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2.アユイ
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マトリの視線の余韻がほどけた。アユイは空を仰いで息を吐き出し、口の中で「マトリ」とちいさくつぶやいた。目を閉じれば、日差しがまぶたを透かして赤い闇をアユイに見せる。
そこに、さきほどのマトリの姿がぼんやりと浮かんだ。
カブフリの体に隠されたマトリの肢体は、なまめかしくかがやいていた。日に焼けたカブフリの肌との対比で、ただでさえ白い肌がさらに透けるように白く見えた。白い花よりもなお白く、花弁よりもなめらかな肌に無遠慮に置かれていたカブフリの手がうらやましく、ねたましかった。
深呼吸をして、湧き上がる薄暗い感情を押しとどめる。しかしそれは消えることなく、アユイのみぞおちのあたりにわだかまった。
(くそっ)
心中で吐き捨てて歩き出す。こんなあさましい感情を持っているとマトリに知られたら、どんな顔をされるだろう。アユイは首を振って、川のせせらぎに耳をかたむけた。さらさらと流れる水は時間とおなじで、止まることはない。せき止めたとしても、いつかあふれてこぼれてしまう。自分の気持ちもそうなるかもしれないと、アユイは胸元をにぎりしめた。
(マトリ)
見るたびにうつくしくなっていく。籠を受け取ったマトリが、はにかみながら見上げてきたとき、思わず抱きしめたくなった。そんなことをすれば、カブフリとおなじだ。強引に迫って、マトリを困惑させたくない。
(困ったときに、頼れる場所でありたい)
マトリは気が強いくせに、困惑をうまく吐き出せずに抱え込んでしまうときがある。アユイはそれを受け止めるものになりたかった。そのためには想いを押し殺し、マトリが気兼ねなく、安心して過ごせる相手にならなければならない。
(想いを告げるなど、もってのほかだ)
きっとマトリはそれを気にして、思うようにふるまえなくなる。そんなマトリは見たくない。よそよそしくなど、されたくない。それならばいっそ気持ちは抑えていようと、アユイは思い極めていた。
(だが)
愛おしさは募る一方で、いつか決壊してしまわないかと危惧している。カブフリのようにマトリを追い詰め、ツガイになれと迫る自分を想像し、アユイは身震いした。
(守りつづけると誓ったじゃないか)
幼いころ、いまにも泣きそうな顔で笑ったマトイの姿を見て、ずっと守り続けると誓った。あれはまだ、三人が狩りの練習のたわむれをしていた子ども時代だった。カブフリは昔から体が大きく俊敏で、きっとアルファだろうと言われていた。アユイもマトリも、カブフリなら成人の儀式でアルファと判明するに違いないと確信していた。それほど彼の身体能力は図抜けていた。
尊敬するとともに、自分もきっとできるはずと考えてしまうのは子どもの常なのかもしれない。追いつけるはずもないのに、好奇心旺盛なマトリはカブフリの真似をしたがった。あるいは、ほかの子どもと比べても体がちいさく、跳躍力などが劣っているというコンプレックスを、払拭しようと考えてのことかもしれない。マトリはカブフリを目標とし、全力で努力をしていた。先を行く彼に置いていかれまいと、必死になって手足を動かし、追いかけっこや、木の実を獲物に仮定した狩りの真似事に奮闘していた。
そんなマトリの健気な姿を、ハラハラしながらアユイは見つめていた。カブフリほどではないが、彼の動きについていけるとアユイは自負をしていた。ほかの子どもたちが息切れをしても、カブフリ同様、アユイも呼吸を乱すことはなかった。体格が平均的だったのと、目立つことが苦手な性格、人を引っ張っていくよりも手助けをするほうが性分に合っていたせいで、アユイの高い能力はあまり認知されていなかった。
