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18.婚約ですか、王子様
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風呂上りに麦茶を飲んで、多美子に「おやすみなさい」と言ってから、頼子は階段を上がった。
弘毅の部屋の前に立ち、そっとノックをして応えをもらうと、音を立てないように静かに襖を開けた。踏み込む瞬間の、胸がムズムズとくすぐったく、ふっくらとあたたまる感覚がとてもたのしい。
それを充分に味わって、余韻が残っているところで弘毅のほほえみを目にすれば、頭の中がお花畑になってしまう。
くふくふと含み笑いをしながら、きっちりと襖を閉じた頼子は弘毅に近づいた。立ち上がった弘毅の手が伸びて、頼子も手を伸ばす。手を繋いで互いに近づき、チュッと軽く唇をかすめるのが来訪のあいさつになっていた。
「えへへ」
照れた頼子が肩をすぼめると、弘毅の目じりがやわらいだ。それを見た頼子の心はチーズみたいにとろけて、濃厚な恋のよろこびを味わう。この短いやり取りだけで、なにもかも忘れてしまえた。
うっとりと弘毅を見上げる頼子は、心の中で「私、弘毅さんとちゃんと恋人になれたんだ」と、繰り返し確かめた。
「仕事、していたんですか」
「うん」
パソコンの画面には、描きかけのイラストがあった。着替え途中の女の子の、なめらかな背中が描かれている。大きな乳房が上げられた腕の隙間からのぞいていた。それを見ても心がざわめかないのは、弘毅の心が自分にあるとわかったからだ。
(これは、弘毅さんの仕事で、趣味で、大好きなことで。でも、二次元に恋人がほしいとか、そういうものじゃないやつだ)
「弘毅さんが、あんなに絵がうまいなんて思いませんでした」
「ん?」
「あの、利用者さんたちに見本で見せた風景画です」
「ああ。――こういうイラストを描いていると、いわゆる美術的な絵とは違うって思われがちだけど、そうじゃないんだ。きちんとデッサンができていないと構図も決まらないし、人の骨格や体の動きなんかも知っていないと、デフォルメもできない。なんていうか、型を知らなければ破り方もわからない……とは、すこし違うかもしれないけれど。絵を描くという点においての基本は、そう変わらないからね」
ピンとこない頼子に、弘毅は海外の世界的に有名なアニメ作品も、スタッフが本物の動物をデッサンし、動きを研究してからデフォルメを交えて完成させたんだよと説明した。
「そうだったんですか!」
「なんでも、基本ができていないと、崩すこともできないからね。知らないことは、アレンジなんてできないだろう」
なるほどと頼子は納得し、ますます弘毅が好ましくなった。
(真面目で、一生懸命なんだなぁ)
そんな人が自分を好きになってくれたなんて、信じられない。
ふっと幸福にふくらんでいた頼子の胸に不安が兆す。
(私、弘毅さんにふさわしいのかな)
自分の想い先行で突撃してしまったけれど、はたしてそれだけの価値が自分にはあるのだろうか。会社でチクチクと仕事とは別の部分で、遠まわしないやがらせを受けていた頼子の心は、自己肯定力がすり減っていた。
(ずっと、いまでも王子様な弘毅さんは、私にはもったいないのかも)
「頼子ちゃん?」
頼子の顔によぎった陰に気づいた弘毅は、いぶかしんだ。なんでもないと、頼子は笑顔を作り直して弘毅の胸に額を乗せる。
(これからのこと、弘毅さんはどう考えているんだろう)
もしかしたら、頼子はそう長くはいないから、その間だけの関係だと思っているのかもしれない。
(弘毅さんは、そんな人じゃない)
コツコツと好きなことのために努力を重ねて、それを仕事にする人だ。そんな人が、そんなことを考えるはずはない。弘毅は誠実でやさしい、頼子の王子様なのだから。
(でも……ほかに年頃の相手がいなかったから、それで私を受け入れてくれたって可能性もある。――ううん。弘毅さんは子どものころの私の顔を思い出して、絵を描き続けていたって言ってくれた。だから、弘毅さんにとって私は……ああ、だけど)
