貸して、と俺から電話機を奪って、田上さんと勝手に話し始めた。
「警察の方ですか?初めまして。私は楠笑と申します。そちらのカメラで見えていますよね?宜しくお願い致します」
 と言いながら、カメラがあると思われる方向に向かって、満面の笑みで手を振った。
 テレビのリモート出演じゃないんだから。
「岡本さんとは同じマンションで、私はそこの事務・管理をしております。岡本さんから、安くタバコが買える販売機がある、と聞きまして。私も愛煙家の一人として安く購入出来るのは大変助かりますから。今日彼に会ったのはたまたまです。ここは自宅までの帰り道なのです」
 俺とは違い、全く淀みのない切り返しだ。
「楠さん。タバコを安く売る事は、違法だという事は御存知ですよね?」
「いいえ。無知で申し訳ありません。そういう法律は知りませんでした。単純に安く買えたらお得だな、くらいに思っていました」
 楠さんはいつものヤンチャな笑顔を封印して、穏やかな淑女の笑みを浮かべた。
 楠さん、その顔は、違うかも。
 私はこの事件のキーパーソンですよ、と言っている、サスペンス女優みたいだ。
「そうですか。では、岡本さんにお聞きしますが、この事を、楠さん以外の人へ話しましたか?」
「いいえ」
「有難うございます。事件の拡大を抑えたいですので、この事は、これ以上は他言無用で宜しくお願い致します」
 あ、と田上さんが呟き、
「楠さんと仰言いましたね?駅近くの、タバコ屋の楠さんと同じ苗字ですが、御親戚ですか?」
「いいえ。でもあの煙草屋さん、楠さんなのですね。円商店と出ていましたので、そちらが苗字かと……」
 え?
「そうですか。まあ、同じ苗字が親戚とは限りませんからね。楠のばあさん、販売機の事も知らないって言っていましたし……」
 孫の話しも聞かないしなぁ……と田上さんは情報が空振りだった事の落胆を隠さず口にした。
「田上さん、タバコですが、俺達はこれ以上買わない方が良いですか?」
「いや、逆に買って頂けると有難いです。それで、何か不審な事があれば通報をして頂けるとさらに有難いです」
 捜査員にもパトロールはさせますが、と言い、
「民間人からの情報は、懸賞金を出してでも欲しいですので」 
 自動販売機様、指名手配になってしまいましたよ。
「それでは、捜査への御協力有難うございます!あとタバコの吸い過ぎには十分御注意下さい!」
「失礼致します」
 電話を切って、とりあえずこの場を離れる様、どちらからともなく促した。


「田上さん、私達を疑っている様でしたね」
 マンションの屋上で、コーヒーを飲みながら話を整理する事にした。
 販売機近くのカフェへ行こうかとも思ったが、誰に話を聞かれるか分からない。ここが一番安全だ。タバコも吸い放題だし。
「田上さんは、いい人そうに見えて、手段を選ばず厳しい追求をする方ですね。市民の安全を考えたら、万が一に備えてあの販売機はキープアウトにすると思うんです。でも自由に使って下さいっていう事は、私達を泳がせてみようって事ですよね?」
「俺達の安全よりも、事件の解決を優先した、と?」
「もちろん一度収容した時も、現場に戻った時も、危険物の付着等の確認は念入りにして、販売機には最低限触れても大丈夫という確信があっての事でしょうけど」 
「最低限、ね…」
 まあ確かに霊体だから、俺達がよっぽど失礼な事を販売機様にしなければ、危ない目に合う事は無いのだろうけれど、当然田上さんはそれを知らない訳だし。
「俺達は容疑者でもあり、都合良くおとり捜査に使われた市民捜査員でもある、と」
「刑事モードの田上さん、怖いですよね」
「身近な人を疑うのは、捜査の基本なのでしょうけど……楠さん、おばあさんの話が出た時、他人です、と言ったのは、巻き込みたくなかったからですか?」
「そうですね……」
 いつも淀みのない楠さんの言葉が一瞬詰まった。それはこの事件の、核心である事を示唆している様にも感じた。
「そうかもしれません。咄嗟に、言わない方がいいかなと思いました」
 自動販売機におじいさんの霊が憑依していて、おばあさんと恋人同士だった、なんて言っても、田上さんを余計に混乱させるだけだろう。
「田上さん、おばあさんと面識があるみたいでしたね」
「聞き込みをしたのでしょう。タバコの販売機ですから、近所の祖母の店が取り扱っているかを調べるのは当然ですけどね」
「楠さんは、おばあさんから、警察が聞き込みに来たという話は聞きませんでしたか?」
「ええ、特には」
「そういえば、おばあさんには、販売機の事は話していないのですか?」
「ええ、まだ話せていません……」
 祖母はタバコを吸わない人なので……と楠さんがまた口篭った。余程おばあさんと事件を遠ざけたい様だ。
 俺は、十八枚のギザ十をポケットから取り出し、崩れない様にテーブルの上に真っ直ぐ揃えて積み上げた。
「この子達も、販売機みたいに何か反応しないかしら?」
「やってみましょうか」
 
 オホン
 
「ギザ十円様、販売機の中には、普通の十円硬貨は無いのでしょうか?」

「……」

「反応は無いですね」
 楠さんが、ギザ十円のタワーを軽くつついた。楠さんの指の力の分だけ、ピサの斜塔の様に約4度くらい傾いただけだった。霊力のある販売機から出て来た硬貨だから何かしらの手掛かりを提供してくれるものと期待したけど、そう上手くはいかない様だ。

「ふぅ~」
「ふぅ~」
 
 俺と楠さんは、2本目のマイセンにそれぞれ火を付けた。
 立ち上る煙が風に吹かれて、クエスチョン・マークを描く様に揺らめいた。

















第九章  みちのくひとり旅


「働き過ぎは良くないぜ!過労死旬滅、サボラビッツ!」

 との襷を掛けたヤンキーウサギのストラップを、会社の女子社員がお守りに、とくれたのだが微妙だな。
「岡本さん、死なないで下さいね!」
 ジャングルとかに行く訳じゃないんだから。
 只今、一ヶ月の長期出張中だ。今まで四、五日は何度かあった。ここまで長いのは未知の領域だけど、自分の体よりも留守の家の方が少し心配だ。冷蔵庫の調子が悪く、霜が溶けて水が漏れていないか。帰ったら掃除が大変、とかは勘弁して欲しい。
 あ・・・

