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17.王子様のおひろめです
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弘毅と結ばれてから二日後に、雨が降った。
朝から頼子はソワソワと落ち着かない。昌代と千代も、頼子とは違った意味でソワソワしていた。
「いよいよ、頼子ちゃんの王子様のお披露目というわけね」
ワクワクしている昌代を肘でつついて、千代が小声でたしなめる。
「そういう言い方をしたら、頼子ちゃんが変に緊張してしまうでしょう。でも、どんな方なのかしらね。気になるわ」
「たぶん、会ったことがある人だと思いますよ」
苦笑気味に答えた頼子は、窓の外に目を向けた。雨にけぶる景色は灰色がかった藍色に沈んでいる。その中に、草木の緑や土の色がわずかににじんで見えていた。
家を出るときに、多美子が「今日は雨だからお昼ごはんのあとに、施設に来てちょうだいよ」と弘毅に声をかけていた。それを聞いた頼子はドキリとし、気づいた多美子にウインクされた。
「弘毅が先生だってこと、まだだれにも言っていないから。施設の人たちは知っているけれど、利用者さんには内緒にしているのよ」
「どうしてですか」
「事前にお知らせしておいたら、あちこちに広まって、弘毅がどこかに手伝いに行ったときに、あれこれ聞かれたり言われたりするかもしれないでしょう? まだ、やってもいないことは説明できないし、めんどうじゃない」
「それは、講師が弘毅さんだってわかってからも、あるんじゃないですか?」
「やる前と後とじゃあ、いろいろと違うのよ。実際に講師として現れて、実力を見てもらってからのほうが、こういうことはよかったりするの」
そういうものなのかと、よくわからないままに頼子は納得することにした。
「そうそう。昌代さんと千代さんがね、頼子ちゃんが悩んでいるみたいだから、助けてあげてって言ってきたんだけど」
「えっ!」
「もう解決したから、大丈夫ですって言っておいたわ。ついでに、絵の先生は頼子ちゃんの王子様ですから、おふたりの目でどんな男かしっかり見極めてあげてくださいって」
ニンマリした多美子を思い出して、頼子はそっと吐息をもらした。多美子から「見極めて」と言われている昌代は、朝からずっとはりきっている。それを心配そうに見ている千代は、もの言いたげな目を頼子に向けたりそらしたりしていた。
(これで弘毅さんが現れたら、ふたりはどうするんだろう)
玄関で声がして、職員が対応に出る。来た、と頼子は背筋を伸ばした。意味深な昌代の視線を背中に感じつつ、頼子も玄関に向かった。
「弘毅さん」
体にまとわりついた雨粒をタオルで払い落していた弘毅が、頼子に気づいて笑顔を浮かべる。そのまぶしさにクラクラしながら、頼子は弘毅の荷物に手を伸ばした。
「持ちます」
「大丈夫だよ。それよりも、みんなの準備は大丈夫かな」
「弘毅が入っていけば、いつでもはじめられるわよ」
多美子が答えて、弘毅は「わかった」と受け止めた。
利用者たちは休憩室に集まって、雨の日のあたらしいレクリエーションがはじまるのを、いまかいまかと待っている。
「それじゃあ、すぐに行かないとね。待たせてしまって、申し訳ない」
「ちゃんと時間を言っていなかった、こちらが悪いんですから」
職員と多美子が先に立って、弘毅が続き、その後に頼子が並んだ。ドキドキしながら休憩室に入ると、利用者たちがざわめいた。
「はい、みなさん。今日は雨で散歩に出られませんので、絵を描くことにしましょう。先生は、みなさんもよく知っている多美子さんの息子さん、弘毅さんです」
よろしくお願いしますと弘毅が頭を下げると、パラパラと拍手が起こった。目をキラキラと輝かせた昌代の視線を感じて、頼子はぎこちない笑みを返す。
「弘毅くんは、絵が達者だったのか」
意外だと言いたげな声が上がった。
「ええ、まあ」
ひかえめに返事をしながら、弘毅は手にしていた大きな袋を開けた。取り出されたのはポスターサイズの風景画だった。それを見た利用者たちから感嘆の吐息がもれる。
「上手ねぇ」
「手先が器用だから、絵もうまいんだな」
そんな声があちこちから上がって、講師が弘毅であることに不満を持つものはいなさそうだと、頼子は胸をなでおろした。
「俺の実力はこのくらいです。見本で風景画を持ってきましたが、これからするのは絵ハガキです。いまからみなさんに、被写体となる野菜とクレヨンを配りますから、それで自分の思うように描いてください」