グルグルと思考がループしはじめて、頼子は弘毅の胸に額を乗せたまま身動きを忘れた。じっとしている頼子の背に、弘毅の手が乗った。ほんのりと弘毅の手のあたたかさが布越しに伝わって、頼子の胸にこみ上げるものがあった。
(やだ。私、ほんとに涙もろくなってる)
ここに来てから、ずっと心が揺れてばかりいる。それもこれも、きっとまだ心が本調子ではないからだ。まだダメージは癒えていない。つまり、まだしばらくはこの家に置いてもらえる理由がある。
(だけど、それがなくなってしまったら。ううん。あんまり長くいたら、再就職もむずかしくなっちゃうだろうし。でも、それを考えたら弘毅さんと離れなくちゃいけなくなるわけで。――もう、どうしたらいいの)
わけがわからなくなった頼子は、弘毅の腰にしがみついた。朝から降り続けている雨の音が、かすかに耳に届くほどに静かな夜は、安らぎと恐怖を織り交ぜて頼子の心を揺さぶってくる。
弘毅は無言で、頼子の背中をそっとさすってくれている。言わなくても不安が伝わっているんだと、自分のことを気にかけてくれているんだとわかって、彼のやさしさに胸が詰まった。
「このぶんだと、明日も雨かな」
ぽつりと弘毅が言う。
「次は、なにを画材にして描いてもらおうか。今日とは違う野菜でもいいし、食器でもいいよね。湯呑なんて、おもしろいかもしれないな。身近なものを描くと、ふだんは気にしないことにも目が向くから、あたらしい発見ができたりもするんだよ。なにげなく使っている食器の模様とか、あらためて見るとおもしろいから、それもいいかもしれないな」
ひとり言めいた弘毅の声を聞きながら、頼子は昌代や千代の期待に輝く瞳と「問題は解決ってことは、王子様と結ばれたのかしら」という声を思い出す。
(まだ、はっきりと結ばれたとは言い切れないです。――そうなりたいけど)
そうっと顔を上げると、どうしたのとなごやかな目顔で問われた。首を振った頼子は、また彼の胸に顔を隠して考える。
(こうしてグルグル考えていたって、答えは出ないのに)
わかっているのに勇気が出ない。ウジウジしている自分に腹が立って、いやになって、こんな自分じゃ弘毅にふさわしくないと考えて、ひとりで勝手に落ち込んで不安になる。
すぐそばに弘毅がいるのに。こうして触れているのに。部屋に入ってからキスをするまでの幸福が、いつの間にか不安に押しやられてしまっている。心の片隅で幸福が蛍の光みたいに、ちいさくゆっくり点滅していた。
(どうして私って、こうなんだろう)
ため息をつくと、顎に手をかけられた。上向かされて、額にキスをされる。
「なにか、施設であった?」
澄んだ弘毅の瞳に吸い込まれて、頼子は白状した。
「おばさんは、私たちのことを知っているのかなって」
「かあさん?」
「弘毅さんにあやまったけど逃げ出して、だから、きちんとその答えを聞きなさいって言われて。それで私、弘毅さんの部屋に来たじゃないですか」
うん、と弘毅が相づちを打つ。
「でもそれ、なにが原因なのかって言ってないんです。ただ私がなにかして、あやまっていたってことだけを知っていて。私たちがこうなったことを、知らないんじゃないかなって」
しゃべりながら様子をうかがうと、弘毅は頼子を見つめたまま「うーん」とうなった。
「俺も、かあさんには頼子ちゃんとのことを言っていないし。知らないだろうね」
「そう思って、私、こっそり来ているわけですし」
うん、と弘毅は受け止める。
「そこが頼子ちゃんの不安なんだね」
「不安というか……隠しておけるのかなっていうか」
遠まわしに、不安の核には触れずにいる自分はズルい。けれど、はっきりと言って目をそらされたり、ごまかされたりされるのが怖い。そんなことをしない人だとは思っているけれど、それでも不安がぬぐえない。
(私、どうして弘毅さんを信じきれないんだろう)
自分が弱いからだと、すぐに答えが出て落ち込んだ。
「頼子ちゃんは、どうしたい?」
「えっ」
「かあさんに報告したいのか、しばらくは内緒でつき合っていたいのか。かあさんに伝わると、きっとすぐにおばさんにも伝わるだろうし」
弘毅の母親と頼子の母親が親友だから、頼子はここに居候させてもらえている。多美子に交際を告げれば、きっとすぐに頼子の母親にも伝わる。
(それって、両方の親から公認されるってことだよね)