「トゥルルル・・・」

「はい。楠です」
「あ、楠さん?岡本です。今お電話大丈夫でしょうか?」
 俺は、管理者である楠さんにこの事を言っていなかった。エレベーターホールの掲示板にも、長期間留守にする時はご連絡をお願い致します、と書いてあったにも関わらず、だ。
「本当は、書類を提出して頂きたかったのですが、もう現地へ行かれているのでしたら仕方がないですね。今回はこちらで書いておきますから、次回からはお願い致します」
「それで、重ね重ね申し訳ないのですが、時々部屋の換気とかお願いする事って、可能ですか?」
 部屋は、人が住まないと痛む、と良く言われる。毎日でなくても、誰かが部屋の中で窓を開けて動いてくれたら、部屋の健康状態も保たれると思った。でも楠さんも暇じゃないだろうから、管理人とはいえ、俺の都合でこういうお願いをするのは、心苦しい。
「確か、合鍵は預けて下さっていましたよね?」
 俺は単身者なので、留守の際、あるいは室内で万が一自分の身に何かあった時の為に鍵を預けてある。今、確認しますね、と電話が保留になった。
「ありました。いいですよ。では時々様子を見に伺いますね!」
 嫌々そうでもなく、むしろちょっと楽しそうだ。
「実は岡本さんのお部屋、興味ありましたから」
「大丈夫だとは思いますが、あれこれと物色は……」
「しませんよ!私は管理人ですから、住民の方のプライバシーをネットに上げ……」
「当たり前です!」
 その手前くらいまでなら、探ってもいいと思っていそうで怖いな。
「そんなに信用が無いのでしたら、お部屋には行きませんが、どうされますか?」
「申し訳ありません。時々で結構ですので、部屋の確認、宜しくお願い致します。あと早速で恐縮なのですが、みかんを残してきてしまったんです。そのまま腐らせてしまうのはもったいないですので、楠さん、もし良かったら食べて頂けませんか?いらないのでしたら、捨てて頂けると有難いのですが……」
「わかりました。では食事一回で手を打ちましょう」
 したたかだなぁ。まあ、家事の代行サービスに頼む事を思えば、安いものだろう。
「それにしても、一ヵ月とは、長いですね。ホテルですか?それともウィークリーマンション的な?」
「ホテルです。朝食は付いていますので、一食分助かるのは有難いですね」
「働き過ぎには気を付けて下さいね」
 出張って、そういうイメージなのだろうか?労働時間が変わる訳ではなく、むしろ通勤時間は短縮され、朝も夜も少しゆっくり出来るので、実は体は楽なのだ。もちろん慣れない環境下でのストレスはあるが。
「有難うございます。牛タン食って、栄養補給しながら頑張ります」
 あ、金、残しとかないと、と咄嗟に思った。これじゃあまるで、彼女に気を遣う彼氏じゃないか。
 俺は、あくまでこれはビジネス的な取引だ、と自分に言い聞かせる様に、マイセンに火を付けた。
「ふぅ~」
「あの、お仕事上手くいっていないのですか?」
「いいえ。どうしてです?」
「今、大きな溜息を吐かれたので」
「ああ、失礼致しました。タバコですよ」
「私も、吸っていいですか?」
「もちろん。すいません、黙って吸い始めてしまって」
「ふぅ~」
 楠さんが、気持ち良さそうに煙を吐いているのが電話越しでも分かる。確かにタバコだと言わなければ、溜息に聞こえるかもしれない。憂鬱の象徴である深い呼吸は、「はぁ~」とは限らない。
「そういえば溜息って、肺の健康維持に関わっているんですって」
「そうなんですね。幸せが逃げて行くって言うから、ネガティブな印象を持っていましたよ。マイナスの感情が露わになると、精神的にも良くないのかと」
「はい。私も反射的に、疲れていますか?って聞いちゃいましたけど、肺とか、自律神経を整えるのに必要なのだそうですよ」
「・・・」
「・・・」
「岡本さんも、気付かれましたか?」
「はい。それって、その人が疲れているって事ですよね。肺や自律神経が信号を出すくらいに。やっぱり、幸せじゃないんですよ、溜息は」
「そうですよね。やっぱり溜息は良くないわ」
「まあ、気を付けましょう、という事で。セルフ健康診断だと思えば」
 タダですしね、と楠さんが電話越しでも分かるくらい、いつものヤンチャな笑顔の声音で笑った。
「溜息みたいな深い呼吸が肺をリセットしてくれる、だからタバコって吸いたくなるのでしょうかね?」
「案外、そうかもしれませんね。ニコチンとかタール以前に、そもそも呼吸を欲している」
「じゃあ、溜息をいっぱい吐いたら、タバコがいらなくなって止められるかも?」
「それなら最高ですけどね。肺をリセットする度に肺が汚れるのは、右手の痛みを忘れる為に、左手を傷付ける様なものですし」
「それ、リセットされていないですよね……」
 二人同時に、笑いながら煙を吐き出した。
「あ、申し訳ありません!つい話し込んでしまって。楠さんお仕事中でしたよね?」
「話を広げたのは私ですから。こちらこそ、お時間取らせてしまってごめんなさい」
「無理なお願いをしたのは俺ですから。それでは、部屋の件宜しくお願い致します」
「承りました。食事の件、宜しくお願い致します」
 緩やかな笑い声と共に、電話が切れた。
 さっきまでの雨が上がり、いつの間にか陽も落ちていた。九階から見える夜の大通りに、信号や行き交う車のヘッドライトが映えて見える。マンションやホテルも多く、各部屋から溢れる灯りは、大都会のまるで不夜城のネオンサインと違って、寝室の落ち着いた間接照明の様で、溜息と同様に疲れた自律神経を癒し、リセットしてくれそうだ。
 俺は部屋に備え付けられてあるグラスを片手に、部屋を出た。エレベーターで二階へ行き、自動製氷機の氷をグラスに取った。
 製氷機の隣に、昨日氷を取りに来た時までは無かった、あのマイセンの自販機があった。見慣れているにも関わらず、得体の知れない物と出会ってしまった様な感覚になり、俺は背筋に悪寒を覚えた。
 それを見なかった事にして部屋へ戻り、明日の現場の下調べをしながら、ポケット瓶から注いだウイスキーを、ロックでちびちびと嘗め始めた。































第十章  契り 


「岡本さん、また自販機が現場から無くなりました!」
 そうですね。ここに居ますから。でも、まだ言わない方が良いと思った。
「保管場所にも、ありません。ちくしょう、何がなんだか訳わからへんわ!」
 田上さんは、かなり当惑していた。それは俺の気持ちでもある。自販機は自分の成仏を叶えるのに、何で俺に関わるんだ。楠さんのおばあさんのところへ行けばいいのに。
「岡本さん、カメラで確認したのですが、私と話した後はタバコを買われていないですよね?」
「はい」
「この前一緒にいらっしゃった、楠さんでしたか、あのあと何か話されましたか?」
「いえ、すぐマンションへ戻りましたので……」
 嘘は言っていない。田上さんには申し訳ないが、今はまだ話さないつもりだ。
 そう言えば、楠さんはこの事を知っているのだろうか?
「岡本さん、今って、現場へ来て頂く事は出来ますか?出来れば楠さんと一緒に」
「申し訳ありません、実は今、出張中なんですよ」
「そうでしたか。それでタバコも買われていなかったんですね?いつお戻りの予定ですか?」
「月末の予定です」
「ずいぶん長い出張ですね。それはお疲れ様です」
「田上さん、販売機が無くなったのは、いつですか?」
「カメラから消えたのは、今から一時間くらい前ですかね。監視していた者から連絡を受けたのは、ついさっきでした」
 やっぱり、俺が製氷機の前で見た時間と一致する。
「岡本さん、何か心当たりでも?」
 あ、余計な事を聞くと、プロの刑事だ、悟られてしまう。
「いいえ。普通に気になっただけです。すいません」
 となると、手掛かりは楠さんかなぁ、と呟いたあと、
「岡本さん、楠さんの連絡先って、教えて頂けますでしょうか?」
 流石に個人情報だから、と突っぱねようとしたが、捜査に非協力的過ぎるのも怪しまれるので、タウンページにも公表されているマンションの管理室の番号を教える事にした。後で楠木さんには、謝っておこう。
「岡本さん、御協力、有難うございます。早速掛けてみます。それでは、出張、お気を付けて。お戻りになられましたら、宜しかったらまた派出所へお立ち寄り下さい」
 少し慌て気味に、電話が切れた。
 今、楠さんに電話をするのは、タイミング的にまずいよな。
 俺は、SMSのアプリを立ち上げ、楠さんにメールを送った。

「田上さんから、管理人室に電話があると思いますが、出ないで下さい」
  
 出ないで下さいって、着信番号表示があっても、これじゃあ誰か分からないじゃないか。

「これが田上さんの番号です。警察署の固定電話番号は分かりません」

 2通目のメールを送ったら、直ぐに楠さんから返信が来た。

「了解!御連絡有難うございます!今夜、詳しい経緯を聞かせて下さい」

「分かりました。では、のちほど」

 3通目のメールを送信したら、俺はスマホをベッドへポンと投げて、手を伸ばしたまま、体を仰向けに倒れ込んだ。
 楠さん、大丈夫かな……
 何か、巻き込んでしまった様で申し訳ない。帰ったら御飯、気持ち良く奢ってあげよう。
 うちのマンションより少し低めの天井を所在なく眺め、さっき投げたスマホを取りネットサーフィンをしていたら、寝落ちしてしまった。

