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5.気遣いが過ぎる王子様

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(顔、サイテー)

 まぶたが腫れぼったく、顔がむくんでいる。昨日、子どもみたいに泣いたからだ。後悔をするとか、そんなレベルではない失敗だったのだと、頼子は深く重いため息をこぼして顔を洗った。

(だれとも会いたくないなぁ)

 仮病を使おうかと考えたが、居候の身分なのでそういうわけにもいかない。なにより残っていたら弘毅とひとつ屋根の下、ふたりきりになってしまう。

(それよりも、施設でおばあちゃんたちと過ごす方が、気が紛れていいよね)

 萎えそうになる気持ちを支えて台所に行くと、多美子が朝食を食べていた。

「おはようございます」

「おはよう、頼子ちゃん」

 コンロにかかっている鍋から味噌汁をよそい、ご飯を茶碗に入れてテーブルに置く。おかずは昨日、施設の従業員からいただいた、野菜の煮びたしだ。

(ここに来てから、すごく食事がヘルシーっていうか、和食中心になったなぁ)

 パンやパスタを食べる機会がほとんどない。だからといって、物足りないとは感じない。

(むしろ、落ち着く)

 出汁の染みた野菜を咀嚼し、ほっこりとまるみのある味噌汁に目を細め、ご飯を食べる。よく噛むと、ご飯はほんのりとした甘味があった。

(こういう食生活をしていたら、勝手にダイエットになりそう)

 そして朝からこんなにゆっくり時間をとれるなんて、いままでの生活からは信じられない。

 一秒の長さは変わらないのに、時間の流れがとてもゆったりとしているのは、どうしてだろう。

「あ」

 足跡が聞こえて、ぼんやりしたまま顔を向けると弘毅の背中があった。勝手口から外に出ようとしている。

「あら、弘毅。朝ごはんは?」

「塚本さんのところで食べる」

 振り向きもせずに出て行ったので、表情はわからなかった。

「急ぎの用事でも、あるのかしら」

 食後のお茶をすすった多美子に、頼子は申し訳なく思った。

(私のせいだ)

 昨夜のことがあるから、顔を合わせたくないのだ。自分だって、どんな顔をして弘毅と会えばいいのかわからない。

 ホッとしつつも避けられたことに沈んでいると、目の前に湯呑が置かれた。

「なにか、あった?」

「えっ」

「暗い顔、しているから」

「なんでもないです。その……ええと、そうそう。あれですよ、あれ。ホームシックみたいなものっていうか、なんていうか」

「ふうん。まあ、都会からこっちに来たら、なんにもなくって飽きちゃうかぁ」

「飽きるっていうか、なんだか慣れないっていうか」

 気を悪くさせちゃったかなと、頼子は心配した。

「わかるわぁ。はじめは知らないこと、不慣れなことばっかりで、それに一生懸命だからいいけれど、落ち着いたら色々と気づくのよねぇ」

 しみじみと多美子が頬杖をつく。両手で湯呑を包んだ頼子は、いままでの生活を振り返った。

(欲しいものはすぐに買いに行けたし、夜中でもコンビニは空いていたし)

 終電を逃しても、居酒屋やカラオケで始発までの時間がつぶせた。そうして遊ぶのが当たり前で、学生時代は寝不足で学校に行くのが、ステータスのひとつみたいになっていた。季節の変わり目、バーゲンに走り流行の色やデザインを求めた。化粧だって季節の色を意識して、かわいい小物があればチェックした。おしゃれなカフェでランチをして、SNSにアップするのは、はたしてなんのためだったんだろう。自分がひとりぼっちじゃないと、アピールするためだったのか。

(わからない)

 時間が、ものすごいスピードで流れていた。その中にもまれて生活していた。けれどそれを、窮屈だとも息苦しいとも、目まぐるしいとさえも思わなかった。そういうものだと受け入れていた。

(ここに来てから、ファッション誌とかチェックしなくなったなぁ)