結婚の二文字が目の奥で点滅して、頼子はクラクラした。長年の親友同士の子どもがつき合っている。そう知ったふたりはきっと、そこを考えるはず。そうなって、けれど結ばれませんでしたとなれば、ふたりの友情に微妙な亀裂が入ってしまう。
(私と弘毅さんの関係が、おばさんとおかあさんの関係にも影響するんだ)
そう考えると、ますます恐ろしくなって頼子はおびえた。
「頼子ちゃん?」
「私……どうしよう」
自分の気持ちだけで、いっぱいいっぱいになっていた。行動の結果、どういうことが起こるのかを、ちっとも考えていなかった。周囲への影響をもっと考えて行動しなければならなかったんだと、頼子は自分の行動を後悔する。
「なにが、どうしようなの?」
そっと髪をかき上げられて、頼子は震える心を言葉に変えて不安を吐露した。詰まりながら、ぽつぽつと頼子がうったえ終わるまで、弘毅は静かに聞いている。
「だから……それが、ちょっと怖くなって」
「俺とつき合っていることを、頼子ちゃんは後悔しているのかな」
「違います! そんなことは、ぜんぜんないです。そうじゃなくて、私がなんにも考えずにいたことが怖いっていうか、バカだなぁっていうか、ダメダメだなっていうか」
「それじゃあ、俺とこうしていることに不満はない?」
「ないです。あるわけないです。だってずっと、子どものころからずっと好きな王子様と結ばれたんですから。――女の子にとっては、そういうのって理想の恋なんです。その理想を現実にできたっていうか、なんていうか。弘毅さんと再会して、迫ったのってほんとうに必死で。沈まないように必死になって泳いでいるときみたいな、そんな感じで」
「気持ちに溺れている、みたいな?」
「そう。それです」
頼子が力強く肯定すると、ちょっぴり照れを交えながら、弘毅は離れてパソコンの前に立った。つられて頼子も移動した。
「いま挿絵を描いている物語に、それっぽい表現が出てくるんだ」
画面の中では勝気そうな美少女がこぶしを握り、もう片手を腰にあててなにかを言っている。その背後では、あきれた顔の少年少女と動物が並んでいた。
「溺れているのなら、救い出してあげたいんだけど……頼子ちゃんは、どうしたい?」
「えっ」
「溺れている頼子ちゃんを助ける方法を、教えてほしいんだ」
パソコンの画面から弘毅に視線を戻した頼子は、深い弘毅の瞳にドキリとした。心の底から大切にされているのだと、言葉にされなくても実感できるまなざしに、不安に震える魂が助けてと手を伸ばす。
「私、弘毅さんとずっといっしょにいたいです。弘毅さんと、これからもずっと。でも私、居候だし。ここに来たのは一時的に都会を離れて、ゆっくり休むのが目的で。だからいつか、戻らなくちゃいけなくて。ここで仕事を探すっていっても、そうそう見つかりっこなさそうだし。そうなると、やっぱり戻らなくちゃいけなくて」
ちっともまとまっていないまま、グルグルと渦巻いている考えを次々に披露する。
「つまり、どうしたいのかな」
「ずっと、ここにいる方法がほしいです。でも」
「でも?」
(それって、結婚をするってことになっちゃうから)
自分からは言い出しづらい。上目遣いに弘毅をうかがえば、ただニコニコと笑っている。先をうながされているのか、わかっていてわからないフリをしているのか。
「弘毅さんは、どうなんですか?」
怯えながら、頼子は聞いた。自分から望みを言うより、まずは弘毅の気持ちを知りたい。
「答えをまだ、もらっていないよ」
「先に、弘毅さんが言ってください」
「どうして」
「どうしてって」
「それで、頼子ちゃんの答えは変わるの?」
「それは……」
「変わるのなら、俺の意見を言う前に、頼子ちゃんの素直な気持ちを聞いておきたい。それを知っても、俺の望みは変わらない。もしも不安なら、聞く前にメモに書いておくよ」
そう言って、弘毅は机の端にあったメモ帳にサラサラと走り書きをする。
「さあ、俺の気持ちはここに書いた」
メモ帳を机に伏せた弘毅が、軽く腕を広げた。
「頼子ちゃんの正直な気持ち。俺やかあさんや、おばさんのことなんて考えずに、ただ頼子ちゃんがどうしたいのか。それを教えて」
「でも」
