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14.王子様の気持ちはどこに?

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 帰宅してすぐに、頼子は弘毅の部屋へ向かった。決意に肩をそびやかして階段を上る頼子の背中を、多美子が心配げな微笑を浮かべて見守っている。それに気づかないまま、頼子は弘毅の部屋の前に立ち、深呼吸をして右手を上げるとノックした。

「あの、弘毅さん」

 返事はない。外から部屋に明かりがついているのを確認したから、いるはずだ。電気を着けたまま眠っているのだろうかと思っていると、返事があった。開けていいものか迷い、謝罪は顔を合わせてしなくちゃと腹を決めて襖を開ける。

「ごめんなさいっ!」

 開けた勢いのまま頭を下げて、くじける前にとまくしたてる。

「私、嫉妬して……女の子に嫉妬して、それであんなことをして。ぜんぜん、ポスターは悪くないのに、私の身勝手で傷つけてしまってごめんなさい。もう、あんなことはしません。ほんとに……っ、ごめんなさい!」

 言い終わって顔を上げると、面食らっている弘毅がいた。美少女ポスターは変わらずおなじ場所で、はなやかな笑顔を振りまいている。それを見ると喉の奥にこみ上げるものがあった。イスから立ち上がりかけた弘毅にふたたび頭を下げた頼子は、ごめんなさいと叫びながら襖を閉めて、階段を駆け下りた。そのまま台所に入り、グラスに水を入れてグウッと一気に飲み干す。

「すごい勢いだったわねぇ」

 缶ビールを飲んでいた多美子に言われて、はじめて彼女がいることに気づいた頼子は気まずい笑顔を浮かべた。座りなさいと手振りで示されて、多美子の向かいに腰かける。

「朝から妙だと思っていたけど、なにがあったの」

「ポスター、傷つけちゃったんです」

「ポスター? ああ、あの弘毅の部屋に飾ってある、あれね」

 はい、と息で答えてうなだれた頼子の頭を、多美子が腕を伸ばしてなぐさめる。

「ちゃんとあやまれたんだから、弘毅は怒っていないわよ」

「でも、私、ほんとに自分勝手なワガママで、あんなことをしちゃったから。きっと弘毅さん、あきれていると思います」

「どんなやりとりをして、そういうことになったのかは知らないけど。そんなことで、あきれるような器のちいさい男じゃないわよ。私の息子は」

「弘毅さんがやさしい人だっていうのは、わかっています。だけど、大事なものを傷つけられたら、だれだっていやじゃないですか。自分が一生懸命、描いたものだったら余計に。それを、私――ひどいことしちゃって」

「まあ、弘毅はあれで生活をしているからねぇ」

 多美子の言葉が、サクッと頼子の心に刺さった。大切な母親の傍にいるために、弘毅はイラストを仕事にすると決めた。スカウトだったとはいえ、そうなれるだけの技術を身に着けてきた。その成果で生まれた作品を否定されたら、いくら温和な弘毅であっても腹を立てて当然だ。

(私は、それだけひどいことをしちゃったんだから)

 暗い気配に包まれた頼子を、多美子はため息をつきながらなぐさめた。

「とりあえず、ごめんなさいできたんだから、大丈夫よ。お風呂に入っておいで」

「……はい」

 フラリと立ち上がった頼子は、トボトボと浴室に向かった。

「どうしたものかしらねぇ」

 どこかたのしげな多美子のつぶやきは、頼子の耳には届かなかった。


 謝罪はしたものの弘毅の返事を聞くのが怖くて、頼子はなるべく顔を合わせないようにしながら出勤した。

 心配そうな視線をくれる昌代と千代には、謝罪しましたと短く報告するだけで、その話題はしたくないと気配で示した。

(働きに来ているのに、人生相談してもらうなんて違うよね)

 気持ちを切り替えてしっかりと働かなくちゃと、頼子は掃除をしたり利用者の手助けをしたりして過ごした。

 外出散歩では千代とふたりになったが、あたりさわりのない会話をするだけで、弘毅のことには触れなかった。千代が気にしてくれていることはわかったが、謝罪をした以上に報告するべきものがない。

(返事を聞かずに、逃げちゃったし)

 あのときの弘毅の顔を思い出して、怒ってはいなさそうだったなと、不安に震える心をなだめる。かといって、もういいよと許されても気持ちがおさまらないだろう。

(ほんと、身勝手な行動だったもんなぁ)

 あんなことをする相手を、弘毅が好きになってくれるはずがない。自分の幼さに落ち込む頼子が利用者たちを見送って、後片づけをしていると職員のひとりに声をかけられた。

「頼子ちゃんって、絵を描ける人?」

「え?」

「そう、絵。雨の日って、することがないでしょう。人手が足りないから、そうそういつも、レクリエーションができるわけじゃないし。そんなときに絵葉書とかができたら、たのしいんじゃないかと思って」

「はぁ」

「絵具とかクレヨンとか、なんでもいいのよ。手先を使うことって、ボケ防止にもつながるし、季節のものを描くとか、情緒的にもいいと思うのよね。それにちょっと、詩というか、俳句みたいなものを添えたら、なんて考えたんだけど、だれも教えられる人がいなくって。頼子ちゃん、できる?」