「トゥルルル……」

 ん?あ、楠さん。
「はい、岡本です」
「今晩は。もしかして、寝ていました?」
「寝ぼけ声ですいません。スマホ見ていたら寝落ちしていました」
 俺はスマホの音量を一つ大きくして、楠さんの次の言葉を待った。
「言われた通り、田上さんからの電話は出ませんでした。何かまずい事がありましたか?」
 現場から消えた自販機が、俺が泊まっているホテルに居る事、その現場検証の為に、楠さんと二人で来て欲しいと言われた事を話した。
「出張中だから、と断りました。そしたら楠さんだけでも来られないかと聞かれまして……」
「それで、私の連絡先を……」
「個人情報なので、流石に携帯番号はダメですが、公に公開されている番号は調べたら直ぐに出てきましたので……」
「そうですね。頑なに拒むのも、田上さんなら逆に怪しいと思うかもしれませんね」
「あと楠さんだけが現場へ行っても、おそらく販売機はこのホテルから移動しないのではないかと……」
「多分、そうだと思います。ホテルの方は、騒ぎになっていませんか?」
「俺はタバコを買う事も出来ますが、他の宿泊客やホテル従業員は見えないみたいですね」
「流石、霊体ですね」
「でも、どうして俺なのでしょう。楠さんのおばあさんの方が、成仏の条件には適していると思うのですが……」
「だから、岡本さんがヒマしてそうだから……」
「そのネタは、もういいです。それとも、俺が幽霊だとして、販売機が俺の成仏に関わっているから?」
「その可能性もありますね。それだけ岡本さんへの執着があれば。タバコへの後悔等、思い当たる事はありますか?」
「タバコ、ですか……確かにタバコの事で、甲子園への挑戦を断念した事はありましたが、それなら今、タバコを買っている事は矛盾していませんか?」
「その時の分を、今吸っているとか?」
「いや、普通、高校生は吸いませんから!部員達に、止めろ、と言えなかった事は後悔していますが。それに、吸う事に満足したらもう成仏しているはずです」
「ではせっかく、販売機さんが居ますから、また質問してみたらどうですか?」
 また、あれをやるのか。結構、恥ずかしいんだけど……
「何を、聞きましょう?」
「ストレートに、販売機さんが成仏する理由を聞いてみたらどうでしょう?」
「俺の成仏は?」
「まあ、一つずつ、順番にいきましょう」
 それで、販売機が成仏したら、俺の事は聞けないのですが、と思ったけど、楠さんと繋がったままのスマホを持って、とりあえず部屋を出た。電話中というのはとても有り難かった。自販機に話しかける際、楠さんと会話をしている様に周りからは見えるだろうから。
エレベーターを降りて、二階の製氷機横、自販機の目の前に着いた。幸い今は誰もいない。さっさと終わらせよう。俺はわざとらしく背筋を伸ばし、スマホを耳にしっかりと当てた。
 
 オホン。

「自動販売機様。大変恐縮ですが、あなた様はどうしたら成仏をして頂けるのでしょうか?」

「ぷっ」
 楠さんが吹き出した。良く考えなくても、電話口の相手に「どうしたら成仏出来ますか?」って聞く絵面は、怪しい電話以外の何物でもない。

「……」

 しかも、反応無し。
「楠さん、何も起こりません。ただ恥ずかしかっただけですね」
「じゃあ、今度は岡本さんが成仏する方法を聞いてみたらどうですか?」
「そうですね。せっかくですから姿が見える間に……」
 
 オホン

「自動販売機様。度々の御質問大変申し訳ございません。私、岡本健一がこの世から成仏する方法を、御存知でしたら教えて頂きたいのですが……」

「……」

 これも、無反応か。

「お~い、製氷機、こっちみたいだぞ」
「分かった。今、行くよ!」

 ヤバい。他の客が来る。今来られたらマイセンの販売機を見られてしまう。吸わない人なら良いが、吸う人にとっては、マイセン一八〇円は夢の様な値段だ。買われでもしたら、物的証拠が残ってしまう。俺は急いでその場を離れて、エレベーターへ乗り込んだ。
「危なかった。自販機、ちゃんと消えてくれたでしょうか?」
「今までと同じなら、岡本さんが居なくなった時点で消えるので、大丈夫でしょう」
「居なくなった」ところを自分では確認出来ないのが、自らの影を両足では踏みたくても踏めない様で、何とももどかしい。
 部屋に戻ったら、テレビの音がやたらと大きかった。さっき、消して部屋を出たはずだが……

「先程、歩行者が横断中の交差点に、酒酔い運転の車が侵入する事故が発生しました。尚、負傷者は居ない模様です。現場は……」

 え?

「岡本さん、今こちらもテレビを付けたのですが、この現場って、岡本さんが泊まっているホテルの直ぐ側じゃないですか?」
 俺は、部屋の窓を開けて下を覗き込んだ。ガードレールに車がぶつかっている。救急車やパトカーが来ていて、野次馬が集まり騒然としていた。
「もしかしたら、さっきの自販機の答えが、これですか?」
「……」
 何事にもポジティブな楠さんも、言葉を失っていた。
「だとしたら、これは酷過ぎませんか」
「岡本さん、以前に、大きな事故に合われた事はありますか?」
「はい。三ヶ月ほど入院しました」
「もしかしたら、その事と成仏が関係しているのかも……」
「だからといって、こんなやり方はないでしょう!」
「岡本さん、落ち着いて。さっき、負傷者はいない、と言っていたじゃないですか。酒酔い運転をしていて死者が出なかったのは、むしろ守って貰えたのではないでしょうか?それにドライバーは免許取り消しになるでしょうから、悪質な運転者を排除出来た訳ですし、結果としては良かったと思います」
 俺は、心を静める為に、マイセンに火をつけた。
「自販機は、礼儀に厳しいおじさん、だと……」
「そうそう。だから取り締まってくれたんですよ」
「……」
 自分を無理やり納得させる様に、マイセンに火を点け、大きく一服、吐き出した。私も吸っていいですか?と楠さんも電話の向こうでタバコに火をつけた。
「話は戻りますけど、自販機の成仏と、俺の成仏、今回の事故と関係あるのでしょうか?」
「岡本さん、前に事故に合われた時、何か失ったものはありますか?」
「もう野球は引退していましたから、三ヶ月という時間と、あとはその間の給料があまり出なかったくらいでしょうか?」
「岡本さんは、お金で未練を残す様には見えませんね」
「ギザギザ十円18枚に、何の未練を持てと言うのですか?」
「硬貨マニアで、コレクションしていたとか?」
「しません。切手やカードの類も収集していませんので、よろしく」
 楠さんが、楽しそうに笑う。
「それに成仏っていう事は、俺は何かが満たされるから、成仏するんですよね?事故は辛さを思い出してしまい、余計に死んでも死に切れない、となるのでは?」
「だからきっかけとしての事故なのだと思います。そのせいでやりたかった夢が途切れた訳ですから」
「では俺じゃなく、自販機の成仏に何らかの交通事故が関わっているのかもしれないですね」
「今回、ガードレールにぶつかっていましたけど、あの自販機さんに、当時酒酔い運転の車が突っ込んだ、とか?」
「そのせいで、まだまだ俺は現役バリバリ、お客様へタバコを売りたかったのに、廃棄処分になり叶わなくなった、と」
「お釣りも用意していたのに……」
「でも、単にお釣りなら、普通の十円でも良いですよね?何故ギザ十円なのだろう?」
「そこですね。あとはその十円を誰かに渡したいとか、岡本さんを仲介にして」
「俺の周りに、コインマニアはいませんよ」
「知り合いじゃないかもしれませんよ。たまたま偶然、ゆきずりで出会った人が、その十円を探していて、何か思い出があるとか。そしてその女(ひと)は、岡本さんの成仏にも深く関わっているとか……」
「今、女に(ひと)って、ルビを振りましたね。そんな昭和の居酒屋歌謡曲の様な、口説き上手な男じゃないですよ、俺は」
「でも岡本さんは、年の割に結構古風な感じはしますけどね」
「俺のキャラ設定はどうでもいいですよ」
 楠さんが電話口でクスクス笑う。
「あと、自販機さんじゃなくて、憑依しているおじさんの方が事故に遭われたとか?」
「それが、楠さんのおばあさんの恋人……楠さんのおじいさんって、事故で亡くなられましたか?あ、失礼しました。先日病気だった、と言われていましたね」
「岡本さんのおじいさんは、如何ですか?」
「俺の祖父は健在です」
「そうなんですね。では私達の親族ではなさそうですね」
「あとこの自販機に多く関わっている人といえば、田上さん?」
「田上さんのお年ですと、お父様?」
「そうですね。あとお父さんを生んで直ぐおじいさんが、例えば戦争で無くなった、という事もありえます。俺聞いた事があるのですが、飛行機で特攻へ出る前って、盃を交わし、タバコを吸ったそうなんです」
「田上さんのお父さんが生まれた時、その子の将来に思いを馳せ、ふとお孫さんの事も頭に浮かんだかもしれませんね。自分が特攻へ行かなければ、いつかは孫の事を抱けたかもしれないなぁって」
「ガードレールへの突っ込み方、特攻で壊れた飛行機の様に見えなくもなかった。タバコの話も辻褄は合っていますし」
「そうですね。でもタバコの製造年が合わないですよね。戦争が終わったのは1945年ですから。1980年という年数でみれば、もし田上さんが自販機さんに関係しているとしたら、お父様でしょう」
「田上さん本人だと、タバコを吸うには流石に子供過ぎますよね」
 ふぅ~。
 ふぅ~。
 電話を挟んで、二人で煙を吐き出した。
 窓の外、パトカーや野次馬は居なくなり、事故の検証が済んだ様だ。いつもの人の流れに戻っていた。