机に伏せられたメモ帳を見て、弘毅を見て、頼子はグッと腹の底に力を入れて覚悟を決めた。
「わ、私は――」
緊張に震えながら、思い切って告白した。
弘毅の部屋の前に立ち、そっとノックをして応えをもらうと、音を立てないように静かに襖を開けた。踏み込む瞬間の、胸がムズムズとくすぐったく、ふっくらとあたたまる感覚がとてもたのしい。
それを充分に味わって、余韻が残っているところで弘毅のほほえみを目にすれば、頭の中がお花畑になってしまう。
くふくふと含み笑いをしながら、きっちりと襖を閉じた頼子は弘毅に近づいた。立ち上がった弘毅の手が伸びて、頼子も手を伸ばす。手を繋いで互いに近づき、チュッと軽く唇をかすめるのが来訪のあいさつになっていた。
「えへへ」
照れた頼子が肩をすぼめると、弘毅の目じりがやわらいだ。それを見た頼子の心はチーズみたいにとろけて、濃厚な恋のよろこびを味わう。この短いやり取りだけで、なにもかも忘れてしまえた。
うっとりと弘毅を見上げる頼子は、心の中で「私、弘毅さんとちゃんと恋人になれたんだ」と、繰り返し確かめた。
「仕事、していたんですか」
「うん」
パソコンの画面には、描きかけのイラストがあった。着替え途中の女の子の、なめらかな背中が描かれている。大きな乳房が上げられた腕の隙間からのぞいていた。それを見ても心がざわめかないのは、弘毅の心が自分にあるとわかったからだ。
(これは、弘毅さんの仕事で、趣味で、大好きなことで。でも、二次元に恋人がほしいとか、そういうものじゃないやつだ)
「弘毅さんが、あんなに絵がうまいなんて思いませんでした」
「ん?」
「あの、利用者さんたちに見本で見せた風景画です」
「ああ。――こういうイラストを描いていると、いわゆる美術的な絵とは違うって思われがちだけど、そうじゃないんだ。きちんとデッサンができていないと構図も決まらないし、人の骨格や体の動きなんかも知っていないと、デフォルメもできない。なんていうか、型を知らなければ破り方もわからない……とは、すこし違うかもしれないけれど。絵を描くという点においての基本は、そう変わらないからね」
ピンとこない頼子に、弘毅は海外の世界的に有名なアニメ作品も、スタッフが本物の動物をデッサンし、動きを研究してからデフォルメを交えて完成させたんだよと説明した。
「そうだったんですか!」
「なんでも、基本ができていないと、崩すこともできないからね。知らないことは、アレンジなんてできないだろう」
なるほどと頼子は納得し、ますます弘毅が好ましくなった。
(真面目で、一生懸命なんだなぁ)
そんな人が自分を好きになってくれたなんて、信じられない。
ふっと幸福にふくらんでいた頼子の胸に不安が兆す。
(私、弘毅さんにふさわしいのかな)
自分の想い先行で突撃してしまったけれど、はたしてそれだけの価値が自分にはあるのだろうか。会社でチクチクと仕事とは別の部分で、遠まわしないやがらせを受けていた頼子の心は、自己肯定力がすり減っていた。
(ずっと、いまでも王子様な弘毅さんは、私にはもったいないのかも)
「頼子ちゃん?」
頼子の顔によぎった陰に気づいた弘毅は、いぶかしんだ。なんでもないと、頼子は笑顔を作り直して弘毅の胸に額を乗せる。
(これからのこと、弘毅さんはどう考えているんだろう)
もしかしたら、頼子はそう長くはいないから、その間だけの関係だと思っているのかもしれない。
(弘毅さんは、そんな人じゃない)
コツコツと好きなことのために努力を重ねて、それを仕事にする人だ。そんな人が、そんなことを考えるはずはない。弘毅は誠実でやさしい、頼子の王子様なのだから。
(でも……ほかに年頃の相手がいなかったから、それで私を受け入れてくれたって可能性もある。――ううん。弘毅さんは子どものころの私の顔を思い出して、絵を描き続けていたって言ってくれた。だから、弘毅さんにとって私は……ああ、だけど)
グルグルと思考がループしはじめて、頼子は弘毅の胸に額を乗せたまま身動きを忘れた。じっとしている頼子の背に、弘毅の手が乗った。ほんのりと弘毅の手のあたたかさが布越しに伝わって、頼子の胸にこみ上げるものがあった。
(やだ。私、ほんとに涙もろくなってる)
