40 / 42
終段
しおりを挟む
次は道明が手を叩いた。庭先に人のざわめきが現れる。晴信らは庭に目を向け、やせ細った者たちが怯えた目で連れてこられるのを見た。
「預かっておりました民の全てを、お返しいたしましょう」
晴信は道明に向かって礼をすると、すばやく立ち上がり庭に下りた。
「父上が苦労をかけた。これからは逃れたいと思わぬような国にしていく。そのために、力を貸してくれ」
真摯な瞳で告げた晴信に、彼らは戸惑う視線を交わした。
「里に帰れと言われても、ここに来るまでの疲れもあって辛いだろう。――村杉殿。先に連絡をさせていただいた、彼らの休養の場は整っているだろうか」
為則が頭を下げて、短く返事をした。それを受けて信成が腰を上げる。
「では、この者たちの事は、おまかせください」
頼むと示した晴信に頭を下げ、信成は彼らを導いて座を後にした。それを見送った晴信が戻ると、道明が顎(あご)をさすりながらやんわりと要求をする。
「これで問題なく受け渡しは終了したが……、晴信殿には先代の頃より引き継がれた、確執の解決も頼みたい」
「確執の解決、ですか」
「さよう。国境の小競り合いは、どの国同士でも起こる事。そこに国主は介入せぬのが暗黙の了解。だが、そちらの先代は見物と称して現れ、こちらの民を幾人も手にかけた。そちらの民も両成敗という事で処分されたと伺ったが……。よもや、ご存知無いとは申されまいな」
晴信は顔を曇らせた。
「存じております。その折は、大変なご迷惑をおかけし、申し訳ございません」
満足そうに道明が首を縦に動かす。
「先代のした事を、あれこれと言い立てるつもりは無いが、民の気持ちがそれで治まるかどうか」
もったいをつけるように、道明は言葉を切って大げさに困った息を吐き出した。
「今後はそのような事をせぬと、言葉で示すのは容易い。しっかりとした盟約の証が無ければ、民は戦への不安を抱えて過ごす事になるとは思われまいか」
「いかにも。では、誓詞を示しましょう」
晴信の応えに、道明は首を振った。
「それも、いざと言う時は効力を発揮せぬだろう。やはりここは、双方にとって大事と思える人間を、交換するという手はいかがかな」
道明の目が小狡く光る。きた、と晴信は身構えた。力強い視線が、緊張した晴信の背を支える。頼むぞと、晴信は心の中で語りかけた。
「大事と思える人間、ですか」
はてと晴信は考える風を見せた。
「こちらは、弟の義明を出そう。そちらに送る前に、名を孝信殿の一字をもらい、孝明と改めさせて送り出す」
晴信は内心で舌を巻いた。相手が人質交換を言い出すとしたら、母の違う弟の義明を出すだろうと、頼継が言っていた通りの事になったからだ。道明の息子と二つ違いの義明は、人品の評判がすこぶる良いという。道明は弟が息子の跡目相続の邪魔になりかねないと考え、態のいい厄介払いとして差し出すだろうと、頼継は言っていた。そしてこちらの人質として、栄を所望するはずとも。
晴信は独身で兄弟もいない。親族として差し出せる人間は、母くらいのもの。道明は母親を出せと言うのは酷だと言い、孝信の愛妾の館に長く留め置かれていた栄を、よほど目をかけられていたからに違いないと、こじつけのような運び方で欲するだろう。その時に、うまく言葉を繋いでこちらも厄介払いをするように。
頼継の言葉を、克頼は胸を張って請け負った。晴信は克頼の言葉を承認するだけでいい。余計な言葉は挟まないように。国主になりたての、頼りない若者という態度を取り続けているようにと言われている。
晴信は緊張を表に出さぬよう努めた。
「弟君を人質に出されるとは。ですが、こちらには血縁で出せる者は母くらいしかおりません。父は多くの愛妾を持っておりましたが、あいにく子宝には恵まれず」
申しわけ無いと顔に浮かべる晴信に、いやいやと道明が軽く手を振る。
「ご母堂を出せと言うわけには参らん。これぞという人物をいただければ。……そうそう。先代の孝信殿は、色好みの方であられた。多くの女性を住まわせていた館があると、耳にした事がある。その中には、先代の威光を持ってしても手に入らなかった者もいたとか」
ちらりと道明が為則に目配せをする。それを受けて為則が膝を進め、晴信に進言しようと口を開いた。
「なるほど!」
