暁光の王と漂着した私

水戸けい

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第5章 実行と収穫

5.

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 扉が開き、ランプの灯りが星々の光に包まれた濃紺に沈む空気に現れる。

 ランプはゆらゆらと揺れて足元を照らし、砂浜に出たふたつの足音が乱れないよう導いていた。

「わぁ」

 月のない夜。主役は自分たちだと言わんばかりに、空には多くの星がまたたき、海の上にそのかけらをちりばめている。金砂銀砂をまき散らしたような海は、おだやかな潮騒で世界を彩っていた。

「足元、気をつけて」

「ありがとう、クラベス」

 右手にランプを持ったクラベスに手を差し伸べられ、カナミは彼と手をつないだ。

 クラベスは簡素なシャツに長い布をまきつけて、肩のところで大きな石のついている金の留め具で固定していた。頑丈そうな革のブーツに細身のズボンの裾を入れている。対するカナミはクラベスからもらった薄紫のドレスに、髪は隠さず潮風になぶらせていた。

「あのときはラチェットがランプを持って、月のない夜に浜へ出たんだ」

「……出会った日のことね」

「ああ」

 なつかしそうにほほえみながら、海を見つめるクラベスの横顔にカナミの胸が熱くなる。愛おしさがあふれ出て、カナミは繋いだ手を強く握った。振り向いたクラベスに、なんでもないと笑みを浮かべて首を振る。

「あの願いの礼をしに行く日が来るなんて、思ってもみなかった」

「どうして?」

 ちょっとの間をあけてから、クラベスはいたずらっぽい顔をする。

「まさか、叶うなんて思ってもみなかったから」

 ふふ、とカナミは肩をすくめた。

「それ、わかるなぁ。私もお祭りのお願い事、叶うはずないって思ってた。なんていうのかな。願い事をすることで、自分に『そうなりたい』って確認させるっていうか、なんていうか。自覚して、そのためにがんばるから叶う、みたいな? そんな感じだって思ってた」

 うん、とクラベスが首を動かす。

「そうかもしれない……」

「クラベスは違ったの?」

「私は」

 ちょっと恥ずかしそうに言い淀んでから、クラベスは足を止めた。

「弱音を形にしたかった、と言えばいいのか」

 カナミはクラベスの肩に寄り添い、見上げた。クラベスが情けない顔でほほえむ。

「きちんと音にして、どういう部分にひっかかりがあるのか。私はなにを気にしているのかを、明確にしたかったんだ。――そしてそれを、ラチェットに聞いてもらいたかった」

 どういうことだろうとカナミが瞳に疑問を浮かべると、クラベスがカナミの髪に唇を落とす。

「相談をする、ということがどうにもできなかったんだ。信頼していないわけではない。ただ、できなかった」

 わかる、とカナミは思った。どんなふうに相談をしていいのか、どう説明をすればいいのか、それが見えなくてモヤモヤを抱え続ける場合も、相手がどう思うのかを気にしすぎて言えなくなる場合もある。クラベスの場合はどっちだろうと、カナミは考えた。

「間接的に相談をして、そこからなにかが動くと思うなど都合のいい考えだとはわかっていた。……それでも、ほかにどうすることもできずに、伝承に頼ったんだ」

「うん。――なんか、うまく捕まえられないっていうか、問題は問題なんだけど、はっきりしていないっていうか、どうすればいいのかわかっているのに、それができないとか、なんか、そういうときって背中を押してもらいたくなるし、グチをこぼしたくなる。……そういうことだよね」