だからこそ、マトリを見守っていられた。子どもたちのリーダーとなって、次々に見本を示すカブフリ。それを真似て挑戦をするものたち。それらをさりげなくフォローするアユイの立ち位置からは、それぞれの個性や特徴がよく見えた。
ある日、崖の上に登ってみようということになった。どういう流れでそうなったのかは覚えていない。崖には手ごろな足場があって、子どもの跳躍力でも問題なく見えた。崖の上からの景色はすばらしい。あの上に登れば海が見える。そう聞いた子どもたちは目をかがやかせた。
カブフリが足場確認と手本のために、やすやすと崖を登った。あまりにも簡単にして見せたので、おじけづいていた子どもも挑戦をする気になった。カブフリが通ったルートをなぞって、次々に登っていく。アユイは最後に登ると決めていた。
マトリの順番になり、勢いよく跳躍する姿をアユイは見守った。これなら無事に到達できるだろうと、アユイは思った。上ではカブフリが人の姿になって両手を広げている。最後のひと息を引き上げてやろうとしていた。あそこまで行けば問題ない。安心したアユイは、自分の番の準備をはじめた。
最初の足場に視線を置くと、カラリとちいさな石の塊が落ちてきた。いやな予感がして顔を上げると、マトリが踏み込んだ足場がわずかに崩れた。足を滑らせたマトリの体が宙に浮く。息を呑んだアユイは反射的に地面を蹴って、空中のマトリを抱きしめ、そのままふたりで地面に落ちた。
背中に強い衝撃を感じ、うめきながらもマトリを受け止めた腕は解かなかった。大丈夫かと言いながら、子どもたちが降りてくる。カブフリの手がアユイの腕を解いて、マトリを立ち上がらせた。
「マトリは無事だ」
キリリと眉をそびやかせたカブフリの肩越しに、いまにも泣きそうなマトリが見えた。アユイはほほえみ、カブフリに担がれて森の集落に運ばれた。
打ち身があるだけで、おおきなケガはなかった。念のためにと寝かされていると、マトリが見舞いにやってきた。不安げなマトリに笑いかけ、たいしたことはないと言った。もじもじしながら寝台に近づいたマトリは、消え入りそうな声で「ごめん」と頭を下げた。
「あやまることはないよ。マトリはなにも悪いことをしていないんだから」
涙をにじませるマトリの頬に、アユイは手を伸ばした。やさしく撫でると、マトリはちいさくうなずいて「ありがとう」と泣きそうな目で笑った。
あのときの可憐な姿を思い出せば、いまでもアユイの心は狂おしい痛みにうずく。あの瞬間、マトリに心を奪われたんだなと噛みしめる。
まだ恋心というものを認識できていなかったアユイは、心の動きをそのまま言葉に変えた。
「俺が守るから。ずっと、マトリを守り続けるから」
音にすれば自分に対する誓いになった。目をパチクリさせたマトリは照れながらも、しっかりとうなずいてアユイの口に唇を押しつけた。
あのときのことを、マトリはきっと覚えていないだろう。幼いころからアユイはカブフリの後を追い、彼にすこしでも追いつこうと努力をしてきた。成人をして、オメガだと告げられたとき、マトリはおどろきながらもうれしそうにほほえんだ。
(あれは、カブフリとツガイになれると考えたからだ)
マトリはカブフリを追いかけ続けている。カブフリがアルファとわかって、ふたりは結ばれるものとだれもが思った。カブフリはさっそくマトリに求愛し、しかしマトリはそれを断った。
まだ心の準備ができていないのだと、カブフリをはじめとした全員が納得した。ふたりはいずれ結ばれる。それはゆるぎない未来の決まりだと、山の集落も森の集落も海の集落も考えていた。カブフリにひそかな想いを抱いていたものでさえ、カブフリとツガイになるのはマトリだと思っている。
