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暴れる俺を押さえつけようとしていたオシロを、里見さんが引きはがしてくれたおかげで事なきを得た。
とんでもない悲鳴が聞こえて、あわてて助けに来てくれたらしい。ホッとした俺はそのまま気を失って、教室に来ていた子どもたちが大騒ぎをして、字の練習どころじゃなくなったそうだ。まあ、ネコの絶叫が聞こえたら、そうなるだろうな。
俺を抱えた里見さんを見た子どもたちは、興味津々な顔で矢継ぎ早に質問をしたらしい。里見さんはネコ同士のケンカだったと説明をして、相手がいやがることはしてはいけませんと子どもたちに伝えて、俺を抱いたまま習字の指導をしたそうだ。
気を失っていたから、実際はどうだったのかは知らないけれど。
心底うらめしそうにオシロが教えてくれたから、おそらくウソではないだろう。
「あれから、仁志は俺様にひとことも口を利きやがらねぇ」
不機嫌にこぼされても、自業自得なんだからなぐさめようがない。というか、被害者の俺にグチるっておかしいだろう。
里見さんはあれ以来、なるべく俺から目を離さないようになってしまった。習字教室のときは俺を抱くか膝に乗せているし、料理をするときも俺がイスにいるかどうかを気にしながら調理をしている。買い物のときには俺をカバンに入れて行くし、風呂のときは恥ずかしくて目のやり場に困るけれど連れていかれる。
俺が逃げた理由は、里見さんの体調を気にした俺が、申し訳なくなりすぎて出て行ったってことになった。もとはそのとおりだから、里見さんはそれを素直に受け入れて「気にしなくてもいいんですよ」と言ってくれた。そう言われても、気になるものは気になるんだからしかたない。
俺の意思が固いと知って、里見さんは残念そうにしながらも、ネコでも食べられるレシピサイトを検索して、俺のために特別メニューを作ってくれた。かなり薄味だけれど、とてもおいしいそれはオシロのぶんも作られた。腹を立てて口を利かなくなっていても、きちんと食事は作るなんて、けなげというかなんというか。オシロは里見さんを「お人好し」だと言った。
里見さんは自分をあまり大事にしていない気がする。子ども時代の体験が原因なんだろう。だから怒っていても、オシロのぶんまでちゃんとご飯を作るんだ。俺のをつくるついでって理由もあるかもしれないけれど。それでも、なんだかんだでオシロの世話をちゃんとしている。飼いネコじゃなく化けネコだから、放置しても適当に過ごしていそうなのに。
そんな里見さんのやさしさに、当然のように甘えているオシロが、ちょっとムカつく。
(俺だって、口を利いていないからおあいこだろ)
「おまえは無視されちゃいねぇだろうが」
(食事を出されている時点で、オシロも無視なんてされてないだろ)
フンッと機嫌悪くオシロが鼻を鳴らす。
「あいつがいままで、俺様を敵みてぇに見るなんざなかったんだよ」
ぜんぶ俺のせいだと言いたげな目でにらまれる。
(自業自得だろ)
いやがる俺を無理やり抱こうとしたんだから。――里見さんは、おまえのことが好きなのに。
「なんだ。急にしゅんとして」
(おまえには、わかんない理由だよ)
里見さんがオシロと口を利かないのは、嫉妬をしているからだ。人間の気持ちの機微なんて、ネコにはわからないんだな。
あれから里見さんは、オシロが俺に近づかないように気をつけていた。こうしてオシロと話をしているのは、里見さんが区民センターに行ったからだ。里見さんは俺を連れていくつもりだったみたいだけれど、さすがにそれはダメだろうと全身で断って納得をしてもらった。くれぐれもオシロに気をつけるようにと、何度も繰り返し言いながら出かけた里見さんの案じ顔を思い出すと、胸がくすぐったくなった。
たとえオシロへの嫉妬からでも、気にかけてもらえているのがうれしいなんて末期だ。相当に里見さんに惚れているんだなって、あらためて思い知らされた。
「ったく。ガンコなヤツだよな、裕太は」
(そう簡単に抱かれてたまるかよ。俺は男だぞ)
「それがどうした。人間はオス同士やメス同士だって、まぐわうだろうが」
さらっと言われておどろくと、キョトンとされた。