為則が声を発する前に、克頼が膝を叩いた。朗らかな顔をした克頼が声高に言う。
「預かっておりました民の全てを、お返しいたしましょう」
晴信は道明に向かって礼をすると、すばやく立ち上がり庭に下りた。
「父上が苦労をかけた。これからは逃れたいと思わぬような国にしていく。そのために、力を貸してくれ」
真摯な瞳で告げた晴信に、彼らは戸惑う視線を交わした。
「里に帰れと言われても、ここに来るまでの疲れもあって辛いだろう。――村杉殿。先に連絡をさせていただいた、彼らの休養の場は整っているだろうか」
為則が頭を下げて、短く返事をした。それを受けて信成が腰を上げる。
「では、この者たちの事は、おまかせください」
頼むと示した晴信に頭を下げ、信成は彼らを導いて座を後にした。それを見送った晴信が戻ると、道明が顎(あご)をさすりながらやんわりと要求をする。
「これで問題なく受け渡しは終了したが……、晴信殿には先代の頃より引き継がれた、確執の解決も頼みたい」
「確執の解決、ですか」
「さよう。国境の小競り合いは、どの国同士でも起こる事。そこに国主は介入せぬのが暗黙の了解。だが、そちらの先代は見物と称して現れ、こちらの民を幾人も手にかけた。そちらの民も両成敗という事で処分されたと伺ったが……。よもや、ご存知無いとは申されまいな」
晴信は顔を曇らせた。
「存じております。その折は、大変なご迷惑をおかけし、申し訳ございません」
満足そうに道明が首を縦に動かす。
「先代のした事を、あれこれと言い立てるつもりは無いが、民の気持ちがそれで治まるかどうか」
もったいをつけるように、道明は言葉を切って大げさに困った息を吐き出した。
「今後はそのような事をせぬと、言葉で示すのは容易い。しっかりとした盟約の証が無ければ、民は戦への不安を抱えて過ごす事になるとは思われまいか」
「いかにも。では、誓詞を示しましょう」
晴信の応えに、道明は首を振った。
「それも、いざと言う時は効力を発揮せぬだろう。やはりここは、双方にとって大事と思える人間を、交換するという手はいかがかな」
道明の目が小狡く光る。きた、と晴信は身構えた。力強い視線が、緊張した晴信の背を支える。頼むぞと、晴信は心の中で語りかけた。
「大事と思える人間、ですか」
はてと晴信は考える風を見せた。
「こちらは、弟の義明を出そう。そちらに送る前に、名を孝信殿の一字をもらい、孝明と改めさせて送り出す」
晴信は内心で舌を巻いた。相手が人質交換を言い出すとしたら、母の違う弟の義明を出すだろうと、頼継が言っていた通りの事になったからだ。道明の息子と二つ違いの義明は、人品の評判がすこぶる良いという。道明は弟が息子の跡目相続の邪魔になりかねないと考え、態のいい厄介払いとして差し出すだろうと、頼継は言っていた。そしてこちらの人質として、栄を所望するはずとも。
晴信は独身で兄弟もいない。親族として差し出せる人間は、母くらいのもの。道明は母親を出せと言うのは酷だと言い、孝信の愛妾の館に長く留め置かれていた栄を、よほど目をかけられていたからに違いないと、こじつけのような運び方で欲するだろう。その時に、うまく言葉を繋いでこちらも厄介払いをするように。
頼継の言葉を、克頼は胸を張って請け負った。晴信は克頼の言葉を承認するだけでいい。余計な言葉は挟まないように。国主になりたての、頼りない若者という態度を取り続けているようにと言われている。
晴信は緊張を表に出さぬよう努めた。
「弟君を人質に出されるとは。ですが、こちらには血縁で出せる者は母くらいしかおりません。父は多くの愛妾を持っておりましたが、あいにく子宝には恵まれず」
申しわけ無いと顔に浮かべる晴信に、いやいやと道明が軽く手を振る。
「ご母堂を出せと言うわけには参らん。これぞという人物をいただければ。……そうそう。先代の孝信殿は、色好みの方であられた。多くの女性を住まわせていた館があると、耳にした事がある。その中には、先代の威光を持ってしても手に入らなかった者もいたとか」
ちらりと道明が為則に目配せをする。それを受けて為則が膝を進め、晴信に進言しようと口を開いた。
「なるほど!」
為則が声を発する前に、克頼が膝を叩いた。朗らかな顔をした克頼が声高に言う。
0
お気に入りに追加
1
あなたにおすすめの小説
小童、宮本武蔵