そしてアユイも、そうなるものと考えていた。けれどマトリがカブフリの求愛に応じなかったと聞いた瞬間、よこしまな考えが頭をよぎり、希望が胸に湧いた。
(俺にもチャンスがあるのではないか)
あわててそれを打ち消して、アユイはいままでどおりの態度を心掛けた。あれほど努力をしてきたマトリにとって、オメガだと告げられて「能力が劣っているのはしかたがない」と認知されたことは、自尊心にヒビが入る宣言だったのではないか。あのとき、どこかうれいそうに見えたのは、目の錯覚だったのかもしれない。ほんとうにうれしそうにしていたとしても、尊敬し続けている相手とツガイになれるよろこびと、努力をしても無駄だったと感じることは別物だ。
(気持ちが処理できなくて、マトリはカブフリの求愛を断ったんだ)
気持ちの整理がつくまでは、そっとしておいてほしい。そうマトリは考えているのだと、アユイは判じた。だからマトリの気持ちが落ち着くまで、カブフリはそっと待っていればいい。それなのに彼は、ことあるごとにマトリに迫る。狩りで大物を手に入れれば、森の集落に差し入れをする。するとますます、人々は「カブフリのツガイになるのはマトリ」と思う。
森の集落の長も、マトリを山の集落に送ると承諾している。山の集落も、マトリを受け入れる心づもりは整えている。海の集落はアユイがマトリとツガイになるなど想像すらもしていない。――おなじ幼馴染で、いまでも親しく過ごしているのに。
こぶしを握り、アユイは集落には戻らずに海に出た。潮騒がアユイを包む。潮の香りを全身に浴びて、深く肺に吸い込み気持ちをなだめる。
マトリの気持ちが固まるまで、そっとしておいてやれ。そうカブフリに伝えるのは簡単だが、アユイはそれができなかった。マトリに向かう想いが、それはできないと告げている。一縷の望みというやつが、アユイの意識に巣食っていた。
(マトリ)
やわらかなほほえみが自分だけのものになればと、アユイは陽の光をちりばめて揺れる水面をながめる。おだやかな海のごとく、気持ちも静かに保たなければ。
そう考える心に、木の幹に押しつけられたマトリの姿がとどまっている。カブフリのように裸身の彼に手を伸ばし、抱きしめて、唇を奪い思うさまむさぼりたいと考えている。狂おしいほど愛おしいのに、どうしてカブフリに遠慮をしているのか。周囲の声など気にせずに、おまえもマトリに迫ればいい。ツガイになれと腕を掴み、腰を引き寄せ、白い肌に牙を立てて己のものにすればいい。
そんな自分の声を、アユイは歯の奥で噛み砕いた。体が熱い。マトリが欲しいとうなっている。
(だめだ)
歯が鳴るほどに食いしばり、アユイは己を律した。守ると決めた相手を困惑させるなど、してはならない。信頼に満ちたマトリのまなざしを曇らせたくはない。ツガイになれないのならせめて、死ぬまで傍で支えていたい。打ちのめされたときの逃げ場になりたい。
(マトリのすべてを、手に入れることができないのなら……せめて)
心の拠り所であり続けたい。それこそが自分の気持ちをかなえることに繋がるのだと、アユイは繰り返し自分に言い聞かせた。
(心の一部だけでも、俺のものにしていたい)
なんてあさましく愚かな性根だと、アユイは己をあざけった。それでも止められない。表面的には、マトリがカブフリとツガイになっても反対はしない態度でいながら、心中では認めていない。自分の想いに固執をすれば、マトリを苦しめる。それだけはしてはならない。守ると決めたのだから。肉体だけではなく、心すらも守ると誓ったのだから。
「マトリ」
愛おしいと、空に向かって想いを告げる。その声は潮騒にかき乱されて、風に乗って水面に落ちると海に沈んだ。
そんなふうに、気持ちも消えて落ち着いて、おだやかに見守られるようにならなければ。幼馴染であり、親友であり、兄のような存在としてマトリの傍で、身も心もすべて全身全霊を賭けて守るのだ。