 持ってきた服も、地味なものばかりだ。田舎だから、そういう服装がいいはずと選んだものたち。種類はそれほど多くなく、着まわしているが気にならない。前もあの服、着ていたよねと言われるんじゃないか。なんて不安は、かけらもない。

(あ、そっか)

 情報があふれかえっていて、どんどん流れて変化していく。それに逆らって泳いで、必要なものを掴まなければ流される。まわりに遅れないようにと必死になっていたから、時間が足りないと感じていたのだ。次々に訪れる波に乗らなければと、神経を研ぎ澄ませて友人たちの反応を確認し、そこからはみ出ないように注意していた。

 無理をしていたつもりはない。たのしかったし、充実していた。

(でも――)

 ここには違った充足がある。なんというか、丁寧に時間を過ごしている気がする。

(いままで、雑に生きてきたわけじゃないけど)

 質そのものが違っている。

(都会からすれば、すごく不便だし、なんにもないけど)

 だからこそ、あるもの。それがなんなのか、具体的に言ってくれと言われると困るが、都会が当たり前の頼子からすれば、ここは都会にないものがたくさんある。

(多美子さんは、そういうものに惹かれて、ここに移住したのかな)

「不便だなって、思うことはないんですか?」

「ん?」

「都会から、ここに移住してきて、困ったこととか色々、なかったですか」

 そうねぇと多美子は視線を右上にむけた。

「たくさん、あったわねぇ」

「それで、都会に戻りたいとか思わなかったんですか」

「思ったこともあったわよ。病院が遠いってことが、いちばん困ったかな。車で三十分ちょっとかかるんだもん。大きな病気やケガをしたら、怖いわよね」

 なるほどと頼子が首を動かすと、ほかにもと多美子が続ける。

「コンビニがないのは、下見をしたときにわかっていたから大丈夫。お店もすくないけれど、車でちょっと行けば商店街があるし。もっと先に行けば道の駅があって、ショッピングモールは一時間くらいかかるけど、服とかいろいろ売っているし、映画館もあるし飲食店も入っている。だから、べつにかまわないかなって思ったのよね」

 物憂げな息を吐いた多美子の苦笑に、頼子はなんとなく背筋を伸ばした。

「でも、実際に住んでみて甘かったなぁって。なにより弘毅には、いっぱい苦労をさせちゃった」

「弘毅さんに、ですか」

「うん。美里は大学生で、ひとり暮らしをしていたから実質的な日常の変化はなかったと思うの。帰省をするのがここになるから、心情的ななにかはあっただろうけど。でも、弘毅は高校受験前で、いままでなら家から通える場所でいくつか候補を選べたけど、ここから通える範囲の高校って、ひとつしかないのよね。ほかを受験するとなると、ひとり暮らしか寮のある学校になる」

 頼子が相づちを打つと、多美子はなつかしく済まなそうに湯呑をいじった。

「あの子、私に気を使ったんでしょうね。ここから通える高校を受験するって言って、そうしてくれたの。正直言うと、ここにひとり残されたら、どうしようって怖かったからうれしかった。だけど、そのせいであの子は自分の望む高校には行けなかった。大学も、家から通える場所にしてくれてね。大学なんて、どこを出てもおなじだからって」

 おなじなわけないのにね、とつぶやく多美子はさみしそうだった。

(弘毅さんらしい……って言ったら、怒られるかな)

 だけど、そう感じる。弱っている母親を、彼は置いていけなかったのだ。自らを犠牲にして、というのではない。ただ自分がそうしたかったから、その進路を選んだ。良くも悪くもやさしすぎるのだと、頼子の胸はキュッと苦しくなった。熱い気持ちが、絞られた心からあふれ出て、この場にはいない弘毅へと流れていく。

(なんだろう、この感覚)

