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乙若
(私は、ああ……私はいままでなにをしてきたのか)
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「やあ、これはありがたい」
奥に向かって声を上げ、足をすすいで添えられていた手拭いで指の間まで丁寧に水気を取った。上がった先には囲炉裏があって、自在鉤にかけられている鍋からは空腹を刺激する香りが漂っていた。
食欲を刺激された乙若は、霧でわずかに湿った衣を乾かすべく囲炉裏の傍に腰を下ろすと鍋の中身を覗き見た。
目に入るのはキノコや山菜ばかりで、なまぐさが入っている様子はない。味噌を溶かしてある鍋の香気に鼻先をくすぐられて、乙若の口内に唾が湧いた。
足元に気配を感じて視線を落とすと、ひざ元に椀と箸が用意されていた。
(あやかしは私をもてなす気でいるらしい)
油断をしたところで取って食うつもりなのか、たださみしくて人の世話をしたいだけなのか。あるいは乙若が思いつきもしない理由で、もてなしてくれているのか。
そのころの乙若は相手をまず見て知ることを第一の信条としていた。それは相手が人であってもあやかしであっても変わらず、乙若は目に映らぬ誰かの出方をひたすら受けて意図をはかることに決めた。
「それでは遠慮なく、いただくことといたしましょう」
手首にかけていた数珠を指にからめて合唱し、椀を手にして鍋に添えられていた大きな匙でかき混ぜる。ひと掬いで椀はいっぱいになった。
いかにも熱そうな汁にふうふうと息をかけ、おそるおそる口をつける。ズッと吸い込むと味噌の奥にたっぷりとした滋味が隠れているのがわかった。野菜の甘味が味噌の辛みと相まって、体の隅々にまで染み渡る。
ほうっと恍惚の息を漏らした乙若は、箸で具材を探った。味の沁みた大根にかぶりつき、また汁をすする。箸先がやわらかなものに触れて、これはなにかと持ち上げてみると、トロトロの餅だった。
「やあ、これはこれは」
掬ったときには気づかなかったが、餅があるとはありがたい。強いて清貧を求めていたわけではない乙若だが、上等なのは薄がゆ程度で餅などは祝いの場をのぞいては、めったに口にできるものではなかった。
あやかしではなく、道祖神なのかもしれないと乙若は思う。
供え物の蓄えを、宿を求める人々に与えているのではないか。これも御仏のお導きなのだと、腹が膨れてあたたまった乙若は警戒をゆるめた。
空腹は人の心を貧しくする。
腹が膨れることは余裕の生まれること。人は食わねば生きていけない。それをこの屋の主は理解し、山で雨や霧に見舞われた人を招いているのだ。
そう結論づけた乙若は椀を置いて合唱し、姿の見えぬ屋の主に声をかけた。
「馳走にあずかり、ありがとう存じます。体もあたたまり、ひとごこちつきました」
返事はない。
(やみくもに道を歩くだけでは、よい思案は浮かばない。きっとこの屋に巡り合ったのも、御仏のお導き)
ありがたいことだと乙若はほほえみ、頭を下げた。すると奥の部屋にものの動く気配があった。立ち上がり覗いてみると、綿の入った敷物が広げられていた。その横には木綿の小袖が置いてある。
(ゆっくり眠り、休めということか)
おそるおそる近づいた乙若は敷物をなでた。手触りのいいそれに、砂ぼこりにまみれた体で横たわるのは気が引ける。その気持ちを察したのか、奥から乙若を呼ぶように、コトコトと音がした。
そちらに行くと裏庭に出て、そこには湯をたっぷりと張った大きな桶が置かれていた。手拭いと真新しい着物もある。
「やあ、気を遣わせてしまいましたな」
照れくさくなった乙若は禿頭を掻いた。これほどのもてなしを受けるのは、なんとも面映ゆい。しかし好意を無下にするのも悪いので、乙若はありがたく湯の馳走を受けることにした。