アユイはさきほど目にしたマトリの裸身に欲情する己の滾りを消費し、体の熱を冷ますために海へ飛び込んだ。
そこに、さきほどのマトリの姿がぼんやりと浮かんだ。
カブフリの体に隠されたマトリの肢体は、なまめかしくかがやいていた。日に焼けたカブフリの肌との対比で、ただでさえ白い肌がさらに透けるように白く見えた。白い花よりもなお白く、花弁よりもなめらかな肌に無遠慮に置かれていたカブフリの手がうらやましく、ねたましかった。
深呼吸をして、湧き上がる薄暗い感情を押しとどめる。しかしそれは消えることなく、アユイのみぞおちのあたりにわだかまった。
(くそっ)
心中で吐き捨てて歩き出す。こんなあさましい感情を持っているとマトリに知られたら、どんな顔をされるだろう。アユイは首を振って、川のせせらぎに耳をかたむけた。さらさらと流れる水は時間とおなじで、止まることはない。せき止めたとしても、いつかあふれてこぼれてしまう。自分の気持ちもそうなるかもしれないと、アユイは胸元をにぎりしめた。
(マトリ)
見るたびにうつくしくなっていく。籠を受け取ったマトリが、はにかみながら見上げてきたとき、思わず抱きしめたくなった。そんなことをすれば、カブフリとおなじだ。強引に迫って、マトリを困惑させたくない。
(困ったときに、頼れる場所でありたい)
マトリは気が強いくせに、困惑をうまく吐き出せずに抱え込んでしまうときがある。アユイはそれを受け止めるものになりたかった。そのためには想いを押し殺し、マトリが気兼ねなく、安心して過ごせる相手にならなければならない。
(想いを告げるなど、もってのほかだ)
きっとマトリはそれを気にして、思うようにふるまえなくなる。そんなマトリは見たくない。よそよそしくなど、されたくない。それならばいっそ気持ちは抑えていようと、アユイは思い極めていた。
(だが)
愛おしさは募る一方で、いつか決壊してしまわないかと危惧している。カブフリのようにマトリを追い詰め、ツガイになれと迫る自分を想像し、アユイは身震いした。
(守りつづけると誓ったじゃないか)
幼いころ、いまにも泣きそうな顔で笑ったマトイの姿を見て、ずっと守り続けると誓った。あれはまだ、三人が狩りの練習のたわむれをしていた子ども時代だった。カブフリは昔から体が大きく俊敏で、きっとアルファだろうと言われていた。アユイもマトリも、カブフリなら成人の儀式でアルファと判明するに違いないと確信していた。それほど彼の身体能力は図抜けていた。
尊敬するとともに、自分もきっとできるはずと考えてしまうのは子どもの常なのかもしれない。追いつけるはずもないのに、好奇心旺盛なマトリはカブフリの真似をしたがった。あるいは、ほかの子どもと比べても体がちいさく、跳躍力などが劣っているというコンプレックスを、払拭しようと考えてのことかもしれない。マトリはカブフリを目標とし、全力で努力をしていた。先を行く彼に置いていかれまいと、必死になって手足を動かし、追いかけっこや、木の実を獲物に仮定した狩りの真似事に奮闘していた。
そんなマトリの健気な姿を、ハラハラしながらアユイは見つめていた。カブフリほどではないが、彼の動きについていけるとアユイは自負をしていた。ほかの子どもたちが息切れをしても、カブフリ同様、アユイも呼吸を乱すことはなかった。体格が平均的だったのと、目立つことが苦手な性格、人を引っ張っていくよりも手助けをするほうが性分に合っていたせいで、アユイの高い能力はあまり認知されていなかった。
だからこそ、マトリを見守っていられた。子どもたちのリーダーとなって、次々に見本を示すカブフリ。それを真似て挑戦をするものたち。それらをさりげなくフォローするアユイの立ち位置からは、それぞれの個性や特徴がよく見えた。