「いえ、私は。学校の美術の授業でやったくらいで、短大では美術はなかったですし」

「それでも、私たちよりは最近の話よね」

「教えられるほどじゃないですよ。道具を渡せば、みんな好きにするんじゃないですかね。だって、みなさん、とっても器用ですし」

「そう? でも、先生がいるほうがいいと思うのよねぇ。張り合いが出るっていうか、なんていうか。だれかに質問ができると安心もするじゃない。わからないところを聞けるって、向上心も湧くっていうか」

「利用者さんのなかで、だれかそういう人はいないんですか。ほら、みんなで教えあったら」

 女性利用者同士が、料理についてあれこれ教えあっている姿を見たことがある。そんなふうにできるんじゃないかと頼子は思ったのだが、ダメダメと苦笑交じりに却下された。

「そういうのって、なかなか難しいのよ。教えるのに向いている人と向いていない人もいるから。なんというか、それぞれのレベルに合わせて絵を描いて、質問したいときに聞くとか、教える側が気づいたことを、さりげなく助言するとか。そういう感じがいいのよねぇ」

 公文みたいなものかと、頼子は想像した。

「そうなると、利用者さんに頼んだら、なんていうか……微妙な空気になりそうじゃない?」

 たしかに、と頼子は納得する。利用者の中で先生が出ると、その人が気にしていなくても
周囲が「先生」という扱いをしてしまったら、微妙な距離ができる可能性がある。その反に、教える側が「先生」という認識を持ってしまって、自分から輪に入りづらくなってしまう場合も考えられた。

「だから、教える側は施設の人間がいいんだけど……施設の人じゃなくっても、だれか絵の上手な知り合い、いないかしら」

 瞬時に弘毅を浮かべた頼子の表情が、目ざとく読まれた。

「あるのね」

「いえ。私、もとからここに住んでいるわけじゃなくって。だから、知り合いもほとんどいなくて」

 あわてて否定すると、そうよねぇと困った顔をされた。

「それなら、うちの息子はどうかしら」

 ふいに、ふたりとは別の声が会話に混じった。

「おばさん」

「あらっ。多美子さんの息子さん? 美術の先生の資格でも持ってるの」

「絵で仕事をしているのよ」

「あらぁ、画家さんなの?」

 職員の目が輝く。頼子はハラハラした。

(ぜったい、勘違いしてる)

 美少女の絵を描いていると知ったら、落胆しそうだ。どうして多美子が弘毅のことを言い出したのか、頼子にはわからなかった。

「まあ、画家といえば画家かしら。イラストレーターっていうのよ。いまほら、クールジャパンとか、そういうので人気でしょう?」

「クールジャパン? ああ、漫画とかなんか、そういうのねぇ。ええと……多美子さんの息子さんは、そういう、オタク……なのかしら」

「まあ、オタクといえばオタクかもしれないわねぇ」

「ぜんぜん、そうは見えなかったけど」

 職員の顔が、畑を荒らす害獣を見つけたような顔になる。ヒヤヒヤしながら、頼子は多美子の表情をうかがった。すこしも気分を害した風もなく、堂々としている。

「それで生計を立てているから、絵の講師にしては、うってつけじゃないかしら。あちこち手伝いに行っているから、みなさんも弘毅のことは知っているし。あの子なら、角が立つようなことはしないでしょう」

「それは、まあ、そうねぇ。弘毅くんはやさしいし、人好きがするっていうか、悪い話は聞かないしねぇ」

 そう言いながらも、職員の顔には嫌悪が見え隠れしている。多美子は平気な顔で「それじゃあ、そういうことで話を進めていいかしら」と言った。

「そうね。ほかに頼めそうな人が思いつかないし。でも……大丈夫なの? 漫画の絵と、絵葉書の絵は違うわよ」

「大丈夫よ。デッサンはきちんとしているから。仮にもプロとして、お金を稼いでいるんだもの。素人とは違うわよ」

 心なしか胸を張り気味にしている多美子に、職員は「それじゃあ、お願いね」と乗り気ではない顔で言って背を向けた。

「いいんですか、おばさん」

「なにが?」

「弘毅さんに相談もなしに、勝手に決めちゃって」

「畑仕事の手伝いとか、そういう感覚でやってくれればいいからって言えば大丈夫よ。毎日やってほしいってわけじゃないんだし。さ、帰りましょ」

 でも、と多美子の背中に言いかけて、頼子は口をつぐんだ。

(漫画なんてって思っちゃう人、すくなくないんじゃないかな)

 さきほどの職員の表情を思い出して、胸がきしむ。好きな人の仕事に対して、自分もあんな顔をしていたのかと肌が冷えた。

(私……弘毅さんを好きになる資格なんて、持っていなかったんだ)

 それなのに振り向いてほしいと願ってしまった。だから、弘毅の大切なものに爪を立てることになった。

 暗い気持ちになりながら助手席に収まった頼子を、多美子はチラリと横目で見てから車を発進させた。

「帰ったら、弘毅にこのこと説明しといてね」

「えっ? なんでですか。受けたの、おばさんですよね」

「昨日の返事、聞いてないんでしょ」

「昨日のって」

「ごめんなさいってした後の、弘毅の返事よ」

「あ……ええと」

「謝罪の返答はちゃんと聞いておかないとね」

「う……」

 身を縮めた頼子は、グシャグシャと乱暴に髪を撫でられてうつむいた。

「説明、頼んだわよ」

 力強い声に後押しされて、逃げちゃいけないんだと頼子はギュッと目を閉じた。
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