 いままでの、あこがれ混じりの恋心とは、わずかに違う想いの揺れがある。

「あの子がもっと、わがままになってくれたらいいんだけどね」

 軽く笑い飛ばした多美子の目の奥に、悔恨が青白く光っている。

「こんなふうに思っているって知ったら、あの子に怒られそうだわ」

「そうですよ!」

 勢いよく否定した頼子は、そのまま立ち上がって手を伸ばし、多美子の手を握った。

「弘毅さんは、自分がしたいと思ったことをしたんです。おばさんが大切だから、守りたい。そのためにできることを考えて、選んだだけですよ」

「ありがとう、頼子ちゃん。でもね、時々ふっと考えてしまうのよ。偏差値の高い高校に行って、大学に進んで。そうすれば、こんな田舎に埋もれることなく、いまごろはサラリーマンとして生き生きと過ごしていたんじゃないかなって」

「いまでも弘毅さんは、生き生きしていると思います」

 握った手にグッと力を入れて、頼子は前にのめった。

「いい大学に行ったって、いい会社に就職できるとは限らないです。そもそも、いい会社ってなんですか。世間的に認められているところですか。それって変じゃないですか。私、いっぱいいっぱい就職活動して、なんとかひとつだけ内定もらって、それで働いていましたけど、人間関係がダメで。それで、会社を辞めておばさんのところにきて、ボランティアみたいなアルバイトして……って言っても、そんなに役に立ててないですけど。でもいま、会社にいたときよりも、ずっとたのしいです。おしゃれなカフェもアパレルの店も、コンビニだってないですけど。でも私、ここを、こんな田舎だなんて思ってないです」

「……頼子ちゃん」

「あっ。す、すみません。ほら、おばさん。そろそろ行かないと遅刻しちゃいますよ」

 パッと手を離した頼子は、自分と多美子の食器をシンクに置いて「カバンを取ってきます」と、せわしなく階段を上がった。

(おせっかいなこと、しちゃったかな)

 部屋に入ってカバンを肩にかけながら、振り返る。

(でも、こんな田舎って言い方は……ここで暮らしている人たちに失礼だし。なにより、弘毅さんのやさしい決断でおばさんが苦しむなんて、すごくいや)

 だけど、やさしさが相手を傷つけることもあるんだと、頼子は柔和な弘毅の笑みを罪深く感じた。

(そんな弘毅さんだから、好きになったんだけど)

 支えたいという欲求が、ふいに兆した。振り返れば、会えなくなってからも頼子は何度も、弘毅の笑顔に助けられてきた。つらいときに、弘毅の笑みを思い出しては自分を奮い立たせていた。理不尽な扱いを受けたときは、思い出のなかの弘毅のやさしさに支えられた。適当に扱われて当然の存在じゃないと、自分を大切にできたのは、弘毅のおかげだ。

(ずっとずっと、弘毅さんは見えないところで私を支えてくれていた)

 一方的な想いだとは自覚している。アイドルに勇気をもらっている人と、変わりないとも思っている。だけど弘毅は、あこがれの王子様ではなく、生身の男として頼子の目の前に戻ってきた。――正確に言えば、頼子が弘毅のいる場所に来たのだが。

(弘毅さんはきっと、だれかのために生き続ける。本人はそれでいいって、それがしたいことだって考えているんだろうけど)

 多美子の悲しげな笑みは、弘毅を案じてのものだ。

(私になにができるかわからないけど、弘毅さんを支える人になりたい)

 そこまで自分を過大評価しているわけではない。ただ、助けてもらったぶんを彼に返したいだけだ。そして、そのために彼の恋人になりたい。

(恋は下心なんですよね、昌代さん)

 昨日の行為は不発どころか最悪の結果につながりそうな気配があるが、それでもどこかに希望は残っているはずだと、頼子は無理やり自分を納得させようとした。

(だって、途中でやめろって遮られたりしなかったし)

 弘毅のものが口の中ではじけるまで、抵抗はされなかった。それはつまり、弘毅はアレを本気でいやがっていたわけではない。

 半ば強引に結論づけた頼子は、階段を下りて玄関に向かった。

(人生の、恋愛の大先輩に相談してみよう)

 なにかいい知恵をもらえるかもしれない。

(とんでもない提案を、されるかもしれないけど)

 車の運転席にはすでに、多美子が乗って待っていた。
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