ある日、崖の上に登ってみようということになった。どういう流れでそうなったのかは覚えていない。崖には手ごろな足場があって、子どもの跳躍力でも問題なく見えた。崖の上からの景色はすばらしい。あの上に登れば海が見える。そう聞いた子どもたちは目をかがやかせた。
カブフリが足場確認と手本のために、やすやすと崖を登った。あまりにも簡単にして見せたので、おじけづいていた子どもも挑戦をする気になった。カブフリが通ったルートをなぞって、次々に登っていく。アユイは最後に登ると決めていた。
マトリの順番になり、勢いよく跳躍する姿をアユイは見守った。これなら無事に到達できるだろうと、アユイは思った。上ではカブフリが人の姿になって両手を広げている。最後のひと息を引き上げてやろうとしていた。あそこまで行けば問題ない。安心したアユイは、自分の番の準備をはじめた。
最初の足場に視線を置くと、カラリとちいさな石の塊が落ちてきた。いやな予感がして顔を上げると、マトリが踏み込んだ足場がわずかに崩れた。足を滑らせたマトリの体が宙に浮く。息を呑んだアユイは反射的に地面を蹴って、空中のマトリを抱きしめ、そのままふたりで地面に落ちた。
背中に強い衝撃を感じ、うめきながらもマトリを受け止めた腕は解かなかった。大丈夫かと言いながら、子どもたちが降りてくる。カブフリの手がアユイの腕を解いて、マトリを立ち上がらせた。
「マトリは無事だ」
キリリと眉をそびやかせたカブフリの肩越しに、いまにも泣きそうなマトリが見えた。アユイはほほえみ、カブフリに担がれて森の集落に運ばれた。
打ち身があるだけで、おおきなケガはなかった。念のためにと寝かされていると、マトリが見舞いにやってきた。不安げなマトリに笑いかけ、たいしたことはないと言った。もじもじしながら寝台に近づいたマトリは、消え入りそうな声で「ごめん」と頭を下げた。
「あやまることはないよ。マトリはなにも悪いことをしていないんだから」
涙をにじませるマトリの頬に、アユイは手を伸ばした。やさしく撫でると、マトリはちいさくうなずいて「ありがとう」と泣きそうな目で笑った。
あのときの可憐な姿を思い出せば、いまでもアユイの心は狂おしい痛みにうずく。あの瞬間、マトリに心を奪われたんだなと噛みしめる。
まだ恋心というものを認識できていなかったアユイは、心の動きをそのまま言葉に変えた。
「俺が守るから。ずっと、マトリを守り続けるから」
音にすれば自分に対する誓いになった。目をパチクリさせたマトリは照れながらも、しっかりとうなずいてアユイの口に唇を押しつけた。
あのときのことを、マトリはきっと覚えていないだろう。幼いころからアユイはカブフリの後を追い、彼にすこしでも追いつこうと努力をしてきた。成人をして、オメガだと告げられたとき、マトリはおどろきながらもうれしそうにほほえんだ。
(あれは、カブフリとツガイになれると考えたからだ)
マトリはカブフリを追いかけ続けている。カブフリがアルファとわかって、ふたりは結ばれるものとだれもが思った。カブフリはさっそくマトリに求愛し、しかしマトリはそれを断った。
まだ心の準備ができていないのだと、カブフリをはじめとした全員が納得した。ふたりはいずれ結ばれる。それはゆるぎない未来の決まりだと、山の集落も森の集落も海の集落も考えていた。カブフリにひそかな想いを抱いていたものでさえ、カブフリとツガイになるのはマトリだと思っている。
そしてアユイも、そうなるものと考えていた。けれどマトリがカブフリの求愛に応じなかったと聞いた瞬間、よこしまな考えが頭をよぎり、希望が胸に湧いた。
(俺にもチャンスがあるのではないか)