「最近は、そういうことは珍しくなっちまったのか?」
(昔は珍しくもなかったのかよ)
そんなことも知らないのかと言いたげに、オシロはわずかに口の端を持ち上げた。なんかムカつく。
(とにかく、俺はおまえに抱かれるつもりはないからな)
「人間としても生きていけるのにか? そうすりゃあ、ぜんぶうまくまわるじゃねぇか」
(うまくないって。そのためにいろんな相手とエロいことしなくちゃいけないとか、ありえないだろ)
「そうしていたヤツがいたって言ったじゃねぇか。さては裕太、モテないからムリだって心配してんのか? 引く手あまたとは思わねぇが、そう悪くもねぇから、相手が見つからないなんてこたぁ、なさそうだけどなぁ」
(そういう問題じゃない)
「どういう問題だよ」
(節操の問題だ)
「そんなもん、気にしなきゃいいだろう」
(気にするって。信用問題にもかかわるだろ。いろんな相手と交渉を持って、それが会社に知られたら大問題だ)
「うまくやりゃあいい」
(うまくできたとしても、いやなもんはいやなんだよ)
ふうんとオシロが鼻を鳴らす。ネコって、相手をコロコロ変える動物だっけ。それとも猫又だけが生きるために、そういう考えになっただけなのか。
「ったく。ワガママなヤツだな。どうするか、いいかげんに腹を決めろよ。休みの期限は、もうすぐなくなっちまうんだろ。まあ、俺様には関係ねぇけどな」
ふわぁとあくびをして、オシロは目を閉じた。いつもの座布団の上で、日差しを浴びてのんきに眠っているオシロがうらやましくて、うらめしい。
首を伸ばしてマンションを見上げる。里見さんに連れられて着替えを取りに行ってから、部屋には帰っていない。
ふと、部屋を見てみたくなった。なんとかあそこまで上がれないだろうか。
庭に下りて塀に登って、マンションの壁を見上げる。でこぼこした壁と雨どい。ベランダの柵と避難用はしごを使えば……いや、壁を超えれば外階段を登って上がれる。そこからベランダづたいに行けば、部屋には入れないけれど中は見られる。
よしっと決めて、外階段に飛び降りる。階段を上がって手すりに登って、ベランダの柵を通って俺の部屋のベランダに到達した。
ベランダの柵から縁側を見下ろす。さっきまでいた場所なのに、ひどく遠く感じられた。三週間ほど前までは、ここからあそこを見下ろしてビールを飲んで、うらやましがっていた。なにがうらやましいのか、具体的なことはなにもわからずに、ただ漠然と縁側で過ごしているオシロたちに、いいなぁとつぶやいていた。
いまはその理由がはっきりとわかっている。俺はさみしかったんだ。さみしかったくせに、なにもしてこなかった。したいとも思わなかったのに、さみしさだけを抱えていた。だからネコになりたかった。自分本位に好き勝手のんびり過ごして、ひとりでいることに誇りすら感じているみたいなネコに、あこがれに似た気持ちを抱えていた。
ネコになりたい。
あのとき、オシロを膝に乗せてつぶやいた瞬間は本気だった。だからオシロは俺をネコにした。俺はこうしてネコになって、よろこぶどころか戻せと言った。オシロからしたら、わけがわからないだろうな。
俺のせいで里見さんに口を利いてもらえなくなったオシロは、ちょっとかわいそうかもしれない。
ベランダの柵から下りて、部屋の中を見る。自分の部屋なのに、他人の住まいみたいに感じた。帰りたいなんて気持ちはすこしも湧かない。人間に戻って、この部屋に帰って、会社に行って、前の生活に戻る。
それよりも、いまの中途半端な状態で過ごしていたい。そうすれば里見さんといられるから。だけど、会社はどうする。辞表を書くか。里見さんの体調がしっかり戻るのを待って、精気を分けてもらってマンションを引き払って。
ちゃんと考えたら、いまのままで過ごす方法が見つかりそうだ。里見さんとオシロがいちゃつく姿を見るのはキツイけど、それを退ければ快適な日々が待っている。なにより、里見さんの傍にいられる。
ふたりの恋路の邪魔ものになるだろうけれど、はじめからすれ違っているのだから俺がいてもいなくても変わりはないよな。
その考えは、ずるいだろうか。
そんなことをつらつらと考えていると眠たくなってきて、俺は冷たいベランダの床にうずくまって、あくびをしてから目を閉じた。