その声を合図に、頼子は従業員たちとともに、テーブルひとつにつき、野菜をふたつとクレヨン、はがきを配ってまわった。
「絵ハガキなら、水彩じゃないのか」
「今日は、とりあえずクレヨンでお願いします。クレヨンでも、すばらしい絵が描けるんですよ」
だれもが弘毅の人柄を知っているからか、それ以上の質問は出なかった。口の中でブツブツ言っている人もいるにはいるが、それぞれが被写体の野菜をじっと見て、どう描こうかと考えている。その中を弘毅はゆっくりと歩いて、頼子は昌代や千代のいる担当のテーブルに落ち着いた。
「頼子ちゃんの王子様は、弘毅くんだったのねぇ。なんとなく、そんな気はしていたんだけど」
やっぱりねぇと小声で漏らす昌代は、とてもたのしそうだった。
「じつはね。私たち、多美子さんに相談をしていたのよ」
コソコソと告白されて、頼子は知らないふりでおどろいた。
「そうだったんですか」
「そうそう。そうしたらね、問題はもう解決していますって、はっきりと言われたのよ。それで、やっぱりそうだったのねってピンときたわ」
「問題は解決ってことは、王子様と結ばれたのかしら」
少女めいた好奇心を含んだ千代の問いに、あいまいな笑顔を浮かべた頼子は弘毅を見た。茄子ときゅうりの置かれたテーブルで、弘毅はなにやら質問を受けている。やわらかな表情で年配男性と接している弘毅の姿に、頼子はうっとりと見惚れた。
「王子様って言われたら、なるほどなぁって思えるわねぇ。物腰がやわらかくて、いい子だものね、弘毅くん。男前だし」
「よかったわね、頼子ちゃん」
「えへへ……ええ、まあ。その、おふたりのおかげというか、いろいろと心配をおかけしました」
「いいのよ。私たちも、たのしかったって言ったら不謹慎かしら」
「いえ、そんな。相談ができる人はいませんでしたし、昌代さんのあのひと言があったから、きっかけができたっていうか、なんというか」
(そのせいで、いろいろと迷走もしちゃったけど。あれがなかったら、きっとあこがれと恋の間で、ずっとグズグズしていた気がするし)
「ありがとうございました」
「あらあら。それじゃあ、私は恋の橋渡し役ってことかしら?」
ちょっぴり得意げに、昌代が頬を持ち上げた。
「千代さんも。千代さんのおかげで、なんていうか、こちらに来てから心が軽くなったっていうか、なんていうか。頼っていいんだって、情けなくてもいいんだって思えて、勇気が出ました。ありがとうございます」
「なんだか、お別れのあいさつみたいね」
しんみりとした千代に、頼子はあわてて「これからも、よろしくお願いします」とつけくわえた。
「ほら、おしゃべりばっかりしていないで、絵を描きましょう」
「あらあら、そうだったわ。いまは絵を描く時間だったわね」
ふたりがクレヨンに手を伸ばして、被写体を真剣にながめる。このテーブルに配られたのは、トマトときゅうりだった。
クレヨンを手にすると昌代はすぐに描きはじめたが、千代はどのくらいの大きさで、どんなふうに描こうかと悩んでいる。ふたりの性格がよくわかるなぁと、ほほえましくながめる頼子の耳に、ときどきかすかに指導する弘毅の声が届いた。雨の音に交じるくらい、かすかなその声に耳をかたむけながら、頼子はひさしぶりに気持ちをくつろげている自分に気づいた。
(こういう時間って、すてきだなぁ)
ゆったりと流れていく時間が、とても心地いい。都会のせわしない空気の中で、よく過ごしていられたなと振り返る。人の意見や評価を気にして、それに沿うように気をつけながら生活していた。それでも思わぬところから嫉妬をされて、ちいさな嫌悪を向けられて、萎縮して、ますますいやな思いをするようになって、そして耐えきれなくなって逃げてきた。
(こんなに心がのびのびとできる場所に慣れたら、もう戻れなくなっちゃうなぁ)
はた、と頼子は気がついた。
(そういえば私、いつまでおばさんのところに置いてもらえるんだろう)
母親には「とりあえず田舎に行って、のんびり働いていらっしゃい」と言われた。とりあえず、は、どのくらいで、のんびり、は、いつまでなのか。
(施設の手伝いって言っても、ほとんどボランティアみたいなものだし)
給料はもらえるが、手伝い費という名目で、正式な職員として雇われているわけではない。それを全額、自分のものにするわけにはいかない。半分くらい……いや、もうすこし多めに、多美子に居候代として支払うつもりでいた。
とりあえず現状は、それで生活をしていける。けれどその後は――?