第十一章  ミ・アモーレ


「う~ん」
「・・・」
「う~ん」
「・・・」
 楠さんが仙台まで俺を訪ねて来た。おしゃれなタバコ屋があるので見てみたかったとの事だ。
「う~ん」
 目的も無く、冷やかしのつもりで(嫌な客だ)来たのだが、思った以上の品揃えで、二人共すっかりテンションが上がってしまった。
 が、余りにもテンションが上がり過ぎて、あれも欲しい、これも欲しい、欲しい物が多過ぎて、想定予算オーバー。思案六歩。引くべきか、突っ込むべきか。悩んでいる楠さんの唸り声が止まらない。
「このライターも可愛いし、この携帯灰皿、一点物でここでしか買えないし、あ、このパイプもカッコイイ!」
 楠さんが、パイプを手に取り、大げさに吹かす仕草をした。
「なんだか、ホームズみたいじゃない?名探偵!」
「それで自販機の謎が解ければいいですけどね」
 口は付けないで下さいよ、と釘を刺し、そう言えばアイテムばかりに目を奪われていたが、タバコはまだ見ていなかった。せっかくだから、今後二度と吸わない様な物に挑戦してみたい。この店は海外の銘柄も豊富に取り扱っている。
「お客様、珍しい物をお探しでしたら、シャグ等如何ですか?」
 シャグ、とは手巻きタバコだそうだ。
「自分で作るのですか?」
「はい。タバコの葉をペーパーで巻くんです。お寿司みたいに」
 笑顔の素敵な、とても気さくな店長さんが勧めてくれた手巻きタバコを、俺は迷わずに購入した。
「二重ロックなので多少は大丈夫でしょうけど、乾燥すると苦くなり風味が落ちますので冷蔵庫などには入れないでくださいね。別売りですけど、このヒュミディパック(保湿材)を入れておくとタバコのしっとり感がキープ出来るのでオススメですよ!」
 俺は、とてもタバコ屋の袋とは思えない、まるで高価なチョコレートでも入っているかの様なお洒落なラッピングを受け取った。
「健一さん、何を買ったんですか?」
 楠さんがそのラッピングを覗き込む様に聞いてきた。
「巻きたばこです。シャグ、と言うそうなんですけど、楠さんは吸った事ありますか?」
「いいえ。ありません。へぇ~、私もそれにしようかな」
「銘柄も同じにするんですか?」 
「私と同じは嫌ですか?」
「いや、そういう訳じゃないですが、違うものだったら、シェア出来るかなと思いまして」
「いいですね!そうしましょう!それで、健一さんは何の銘柄にしたのですか?」
「カナダの銘柄です。え?健一さん?」
「じゃあ、私はブラジルにしようかな。北と南でシェアしましょう!」
 そう言って、楠さんも俺と同じラッピングの袋を、これ以上ないくらいニコニコした店長さんから受けった。
「カナダは、新婚旅行の思い出がお有りですか?」
 店長さんが、嬉しそうに聞いてきた。
「いえ、俺達は……」
「そうなんです。新婚なんですよ。でもこれから何処に行こうか検討中で……カナダもいいですね!」
「お仕事がお忙しかったのですか?」
「そうなんです。お互いに時間が取れなくって。主人も実は今、約一ヶ月の主張中なんです」 
「それは随分長期ですね。それで寂しくなった奥様が会いに来た、と」
 と言って、店長さんがちょっと冷やかす様に微笑んだ。
「そうなんですよ。でもどちらかと言うと、寂しいのは主人の方ですね。ふふふ」
「それはそれは。ごちそうさまです」
 楠さんがどういうつもりなのか分からないが、話の辻褄を合わせる為に、俺も横で笑うしかなかった。
「実は、その、私達、古い自動販売機を探していまして、80年代のマイセンを取り扱っている機械なのですが、店長さん、見た事はありませんか?」
 このお店は、店頭にも店内にも自販機は無い様だ。お店の雰囲気的には、あのレトロな販売機は合うと言えば合う。
「自動販売機、ですか?うちは今まで自動販売機を取り扱った事はないんですよ。あと仕事柄、町にあるタバコの自動販売機は大体チェックしていますし、もしそういうレアな自動販売機があったら、私が知らなくてもお客様が教えて下さると思います」
 店長さんはそう言って、表の喫煙スペースで気持ち良さそうに一服している数組の客の方に目をやった。
「良かったら、聞き込みをしてみては如何ですか?」
 店長さんが、棚に置いてあったオイルライターと、ハウスタバコ(という言い方が正しいのか分からないが)から取り易い様にフィルター部分だけを出して、一本ずつ俺達にくれ、ごゆっくり、と言いながら微笑んだ。まるで「荒野の用心棒」に出てくる、バーの様なノリだな。
 俺は楠さんにどうしよう、と目配せをした。
「そうですね、何か分かるかもしれないので、ちょっと聞いてみましょうか」
 咥えタバコをしながら 飄々と客の方へ歩いていく姿は、保安官の様な風格が感じられる。俺としては、騒ぎを大きくしたくなかったので買い物だけして早く帰ろうと思っていたのだが、「ゾーン」に入った楠さんを止める事は出来なかった。
「ちょっとお聞きしたいのですが、良いですか?」
 楠さんが、体格のいい作業着の男にまず声を掛けた。ちょっと雰囲気が田上さんに似ている。
「なんや、ねぇちゃん?」
 しかも関西弁だし。
「この辺りに、マイセンだけを売っている販売機があると聞いたのですが、御存知ありませんか?」
「マイセン?知らんなぁ。なあ、あんたら、見た事あるか?」
 同じ灰皿を囲んでいた人達を見回して、作業着の男が声を掛けた。
「イヤ、シラナイデスネ」
「私も見てないわぁ」
 多分違うだろうが、ザンギエフという名前が似合いそうな外国人男性と、不二子、という名前が似合いそうなスタイルの女性が、煙を吹きながら答えた。
「本当にマイセンだけなの?そもそもそういう売り方って出来るの?無人営業って確かダメじゃなかった?」
 女性は少し興味がある感じだ。
「そう思って、ここの店長さんに伺ってみたのですが……」
「何?あんたら刑事なんか?」
「いえ、違います!単なるタバコ好きの、都市伝説好きです!」
 咄嗟に訳の分からないごまかしを口走ってしまった。
「トシデンセツ、ワタシモスキデス。ニホンハ、ポルターガイストノホウコデス」
 トテモ偏った知識だが、ポルターガイストの言葉には、俺も楠さんもドキッとした。
「で、お二人はそれを、見たの?」
「いいえ。見ていないから、一度見てみたいな、と思いまして。珍しいじゃないですか?」
「ネットで検索とかは?」
「いいえ。私の探し方が下手なのかもしれませんが、ヒットしませんでした……」
「それ、都市伝説ですら、無いって事やな……」
 むしろ知られて騒ぎになられても困る訳で、俺は正直ホッとした。
「ここなら何か情報が手に入るかと思ったのですが、残念です」
 楠さんが、いかにも空振りに終わってがっかり、という風に肩をすくめた。
「お、そろそろ仕事に戻るわ。ほな、またな」
「オツカレサマンサ」
「お疲れ~」
「色々聞いて、すいませんでした」
「かまへんかまへん。それ、見つかるとええな。もし見つかったら俺にも教えてや。ここの店のおばはんに言うといて」
 作業着の男は、気さくに手を上げながら帰っていった。 
 他のメンバーも、それぞれの場所へ戻って行った。
「私達も、行きましょうか」
 楠さんに促され、店内に戻った
「何か、分かりましたか?」
 いいえ、特には……俺は店長さんにライターを返しながら答えた。楠さんは、さっきのブラジルの巻きタバコと、迷った末に選んだ商品を店長さんに渡した。  
「私も興味がありますので、調べてみますね」
 レジを打ちながら、店長さんが楠木さんに何故かウインクをしながら答えた。
 