ここに来てから、ずっと心が揺れてばかりいる。それもこれも、きっとまだ心が本調子ではないからだ。まだダメージは癒えていない。つまり、まだしばらくはこの家に置いてもらえる理由がある。
(だけど、それがなくなってしまったら。ううん。あんまり長くいたら、再就職もむずかしくなっちゃうだろうし。でも、それを考えたら弘毅さんと離れなくちゃいけなくなるわけで。――もう、どうしたらいいの)
わけがわからなくなった頼子は、弘毅の腰にしがみついた。朝から降り続けている雨の音が、かすかに耳に届くほどに静かな夜は、安らぎと恐怖を織り交ぜて頼子の心を揺さぶってくる。
弘毅は無言で、頼子の背中をそっとさすってくれている。言わなくても不安が伝わっているんだと、自分のことを気にかけてくれているんだとわかって、彼のやさしさに胸が詰まった。
「このぶんだと、明日も雨かな」
ぽつりと弘毅が言う。
「次は、なにを画材にして描いてもらおうか。今日とは違う野菜でもいいし、食器でもいいよね。湯呑なんて、おもしろいかもしれないな。身近なものを描くと、ふだんは気にしないことにも目が向くから、あたらしい発見ができたりもするんだよ。なにげなく使っている食器の模様とか、あらためて見るとおもしろいから、それもいいかもしれないな」
ひとり言めいた弘毅の声を聞きながら、頼子は昌代や千代の期待に輝く瞳と「問題は解決ってことは、王子様と結ばれたのかしら」という声を思い出す。
(まだ、はっきりと結ばれたとは言い切れないです。――そうなりたいけど)
そうっと顔を上げると、どうしたのとなごやかな目顔で問われた。首を振った頼子は、また彼の胸に顔を隠して考える。
(こうしてグルグル考えていたって、答えは出ないのに)
わかっているのに勇気が出ない。ウジウジしている自分に腹が立って、いやになって、こんな自分じゃ弘毅にふさわしくないと考えて、ひとりで勝手に落ち込んで不安になる。
すぐそばに弘毅がいるのに。こうして触れているのに。部屋に入ってからキスをするまでの幸福が、いつの間にか不安に押しやられてしまっている。心の片隅で幸福が蛍の光みたいに、ちいさくゆっくり点滅していた。
(どうして私って、こうなんだろう)
ため息をつくと、顎に手をかけられた。上向かされて、額にキスをされる。
「なにか、施設であった?」
澄んだ弘毅の瞳に吸い込まれて、頼子は白状した。
「おばさんは、私たちのことを知っているのかなって」
「かあさん?」
「弘毅さんにあやまったけど逃げ出して、だから、きちんとその答えを聞きなさいって言われて。それで私、弘毅さんの部屋に来たじゃないですか」
うん、と弘毅が相づちを打つ。
「でもそれ、なにが原因なのかって言ってないんです。ただ私がなにかして、あやまっていたってことだけを知っていて。私たちがこうなったことを、知らないんじゃないかなって」
しゃべりながら様子をうかがうと、弘毅は頼子を見つめたまま「うーん」とうなった。
「俺も、かあさんには頼子ちゃんとのことを言っていないし。知らないだろうね」
「そう思って、私、こっそり来ているわけですし」
うん、と弘毅は受け止める。
「そこが頼子ちゃんの不安なんだね」
「不安というか……隠しておけるのかなっていうか」
遠まわしに、不安の核には触れずにいる自分はズルい。けれど、はっきりと言って目をそらされたり、ごまかされたりされるのが怖い。そんなことをしない人だとは思っているけれど、それでも不安がぬぐえない。
(私、どうして弘毅さんを信じきれないんだろう)
自分が弱いからだと、すぐに答えが出て落ち込んだ。
「頼子ちゃんは、どうしたい?」
「えっ」
「かあさんに報告したいのか、しばらくは内緒でつき合っていたいのか。かあさんに伝わると、きっとすぐにおばさんにも伝わるだろうし」
弘毅の母親と頼子の母親が親友だから、頼子はここに居候させてもらえている。多美子に交際を告げれば、きっとすぐに頼子の母親にも伝わる。
(それって、両方の親から公認されるってことだよね)
結婚の二文字が目の奥で点滅して、頼子はクラクラした。長年の親友同士の子どもがつき合っている。そう知ったふたりはきっと、そこを考えるはず。そうなって、けれど結ばれませんでしたとなれば、ふたりの友情に微妙な亀裂が入ってしまう。