(ここでは、就職のアテなんてなさそうだし)
アルバイトでもいい、なんてことは通用しない。なんせ店がほとんどないのだから。よしんばバイトの口が見つかったとしても、出勤のために車かバイクが必要となる。頼子は免許を持っていなかった。実家周辺は交通の便がいいから、必要ないと取得をしなかった。通勤のために免許を取るか、だれかに送り迎えをしてもらわなければいけなくなる。
(どうしよう)
窓の外に目を向けて、雨に打たれる景色をながめる。壁に遮られてもしみ込んでくる雨音は、建物内の音をよりクリアに耳に届けてくれる。ボソボソと相談しながら絵を描いている利用者の声や、説明をしている弘毅の声が鼓膜に触れた。
(弘毅さんみたいに、インターネットを使って仕事のやりとり……と言っても、私、これといった特技はないし)
人並みにパソコンが使える程度で、資格は持っていない。簡単な文書作成やエクセルでの計算式は作れるが、それだけで生活ができるほどの給与を個人事業主として手に入れられるかと考えれば、即座に「否」と答えが出た。
(いつまで、私はここにいていいのかな)
せっかく弘毅と両想いになれたのに、いずれは遠距離恋愛になってしまうのか。
(もういっそ、弘毅さんと結婚をしちゃえば)
ぼんやりと浮かんだ考えに、頼子は自分でビックリした。
(結婚だなんて、ちょっと、いきなりすぎる)
熱くなった頬を、頼子は両手で包んだ。
軽い気持ちで弘毅に迫ったわけではない。昌代はそれで結婚ができたのだと聞いたから、頼子は実行に踏み切ったのだ。最終的に結婚ができればいいなとは思うが、互いの気持ちを告白しあってから、というか、再会してから計算しても一か月と経っていない。
(それで結婚を切り出すなんて、いくらなんでもはやすぎる)
世の中には、ひと目ぼれをしてそのままゴールインをする人もいるらしいが、物語の出来事くらい現実味がない。
(でも、じゃあ、婚約……?)
それにしたって、はやすぎる気がしないでもない。頼子としては、まったくもって問題がないどころか大歓迎なのだが、弘毅はどう考えているのか。それに、多美子の気持ちのこともある。
昌代と千代が相談をしたと言っていたが、まさか自分が弘毅と恋人になりたがっている、なんて話は出ていないはずだ。だってふたりは、頼子の想い人がだれなのかを、さっき知ったばかりなのだから。ふたりに多美子が「解決をした」と言ったのは、弘毅となにかケンカをしたと思っていることについてで、それ以上でもそれ以下でもない。
多美子はふたりがつき合っていることを知らない。まずはそこから伝えなければならなかった。
(私のことをかわいがってくれているから、大丈夫そうだけど)
いざ現実味を帯びたものとなってくると、自信は不安に崩されていく。
(まずは、おばさんにつき合っていることを報告してから……だよね)
弘毅がなにか話している様子はないし、多美子の態度はすこしも変わっていないから、きっと知らないはず。
(タイミングを見て、おばさんに報告をしたほうがいいよね)
それとも、しばらくは内緒でつき合うほうがいいのだろうか。つき合っていますと報告をするのは勇気というか、覚悟がいる。
(あとで、弘毅さんと相談したいな)
目を上げた頼子は、遠いテーブルで利用者と会話している弘毅の姿にキュンとなった。
(遠距離になるなんて、ぜったい無理!)
