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9.カブフリ
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獣の姿で逃げていくマトリを、カブフリは呆然と見送った。手の中にマトリの果てた跡がある。その匂いは狂おしいほどに甘ったるく、蠱惑的だった。それとおなじ匂いが、マトリの全身から立ち上っていた。頭の中がクラクラとして、マトリを組み敷きなにもかもを自分のものにしたい情動が抑えきれなくなった。
「俺は……なにを」
なんてことをしたのだと、手のひらにあるマトリの名残を見たカブフリは、乱暴に頭を振って深呼吸をした。冷静になろうとするのに、マトリの匂いが邪魔をする。この匂いはどこかに擦りつけて消していいものではない。立ち上がったカブフリは、足元の抜け殻になったマトリの服を拾い、軽く振って汚れを落としてから木の枝にかけた。獣の姿のまま、マトリは集落に帰るかもしれない。だが、アユイが来ているかもしれない場所に、そのまま帰ればなにかあったと察せられる。逃げた後に冷静になったマトリが、そう考えるかもしれないと思って、カブフリは服をこの場に残しておくことにした。
鼻をうごめかし、マトリが逃げたのとは違う方向の水場へ歩く。
(これは、発情期の匂いなのか)
いままでマトリの体から、匂ったことのない香りだった。しかし確実に、マトリの匂いだと言い切れるものだった。それはつまり、マトリの体が変化しているということになる。オメガと判明したマトリの体に起こる変化と考えれば、発情期しか思い当たらない。
(マトリの体は、確実にオメガとして成熟していっている)
だれかとツガイになり、抱かれて子どもを宿す準備ができつつある。メスやオメガの発情期の匂いは、オスの欲情を昂らせて惹きつける。想いと匂いに引きずられて、理性を保てず乱暴をしてしまったのだと、カブフリは理解した。
(それが、許されるか許されないかは別として)
原因は判明した。そしてマトリを襲ったとき、もだえる姿を見ながら「俺のものだ」と言い放った瞬間、アユイの存在が意識に重くのしかかっていたことをカブフリは認めた。
(俺は、アユイに対抗心を持っている)
好敵手にすらなってくれない、高い能力を持っている同年代のアルファ。アユイにそんな考えはないとわかっていても、カブフリは時折アユイに見下されている気分になるときがあった。
(意識をし過ぎだ)
気にしなければいい。そう思ってもアユイの存在は、カブフリの中で動かしようがないほどおおきくなっていた。幼馴染だから。能力を高く評価しているから。おなじアルファだから。
(俺は、アユイが俺よりもすぐれていると、心のどこかで思っている)
それを否定するつもりはない。けれどその気持ちから、マトリを自分のツガイにしたいと思っているわけではない。心の底から、マトリを求めている。幼いころから、オメガと判明する前から、マトリをツガイにしたいと考えていた。
(アユイがマトリを想っているから、マトリを欲しがっているわけじゃない)
はたしてそうか? と問いかける自分の声がして、カブフリはうなった。足をはやめて軽く泳げるくらいに広くて深い川に向かい、手に残るマトリの名残を惜しみつつ洗い流す。すっかり落としてしまっても、マトリの気配はカブフリの体にまとわりついていた。乱暴に服を脱ぎ捨てたカブフリの、盛り上がった胸筋に木漏れ日が模様を作る。興奮した下肢は天を向いたままだった。荒々しい動きで川に入ったカブフリは、流れに逆らって泳いだ。とにかくいまは、ただ疲れたかった。泳ぎ続けていると、体の熱が水に奪われ流れていく。けれど隆々と昂っているカブフリの腰のものは、すこしも落ち着きを取り戻さなかった。
池のように幅が広く深さもある場所まで泳ぎついたカブフリは、いったん水から上がることにした。大きな岩場のあるここは、山のはじまりに位置している。子どものころは、よくここに泳ぎにきたなとカブフリはなつかしみつつ、岩場を見上げた。あの上から、度胸試しと言って飛び込んだ。いまではそれほどでもない高さも、子どもにとっては相当なものだった。流れがゆるやかなここは、泳ぐのに最適な場所だった。泳ぎに慣れたものは銛を手に、川魚をしとめていた。それを炙って食べたこともある。
(泳ぎは、だれもアユイにかなわなかった)
海の集落で生まれ育ったアユイは、歩きはじめるころから泳ぎの訓練をさせられている。素潜り漁が基本なので、深く潜ることも、水の中で長時間いることもできた。海と川は違うと、アユイは言っていた。ある日、マトリが漁をしてみたいと言い出した。どうして言い出したのか、カブフリは覚えていない。するとほかの子どもたちも、おもしろそうだと乗り気になった。困惑顔でアユイはカブフリを見た。カブフリは鷹揚にうなずいて、アユイに海での泳ぎを教えてもらおうと言った。
(あのとき俺は、どんな気持ちだったんだろうな)
遠い記憶に視線を投げるカブフリの目に、わずかな風にチラチラと揺れてまたたく陽光と木の葉が映る。
アユイの実力を周知させたかったのか、海での泳ぎでもアユイに引けは取らないと示したかったのか。それともマトリが興味を持ったから、それをかなえたいと考えたのか。
どれもあった気がして、カブフリは目を伏せた。落とした視線が川の流れに注がれる。透明な水の先に、魚影が見えた。
海はカブフリが想像していたものとは、まったく違っていた。川の流れは規則的だったが、海の波は規則があるようでわずかに乱れている。水の質もまったく違っていた。川の水より重く感じるのに、体は浮きやすい。そのぶん沈むには力を使った。アユイは誇るでもなく、当たり前の顔をして波の合間を縫って泳ぎ、潜った。対抗心を燃やしたカブフリは海での泳ぎのコツをすぐに掴んだ。しかし深く潜るまでには至らない。川ではなんてことない深さでも、海ではなかなか到達できなかった。
海で泳ぐのは、川で泳ぐよりも体力がいった。疲れを悟ったアユイは、釣りという方法があると提案し、休憩をしてからそれをしようと提案した。泳ぐのに疲れ切っていた皆は賛成した。必要な道具を持ってくると言って、アユイは海の集落まで駆けた。慣れない海に、さすがのカブフリも力の配分がわからずに疲れ切っていた。それなのに走る余裕のあるアユイはすごいと、心底感心した。
はじめての海に意識を奪われているだれもが、アユイの有能さに気がつかないまま、戻ってきた彼から釣り竿を受け取り岩場に移動した。
釣りはマトリに合っていたようで、ほかの連中はなかなか魚がかからないと苛立つ中、静かな様子で魚を釣り上げていた。こういうものはマトリのような、向上心は高いが闘争心は低いものに合っているのだと、カブフリは思った。そしてマトリがだれよりもうまくできるものがあることを、心からよろこんだ。
釣りはカブフリには合わなかった。だからアユイの持ってきた銛を借りて、岩場の影にひそむ魚などを狙った。あまり深くは潜れないが、これなら釣りよりもできると思った。潮の流れと海の水の重さで、川よりも銛は扱いにくかった。しかし釣果をあまりあげられなかったものよりも、収穫はおおかった。
枯れ枝を集めて火を起こし、釣ったばかりの魚や貝を焼いて食べた。あれはおいしかったと、カブフリは目を細める。
けっきょく、アユイの能力の高さを皆に認識させることはできなかった。だれもがカブフリの適応力と呑み込みのはやさに感心した。そしてマトリはとてもたのしそうだった。
あのころの延長のはずのいま、三人の関係は奇妙に崩れている。
(マトリはそれを崩したくなくて、俺の求愛を拒んでいるのか?)
ありうる話だと、カブフリは腕を組んで顎にこぶしを当てた。マトリとカブフリがツガイになれば、アユイはひとりになる。ともに育ったものたちはほかにもいるが、三人の関係はほかと比べて密接だった。どうしてそうなったのかは、わからない。自然とそうなっていた。
リーダー格のカブフリ。それと匹敵する能力を持ちながら、控えめな位置に徹するアユイ。だれよりも身体能力は低いが、うつくしく努力家なマトリ。おとなたちも、この三人はいつも一緒だと言っていた。そのくらい、仲がよかった。
マトリなら、それが壊れることを恐れて、ツガイにならないと言い張ってもおかしくない。
(いつまでも子どものままでは、いられない)
発情期にさしかかっているのなら、マトリもそれに気づくはず。体の変化に、はじめは心がついていかないかもしれない。
(だが、否応なくオメガであると突きつけられれば、マトリも観念をするほかはない)
あっけなく組み敷けたマトリの脆弱さに、落ち着きを取り戻したはずのカブフリの腰がうずいた。すこし力を入れれば、腕も首も簡単にへし折れそうだったと、カブフリは想像以上に華奢なマトリの肉体を思い出す。あれでは、完全な発情期を迎えたときに、匂いに誘われて手を伸ばしてきた相手から逃げられない。
(すこしでもはやく、マトリがそれに気づいて納得をしてくれればいいが)
容姿に似合わぬマトリの気の強さを、カブフリはよく知っている。発情期に困惑し、納得できないまま身もだえるマトリを想像して、カブフリは立ち上がった。
(まずはマトリに、発情期がどういうものかを教える必要があるな)
自分では無理だと、カブフリは思考をめぐらせる。オスはあまり発情期に詳しくはない。発情期があるのは、メスかオメガだけだった。オスは恋しい相手の発情期に合わせて興奮し、ツガイとなって体を重ねる。発情期を迎えたものに影響をされないよう、自制するようにと言われるくらいだった。
(だが、メスなら)
成人の儀式をむかえる前に、メスだけを集めた会があった。あれは発情期について教わったのではと、カブフリは思いつく。成人の儀式の前なので、マトリがオメガだということは判明していない。マトリ以外のオメガも、発情期については知らないはずだ。
自分の予測が正しいかどうか、すぐさま確認しなければとカブフリは狼の姿となって服を置いてきた場所に戻り、着替えを済ませて森の集落に走った。ここからなら、山の集落よりも森の集落のほうが近い。なによりマトリに発情期について教えてやってくれと頼むなら、マトリの住む集落のメスが適任だ。
全速力で駆けたカブフリは、目についたメスのそばに行った。赤子を抱えているメスは、おどろいた顔でカブフリを見た。
「すこし、聞きたいことがある」
呼吸を乱すほどに走ったカブフリに、彼女はなにか重大なことがあると察したらしく、緊張の面持ちになった。腕の中の赤子が不穏な気配を感じでむずがる。カブフリはあわてて、こわばっている表情を崩した。
「すまない。その、すこし聞きたいことと、頼みがあるんだ」
「頼み?」
赤子をあやしながら、彼女は首をかしげた。
「成人の儀式のまえに、メスだけが呼ばれた集会があったろう」
「それが、なにか?」
「あれは、発情期について教わるものなのか」
彼女はすこし間をあけてから、首肯した。やはりそうかとカブフリもうなずく。
「そこに、オメガはいなかったな」
「成人の儀を迎えるメスしか呼ばれないから、儀式でオメガと判明するオスは呼ばれないわよ」
「つまりオメガは発情期について、なんの知識もない?」
感づいた彼女に「マトリのことを聞いているのね」と問われて、カブフリは「そうだ」と答えた。
「ほかのオメガのことは知らないけど、マトリにはだれも教えていないと思うわ」
「そうか」
ふうっと息を吐いたカブフリを、彼女はじっと見つめる。
「なにか、あったの?」
「マトリに、発情の気配がある」
まあ、と頬を赤く染めた彼女の目がキラキラとかがやいている。
「いよいよ、ツガイになる日が近づいてきているのね」
ウキウキとした気配を放つ彼女に、カブフリはおおきな手のひらを向けた。
「まだ、そうと決まったわけじゃない。俺の求愛を、マトリはまだ受け入れていない」
「でも、時間の問題でしょう? 発情期が近いのなら、ツガイの相手を決めておかなきゃめんどうなことになるわ」
肩をすくめた彼女に、カブフリは苦笑した。
「オスに追いかけまわされて、困るということか」
「私はそれほどモテたわけじゃないけど。――それで。私にどうしてほしいの」
「マトリに、発情期について簡単に教えてやってくれないか。あいつはオスとして生きてきた。子どものころから、負けん気が強かったからな。オメガと言われても、納得ができない部分があるんだろう」
「やさしいのね」
「そういうわけじゃない」
「それだけ、マトリを見てきたんだって、のろけているのかしら」
フフッと笑った彼女は「私でいいのなら」と、カブフリの頼みを承諾した。
「教えられないまま発情期を迎えるマトリも、困るでしょうしね」
「ああ――それと、俺が頼んだとは言わないでくれ」
「どうして?」
「あいつはずっと、俺とおなじようになろうと、狩りの練習をがんばっていたからな」
「心のライバル、というわけね。わかったわ。偶然、気がついたふりをして説明をしてみる」
「恩に着る」
「どういたしまして。いつも差し入れをもらっているんだから、これくらいのお返しはしないとね」
ほほえんで再度礼を告げたカブフリは、赤子にも笑いかけてから森の集落を後にした。マトリがもう戻っているのか、まだ帰っていないのかが気になったが、いまは刺激をしないほうがいい。発情期のことを彼女から聞き、考える間が必要だと判断した。
(俺の行為を、マトリはどう受け止めるのか)
発情期にくらんだゆえの所業だと、受け入れるのか。それとも身勝手な乱暴には変わりないと、いまよりかたくなになってしまうのか。
(してしまったことは、消しようがない)
言い訳をするつもりもない。正直に、ごまかさずにマトリと向き合うのみだ。そのためには、自分の体について、ただしい知識を持ってもらいたい。
心の中で「頼んだ」とつぶやいて、カブフリは山の集落に帰って行った。
「俺は……なにを」
なんてことをしたのだと、手のひらにあるマトリの名残を見たカブフリは、乱暴に頭を振って深呼吸をした。冷静になろうとするのに、マトリの匂いが邪魔をする。この匂いはどこかに擦りつけて消していいものではない。立ち上がったカブフリは、足元の抜け殻になったマトリの服を拾い、軽く振って汚れを落としてから木の枝にかけた。獣の姿のまま、マトリは集落に帰るかもしれない。だが、アユイが来ているかもしれない場所に、そのまま帰ればなにかあったと察せられる。逃げた後に冷静になったマトリが、そう考えるかもしれないと思って、カブフリは服をこの場に残しておくことにした。
鼻をうごめかし、マトリが逃げたのとは違う方向の水場へ歩く。
(これは、発情期の匂いなのか)
いままでマトリの体から、匂ったことのない香りだった。しかし確実に、マトリの匂いだと言い切れるものだった。それはつまり、マトリの体が変化しているということになる。オメガと判明したマトリの体に起こる変化と考えれば、発情期しか思い当たらない。
(マトリの体は、確実にオメガとして成熟していっている)
だれかとツガイになり、抱かれて子どもを宿す準備ができつつある。メスやオメガの発情期の匂いは、オスの欲情を昂らせて惹きつける。想いと匂いに引きずられて、理性を保てず乱暴をしてしまったのだと、カブフリは理解した。
(それが、許されるか許されないかは別として)
原因は判明した。そしてマトリを襲ったとき、もだえる姿を見ながら「俺のものだ」と言い放った瞬間、アユイの存在が意識に重くのしかかっていたことをカブフリは認めた。
(俺は、アユイに対抗心を持っている)
好敵手にすらなってくれない、高い能力を持っている同年代のアルファ。アユイにそんな考えはないとわかっていても、カブフリは時折アユイに見下されている気分になるときがあった。
(意識をし過ぎだ)
気にしなければいい。そう思ってもアユイの存在は、カブフリの中で動かしようがないほどおおきくなっていた。幼馴染だから。能力を高く評価しているから。おなじアルファだから。
(俺は、アユイが俺よりもすぐれていると、心のどこかで思っている)
それを否定するつもりはない。けれどその気持ちから、マトリを自分のツガイにしたいと思っているわけではない。心の底から、マトリを求めている。幼いころから、オメガと判明する前から、マトリをツガイにしたいと考えていた。
(アユイがマトリを想っているから、マトリを欲しがっているわけじゃない)
はたしてそうか? と問いかける自分の声がして、カブフリはうなった。足をはやめて軽く泳げるくらいに広くて深い川に向かい、手に残るマトリの名残を惜しみつつ洗い流す。すっかり落としてしまっても、マトリの気配はカブフリの体にまとわりついていた。乱暴に服を脱ぎ捨てたカブフリの、盛り上がった胸筋に木漏れ日が模様を作る。興奮した下肢は天を向いたままだった。荒々しい動きで川に入ったカブフリは、流れに逆らって泳いだ。とにかくいまは、ただ疲れたかった。泳ぎ続けていると、体の熱が水に奪われ流れていく。けれど隆々と昂っているカブフリの腰のものは、すこしも落ち着きを取り戻さなかった。
池のように幅が広く深さもある場所まで泳ぎついたカブフリは、いったん水から上がることにした。大きな岩場のあるここは、山のはじまりに位置している。子どものころは、よくここに泳ぎにきたなとカブフリはなつかしみつつ、岩場を見上げた。あの上から、度胸試しと言って飛び込んだ。いまではそれほどでもない高さも、子どもにとっては相当なものだった。流れがゆるやかなここは、泳ぐのに最適な場所だった。泳ぎに慣れたものは銛を手に、川魚をしとめていた。それを炙って食べたこともある。
(泳ぎは、だれもアユイにかなわなかった)
海の集落で生まれ育ったアユイは、歩きはじめるころから泳ぎの訓練をさせられている。素潜り漁が基本なので、深く潜ることも、水の中で長時間いることもできた。海と川は違うと、アユイは言っていた。ある日、マトリが漁をしてみたいと言い出した。どうして言い出したのか、カブフリは覚えていない。するとほかの子どもたちも、おもしろそうだと乗り気になった。困惑顔でアユイはカブフリを見た。カブフリは鷹揚にうなずいて、アユイに海での泳ぎを教えてもらおうと言った。
(あのとき俺は、どんな気持ちだったんだろうな)
遠い記憶に視線を投げるカブフリの目に、わずかな風にチラチラと揺れてまたたく陽光と木の葉が映る。
アユイの実力を周知させたかったのか、海での泳ぎでもアユイに引けは取らないと示したかったのか。それともマトリが興味を持ったから、それをかなえたいと考えたのか。
どれもあった気がして、カブフリは目を伏せた。落とした視線が川の流れに注がれる。透明な水の先に、魚影が見えた。
海はカブフリが想像していたものとは、まったく違っていた。川の流れは規則的だったが、海の波は規則があるようでわずかに乱れている。水の質もまったく違っていた。川の水より重く感じるのに、体は浮きやすい。そのぶん沈むには力を使った。アユイは誇るでもなく、当たり前の顔をして波の合間を縫って泳ぎ、潜った。対抗心を燃やしたカブフリは海での泳ぎのコツをすぐに掴んだ。しかし深く潜るまでには至らない。川ではなんてことない深さでも、海ではなかなか到達できなかった。
海で泳ぐのは、川で泳ぐよりも体力がいった。疲れを悟ったアユイは、釣りという方法があると提案し、休憩をしてからそれをしようと提案した。泳ぐのに疲れ切っていた皆は賛成した。必要な道具を持ってくると言って、アユイは海の集落まで駆けた。慣れない海に、さすがのカブフリも力の配分がわからずに疲れ切っていた。それなのに走る余裕のあるアユイはすごいと、心底感心した。
はじめての海に意識を奪われているだれもが、アユイの有能さに気がつかないまま、戻ってきた彼から釣り竿を受け取り岩場に移動した。
釣りはマトリに合っていたようで、ほかの連中はなかなか魚がかからないと苛立つ中、静かな様子で魚を釣り上げていた。こういうものはマトリのような、向上心は高いが闘争心は低いものに合っているのだと、カブフリは思った。そしてマトリがだれよりもうまくできるものがあることを、心からよろこんだ。
釣りはカブフリには合わなかった。だからアユイの持ってきた銛を借りて、岩場の影にひそむ魚などを狙った。あまり深くは潜れないが、これなら釣りよりもできると思った。潮の流れと海の水の重さで、川よりも銛は扱いにくかった。しかし釣果をあまりあげられなかったものよりも、収穫はおおかった。
枯れ枝を集めて火を起こし、釣ったばかりの魚や貝を焼いて食べた。あれはおいしかったと、カブフリは目を細める。
けっきょく、アユイの能力の高さを皆に認識させることはできなかった。だれもがカブフリの適応力と呑み込みのはやさに感心した。そしてマトリはとてもたのしそうだった。
あのころの延長のはずのいま、三人の関係は奇妙に崩れている。
(マトリはそれを崩したくなくて、俺の求愛を拒んでいるのか?)
ありうる話だと、カブフリは腕を組んで顎にこぶしを当てた。マトリとカブフリがツガイになれば、アユイはひとりになる。ともに育ったものたちはほかにもいるが、三人の関係はほかと比べて密接だった。どうしてそうなったのかは、わからない。自然とそうなっていた。
リーダー格のカブフリ。それと匹敵する能力を持ちながら、控えめな位置に徹するアユイ。だれよりも身体能力は低いが、うつくしく努力家なマトリ。おとなたちも、この三人はいつも一緒だと言っていた。そのくらい、仲がよかった。
マトリなら、それが壊れることを恐れて、ツガイにならないと言い張ってもおかしくない。
(いつまでも子どものままでは、いられない)
発情期にさしかかっているのなら、マトリもそれに気づくはず。体の変化に、はじめは心がついていかないかもしれない。
(だが、否応なくオメガであると突きつけられれば、マトリも観念をするほかはない)
あっけなく組み敷けたマトリの脆弱さに、落ち着きを取り戻したはずのカブフリの腰がうずいた。すこし力を入れれば、腕も首も簡単にへし折れそうだったと、カブフリは想像以上に華奢なマトリの肉体を思い出す。あれでは、完全な発情期を迎えたときに、匂いに誘われて手を伸ばしてきた相手から逃げられない。
(すこしでもはやく、マトリがそれに気づいて納得をしてくれればいいが)
容姿に似合わぬマトリの気の強さを、カブフリはよく知っている。発情期に困惑し、納得できないまま身もだえるマトリを想像して、カブフリは立ち上がった。
(まずはマトリに、発情期がどういうものかを教える必要があるな)
自分では無理だと、カブフリは思考をめぐらせる。オスはあまり発情期に詳しくはない。発情期があるのは、メスかオメガだけだった。オスは恋しい相手の発情期に合わせて興奮し、ツガイとなって体を重ねる。発情期を迎えたものに影響をされないよう、自制するようにと言われるくらいだった。
(だが、メスなら)
成人の儀式をむかえる前に、メスだけを集めた会があった。あれは発情期について教わったのではと、カブフリは思いつく。成人の儀式の前なので、マトリがオメガだということは判明していない。マトリ以外のオメガも、発情期については知らないはずだ。
自分の予測が正しいかどうか、すぐさま確認しなければとカブフリは狼の姿となって服を置いてきた場所に戻り、着替えを済ませて森の集落に走った。ここからなら、山の集落よりも森の集落のほうが近い。なによりマトリに発情期について教えてやってくれと頼むなら、マトリの住む集落のメスが適任だ。
全速力で駆けたカブフリは、目についたメスのそばに行った。赤子を抱えているメスは、おどろいた顔でカブフリを見た。
「すこし、聞きたいことがある」
呼吸を乱すほどに走ったカブフリに、彼女はなにか重大なことがあると察したらしく、緊張の面持ちになった。腕の中の赤子が不穏な気配を感じでむずがる。カブフリはあわてて、こわばっている表情を崩した。
「すまない。その、すこし聞きたいことと、頼みがあるんだ」
「頼み?」
赤子をあやしながら、彼女は首をかしげた。
「成人の儀式のまえに、メスだけが呼ばれた集会があったろう」
「それが、なにか?」
「あれは、発情期について教わるものなのか」
彼女はすこし間をあけてから、首肯した。やはりそうかとカブフリもうなずく。
「そこに、オメガはいなかったな」
「成人の儀を迎えるメスしか呼ばれないから、儀式でオメガと判明するオスは呼ばれないわよ」
「つまりオメガは発情期について、なんの知識もない?」
感づいた彼女に「マトリのことを聞いているのね」と問われて、カブフリは「そうだ」と答えた。
「ほかのオメガのことは知らないけど、マトリにはだれも教えていないと思うわ」
「そうか」
ふうっと息を吐いたカブフリを、彼女はじっと見つめる。
「なにか、あったの?」
「マトリに、発情の気配がある」
まあ、と頬を赤く染めた彼女の目がキラキラとかがやいている。
「いよいよ、ツガイになる日が近づいてきているのね」
ウキウキとした気配を放つ彼女に、カブフリはおおきな手のひらを向けた。
「まだ、そうと決まったわけじゃない。俺の求愛を、マトリはまだ受け入れていない」
「でも、時間の問題でしょう? 発情期が近いのなら、ツガイの相手を決めておかなきゃめんどうなことになるわ」
肩をすくめた彼女に、カブフリは苦笑した。
「オスに追いかけまわされて、困るということか」
「私はそれほどモテたわけじゃないけど。――それで。私にどうしてほしいの」
「マトリに、発情期について簡単に教えてやってくれないか。あいつはオスとして生きてきた。子どものころから、負けん気が強かったからな。オメガと言われても、納得ができない部分があるんだろう」
「やさしいのね」
「そういうわけじゃない」
「それだけ、マトリを見てきたんだって、のろけているのかしら」
フフッと笑った彼女は「私でいいのなら」と、カブフリの頼みを承諾した。
「教えられないまま発情期を迎えるマトリも、困るでしょうしね」
「ああ――それと、俺が頼んだとは言わないでくれ」
「どうして?」
「あいつはずっと、俺とおなじようになろうと、狩りの練習をがんばっていたからな」
「心のライバル、というわけね。わかったわ。偶然、気がついたふりをして説明をしてみる」
「恩に着る」
「どういたしまして。いつも差し入れをもらっているんだから、これくらいのお返しはしないとね」
ほほえんで再度礼を告げたカブフリは、赤子にも笑いかけてから森の集落を後にした。マトリがもう戻っているのか、まだ帰っていないのかが気になったが、いまは刺激をしないほうがいい。発情期のことを彼女から聞き、考える間が必要だと判断した。
(俺の行為を、マトリはどう受け止めるのか)
発情期にくらんだゆえの所業だと、受け入れるのか。それとも身勝手な乱暴には変わりないと、いまよりかたくなになってしまうのか。
(してしまったことは、消しようがない)
言い訳をするつもりもない。正直に、ごまかさずにマトリと向き合うのみだ。そのためには、自分の体について、ただしい知識を持ってもらいたい。
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BL
弟みたいで好きだった年下αに、外堀を埋められてしまい意を決して番になるまでの物語。
小山悠人は大学入学を機に上京し、それから実家には帰っていなかった。
田舎故にΩであることに対する風当たりに我慢できなかったからだ。
そして10年の月日が流れたある日、年下で幼なじみの六條純一が突然悠人の前に現われる。
純一はずっと好きだったと告白し、10年越しの想いを伝える。
しかし純一はαであり、立派に仕事もしていて、なにより見た目だって良い。
「俺になんてもったいない!」
素直になれない年下Ωと、執着系年下αを取り巻く人達との、ハッピーエンドまでの物語。
性描写のある話は【※】をつけていきます。
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