 
 近くのコーヒーショップで(喫煙可)、仕入れた情報の整理をした。流石に東京を離れれば、田上さんや監視カメラに見られたり聞かれたりする事もないから、気兼ねなく話が出来る。
「やっぱり、来て良かった」
 楠さんが、いつものヤンチャな笑顔で言った。
「良かったですね。良い買い物が出来て」
「うん、それもありますけど、自販機の秘密にも迫れたじゃないですか」
「何か、気が付きましたか?俺には何も無かった様に思えるのですが……」
 巻タバコを早速作ってみる。余った葉の中に、一緒に買ったヒュミディパックを入れておく。
「何も無かった事が、収穫なんですよ。しかも岡本さんが居るにも関わらず、あの自販機さんは姿を現さなかった。さらに、あの店の前の道路は、先日の事故現場へ繋がっています。それでも現れなかった。岡本さんの止まるホテルに現れて、この現場からは近いはずですけど、地元のタバコ好きの人達の耳目に触れていなかった。つまり……」
 楠さんは、得意顔で、結論を告げた。
「あの自販機さんは、自分の意思で出現場所を決めていますね」
「自分の意思があるのは、今までもそうでしたよね?こちらの問い掛けにも答えていましたし。凄い上から目線ですが」
「今までは地縛霊の様なイメージだったんです。東京のあの場所にしか現れないと思っていました。だから、拾得物の保管倉庫ですか?そこから初めて見た場所へ吸い寄せられる様に戻ってくるのかなと。でもホテルにも現れた。だから地縛霊ではなく、岡本さんが引き寄せていると思っていました。でも想像以上に自我があり、移動もする。ただ出現場所は岡本さんと、その自販機に関わる人が居る時を選んでいるみたいですね。偉そうですけど、あまり知らない人には見られたくないシャイな人、なのかもしれません」
 
 改めて、今までに自販機が現れた状況を整理してみた。

 俺一人の時→現れた
 俺と楠さん→現れた
 俺と田上さん→現れた
 東京の自宅マンション近く→現れた
 仙台のホテル→現れた
 警察の保管場所→消えてその後自宅マンション近くに現れたのを俺・楠・田上・その他警察官が確認
 田上さん一人の時→現れない
 楠さん一人の時→現れない
 その他モブ・通行人のみ→現れない(目撃したというネット情報含む)
 
 キーアイテム→ギザ十

「岡本さんと私は結構な時間自販機さんと関わっていますが、それでも成仏出来ないという事は、あとは田上さんで間違いなさそうですね」
「俺はギザ十を集めていませんから、田上さんが何か思い出して下されば、ほぼそうでしょうね。じゃあ楠さんは?」
「私は、見届け人、という感じじゃないですか?」
「霊は、野次馬に見守られながら成仏するのですか?」
「嫌な言い方ですね!それならさっきのタバコ屋さんの人達にも見えるでしょう?私は選ばれた者なのですよ」
 何故選ばれたのかは、分かりませんけど、と言いながら、楠さんもさっき買った巻タバコを作り始めた。
「楠さんは、ギザ十は集めていないですよね?」
「はい。なのでやっぱり田上さんだと思います」
「今さらですけど、俺達以外に見た人っていないんですかね?」
「私達が見ている訳ですから、他にそういう人がいても不思議じゃないですよね。でも多くの人の目に触れていれば、すぐにネットで話題になるでしょう。一部、自販機を保管場所へ運んだ人達は見ていますけど、捜査で知り得た情報は守秘義務があるでしょうから公にはしないですし。この話は私達内々だけで起こっている事だと思います」
 だったら田上さんの前だけで現れたら良いのに、何で俺達なんだろう、と思うけど。
「田上さん、真面目そうですからね。私達の話を信じて下さるかどうか……」
「推理も大体固まりましたので、引っ張らずに出張から帰ったら話しますよ。間違いなく現場検証に呼び出されるでしょうから」
 いつもと違う、シャグの口当たりと甘い香りを味わいながら、煙を吐き出した。
「楠さん、何を買ったのですか?」
「見ますか?」
 カナダの煙を吐き出し、シャグを灰皿に一旦置いて、お洒落な紙袋から豚をモチーフにしたピンクと黒色のライターを二つ取り出し、黒ブタを俺にくれた。
「俺、何かしましたか?」
「今日、付き合って頂いたお礼です。あと色々と楽しませてくれていますので」
 でも、これってペアだよな…… 
「お揃いなのは気にしないで下さい。たまたま可愛かった物がセット売りでしたので」
 その「ついで」感は、お礼になるのか……
「まあ、細かい事はいいじゃないですか。それとも、もっとプレゼント感のある、高価な物が良かったですか?」
 それも重いな。
「岡本さんって、結構面倒臭い人ですか?」
「いや、幽霊だ、霊体だと絡んでくる楠さんに言われたくないですね!」
 そもそもベランダの一件からして、どっちが面倒臭いのかは、ネットのコメント欄にでも書き込んで賛否を問えば結果は明白だろう。
 ふふふ、といたずらっぽい顔で笑う。全く、この顔にいつも誤魔化されるのだ。
  
































第十二章  HOLD ON    


「田上さん、今でも昔でも良いのですが、ギザギザの十円玉を集めていませんでしたか?」
 田上さんへストレートに聞いた。
「ギザ十?おお、懐かしいですね。子供の頃、集めていましたよ。珍しい、言うてね」 
「どうやら、あの自動販売機のお釣りが、全てギザギザの十円みたいなんです。何か思い当たる事、ありませんか?」
「お釣り?自動販売機の釣り銭が全部ギザ十なんて、そんな事あるんですか?」
 俺は、ポケットから十八枚のギザ十を出して見せた。
「ちょっと、見せてもらっていいですか?」
 田上さんは一瞬笑みを浮かべ、子供の好奇心に満ちた様な目をしたが、直ぐにポケットから手袋を取り出し、鋭い目付きで一枚一枚ギザ十を確認した。
「もしもし、鑑識部に繋いでくれ。例の自販機のヤマ、新しいブツが出てきた。手ェ空いてるヤツ、よこしてくれへんか?そう、足立区のアレや」
 電話を切った田上さんは硬貨を俺の掌の中に返しながら、手袋のまま大きな両手で俺の指を折り包み込んだ。
「岡本さん、このコイン、ギュッと握っていて下さい」
 おそらく指紋を取りたいのだろう。でも初めに自販機から検出されなかった様に、今回も多分ギザ十に俺の指紋は残らない。
「田上さん、お父様が亡くなられた原因はなんですか?」
「交通事故です。家のすぐ近所ではねられましてね。病院へ搬送されましたけど、その時は既に亡くなっていたと……」
 ホテルの部屋から見えた事故は、田上さんのお父さんが先ずは俺に知って欲しかったのだろうと思った。
「田上さんが、自販機に聞いてみたらどうですか?」
 楠さんが俺達に提案した。
「自販機に聞く?どういう事ですか?」  
 俺は、全てを話す事にした
「実は、あの自販機、霊体なんです」
 田上さんは、俺と楠さんの顔を見比べた。俺は神妙な顔をしていたと思う。楠さんは開き直った様な笑顔だった。
「私を、からかっている訳ではなさそうですね?」
 俺と楠さんは同時に頷いた。
「でも、自販機に話し掛けるって、どうすれば良いのですか?」
「言葉の通りです。岡本さん、お手本を見せて頂けますか?」
 楠さん、絶対ワザと俺に振っただろ……

 オホン。

「OK、ルールル。自動販売機様。大変恐れ入りますが、教えて頂けますでしょうか?ギザ十は、田上さんが集めていたものでしょうか?」
「AIですか?しかもなんで自販機に敬語なんですか?」
「まあ、バチが当たらない様に……」
「御神体みたいですね」
 田上さんは腕を組んで、訝しんだ。

 ブー、ガチャン!