雨川 海(旧 つくね)
歴史・時代
兵法家の子供として生まれた弁助は、野山を活発に走る小童だった。ある日、庄屋の家へ客人として旅の武芸者、有馬喜兵衛が逗留している事を知り、見学に行く。庄屋の娘のお通と共に神社へ出向いた弁助は、境内で村人に稽古をつける喜兵衛に反感を覚える。実は、弁助の父の新免無二も武芸者なのだが、人気はさっぱりだった。つまり、弁助は喜兵衛に無意識の内に嫉妬していた。弁助が初仕合する顚末。
備考 井上雄彦氏の「バガボンド」や司馬遼太郎氏の「真説 宮本武蔵」では、武蔵の父を無二斎としていますが、無二の説もあるため、本作では無二としています。また、通説では、武蔵の父は幼少時に他界している事になっていますが、関ヶ原の合戦の時、黒田如水の元で九州での戦に親子で参戦した。との説もあります。また、佐々木小次郎との決闘の時にも記述があるそうです。
その他、諸説あり、作品をフィクションとして楽しんでいただけたら幸いです。物語を鵜呑みにしてはいけません。
宮本武蔵が弁助と呼ばれ、野山を駆け回る小僧だった頃、有馬喜兵衛と言う旅の武芸者を見物する。新当流の達人である喜兵衛は、派手な格好で神社の境内に現れ、門弟や村人に稽古をつけていた。弁助の父、新免無二も武芸者だった為、その盛況ぶりを比較し、弁助は嫉妬していた。とは言え、まだ子供の身、大人の武芸者に太刀打ちできる筈もなく、お通との掛け合いで憂さを晴らす。
だが、運命は弁助を有馬喜兵衛との対決へ導く。とある事情から仕合を受ける事になり、弁助は有馬喜兵衛を観察する。当然だが、心技体、全てに於いて喜兵衛が優っている。圧倒的に不利な中、弁助は幼馴染みのお通や又八に励まされながら仕合の準備を進めていた。果たして、弁助は勝利する事ができるのか? 宮本武蔵の初死闘を描く!
備考
宮本武蔵(幼名 弁助、弁之助)
父 新免無二(斎)、武蔵が幼い頃に他界説、親子で関ヶ原に参戦した説、巌流島の決闘まで存命説、など、諸説あり。
本作は歴史の検証を目的としたものではなく、脚色されたフィクションです。
鵺の哭く城
崎谷 和泉
歴史・時代
鵺に取り憑かれる竹田城主 赤松広秀は太刀 獅子王を継承し戦国の世に仁政を志していた。しかし時代は冷酷にその運命を翻弄していく。本作は竹田城下400年越しの悲願である赤松広秀公の名誉回復を目的に、その無二の友 儒学者 藤原惺窩の目を通して描く短編小説です。
16世紀のオデュッセイア
尾方佐羽
歴史・時代
【第12章を週1回程度更新します】世界の海が人と船で結ばれていく16世紀の遥かな旅の物語です。
12章では16世紀後半のヨーロッパが舞台になります。
※このお話は史実を参考にしたフィクションです。
ライヒシュタット公の手紙
せりもも
歴史・時代
ナポレオンの息子、ライヒシュタット公フランツを巡る物語。
ハプスブルク家のプリンスでもある彼が、1歳年上の踊り子に手紙を? 付き人や親戚の少女、大公妃、果てはウィーンの町娘にいたるまで激震が走る。
カクヨムで完結済みの「ナポレオン2世 ライヒシュタット公」を元にしています
https://kakuyomu.jp/works/1177354054885142129
なんか、あれですよね。ライヒシュタット公の恋人といったら、ゾフィー大公妃だけみたいで。
そんなことないです。ハンサム・デューク(英語ですけど)と呼ばれた彼は、あらゆる階層の人から人気がありました。
悔しいんで、そこんとこ、よろしくお願い致します。
なお、登場人物は記載のない限り実在の人物です
空蝉
横山美香
歴史・時代
薩摩藩島津家の分家の娘として生まれながら、将軍家御台所となった天璋院篤姫。孝明天皇の妹という高貴な生まれから、第十四代将軍・徳川家定の妻となった和宮親子内親王。
二人の女性と二組の夫婦の恋と人生の物語です。
本能のままに
揚羽
歴史・時代
1582年本能寺にて織田信長は明智光秀の謀反により亡くなる…はずだった
もし信長が生きていたらどうなっていたのだろうか…というifストーリーです!もしよかったら見ていってください!
※更新は不定期になると思います。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる