君のすべてがほしいだけだよ

水戸けい

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8.アユイ

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 浜でマトリが待っていると思うだけで、櫓をこぐアユイの腕に力がこもった。魚を探して海の中を行くのも銛を打つのも、いつもよりも気分が高揚してはかどった。

 ふだんより大量で海面に顔を出したアユイは、表面上はいくらとりつくろっても、心の中まではコントロールできないと苦笑した。

 いつもより景色がうつくしく感じる。これが、待つ人がいるよろこびなのかと考えて、いいやとアユイは否定した。

(待っているのが、マトリだからだ)

 だれでもいいわけではない。想いをかけているマトリだから、こんなふうに心が浮き立っている。

 あらためて自分の恋心を思い知らされて、アユイは口の端を持ち上げた。ほんのすこし、いまこのときだけでも、ツガイの真似事の気持ちでいられる感謝を太陽に告げる。まぶしすぎる日の光に目を閉じて、ニヤつく顔を落ち着かせてから、アユイは浜に戻った。

 浜が近づくにつれて、マトリの姿がおおきくなっていく。アユイに気がついたマトリが両手をおおきく振った。軽く手を振り返したアユイの口許が、奇妙に歪む。いつもの顔をしていなければと思うのに、ニヤつきたがる唇を抑えきれない。

「おかえり」

 波打ち際に下りたアユイに、マトリが駆け寄ってくる。船を押して浜に上げるアユイを、マトリが手伝おうとした。

「いいよ」

 ひとりで問題ない。そう伝えたのに、マトリは舟に手を乗せて、アユイと並んで舟を押す。間近にきたマトリの体から、ふわりと甘い匂いが立ち上って、アユイの腰がゾクリと震えた。

 これ以上、そばにいてはいけない。

 とっさに感じたアユイは、不審がられないよう注意しながら、さりげなくマトリとの距離を取った。

「今日は大量だ」

 舟底の魚を見せると、マトリは目をかがやかせた。縄を通して繋げておいた魚の束を、アユイはふたつ持ち上げる。

「それじゃあ、アユイの集落に行ってから、僕の集落に来てくれる?」

 川の魚の処理と海の魚の処理は微妙に違っている。森の集落のものは、海の魚の処理に慣れているものがすくない。だから来てほしいと望んでいるのだと、アユイは思った。

(マトリと並んで歩くのは、危険だ)

 潮の香りのはざまを縫って、マトリの放つ魅惑的な香りがアユイを誘う。この距離でも匂うのだから、並んで歩けばどれほど強く感じるのか。

(これは、発情期の匂いだ)

 マトリの発情期が近づいている。オスとして生まれ育ったマトリにとって、発情期は理解のできない不思議な現象だろう。オスはメスの発情期は、ツガイになる準備ができたものとしか教わらない。未成熟なメスは発情期について、ツガイになったメスから詳しい話を聞くらしい。おそらくマトリは、それをされていない。

(刺激されても、してもいけない)

 心の準備が整わないまま、発情期を迎えたマトリに本能を揺さぶられて、手を出してしまわないとも限らない。自分の理性を、アユイは過大評価していなかった。

 ほんのわずかでも、マトリを傷つけたくはない。だから、こう言った。

「魚の下処理は、俺がして森の集落に持っていく。マトリはなにか、魚料理に合うものを森で採取してきてくれないか。乾燥したものではなく、みずみずしくて……そうだな、焼いた魚と食べるのに適しているものとか、魚とともに煮たり焼いたりするのにちょうどいいものとか。匂い消しに効果のあるものでもいい」

「匂い消し?」

「そうだ。磯の香りは、森の集落のものたちにとって、それほどなじみのあるものじゃないだろう。とくに子どもは」

 半分は本心を交えてアユイが言えば、すこし残念そうにしたマトリが上目遣いになった。そのしぐさにさえ、アユイの心はさざめき揺れる。手を伸ばして腕の中に引き寄せて、そのすべてを手に入れたい情動にかられた。

(だめだ)

 心を硬くして、冷静を装う。

「わかった。それじゃあ、森に行って来る」

「ああ。間違いなく、魚は届ける」

「うん。ありがとう」

 軽く手を振って、アユイはマトリと別れた。森に行く後姿が見えなくなるまで、見つめていたい気持ちを抑えて自分の小屋を目指した。

(発情期の匂い……か)

 いつまでもツガイを決めないわけにはいかない。近い将来、マトリはだれかと――カブフリとツガイになる。完全な発情期を迎えたマトリを前にして、堪え切れるだろうかとアユイは不安になった。

(短い時間、隣にいるだけで誘惑されかけたのに)

 完全に発情したマトリの香りに、理性を保っていられる自信はない。残り香から、カブフリに抱かれるマトリを想像し、アユイは奥歯を噛みしめた。

(なさけない)

 あきらめると決めたくせに、想いを振り切れないでいる。マトリの気持ちを尊重すると、覚悟を固めたはずなのに。

 集落に戻ったアユイは、長の小屋前にいたメスたちに魚の束のひとつを渡し、きびすをかえした。その背中に声がかかる。

「そっちの魚は、下処理とかをしなくていいの?」

「ああ、これは――」

「森の集落に持っていくものでしょう? あと、山の集落にも届けるのかしら」

 魚の量を見て、声をかけてきたメスはそう感じたらしい。ただほほえんだアユイに、メスたちは手を伸ばした。

「ひとりでするより、大勢でやったほうがはやく終わるわよ。というか、私たちがしておくから、水を浴びて海の塩気を落としていらっしゃいな。毛がべたついてしまうでしょう」

「そうよ。ゆっくり体を洗って、着替えておきなさいよ。お茶でも飲んで、休憩をしておいて。さばき終えたら、小屋に持っていくわ」

「いや、でも……それは悪い」

「水臭いことを言わないで。これが私たちの仕事なんだから」

「森の集落からは、いつも薬草なんかをもらっているしね」

「感謝をしているのは、アユイだけじゃないのよ」

「ねぇ」

 笑いさざめくメスたちの好意を、アユイはありがたく受けとることにした。

「それじゃあ、頼むよ」

 まかせといてと請け負った彼女たちに背を向けて、アユイは自分の小屋に戻った。浴室に入り、服を脱いで水をかぶる。桶に溜めた水に髪を浸けてすすいでから、全身の塩気を洗い流した。さっぱりとした体を拭き、脱いだ服を洗濯桶に入れて渇いた服に袖を通す。

 水中で動くのは、地上で走りまわるよりも体力を使う。空腹を感じたアユイは棚を開けて干し肉を取り出し、かじりながら湯を沸かした。茶の葉を用意し、マトリを思い出す。いまごろ彼は、森の中で目をこらして走っているだろう。

 木漏れ日の間を進むマトリを想像し、アユイは吐息を漏らした。青味がかった銀色にかがやく髪が、白い肌と相まって幻想的な雰囲気をかもしだす。けれど浮かべる表情は、どこかあどけなく人なつこい。そんなマトリのアンバランスさが、アユイはたまらなく愛おしかった。

 湯が沸いて、茶の葉を入れた急須に注ぐ。クルリクルリと湯に舞う葉は、好奇心旺盛なマトリに似ている。

(そういえば……舟に乗って漁をしたいと言い出したことがあったな)

 まずは泳ぎを覚えてからだと言うと、マトリは川で泳ぐ練習をはじめた。川と海は違うと言えば、海で泳ぎの練習をするから教えてほしいとねだった。おもしろそうだとカブフリが同意して、皆で海に入ったことがある。

 海の水がしょっぱいことに、海に慣れていない集落の子どもたちはおどろいた。あのころのカブフリも、海を知らなかった。あのときだけは、アユイがリーダーになって指導した。人狼のほとんどが、海には入らない。

 カブフリはさすがに呑み込みがはやかった。深く潜るまではいかなくても、泳ぎに不安はなかった。川と海の水の違いにも順応し、おもしろがっていた。すぐに慣れるものや、なかなか順応できないもの、それぞれに合わせてアユイは指導した。マトリは可もなく不可もなく、けれど海では川よりも浮かぶのが楽なこと、潜るのが難しいことをたのしんでいた。

 魚を捕らえられるまで、泳ぎが上達したのはカブフリだけだった。だからアユイは、泳ぎが苦手な場合は、釣りという方法があると教えた。舟で沖に出るのは危険なので、岩場で教えた。釣りはマトリがいちばんうまかった。カブフリは浅瀬に素潜りをして、貝やタコなどを捕まえるほうがいいと言っていた。

(なつかしいな)

 海に彼等を連れて行ったのは、数えるほどしかない。成人の儀のあとは、海の集落のもの以外はもう、海辺に近づくことすらなくなっている。マトリも釣りをすることは、なくなった。もしもマトリとツガイになれたら、舟で沖に出ている間にマトリは岩場で釣りをして、帰りを待ってくれるだろうかと夢想して、アユイは自嘲した。

(未練たらたらじゃないか)

 あきらめるなんて、心はすこしも認めていない。これがいつ態度に出てしまうのかと、アユイは不安になった。

(いまの関係を壊したくない)

 ツガイになれないのなら、気の置けない友人のままでいたい。きっぱりと交流が途絶えたり、よそよそしくなるなんて堪えられない。

 がぶりと茶を飲んだアユイは、熱さにあわてて立ち上がり、水を飲んだ。

(俺は、ワガママだな)

 手に入らないのならと決めた立ち位置が、日に日に納得できなくなっていく。マトリと接するごとに想いは募り、なにもかもを手に入れたくなってしまう。

(俺は、マトリのすべてが欲しいんだ)

 身も心もすべて、自分のものにしたい。それができれば、どれほどいいか。けれどマトリの心は、カブフリに向いている。子どものころから、マトリの目はカブフリを追いかけていた。あくまでも自分は、遠慮なく接することのできる親しい友人。兄のような存在でしかない。

 幼いころから、アユイはそう思い続けていた。

 ひそかに育った想いが、マトリの発情が近づくにつれて、制御できないほどにおおきくなっている。

「マトリ」

 この腕でその身を乱し、思うさま体をむさぼり深い場所で繋がりたい。狂暴な願望がアユイの涼やかな物腰の奥で燃え盛っている。それをだれにも悟られてはいけない。そう戒めるアユイの下肢は、硬くなっていた。

「どうして、俺は」

 見下ろして首を振ったアユイは、己の肉欲がどうしようもなく憎らしくなった。

(これからマトリに接するときは、いままで以上に慎重にならなければ……な)
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