「ウワッ!」

 自販機がコイン無しで急にマイセンを出した事に、田上さんが驚き過ぎて尻もちを付いた。
「これ、壊れたんとちゃいますのん?」
「いや、正解、という事だと思います」
「AIがこちらの言葉を認識して、景品を出した、っちゅう事ですか?そんなアホな。マイセンの時代はスマホも無いし、自販機に会話機能なんてなかったはずやで」
「いや、なので霊体なんですよ。景品、というよりは、今の質問に対しての返事なんです。これは、イエス、という意味だと思います」
「私が昔、集めていたギザ十がこの自販機の中に入っている、という事ですか?」
「そうですね。しかも、ギザ十しかこの自販機には入っていないんです。田上さん、何か思い当たる事はありませんか?」

「私がギザ十を集めていた理由……」

「田上さん、御自身で聞きたい事はありませんか?」
 楠さんが促す。
 田上さんが、自販機の前で息を吸い込み、ゆっくりと吐き出した。

「なあ、あんたは一体、誰なんや?」

 俺が恥ずかしい思いをして聞き方の見本を見せたのに、そんな事はお構いなしで田上さんは自販機に質問をぶつけた。

「……」

 ほら、やっぱり機嫌を損ねてしまった……

「えらい懐かしい自販機やね」
「あれ?オカン!なんでここにおんねん?」
 高齢の女性が、田上さんに話しかけている。どうやらお母様の様だ。このタイミングでの登場という事は、自販機の正体は田上さんのお母様という事か?でも御顕在だと伺っていたので、どうなっているんだ?
「オカン、幽霊やないよな?」
「あんた、いつ私の葬式したんや?そんなにはよ死んで欲しいんか?」
「いや、話せば長くなるから結論だけ言うけど、この自販機が幽霊なんや」
「あんた、何の宗教に入ったんや?」
 まあ、そういうリアクションになりますよね。
「いやいや、宗教ちゃうねん、こいつホンマに霊やねん。大体、おかしいやろ、こんな古い自販機が突然現れてマイセン180円ですって」
「えらい懐かしいなぁ。うちの近所にあった自販機や。覚えてへんか?小さかったから忘れてもうたか?」
 田上さんのお母様が、自販機に近付いた。
「誠作、あんた最近お父さんの墓参り、行ってへんやろ?」
「こっち忙しくてな。実家にも顔出さず、悪い思うてる」
「これ、お父さんや」
「は?」
「このマイセンの自販機、お父さんやで。しゃあけどこんな狭い所におらんと、出てきて顔見せりゃええのに。あの世でも販売機連れて歩くほど、そんなにタバコ吸いたいんか?もうタバコは懲りたんと違うんかいな」
 田上さんのお母様が自販機を愛おしそうに撫でている。
「お父さんが交通事故にあった時、お父さんをはねた車はこの自販機にぶつかったんや。自販機はボコボコに壊れた。酒飲み運転やったらしいな」
 田上さんのお母様が、自販機に話しかけた。
「あの時、お父さんにタバコを買いに行かせたんは、私や。お父さんは誠作に買いに行かそうとしていたのを、それくらい自分で行き、ってな。」
「ちょう待って、俺も思い出したわ、オカンには言うてなかったけど、俺がタバコを吸って親父に怒られるまでは、お使いは俺の仕事やった。怒られてから、俺はタバコには近付かへん、タバコは不良の始まりや、とか言うて、お使いを断ったんや。俺が今まで通り、お使いへ行っていたら、親父は事故に遭わへんかった。俺のせいやんけ!いや、違う、おい幽霊、お前か!お前が親父を連れて行ったんか!」
 田上さんは
「返せ、親父を返せ!」
 田上さんは、販売機をこれでもか、と何度も殴り付けた。

「ブー!ビー!ブー! ドン!」
 
 バラバラバラバラッ。
 大きな音と共に、大量のタバコが取り出し口から堰を切った様に飛び出してきた。

「うわっ、なんじゃこりゃ!」

 箱を確認したら、やはり八十年代のマイセンだった。
「なんや……その反抗的な、態度は……まるで、昔の俺と、一緒やんけ……」
 田上さんは、散らばったマイセンの上に膝を付き、自販機に縋り付き、大きな肩を震わせて泣きじゃくった。

「田上さん、これを……」
 楠さんが田上さんの背中に近付き、俺から受け取った18枚のギザ十を手渡した。

 回想
「あんた、そのギザギザの十円好きやなぁ。そんなに集めてどないすんの?お金は使って世の中に回さんと、意味ないんやで」
「じゃあ貯まったら、父さんにタバコでも買ってやるよ。もうすぐ18枚だから」 

「タバコのお使いに行っていた時は、お釣りをお駄賃で貰っていたんや。その中でギザギザの十円は使わんと貯めとった。怒られてからは拗ねて行かなくなったけど、既に18枚溜まっとったから、次の誕生日はタバコを買ってプレゼントする予定やった。それやのに……俺の代わりに、死にやがって……」
「田上さん、コイン、入れてみて下さい」
 楠さんに促され、田上さんは一枚づつゆっくりと、ひきつけから戻す様に呼吸を整えながらコインを投入していった。
 18枚入れ終った瞬間、自動販売機とマイセンは、辺りを包んだ熱風とともに、消えた。

「誠作、逞しくなったなぁ……」

 田上さんに似た、太い声が聞こえた。
 田上さんはしばし呆然としたあと、こんな大きな男が人目を憚らず、人はここまで慟哭するのかと、地響きがするくらい豪快に泣き叫んだ。


「とにかく、販売機の謎は無事に解決ですね!」
 楠さんが、いつものヤンチャな笑顔でこちらを見た。
「あの販売機の幽霊だった、という事なのでしょうか?」
「そうなりますよね。田上さんの想いが成仏したら、消えてなくなりましたから」
「でも、想いは田上さんの想いであって、自動販売機に感情は無いですよね?それなら、田上さんが成仏して消えるはずでは……」
「万物、八百万の神が宿る。人はあらゆる事象に神様を見出します。田上さんにとって、お父様とタバコには特別な思い入れがあったのでしょう。その象徴としてあの自販機にお父様の霊が憑依して現れた。田上さんは、自販機の霊にお父様の魂が乗っ取られた、と思っていた様ですけどね。」
「じゃあ、俺がいる時にしか販売機が現れなかったのは何故でしょう?」
 楠さんが、またヤンチャな笑顔で答える。

「言っているじゃないですか。それは岡本さんが幽霊だからですよ」

 田上さんの霊力が弱かったので、たまたま成仏出来ずヒマそうに彷徨っていた岡本さんの力を拝借したのでしょう、との事だが、おーい、俺はヒマじゃないぞー、毎日仕事も真面目にやっているぞー!