かならず今日、相談をしようと決意を固めた。
朝から頼子はソワソワと落ち着かない。昌代と千代も、頼子とは違った意味でソワソワしていた。
「いよいよ、頼子ちゃんの王子様のお披露目というわけね」
ワクワクしている昌代を肘でつついて、千代が小声でたしなめる。
「そういう言い方をしたら、頼子ちゃんが変に緊張してしまうでしょう。でも、どんな方なのかしらね。気になるわ」
「たぶん、会ったことがある人だと思いますよ」
苦笑気味に答えた頼子は、窓の外に目を向けた。雨にけぶる景色は灰色がかった藍色に沈んでいる。その中に、草木の緑や土の色がわずかににじんで見えていた。
家を出るときに、多美子が「今日は雨だからお昼ごはんのあとに、施設に来てちょうだいよ」と弘毅に声をかけていた。それを聞いた頼子はドキリとし、気づいた多美子にウインクされた。
「弘毅が先生だってこと、まだだれにも言っていないから。施設の人たちは知っているけれど、利用者さんには内緒にしているのよ」
「どうしてですか」
「事前にお知らせしておいたら、あちこちに広まって、弘毅がどこかに手伝いに行ったときに、あれこれ聞かれたり言われたりするかもしれないでしょう? まだ、やってもいないことは説明できないし、めんどうじゃない」
「それは、講師が弘毅さんだってわかってからも、あるんじゃないですか?」
「やる前と後とじゃあ、いろいろと違うのよ。実際に講師として現れて、実力を見てもらってからのほうが、こういうことはよかったりするの」
そういうものなのかと、よくわからないままに頼子は納得することにした。
「そうそう。昌代さんと千代さんがね、頼子ちゃんが悩んでいるみたいだから、助けてあげてって言ってきたんだけど」
「えっ!」
「もう解決したから、大丈夫ですって言っておいたわ。ついでに、絵の先生は頼子ちゃんの王子様ですから、おふたりの目でどんな男かしっかり見極めてあげてくださいって」
ニンマリした多美子を思い出して、頼子はそっと吐息をもらした。多美子から「見極めて」と言われている昌代は、朝からずっとはりきっている。それを心配そうに見ている千代は、もの言いたげな目を頼子に向けたりそらしたりしていた。
(これで弘毅さんが現れたら、ふたりはどうするんだろう)
玄関で声がして、職員が対応に出る。来た、と頼子は背筋を伸ばした。意味深な昌代の視線を背中に感じつつ、頼子も玄関に向かった。
「弘毅さん」
体にまとわりついた雨粒をタオルで払い落していた弘毅が、頼子に気づいて笑顔を浮かべる。そのまぶしさにクラクラしながら、頼子は弘毅の荷物に手を伸ばした。
「持ちます」
「大丈夫だよ。それよりも、みんなの準備は大丈夫かな」
「弘毅が入っていけば、いつでもはじめられるわよ」
多美子が答えて、弘毅は「わかった」と受け止めた。
利用者たちは休憩室に集まって、雨の日のあたらしいレクリエーションがはじまるのを、いまかいまかと待っている。
「それじゃあ、すぐに行かないとね。待たせてしまって、申し訳ない」
「ちゃんと時間を言っていなかった、こちらが悪いんですから」
職員と多美子が先に立って、弘毅が続き、その後に頼子が並んだ。ドキドキしながら休憩室に入ると、利用者たちがざわめいた。
「はい、みなさん。今日は雨で散歩に出られませんので、絵を描くことにしましょう。先生は、みなさんもよく知っている多美子さんの息子さん、弘毅さんです」
よろしくお願いしますと弘毅が頭を下げると、パラパラと拍手が起こった。目をキラキラと輝かせた昌代の視線を感じて、頼子はぎこちない笑みを返す。
「弘毅くんは、絵が達者だったのか」
意外だと言いたげな声が上がった。
「ええ、まあ」
ひかえめに返事をしながら、弘毅は手にしていた大きな袋を開けた。取り出されたのはポスターサイズの風景画だった。それを見た利用者たちから感嘆の吐息がもれる。
「上手ねぇ」
「手先が器用だから、絵もうまいんだな」
そんな声があちこちから上がって、講師が弘毅であることに不満を持つものはいなさそうだと、頼子は胸をなでおろした。
「俺の実力はこのくらいです。見本で風景画を持ってきましたが、これからするのは絵ハガキです。いまからみなさんに、被写体となる野菜とクレヨンを配りますから、それで自分の思うように描いてください」
その声を合図に、頼子は従業員たちとともに、テーブルひとつにつき、野菜をふたつとクレヨン、はがきを配ってまわった。
「絵ハガキなら、水彩じゃないのか」
「今日は、とりあえずクレヨンでお願いします。クレヨンでも、すばらしい絵が描けるんですよ」
だれもが弘毅の人柄を知っているからか、それ以上の質問は出なかった。口の中でブツブツ言っている人もいるにはいるが、それぞれが被写体の野菜をじっと見て、どう描こうかと考えている。その中を弘毅はゆっくりと歩いて、頼子は昌代や千代のいる担当のテーブルに落ち着いた。
「頼子ちゃんの王子様は、弘毅くんだったのねぇ。なんとなく、そんな気はしていたんだけど」
やっぱりねぇと小声で漏らす昌代は、とてもたのしそうだった。
「じつはね。私たち、多美子さんに相談をしていたのよ」
コソコソと告白されて、頼子は知らないふりでおどろいた。
「そうだったんですか」
「そうそう。そうしたらね、問題はもう解決していますって、はっきりと言われたのよ。それで、やっぱりそうだったのねってピンときたわ」
「問題は解決ってことは、王子様と結ばれたのかしら」
少女めいた好奇心を含んだ千代の問いに、あいまいな笑顔を浮かべた頼子は弘毅を見た。茄子ときゅうりの置かれたテーブルで、弘毅はなにやら質問を受けている。やわらかな表情で年配男性と接している弘毅の姿に、頼子はうっとりと見惚れた。
「王子様って言われたら、なるほどなぁって思えるわねぇ。物腰がやわらかくて、いい子だものね、弘毅くん。男前だし」
「よかったわね、頼子ちゃん」
「えへへ……ええ、まあ。その、おふたりのおかげというか、いろいろと心配をおかけしました」
「いいのよ。私たちも、たのしかったって言ったら不謹慎かしら」
「いえ、そんな。相談ができる人はいませんでしたし、昌代さんのあのひと言があったから、きっかけができたっていうか、なんというか」
(そのせいで、いろいろと迷走もしちゃったけど。あれがなかったら、きっとあこがれと恋の間で、ずっとグズグズしていた気がするし)
「ありがとうございました」
「あらあら。それじゃあ、私は恋の橋渡し役ってことかしら?」
ちょっぴり得意げに、昌代が頬を持ち上げた。
「千代さんも。千代さんのおかげで、なんていうか、こちらに来てから心が軽くなったっていうか、なんていうか。頼っていいんだって、情けなくてもいいんだって思えて、勇気が出ました。ありがとうございます」
「なんだか、お別れのあいさつみたいね」
しんみりとした千代に、頼子はあわてて「これからも、よろしくお願いします」とつけくわえた。
「ほら、おしゃべりばっかりしていないで、絵を描きましょう」
「あらあら、そうだったわ。いまは絵を描く時間だったわね」
ふたりがクレヨンに手を伸ばして、被写体を真剣にながめる。このテーブルに配られたのは、トマトときゅうりだった。
クレヨンを手にすると昌代はすぐに描きはじめたが、千代はどのくらいの大きさで、どんなふうに描こうかと悩んでいる。ふたりの性格がよくわかるなぁと、ほほえましくながめる頼子の耳に、ときどきかすかに指導する弘毅の声が届いた。雨の音に交じるくらい、かすかなその声に耳をかたむけながら、頼子はひさしぶりに気持ちをくつろげている自分に気づいた。
(こういう時間って、すてきだなぁ)
ゆったりと流れていく時間が、とても心地いい。都会のせわしない空気の中で、よく過ごしていられたなと振り返る。人の意見や評価を気にして、それに沿うように気をつけながら生活していた。それでも思わぬところから嫉妬をされて、ちいさな嫌悪を向けられて、萎縮して、ますますいやな思いをするようになって、そして耐えきれなくなって逃げてきた。
(こんなに心がのびのびとできる場所に慣れたら、もう戻れなくなっちゃうなぁ)
はた、と頼子は気がついた。
(そういえば私、いつまでおばさんのところに置いてもらえるんだろう)
母親には「とりあえず田舎に行って、のんびり働いていらっしゃい」と言われた。とりあえず、は、どのくらいで、のんびり、は、いつまでなのか。
(施設の手伝いって言っても、ほとんどボランティアみたいなものだし)
給料はもらえるが、手伝い費という名目で、正式な職員として雇われているわけではない。それを全額、自分のものにするわけにはいかない。半分くらい……いや、もうすこし多めに、多美子に居候代として支払うつもりでいた。
とりあえず現状は、それで生活をしていける。けれどその後は――?
(ここでは、就職のアテなんてなさそうだし)
アルバイトでもいい、なんてことは通用しない。なんせ店がほとんどないのだから。よしんばバイトの口が見つかったとしても、出勤のために車かバイクが必要となる。頼子は免許を持っていなかった。実家周辺は交通の便がいいから、必要ないと取得をしなかった。通勤のために免許を取るか、だれかに送り迎えをしてもらわなければいけなくなる。
(どうしよう)
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(いつまで、私はここにいていいのかな)
せっかく弘毅と両想いになれたのに、いずれは遠距離恋愛になってしまうのか。
(もういっそ、弘毅さんと結婚をしちゃえば)
ぼんやりと浮かんだ考えに、頼子は自分でビックリした。
(結婚だなんて、ちょっと、いきなりすぎる)
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軽い気持ちで弘毅に迫ったわけではない。昌代はそれで結婚ができたのだと聞いたから、頼子は実行に踏み切ったのだ。最終的に結婚ができればいいなとは思うが、互いの気持ちを告白しあってから、というか、再会してから計算しても一か月と経っていない。
(それで結婚を切り出すなんて、いくらなんでもはやすぎる)
世の中には、ひと目ぼれをしてそのままゴールインをする人もいるらしいが、物語の出来事くらい現実味がない。
(でも、じゃあ、婚約……?)
それにしたって、はやすぎる気がしないでもない。頼子としては、まったくもって問題がないどころか大歓迎なのだが、弘毅はどう考えているのか。それに、多美子の気持ちのこともある。
昌代と千代が相談をしたと言っていたが、まさか自分が弘毅と恋人になりたがっている、なんて話は出ていないはずだ。だってふたりは、頼子の想い人がだれなのかを、さっき知ったばかりなのだから。ふたりに多美子が「解決をした」と言ったのは、弘毅となにかケンカをしたと思っていることについてで、それ以上でもそれ以下でもない。
多美子はふたりがつき合っていることを知らない。まずはそこから伝えなければならなかった。
(私のことをかわいがってくれているから、大丈夫そうだけど)
いざ現実味を帯びたものとなってくると、自信は不安に崩されていく。
(まずは、おばさんにつき合っていることを報告してから……だよね)
弘毅がなにか話している様子はないし、多美子の態度はすこしも変わっていないから、きっと知らないはず。
(タイミングを見て、おばさんに報告をしたほうがいいよね)
それとも、しばらくは内緒でつき合うほうがいいのだろうか。つき合っていますと報告をするのは勇気というか、覚悟がいる。
(あとで、弘毅さんと相談したいな)
目を上げた頼子は、遠いテーブルで利用者と会話している弘毅の姿にキュンとなった。
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