霧衣物語

水戸けい

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終段

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 次は道明が手を叩いた。庭先に人のざわめきが現れる。晴信らは庭に目を向け、やせ細った者たちが怯えた目で連れてこられるのを見た。

「預かっておりました民の全てを、お返しいたしましょう」

 晴信は道明に向かって礼をすると、すばやく立ち上がり庭に下りた。

「父上が苦労をかけた。これからは逃れたいと思わぬような国にしていく。そのために、力を貸してくれ」

 真摯な瞳で告げた晴信に、彼らは戸惑う視線を交わした。

「里に帰れと言われても、ここに来るまでの疲れもあって辛いだろう。――村杉殿。先に連絡をさせていただいた、彼らの休養の場は整っているだろうか」

 為則が頭を下げて、短く返事をした。それを受けて信成が腰を上げる。

「では、この者たちの事は、おまかせください」

 頼むと示した晴信に頭を下げ、信成は彼らを導いて座を後にした。それを見送った晴信が戻ると、道明が顎(あご)をさすりながらやんわりと要求をする。

「これで問題なく受け渡しは終了したが……、晴信殿には先代の頃より引き継がれた、確執の解決も頼みたい」

「確執の解決、ですか」

「さよう。国境の小競り合いは、どの国同士でも起こる事。そこに国主は介入せぬのが暗黙の了解。だが、そちらの先代は見物と称して現れ、こちらの民を幾人も手にかけた。そちらの民も両成敗という事で処分されたと伺ったが……。よもや、ご存知無いとは申されまいな」

 晴信は顔を曇らせた。

「存じております。その折は、大変なご迷惑をおかけし、申し訳ございません」

 満足そうに道明が首を縦に動かす。

「先代のした事を、あれこれと言い立てるつもりは無いが、民の気持ちがそれで治まるかどうか」

 もったいをつけるように、道明は言葉を切って大げさに困った息を吐き出した。

「今後はそのような事をせぬと、言葉で示すのは容易い。しっかりとした盟約の証が無ければ、民は戦への不安を抱えて過ごす事になるとは思われまいか」

「いかにも。では、誓詞を示しましょう」

 晴信の応えに、道明は首を振った。

「それも、いざと言う時は効力を発揮せぬだろう。やはりここは、双方にとって大事と思える人間を、交換するという手はいかがかな」

 道明の目が小狡く光る。きた、と晴信は身構えた。力強い視線が、緊張した晴信の背を支える。頼むぞと、晴信は心の中で語りかけた。

「大事と思える人間、ですか」

 はてと晴信は考える風を見せた。

「こちらは、弟の義明を出そう。そちらに送る前に、名を孝信殿の一字をもらい、孝明と改めさせて送り出す」

 晴信は内心で舌を巻いた。相手が人質交換を言い出すとしたら、母の違う弟の義明を出すだろうと、頼継が言っていた通りの事になったからだ。道明の息子と二つ違いの義明は、人品の評判がすこぶる良いという。道明は弟が息子の跡目相続の邪魔になりかねないと考え、態のいい厄介払いとして差し出すだろうと、頼継は言っていた。そしてこちらの人質として、栄を所望するはずとも。

 晴信は独身で兄弟もいない。親族として差し出せる人間は、母くらいのもの。道明は母親を出せと言うのは酷だと言い、孝信の愛妾の館に長く留め置かれていた栄を、よほど目をかけられていたからに違いないと、こじつけのような運び方で欲するだろう。その時に、うまく言葉を繋いでこちらも厄介払いをするように。

 頼継の言葉を、克頼は胸を張って請け負った。晴信は克頼の言葉を承認するだけでいい。余計な言葉は挟まないように。国主になりたての、頼りない若者という態度を取り続けているようにと言われている。
 晴信は緊張を表に出さぬよう努めた。

「弟君を人質に出されるとは。ですが、こちらには血縁で出せる者は母くらいしかおりません。父は多くの愛妾を持っておりましたが、あいにく子宝には恵まれず」

 申しわけ無いと顔に浮かべる晴信に、いやいやと道明が軽く手を振る。

「ご母堂を出せと言うわけには参らん。これぞという人物をいただければ。……そうそう。先代の孝信殿は、色好みの方であられた。多くの女性を住まわせていた館があると、耳にした事がある。その中には、先代の威光を持ってしても手に入らなかった者もいたとか」

 ちらりと道明が為則に目配せをする。それを受けて為則が膝を進め、晴信に進言しようと口を開いた。

「なるほど!」

 為則が声を発する前に、克頼が膝を叩いた。朗らかな顔をした克頼が声高に言う。
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