「という事は、仮に俺が幽霊だとして、成仏出来ない、何か心残りがあると?」
「そういう事ですね。何か心当たりはありますか?」
 生まれて二十二年、まだまだ短い人生経験、そんなに後悔をする様な事は……
「あら、田上さんは、八歳の頃の経験と想いが四十年経って成仏されたんですよ?」

 そんな事言われてもね。強いて言うなら……

「童貞、かな……」

「じゃあ、それ……試してみますか?」
「どうやって?」
「彼女は?」
「いたら、童貞ではないと思いますが」
「結婚するまで手を出さない人もいますよね?」
「俺、そういうキャラに見えますか?」
「岡本さん、古風な感じもしますので。じゃあ、ナンパでもしてみますか?」
「成仏したいから、ヤらせてくれって?」
「それ、斬新なツカミですね!」
「あの、からかってます?」
「ふふふ」
 彼女は、いつもと違う優しい笑顔で俺の手を取った。

「もし、私で良ければ、いいですよ……」

 彼女は低く大きな満月をバックに、俺の首に手を回し、深くキスをしてきた。









最終章  愛はかげろうのように(袋とじ)
 

 410号室、楠さんの寝室。
「ここからは、えみって呼んで下さい」
 一人で眠るには広めのダブルベッドに腰掛け、サイドテーブルにマイセンと、先日貰ったブタのライターを置き、シャワーを浴びている彼女を待ちながら部屋を見回した。
 観葉植物がオレンジ色の間接照明に照らされて、とてもオシャレだ。反対側のベッドサイドには、小さく切られた薪の様なものが置かれていた。落ち着く良い香りは、この木からだった。壁に取り付けられた棚に置かれたスピーカーは、何時でもムードを盛り上げる音楽を聴かせてくれるのだろう。ゴミや脱ぎっぱなしの服などはなく、同じ間取りで同じ部屋を使っているが、雑然とした俺の寝室とは雲泥の差だ。初めての行為が俺の部屋でなくて良かったと、心から思った。

 カチャ……

 ドアが開いて、えみが入って来た。

「服、脱いでなかったんですか?」
 彼女は白いキャミソールの上に、同じ色で、薄めのバスローブのようなものを羽織っていた。
「タイミングが分からなくて……でも、えみも着ているじゃないか」
「これは、あなたに脱がせてもらう為に、着ているんですよ」
 えみは、こういう事に随分慣れている様だ。
「健一さんも、シャワーを浴びますか?」
「ああ、うん……」
「こっちよ、きて……」
 同じ間取りのバスルームに案内され、新しいタオルを受け取った。寝室と同じく、キチンと整理されている。
「ドライヤーは、ここにあるわ。あと……下着だけ、付けてきて……」 
 じゃあ、あとで、と言いながら、えみは俺にさっきよりも軽いキスをした。シャワーの後の良い香りを残して、彼女はバスルームから出た。

 寝室に戻ったら、思った通りお洒落な音楽が小さく鳴っていた。ベッドに腰を掛けて俺を待っていた、完璧過ぎる彼女と目が合うと、優しく微笑んで立ち上がり、俺のところへ来た。えみは俺の首に優しく両手を回すと、右の耳に口を近付けて囁いた。

「実は私も、初めてなんです……」

「え?これだけ俺をリードしておいて?」
「頭でっかちなだけです。あとは、私がしてあげたいと思った事をやっているだけ……」
 映画等でありそうな感じだとは思った。えみは今までで一番深いキスをしてきた。喉の奥が火傷しそうな程の接吻に、俺も不器用に応えた。
 キスをしたまま、右手でえみの左胸の豊かな膨らみを確かめた。唇で首筋をなぞり、彼女の吐息を聞きながら、バスローブとキャミソールを脱がした。手足が長く、一目でスタイルが良いと分かる下着一枚の肢体が、間接照明に映える。ベッドまでどうやって連れて行こうかと思い、咄嗟に彼女を抱き抱えた。
 きゃっ、と可愛い声を出したえみをベッドへ降ろすと、俺も彼女を追ってベッドへ乗った。
 浅く深く、何度もキスをしながら、今度は左手でえみの右胸を強く握り、その固く尖った先端を指で弾いた。彼女の体が反応したのを見て、今度は口に含んだ。えみは大きな吐息を零した。
 下半身に右手を伸ばした。下着の中の茂みの先に、小さな突起があった。こういう知識は俺もそれなりに動画を見て学んでいた。優しく縦に撫でると、えみは大きく身体を反らした。その刹那、指先が温かく濡れた。
 俺は彼女の下着に手を掛け、脱がせたものをベッドの下に落とした。自分の下着も脱ぎ、同じ様に落とした。
 俺はキスをしたあと、心からの言葉をえみの耳元で、彼女だけに聞こえるくらいの小さな声で言った。
 
「綺麗だよ」

 えみはいつものヤンチャなものとは違う、今迄見た事の無いとびきり可愛い笑顔で、俺の首に腕を回し、キスをしてきた。

「いい?」
「うん……安全日だから、そのままでいいよ……」 

 自慰行為の時もそれなりに硬くはなるが、今の海綿体の血流の滾り方と角度は、自分でも驚くくらいの雄々しさだった。
 でも俺は、聖水が湧き出ているかの様な、まだ誰も入水していない美しい泉へ飛び込む事に、躊躇した。今更ではあるが、俺の成仏兼脱童貞と引き換えにするには、この尊さはあまりにも釣り合いが取れていないと思ったからだ。
「どうしたの?」
 動きが止まった俺に、彼女は優しく聞いてきた。
「そこまで、私を大事に想ってくれて、有難う。健一さんは、思っていた通り、私の理想の優しい人だった。私の初めてが健一さんで良かった……」
 キスをしたあと、好きだ、と言いながら、もはや抑えが利かなくなった優しさの欠片もない俺の獰猛なものの鎖を引きちぎり、えみの中へ解き放った。
「熱いっ!」
「熱っ!」
 それは俺の火竜が、聖なる泉のさらに地下で、未だ発見されずにいた、燃え盛る女のマグマへ突入した証だった。身体全体が焼け尽くされそうだ。
 俺は正常位から体位を変え、座ったままえみを正面に抱き、竜の尾に降りかかる火だるまになった石を片っ端から打ち払うかの様に、激しく腰を振った。動かす程に、魔物を飲み込まんばかりの、大量のとろりとしたえみの岩漿の温度が上がっていき、地球最後の地震の様なマグニチュードは、どんどん大きくなっていった。
 俺はどうしていいか分からなくなり、無我夢中で彼女の両胸に吸い付き、舌を這わせた。間欠泉の様に溢れる溶岩流に刹那も耐え切れなくなった火竜は、彼女の美しい叫び声を神託の如く遠くに聞きながら、白い炎をえみの中へ本能のままに吐き出し、ぐったりとえみの乳房の上で、果てた。

 目の前の世界が、眩く白かった。
 なんとなく体がフワフワして、雲の上にいる様な感じだ。これが成仏した状態なのだろうか?

「おはよう」

 透き通る様な肢体の女性が俺に微笑んだ。裸の女神がいる。これが天国というやつか。この声、えみに似ている……

「健一さん、おはよう」
 
 白い正体はシーツだった。
 枕、レースのカーテン、壁紙も白だ。
 昨晩は緊張と興奮と間接照明で色まで気にしなかったが、彼女の部屋はこんなに白が基調だったのだと、朝日が差し込んで来て初めて気がついた。
 えみが、腕枕の上でころんと寝返りを打ち、俺の胸に収まった。
「成仏、しませんでしたね」
 いつもの、ヤンチャな笑顔で俺をイジった。
「だから言っただろ、俺は幽霊じゃないって」
「まだ分からないですよ。脱童貞が成仏の条件では無いってだけかもしれませんし。健一さんは、他に夢はないんですか?」
「無いですね。小さい頃は野球選手になりたかったですけど、大学卒業の時に声が掛からなかった時点で諦めました」
「だから、身体が締まっていたのですね。じゃあ、プロのテストとか受けて、合格したら成仏出来るかもしれませんね」
「いや、だから俺は……それって意味ないですよね?プロになれた瞬間にこの世からいなくなるって」
「霊の宿命とは、そういうものですから」
 死んでいる霊に、宿命なんてあるのか?という疑問はともかく、えみはどうしても俺を現世に置いておきたくない様だ。仮にも初めての相手なのに。
 俺はサイドテーブルからマイセンを取り、ブタのライターで火を付けた。しまった。彼女の部屋なのに、勝手に吸い始めてしまった。
「全然、いいですよ。私も一本貰っていいですか?」
 えみは俺を咎める事無く、お揃いのブタのライターで火を点け、隣で一緒に煙を吐き出した。
「相変わらず、これおじさんタバコですよね。でも寝起きには丁度いいかも」
「そういえば、田上さんの想いが成仏した時、自販機もマイセンも全部消えたのに、このマイセンは残っていますよね。何故だろう?」
「田上さんのお父様からの御礼じゃないですか?息子が世話になった、とかで」
「霊って、そんなに都合の良いものなんですか?」
「自由自在、何でもありなのが、霊の世界じゃないですか?」
 すっかり俺のお気に入りになったヤンチャな笑顔を浮かべながら、彼女は灰皿にタバコを置いた。霊であれ、何であれ、俺も今ではこのタバコが愛おしく思える。こいつの煙が、えみと出逢わせてくれたのだから。えみが置いた隣に、俺も火が付いたままのマイセンを並べた。二つの煙が、艶かしく絡まり合う。その様子を眺めながら、この煙に負けないくらい、どちらからともなく目を閉じて、濃厚に舌を絡めあった。キスの味は、不思議とこの古くなったマイセンが、約四十年前に元々持っていた新鮮な香料と同じだと思った。何故そう思ったのかは分からないが、断言してもいい。