 そのとおりだとクラベスは物憂い息を吐いて、カナミを見つめた。

「カナミは本当に、私のことをよくわかってくれる」

「ううん。私もね、クラベスとはぜんぜん違う問題なんだけど、似たような感じの悩みを抱えてて。それで、だから……、根っこはおなじだろうなって思って、言っただけ」

「それでも……、そう察してくれるだけでもありがたい。カナミはやはり、私の願いどおりの人だ」

「クラベス」

 繋いだ指を絡めて顔を寄せ、キスをする。角度を変えて幾度もキスを繰り返すふたりを、潮騒と星明りが包んでいた。ランプの灯が揺れて、砂浜に落ちた影が動いた。

「これからもずっと、ずっと私の傍にいてくれ。――カナミ、愛してる」

「私も……、クラベス」

 カナミは繋いでいない手を伸ばし、クラベスの頬に触れた。指先で彼の目じりに触れ、頬を撫でて肩に触れる。背伸びをして唇を重ね、彼の胸に額を乗せた。

「ずっと、こうしていたいな。ずっとクラベスの傍で、この世界で生きていきたい」

「カナミ」

 帰りたくないと、カナミは強く願う。この不安をぬぐいたい。ずっとクラベスの傍にいたい。私の居場所はここなのだと、願った相手に伝えたい。

 そのために、カナミはクラベスと新月の夜明け前に浜を訪れていた。この国の願いの儀式を行うために。

「さあ、行こう」

 促され、カナミはクラベスの胸から離れた。クラベスが足を踏み出し、カナミも続く。ゆっくりと進んでいった先にあったのは、岩場だった。

「この岩の上で、願いを神に告げるんだ」

「ここ……」

「ん?」

「似てるの。私が地元のお祭りで、願い事をしようとして海に落ちた場所に」

 クラベスはちょっと驚いたふうに目を大きくして、ちいさく「そうか」とつぶやくとカナミを招いた。

 カナミの心は妙にざわめき、心音が高くなる。どうしてこんなに似た場所があるのかと、カナミは不思議に思った。

「カナミ。足元に気をつけて。滑りやすいから」

「うん」

 さきに登りランプを脇に置いたクラベスに引き上げられ、カナミは岩の上に立った。頭上にはいまにも降ってきそうなほど、星が無数に瞬いている。

(あの日とおなじ)

 川のように見える星の帯が空に横たわっている。岩に腰かけたクラベスの膝に抱えられるようにして、カナミも座った。

 潮騒が静かに耳を打ち、背中にクラベスの体温を感じる。

「ここで、願い事をするの?」

「ああ。ここで神に願いを告げて、捧げものを海に投げ入れる」

 クラベスが胸元からちいさな革袋を取り出した。

「それは?」

「カナミを願ったときに投げ入れたものの、片割れだ」

 クラベスは革袋を逆さまにした。コロリと出てきたのは、緑の石がはめ込まれた金の指輪だった。

「これが、願いの品の片割れ?」

「ああ。私がカナミを願うときに投げ入れたのは、妻に与えるべき指輪だった。我が妻となる者のための指輪を流し、支えとなる人を与えてくれと」

「そうだったんだ。……でも、どうして妻なの? 部下とか、そういうのじゃなくって」

「ラチェットやパンデイロ、チェレスタがいる。スルドやアゴゴ、カバサたちも大切な、信頼できる者たちだ。そういう者がいる中で、支えてくれる部下が欲しいとは不遜にもほどがある。――周囲が私に求め、また私が有していないのは妻。私の父は、即位してすぐに正妻と側室の両方をめとられた。その先の、そのまた先の王もそうだった。即位とともに妻帯をするのは、ならわしなんだ。その指輪は、私もそうするだろうという習慣から、即位式の折に作られたものだ」

「そうなんだ」

 カナミは指輪を持ち上げた。ランプの灯りを受けた緑の石が、怪しく揺らめく。

「しかし私はなんだかんだと理由をつけて、それを断り続けていた。もしも私に娘が嫁いでしまったら、チェレスタに譲位となった場合に困ると、貴族たちも熱心に妻帯を勧めなかったから、これまで使うことがなかった」

 クラベスは指輪をつまみ、星空にかかげる。

「これは私の妻となる人の手から私の指へと、誓いのしるしとしてはめられるものだ。だが、私が妻に与えるべき対の指輪は海の中。……代わりにカナミが私の傍へきた。ならば、この指輪を海へと流し、カナミを生涯の妻にすると願えばいいのではないかと考え、持ってきたんだ」

「そうなんだ。私は――」

 願いの品など、なにも持っていない。この国に流されたカナミの持ち物はすべてクラベスから与えられたものか、カバサに借りたものしかない。それらを海に流しても、はたして気持ちに値する品となりえるかどうか。そう考えると、なにも持っては来られなかった。

「カナミはなにも心配しなくていい。ともにありたいと、強く願ってこの指輪を海に流そう」

「それで、大丈夫かな」

「信じるしかないさ」

 クラベスが立ち上がり、支えられながらカナミも立った。地元の海と目の前の海がカナミの意識の中で重なる。波はおだやかに岩に触れて、わずかに白く泡立っている。

「さあ、カナミ」

「うん」

 緊張しながら、カナミはクラベスの指輪を持つ手に手のひらを重ねた。

「海の神よ。贈り物はたしかに受け取った。これよりは生涯、この宝とともに生きていく。もしもカナミを連れ帰るつもりであるなら、代わりにこの指輪を収めてくれ」

 朗々と響く声でクラベスが言い、カナミは自分の腰を支える彼の腕や寄り添う肌に勇気を奮わせて叫んだ。

「私、ここにずっといたい! 私の居場所はクラベスの傍なの。私の願いを叶えるために、私をここに連れてきたんでしょう? だったら、ずっとここにいさせて。戻りたくない。ずっと、クラベスの傍にいたいの!!」