とんでもない悲鳴が聞こえて、あわてて助けに来てくれたらしい。ホッとした俺はそのまま気を失って、教室に来ていた子どもたちが大騒ぎをして、字の練習どころじゃなくなったそうだ。まあ、ネコの絶叫が聞こえたら、そうなるだろうな。
俺を抱えた里見さんを見た子どもたちは、興味津々な顔で矢継ぎ早に質問をしたらしい。里見さんはネコ同士のケンカだったと説明をして、相手がいやがることはしてはいけませんと子どもたちに伝えて、俺を抱いたまま習字の指導をしたそうだ。
気を失っていたから、実際はどうだったのかは知らないけれど。
心底うらめしそうにオシロが教えてくれたから、おそらくウソではないだろう。
「あれから、仁志は俺様にひとことも口を利きやがらねぇ」
不機嫌にこぼされても、自業自得なんだからなぐさめようがない。というか、被害者の俺にグチるっておかしいだろう。
里見さんはあれ以来、なるべく俺から目を離さないようになってしまった。習字教室のときは俺を抱くか膝に乗せているし、料理をするときも俺がイスにいるかどうかを気にしながら調理をしている。買い物のときには俺をカバンに入れて行くし、風呂のときは恥ずかしくて目のやり場に困るけれど連れていかれる。
俺が逃げた理由は、里見さんの体調を気にした俺が、申し訳なくなりすぎて出て行ったってことになった。もとはそのとおりだから、里見さんはそれを素直に受け入れて「気にしなくてもいいんですよ」と言ってくれた。そう言われても、気になるものは気になるんだからしかたない。
俺の意思が固いと知って、里見さんは残念そうにしながらも、ネコでも食べられるレシピサイトを検索して、俺のために特別メニューを作ってくれた。かなり薄味だけれど、とてもおいしいそれはオシロのぶんも作られた。腹を立てて口を利かなくなっていても、きちんと食事は作るなんて、けなげというかなんというか。オシロは里見さんを「お人好し」だと言った。
里見さんは自分をあまり大事にしていない気がする。子ども時代の体験が原因なんだろう。だから怒っていても、オシロのぶんまでちゃんとご飯を作るんだ。俺のをつくるついでって理由もあるかもしれないけれど。それでも、なんだかんだでオシロの世話をちゃんとしている。飼いネコじゃなく化けネコだから、放置しても適当に過ごしていそうなのに。
そんな里見さんのやさしさに、当然のように甘えているオシロが、ちょっとムカつく。
(俺だって、口を利いていないからおあいこだろ)
「おまえは無視されちゃいねぇだろうが」
(食事を出されている時点で、オシロも無視なんてされてないだろ)
フンッと機嫌悪くオシロが鼻を鳴らす。
「あいつがいままで、俺様を敵みてぇに見るなんざなかったんだよ」
ぜんぶ俺のせいだと言いたげな目でにらまれる。
(自業自得だろ)
いやがる俺を無理やり抱こうとしたんだから。――里見さんは、おまえのことが好きなのに。
「なんだ。急にしゅんとして」
(おまえには、わかんない理由だよ)
里見さんがオシロと口を利かないのは、嫉妬をしているからだ。人間の気持ちの機微なんて、ネコにはわからないんだな。
あれから里見さんは、オシロが俺に近づかないように気をつけていた。こうしてオシロと話をしているのは、里見さんが区民センターに行ったからだ。里見さんは俺を連れていくつもりだったみたいだけれど、さすがにそれはダメだろうと全身で断って納得をしてもらった。くれぐれもオシロに気をつけるようにと、何度も繰り返し言いながら出かけた里見さんの案じ顔を思い出すと、胸がくすぐったくなった。
たとえオシロへの嫉妬からでも、気にかけてもらえているのがうれしいなんて末期だ。相当に里見さんに惚れているんだなって、あらためて思い知らされた。
「ったく。ガンコなヤツだよな、裕太は」
(そう簡単に抱かれてたまるかよ。俺は男だぞ)
「それがどうした。人間はオス同士やメス同士だって、まぐわうだろうが」
さらっと言われておどろくと、キョトンとされた。
「最近は、そういうことは珍しくなっちまったのか?」
(昔は珍しくもなかったのかよ)
そんなことも知らないのかと言いたげに、オシロはわずかに口の端を持ち上げた。なんかムカつく。