 閉じていた目を開けたら、そこにえみの姿は無く、唇の感触とマイセンの香りを残し、まるで煙の様に消えていなくなった。
  


























エピローグ


 えみが成仏したあと、このマンションのオーナー夫妻へ挨拶に行くべきか迷ったが、御遺族には会わない事にした。俺はえみの死後の魂に出会い、生きている間は面識が無かった人間だ。俺はあの後も成仏する事なく、以前と変わらない日常を過ごしている。
 後日、普段はコンビニで買うのだが欲しい銘柄が売り切れていたので、たまたま駅前のタバコ屋に立ち寄ったら、310号室の岡本健一さんですよね?と言われ、一瞬呼吸が止まりそうになった。声色が何処かえみに似ていたからだ。
「私、あなたがお住まいのマンションのオーナーの母、楠笑の祖母、楠円(まどか)と申します」
 生前は、孫がお世話になりまして……と頭を下げられた。
「昨日、夢に笑が出てきまして、『おばあちゃん、私の彼氏になった、岡本健一さん。今度改めて紹介するね』と携帯電話の画面を見せてくれたのですが、そこにあなたが映っていたんです」
 店に入った時、何処か反応が不自然だったのはその為か。
「驚きましたよ。夢の中の事なんて、起きたら忘れてしまうじゃないですか。でも笑があまりにも嬉しそうに岡本さんの写真を見せるものですから、なんとなく顔を覚えていましてね。そしたら、まさにあなたがお見えになり……」
 そう言うと、祖母さんは感極まってしまわれた。俺はどう対応すれば良いのか困惑した。幽霊のえみとしか会っていない人間が、彼女の遺族の方へどういう言葉を掛ければ良いのか分からないし、思い出話など出来る訳もない。
「私に煙を吸わせたくないからと、タバコを吸いに屋上へ上がったと思ったら、忘れ物でもあったのか、慌てて部屋に戻った来たんです。そしてまた部屋を出ようとしたら、急に意識を失いまして……」
 え?屋上って……
 じゃああの時、屋上に戻って来たのは幽霊のえみで、その前にお湯を掛けられて、屋上で話していたのが、実態のえみ?
 という事は、俺のせいで、えみは死んだのか?
 俺があの時すぐに部屋に戻っていれば、えみはあんなに慌てて階段を駆け降りる事は無かった。
 俺があの時屋上へ行かなければ、えみは部屋でおばあさんとゆっくりとくつろいでいたはずだ。
 俺がそもそも、ベランダでタバコなんか吸わなければ、えみに声を掛けられる事も無かった。
 俺なんかと出逢わなければ、えみはあのヤンチャな愛らしい笑顔をもっと多くの人に振りまいていたはずだ。
 俺が、えみの人生も、これから叶えたであろう沢山の夢も全てぶち壊した。
 俺が、えみを、殺した……
 俺が顔面蒼白になり、膝から崩れ落ち、ガタガタと震えていると、祖母さんが有難う、と言った。
「笑と巡り合ってくれて、ありがとう」
「すいません、どれだけ謝っても赦される事では無いのですが、俺がえみさんを殺しました」
「え?」
「え?」
「あの、えみさんが倒れたのは、俺のせいなんです。俺がえみさんを慌てさせたから心臓に負担が……」
「いいえ、あの子特に持病も無かったんです。致死性不整脈は、本当に突然、、誰にでも起こる可能性があるんです。寝ていて、そのまま起きてこない、という事もあるそうなんです。だから、走って息が切れたから、という訳ではありません。まして岡本さんのせいである訳がありませんよ」
 むしろ……と言いながら、おばあさんはしゃがみこんで、膝を付いて項垂れている俺と目を合わせて優しく微笑んだ。
「夢の中もそうでしたけど、あの時部屋に戻って来た時の笑の顔。あんなにワクワクして楽しそうな顔は、あの子が生まれてから見た事がありませんでしたよ。屋上であなたと何があったんだろうって」
 行ってきます、と玄関を出る瞬間、倒れたそうだ。その時のえみの笑顔が鮮やかに浮かび過ぎて、辛かった。
 あの後、幽体離脱したであろう、えみと屋上にいた事を、俺は正直に話してみた。
「信じてもらえないかもしれませんが……」
「いいえ。確かに不思議な話ですけど、笑はあの後、ちゃんとあなたに会えたのですね」
 その後、彼女と交わった事は言えないと思った。
「それで、あなたはどうなんですか?」
「どう、とは……」
「幽霊さんなの?」
「実は、えみさんには散々その事を言われまして……その時は実体だと思って接していましたから、なんでこの人は俺を幽霊にしたがるんだろうって……」
 あの子らしいわ、とおばあさんは大笑いしている。えみは自分が霊だと自覚していた訳だ。
「自分でも分からないんです。単に霊感が強いだけなのか、それとも霊と本体の世界観が逆転しているのか……えみさんが言うには、成仏すればその世界における霊だし、しなければ現世の住人だ、この世に未練が無くなれば自然に成仏出来るから、なんとかなるでしょ、と。おばあさんは、えみさんとは夢の中以外で会いましたか?」
「いいえ、会っていないわ。私は残念ながら霊感がないみたい。だからあなたが羨ましくって。私が見えるという事は、岡本さんは幽霊じゃないって事よね?」
「でも幽霊じゃないのに俺は幽霊であるえみさんと話が出来た、俺がいる時だけ、えみさんは他の人間とも話が出来たのは、何故なんでしょう……」
 そうね、とおばあさんがちょっと考えて、
「どっちでもいいんじゃない?あなたが成仏したら、現世ではあなたは既に亡くなっている訳だから、その事実が残るだけだし、成仏しないならしないで、今のこの世界で楽しくやればいいんじゃない?」
 私もいるし。とえみと良く似た、ヤンチャな笑顔で笑った。
 軽いな~。流石はえみのおばあさんってところか。
「健一さん、せっかくだから、御飯食べていきなさいよ。あなた独り身でしょ?」
 名前呼びですか。孫の婿扱い、歓迎して下さるのは有難いが、えみを亡くされて四十九日もまだ。辛いところ、あまり長居をするのもご迷惑だろう。そういえば、えみにまだお線香を上げてなかった。
「いえ、まだ御辛く、御心労も癒えていらっしゃらないと思いますので、えみさんのお線香だけ上げさせて頂いて、これで失礼致します」
「あら、ウチには旦那のお仏壇しかないわよ。笑のは息子夫婦、パパとママのところね」
 そうだ。よく考えなくても当たり前だ。社会人としてこれは恥ずかしい……
「丁度いいわ。この後息子のところに用事があるから、一緒に行きましょう!息子達にもあなたを紹介するわ」
 じゃあ、やっぱり御飯は食べて行きなさいよ、と、結局、大変申し訳なく、夕飯を頂く事になってしまった。
「それに、健一さんにはもう少し聞きたい事があったから」
「どんな事でしょう?」
「うん、ちょっと気になってね。笑がどうやって成仏出来たのか、とか?」

 この人は、なんでこんなに色々とヤバい話を嗅ぎ付けるんだ。あんな袋とじの話、言える訳ないだろ!

                                             
                                              了
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