桶の脇には平たい大岩が置かれている。裸身になった乙若はそこに立ち、湯をかぶって手拭いで体を擦った。体を流し終えると大桶に身を沈め、細く長く息を吐く。
(あたりは霧に囲まれているというのに、見るべきものははっきりと目に映る。余計なものがそぎ落とされて、必要なものだけが現れる。これは、なんという功徳か)
全身の毛穴から凝り固まった余分なものが、溶け流れていく。知らぬ間に垢のごとくこびりついていた思想がほとびて浮かび、剥がれていく。
(なんと心地がいいのだろう)
己の身につけてきたもののなかから、余計なものだけが失せていく。それは人の世に生きるには必要なものでもあったが、それゆえに己の望みの核を見えなくさせていたものだった。
(この、霧のごときものが私の魂のまわりを漂っていたのだ)
湯につかりながら乙若は心の目を開く。実際の目は心地よい湯加減に、うとうとと閉じかけていた。体が弛緩していくのとおなじ速度で、乙若の心は冴えていく。
(私は……望みをかなえようとして、望みから離れていたのではないか)
政治に介入し、世の中を導こうとした。しかしそれでは乙若の望む世にはならなかった。人々が飢えることのないよう、誰もが幸福になれる世の中を乙若は欲した。生きるために人を屠る世などあってはならない。そう思い、しかし権力を手にしたものは栄華のために戦を望んだ。それから民を守るために武器を持つ領主がいて、またそれを奪うために武器を持つ人々が現れる。
その連鎖をどうにかしてなくしたいと望んだ乙若自身が、平和のための戦を引き起こしていた。直接的ではなくとも、新たな争いに関係していた。
それに気づいた乙若は、己の望みがわからなくなった。
どのようにすればいいのかを考えるために、あてどなく歩き回っていた。
(私は、私の救いを求めていたのか)
人を救う手立てをと望んでいたのではなく、己の迷いを救われたかった。ゆるゆると溶けていく、いままで積み上げてきたもろもろのことの内側に、単純で純粋なものが隠れていた。
フフッと乙若は軽やかな息を漏らす。
(私自身を救えぬまま、他者を救おうなどと……なんという驕った心を持っていたのだ)
ゆるゆると首を振って、湯で顔を洗う。
(いや)
そうではないと乙若は己の言葉を否定した。
(己が迷っているからこそ、他者の迷いを理解できるのではないか)
そしてそれこそが、わずかな救いにつながるのではと、乙若は湯を揺らしつつ考える。
迷いがあるからこそ、迷いに寄り添える。
それは乙若にとって新しい発見だった。
悟りを開くことで救われる。けれど誰もが悟りを手に入れられるわけではない。幼少のころ寺に預けられ、いっしんに精進をしてきた乙若だが、己はまだ悟りには程遠いと感じている。
人々の悩みは尽きることがない。しかしそれが“生きる”ことであると乙若は唐突に理解した。
(私は、思い違いをしていたのか)
解脱をすれば救われる。しかしそれは“人の生”ではなくなるのではないか。
(私が求めているものは、人の救いだ)
そしてそれは大きな悩みを解消したいわけではなく、ただ飢えをなくし安息の時間を得て、やわらかな闇に抱かれて眠りを得るという、基本的な幸福を世の中に広めたいというものだった。
(私は見当違いの悩みを抱え、望むものとは違う道をいつの間にか目指していたのか)
政治に介入するのは間違いではなかった。だが、それでは乙若の望みは叶えられなかった。
(ひとつの幸福を得るために、ひとつの不幸を生み出すのは本意ではなかった。戦のない、飢えることのない世を作りたかったのだ。――しかし権力や富がそれを阻んだ)
無形の望みに立ちはだかるのは、無形のものだった。
立ち上がった乙若は湯につかりすぎてふやけた指先を見つめ、物憂く息を落とした。体を拭い、真新しい衣に袖を通す。爽やかな感触とは裏腹に、乙若の心は沈んだ。
(こういう感覚を、誰もが得られる世は望めないのか)