(とにかく、俺はおまえに抱かれるつもりはないからな)
「人間としても生きていけるのにか? そうすりゃあ、ぜんぶうまくまわるじゃねぇか」
(うまくないって。そのためにいろんな相手とエロいことしなくちゃいけないとか、ありえないだろ)
「そうしていたヤツがいたって言ったじゃねぇか。さては裕太、モテないからムリだって心配してんのか? 引く手あまたとは思わねぇが、そう悪くもねぇから、相手が見つからないなんてこたぁ、なさそうだけどなぁ」
(そういう問題じゃない)
「どういう問題だよ」
(節操の問題だ)
「そんなもん、気にしなきゃいいだろう」
(気にするって。信用問題にもかかわるだろ。いろんな相手と交渉を持って、それが会社に知られたら大問題だ)
「うまくやりゃあいい」
(うまくできたとしても、いやなもんはいやなんだよ)
ふうんとオシロが鼻を鳴らす。ネコって、相手をコロコロ変える動物だっけ。それとも猫又だけが生きるために、そういう考えになっただけなのか。
「ったく。ワガママなヤツだな。どうするか、いいかげんに腹を決めろよ。休みの期限は、もうすぐなくなっちまうんだろ。まあ、俺様には関係ねぇけどな」
ふわぁとあくびをして、オシロは目を閉じた。いつもの座布団の上で、日差しを浴びてのんきに眠っているオシロがうらやましくて、うらめしい。
首を伸ばしてマンションを見上げる。里見さんに連れられて着替えを取りに行ってから、部屋には帰っていない。
ふと、部屋を見てみたくなった。なんとかあそこまで上がれないだろうか。
庭に下りて塀に登って、マンションの壁を見上げる。でこぼこした壁と雨どい。ベランダの柵と避難用はしごを使えば……いや、壁を超えれば外階段を登って上がれる。そこからベランダづたいに行けば、部屋には入れないけれど中は見られる。
よしっと決めて、外階段に飛び降りる。階段を上がって手すりに登って、ベランダの柵を通って俺の部屋のベランダに到達した。
ベランダの柵から縁側を見下ろす。さっきまでいた場所なのに、ひどく遠く感じられた。三週間ほど前までは、ここからあそこを見下ろしてビールを飲んで、うらやましがっていた。なにがうらやましいのか、具体的なことはなにもわからずに、ただ漠然と縁側で過ごしているオシロたちに、いいなぁとつぶやいていた。
いまはその理由がはっきりとわかっている。俺はさみしかったんだ。さみしかったくせに、なにもしてこなかった。したいとも思わなかったのに、さみしさだけを抱えていた。だからネコになりたかった。自分本位に好き勝手のんびり過ごして、ひとりでいることに誇りすら感じているみたいなネコに、あこがれに似た気持ちを抱えていた。
ネコになりたい。
あのとき、オシロを膝に乗せてつぶやいた瞬間は本気だった。だからオシロは俺をネコにした。俺はこうしてネコになって、よろこぶどころか戻せと言った。オシロからしたら、わけがわからないだろうな。
俺のせいで里見さんに口を利いてもらえなくなったオシロは、ちょっとかわいそうかもしれない。
ベランダの柵から下りて、部屋の中を見る。自分の部屋なのに、他人の住まいみたいに感じた。帰りたいなんて気持ちはすこしも湧かない。人間に戻って、この部屋に帰って、会社に行って、前の生活に戻る。
それよりも、いまの中途半端な状態で過ごしていたい。そうすれば里見さんといられるから。だけど、会社はどうする。辞表を書くか。里見さんの体調がしっかり戻るのを待って、精気を分けてもらってマンションを引き払って。
ちゃんと考えたら、いまのままで過ごす方法が見つかりそうだ。里見さんとオシロがいちゃつく姿を見るのはキツイけど、それを退ければ快適な日々が待っている。なにより、里見さんの傍にいられる。
ふたりの恋路の邪魔ものになるだろうけれど、はじめからすれ違っているのだから俺がいてもいなくても変わりはないよな。
その考えは、ずるいだろうか。
そんなことをつらつらと考えていると眠たくなってきて、俺は冷たいベランダの床にうずくまって、あくびをしてから目を閉じた。
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