(私と弘毅さんの関係が、おばさんとおかあさんの関係にも影響するんだ)
そう考えると、ますます恐ろしくなって頼子はおびえた。
「頼子ちゃん?」
「私……どうしよう」
自分の気持ちだけで、いっぱいいっぱいになっていた。行動の結果、どういうことが起こるのかを、ちっとも考えていなかった。周囲への影響をもっと考えて行動しなければならなかったんだと、頼子は自分の行動を後悔する。
「なにが、どうしようなの?」
そっと髪をかき上げられて、頼子は震える心を言葉に変えて不安を吐露した。詰まりながら、ぽつぽつと頼子がうったえ終わるまで、弘毅は静かに聞いている。
「だから……それが、ちょっと怖くなって」
「俺とつき合っていることを、頼子ちゃんは後悔しているのかな」
「違います! そんなことは、ぜんぜんないです。そうじゃなくて、私がなんにも考えずにいたことが怖いっていうか、バカだなぁっていうか、ダメダメだなっていうか」
「それじゃあ、俺とこうしていることに不満はない?」
「ないです。あるわけないです。だってずっと、子どものころからずっと好きな王子様と結ばれたんですから。――女の子にとっては、そういうのって理想の恋なんです。その理想を現実にできたっていうか、なんていうか。弘毅さんと再会して、迫ったのってほんとうに必死で。沈まないように必死になって泳いでいるときみたいな、そんな感じで」
「気持ちに溺れている、みたいな?」
「そう。それです」
頼子が力強く肯定すると、ちょっぴり照れを交えながら、弘毅は離れてパソコンの前に立った。つられて頼子も移動した。
「いま挿絵を描いている物語に、それっぽい表現が出てくるんだ」
画面の中では勝気そうな美少女がこぶしを握り、もう片手を腰にあててなにかを言っている。その背後では、あきれた顔の少年少女と動物が並んでいた。
「溺れているのなら、救い出してあげたいんだけど……頼子ちゃんは、どうしたい?」
「えっ」
「溺れている頼子ちゃんを助ける方法を、教えてほしいんだ」
パソコンの画面から弘毅に視線を戻した頼子は、深い弘毅の瞳にドキリとした。心の底から大切にされているのだと、言葉にされなくても実感できるまなざしに、不安に震える魂が助けてと手を伸ばす。
「私、弘毅さんとずっといっしょにいたいです。弘毅さんと、これからもずっと。でも私、居候だし。ここに来たのは一時的に都会を離れて、ゆっくり休むのが目的で。だからいつか、戻らなくちゃいけなくて。ここで仕事を探すっていっても、そうそう見つかりっこなさそうだし。そうなると、やっぱり戻らなくちゃいけなくて」
ちっともまとまっていないまま、グルグルと渦巻いている考えを次々に披露する。
「つまり、どうしたいのかな」
「ずっと、ここにいる方法がほしいです。でも」
「でも?」
(それって、結婚をするってことになっちゃうから)
自分からは言い出しづらい。上目遣いに弘毅をうかがえば、ただニコニコと笑っている。先をうながされているのか、わかっていてわからないフリをしているのか。
「弘毅さんは、どうなんですか?」
怯えながら、頼子は聞いた。自分から望みを言うより、まずは弘毅の気持ちを知りたい。
「答えをまだ、もらっていないよ」
「先に、弘毅さんが言ってください」
「どうして」
「どうしてって」
「それで、頼子ちゃんの答えは変わるの?」
「それは……」
「変わるのなら、俺の意見を言う前に、頼子ちゃんの素直な気持ちを聞いておきたい。それを知っても、俺の望みは変わらない。もしも不安なら、聞く前にメモに書いておくよ」
そう言って、弘毅は机の端にあったメモ帳にサラサラと走り書きをする。
「さあ、俺の気持ちはここに書いた」
メモ帳を机に伏せた弘毅が、軽く腕を広げた。
「頼子ちゃんの正直な気持ち。俺やかあさんや、おばさんのことなんて考えずに、ただ頼子ちゃんがどうしたいのか。それを教えて」
「でも」
机に伏せられたメモ帳を見て、弘毅を見て、頼子はグッと腹の底に力を入れて覚悟を決めた。
「わ、私は――」
緊張に震えながら、思い切って告白した。
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