ふらふらと部屋に戻った乙若は、贅沢なもてなしに心を痛めた。目の奥が膨らんで熱い涙となり、頬を伝い落ちる。
「私は……私は……どうすれば」
老齢となった己が残りの人生で、なにができるのか。
無力感に襲われて、乙若は泣きむせんだ。
これまでの人生は無駄だったのではないか。さまざまな人を知り、さまざまな人生を見て、千差万別な価値観に触れてきた。好悪は別として、おびただしい考え方や捉え方を受け止めてきた。だが、それだけだった。
(なにひとつとして、私は救えていなかったのだ)
政治を変えようと働きかけはしたが、それは権力を持つものにいいように解釈されて終わった。憤り、別の誰かにそれを訴え、その結果として新たな争いが起こった。
(私は、ああ……私はいままでなにをしてきたのか)
人生の終幕が近づいてきたころになって、ようやく間違いに気づけたなんてと乙若は嘆いた。
(時間が足りぬ。いや、時間があったとして、はたして私は望む世をめざす礎となれるのか)
苦しみ悶える乙若の心が絶望に苛まれる。体を折ってむせび泣く乙若は指先で救いを求め、なめらかな敷物に触れた。たっぷりと綿の入ったやさしい感触に、乙若の胸が押しつぶされる。
(誰もがこのような寝床に潜り、明日は食えるかと案じることもなく眠る世となるにはどうすればいいのか)
時間が足りないと乙若は魂で叫んだ。
声を出して叫ぶ代わりに、乙若は喉の奥で獣じみたうなりを上げた。
(時間が欲しい……人の心を安寧へと導きうるだけの時間が……ああ、私にもっと時間があれば)
はつらつとした若さと時間が欲しい。多くの人の心に寄り添える体力と、柔軟な思考が欲しい。
(世のすべての人ではなくともいい……せめて、せめてこの目に映る人だけでも)
ささいな悩みを聞き、それを解消する手伝いができればいいと、乙若は世の中の変革から個人の救いへと視点を変えた。
(私にできるのは、そのくらいでしかない)
しかし、その程度のことが多くの人を救うのではと乙若は、この屋の主のもてなしに教えられた。
与えられるものが、相手の欲しているものを適切な形で差し出す。それは救いの根源ではないかと乙若は涙の奥で発見した。
霧に迷った乙若に休息の屋根を与え、空腹と知って滋味に富んだ鍋をふるまい、垢を落とす湯を馳走して寝床を提供する。
それらは贅を尽くしたもてなしではない。けれど質素すぎてもいない。乙若が遠慮をせずにいられる範囲内で、最大限のものを与えてくれている。
(この屋の主は、なんと相手を見抜く技に長けているのか)
その徳が己にあれば、よかれとおこなったものを過ちにせずにいられたのではないか。
過去のあれこれを振り返り、己の未熟が引き起こした傲慢ともいえる救済の方策に歯噛みする。
(空を見上げるばかりで、足元を……大地を見てはいなかったのだ)
民衆を見ていると自負していた。しかしそうではなかったのだと、この屋のもてなしに気づかされた。
(私は野にあって人々の声を聞き、人々をつなぎ、個人の安寧を説いていくべきであったのだ)
衆生を救うという大願を抱えるには、自分はあまりに些末だった。
(分をわきまえぬ己であったから、私は忌むべきいさかいを生んできたのだ)
多くの者を救うために少数を排するのは本意ではない。だが結果として、そうなった。
(私は排される側に立った人の心を救いたい――ああ、そうだ。心を救いたいのだ)
奥に向かって声を上げ、足をすすいで添えられていた手拭いで指の間まで丁寧に水気を取った。上がった先には囲炉裏があって、自在鉤にかけられている鍋からは空腹を刺激する香りが漂っていた。
食欲を刺激された乙若は、霧でわずかに湿った衣を乾かすべく囲炉裏の傍に腰を下ろすと鍋の中身を覗き見た。
目に入るのはキノコや山菜ばかりで、なまぐさが入っている様子はない。味噌を溶かしてある鍋の香気に鼻先をくすぐられて、乙若の口内に唾が湧いた。
足元に気配を感じて視線を落とすと、ひざ元に椀と箸が用意されていた。