あわててそれを打ち消して、アユイはいままでどおりの態度を心掛けた。あれほど努力をしてきたマトリにとって、オメガだと告げられて「能力が劣っているのはしかたがない」と認知されたことは、自尊心にヒビが入る宣言だったのではないか。あのとき、どこかうれいそうに見えたのは、目の錯覚だったのかもしれない。ほんとうにうれしそうにしていたとしても、尊敬し続けている相手とツガイになれるよろこびと、努力をしても無駄だったと感じることは別物だ。
(気持ちが処理できなくて、マトリはカブフリの求愛を断ったんだ)
気持ちの整理がつくまでは、そっとしておいてほしい。そうマトリは考えているのだと、アユイは判じた。だからマトリの気持ちが落ち着くまで、カブフリはそっと待っていればいい。それなのに彼は、ことあるごとにマトリに迫る。狩りで大物を手に入れれば、森の集落に差し入れをする。するとますます、人々は「カブフリのツガイになるのはマトリ」と思う。
森の集落の長も、マトリを山の集落に送ると承諾している。山の集落も、マトリを受け入れる心づもりは整えている。海の集落はアユイがマトリとツガイになるなど想像すらもしていない。――おなじ幼馴染で、いまでも親しく過ごしているのに。
こぶしを握り、アユイは集落には戻らずに海に出た。潮騒がアユイを包む。潮の香りを全身に浴びて、深く肺に吸い込み気持ちをなだめる。
マトリの気持ちが固まるまで、そっとしておいてやれ。そうカブフリに伝えるのは簡単だが、アユイはそれができなかった。マトリに向かう想いが、それはできないと告げている。一縷の望みというやつが、アユイの意識に巣食っていた。
(マトリ)
やわらかなほほえみが自分だけのものになればと、アユイは陽の光をちりばめて揺れる水面をながめる。おだやかな海のごとく、気持ちも静かに保たなければ。
そう考える心に、木の幹に押しつけられたマトリの姿がとどまっている。カブフリのように裸身の彼に手を伸ばし、抱きしめて、唇を奪い思うさまむさぼりたいと考えている。狂おしいほど愛おしいのに、どうしてカブフリに遠慮をしているのか。周囲の声など気にせずに、おまえもマトリに迫ればいい。ツガイになれと腕を掴み、腰を引き寄せ、白い肌に牙を立てて己のものにすればいい。
そんな自分の声を、アユイは歯の奥で噛み砕いた。体が熱い。マトリが欲しいとうなっている。
(だめだ)
歯が鳴るほどに食いしばり、アユイは己を律した。守ると決めた相手を困惑させるなど、してはならない。信頼に満ちたマトリのまなざしを曇らせたくはない。ツガイになれないのならせめて、死ぬまで傍で支えていたい。打ちのめされたときの逃げ場になりたい。
(マトリのすべてを、手に入れることができないのなら……せめて)
心の拠り所であり続けたい。それこそが自分の気持ちをかなえることに繋がるのだと、アユイは繰り返し自分に言い聞かせた。
(心の一部だけでも、俺のものにしていたい)
なんてあさましく愚かな性根だと、アユイは己をあざけった。それでも止められない。表面的には、マトリがカブフリとツガイになっても反対はしない態度でいながら、心中では認めていない。自分の想いに固執をすれば、マトリを苦しめる。それだけはしてはならない。守ると決めたのだから。肉体だけではなく、心すらも守ると誓ったのだから。
「マトリ」
愛おしいと、空に向かって想いを告げる。その声は潮騒にかき乱されて、風に乗って水面に落ちると海に沈んだ。
そんなふうに、気持ちも消えて落ち着いて、おだやかに見守られるようにならなければ。幼馴染であり、親友であり、兄のような存在としてマトリの傍で、身も心もすべて全身全霊を賭けて守るのだ。
アユイはさきほど目にしたマトリの裸身に欲情する己の滾りを消費し、体の熱を冷ますために海へ飛び込んだ。
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