「……カナミ」

 全身で叫んだカナミの想いに、感極まったクラベスが喉を詰まらせる。

「私ね、居場所が欲しいって願ったの。誰も私を知らない場所で、やり直したいって。――変に格好つけたりしないで、生きていきたいって。そう、願ったの。もともとは私が悪くて、自業自得で苦しくなっただけなんだけど」

 自嘲に照れをにじませて告白すると、クラベスの瞳が魂ごと包むようなやさしさを浮かべた。

「そうだったのか」

「うん。――こんな身勝手な願いをするような私だけど、いいかな」

「もちろんだ。私こそ、つまらぬことで己を信じきれぬような弱い男だが、かまわないか」

「それは、クラベスがやさしすぎるからだよ。もっと自分にワガママになってもいいと思う」

「カナミはやさしいな」

「クラベスこそ」

 思いを重ねる沈黙が訪れる。カナミの魂はクラベスの瞳に吸い込まれ、クラベスもまた、そうだった。呼気の音が聞こえるほど互いしか見えなくなったふたりが顔を重ねると、いきなり高くなった波がかぶさってきた。

「っ!」

 キスをしたまま驚いたふたりは、とっさに互いの体に腕を回して支え合った。

「……おんなじだ」

「ん?」

「私が願い事をした後に、急に波が高くなって海に落ちたの」

 呆然とつぶやいたカナミは、あらためてクラベスにしがみついた。

「よかった……。私、クラベスといる」

「うん。カナミが浚われなくてよかった」

「クラベス」

「カナミ」

 潮の味のする唇を重ねる。頬に張りついているカナミの濡れた黒髪をかきあげようとしたクラベスが、はたと動きを止めた。

「……クラベス?」

「指輪が」

 手の中から消えていた。

「神が願いを受け取っていったんだな。カナミがここにいるのが、その証拠だ」

「ああ、クラベス」

 感激のままクラベスに飛びついたカナミは、彼の頬に頬をすり寄せた。

「よかった。……私、ずっとここにいられるんだよね」

「代わりの品を受け取った神が、約束を反故にするはずはない。――ずっと私の傍にいてくれ」

「うん……、うん、クラベス」

 海水とは違うものが、カナミの頬を濡らした。あふれるそれを唇で受け止めたクラベスが、小首をかしげる。

「しかし、ずぶぬれになってしまったな」

「はやく戻って着替えなきゃ」

「ああ。このまま披露の宴をはじめるわけにはいかないからな」

 祭りの成功をもって、ラチェッタはカナミをクラベスの伴侶に認めると言った。そうと決まれば祭りの興奮を記憶にとどめているうちに、黒髪のカナミを神からの授かりものとして披露し、クラベスの妻にすると内外に宣言しなければと活動を開始した。

 クラベスの王政の基盤を固めるには、このタイミングを逃すよりほかはないという考えらしい。

 そしてその披露目の式典は、新月の日から満月の日までと決まった。

 クラベスは式典の前にカナミとともに神に願い成就の報告をし、カナミをこのままこの地にとどめてほしいと願わなければとラチェットに告げた。カナミがずっとこの地に留まるという保証はない。だから式典の前に海に行かせてくれと言うクラベスに、ラチェットはもっともだと納得してふたりを送り出した。

「ラチェットさんに、怒られるかな」

「叱られるだろうな。――だが、あれはそれが仕事のようなものだから」

 冗談めかしたクラベスに、クスクスとカナミは笑う。ふ、と目の端に明るいものを感じて、カナミは海に顔を向けた。つられたクラベスも海を見る。

 水平線がオレンジに光り、もったりとした太陽が藍色の夜のとばりを押し上げていた。

「私の心は、いまの光景のようだ。カナミ……、ありがとう」

「ううん、私も。ここに来て、クラベスと出会えてよかった」

「生涯、ともにいよう」

「うん――、ずっと、一緒にいようね」

 顔を見合わせたふたりは昇りくる朝日に包まれて、愁いの消えた想いを唇に乗せて重ねた。

-fin-
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