(あやかしは私をもてなす気でいるらしい)
油断をしたところで取って食うつもりなのか、たださみしくて人の世話をしたいだけなのか。あるいは乙若が思いつきもしない理由で、もてなしてくれているのか。
そのころの乙若は相手をまず見て知ることを第一の信条としていた。それは相手が人であってもあやかしであっても変わらず、乙若は目に映らぬ誰かの出方をひたすら受けて意図をはかることに決めた。
「それでは遠慮なく、いただくことといたしましょう」
手首にかけていた数珠を指にからめて合唱し、椀を手にして鍋に添えられていた大きな匙でかき混ぜる。ひと掬いで椀はいっぱいになった。
いかにも熱そうな汁にふうふうと息をかけ、おそるおそる口をつける。ズッと吸い込むと味噌の奥にたっぷりとした滋味が隠れているのがわかった。野菜の甘味が味噌の辛みと相まって、体の隅々にまで染み渡る。
ほうっと恍惚の息を漏らした乙若は、箸で具材を探った。味の沁みた大根にかぶりつき、また汁をすする。箸先がやわらかなものに触れて、これはなにかと持ち上げてみると、トロトロの餅だった。
「やあ、これはこれは」
掬ったときには気づかなかったが、餅があるとはありがたい。強いて清貧を求めていたわけではない乙若だが、上等なのは薄がゆ程度で餅などは祝いの場をのぞいては、めったに口にできるものではなかった。
あやかしではなく、道祖神なのかもしれないと乙若は思う。
供え物の蓄えを、宿を求める人々に与えているのではないか。これも御仏のお導きなのだと、腹が膨れてあたたまった乙若は警戒をゆるめた。
空腹は人の心を貧しくする。
腹が膨れることは余裕の生まれること。人は食わねば生きていけない。それをこの屋の主は理解し、山で雨や霧に見舞われた人を招いているのだ。
そう結論づけた乙若は椀を置いて合唱し、姿の見えぬ屋の主に声をかけた。
「馳走にあずかり、ありがとう存じます。体もあたたまり、ひとごこちつきました」
返事はない。
(やみくもに道を歩くだけでは、よい思案は浮かばない。きっとこの屋に巡り合ったのも、御仏のお導き)
ありがたいことだと乙若はほほえみ、頭を下げた。すると奥の部屋にものの動く気配があった。立ち上がり覗いてみると、綿の入った敷物が広げられていた。その横には木綿の小袖が置いてある。
(ゆっくり眠り、休めということか)
おそるおそる近づいた乙若は敷物をなでた。手触りのいいそれに、砂ぼこりにまみれた体で横たわるのは気が引ける。その気持ちを察したのか、奥から乙若を呼ぶように、コトコトと音がした。
そちらに行くと裏庭に出て、そこには湯をたっぷりと張った大きな桶が置かれていた。手拭いと真新しい着物もある。
「やあ、気を遣わせてしまいましたな」
照れくさくなった乙若は禿頭を掻いた。これほどのもてなしを受けるのは、なんとも面映ゆい。しかし好意を無下にするのも悪いので、乙若はありがたく湯の馳走を受けることにした。
桶の脇には平たい大岩が置かれている。裸身になった乙若はそこに立ち、湯をかぶって手拭いで体を擦った。体を流し終えると大桶に身を沈め、細く長く息を吐く。
(あたりは霧に囲まれているというのに、見るべきものははっきりと目に映る。余計なものがそぎ落とされて、必要なものだけが現れる。これは、なんという功徳か)
全身の毛穴から凝り固まった余分なものが、溶け流れていく。知らぬ間に垢のごとくこびりついていた思想がほとびて浮かび、剥がれていく。
(なんと心地がいいのだろう)
己の身につけてきたもののなかから、余計なものだけが失せていく。それは人の世に生きるには必要なものでもあったが、それゆえに己の望みの核を見えなくさせていたものだった。
(この、霧のごときものが私の魂のまわりを漂っていたのだ)
湯につかりながら乙若は心の目を開く。実際の目は心地よい湯加減に、うとうとと閉じかけていた。体が弛緩していくのとおなじ速度で、乙若の心は冴えていく。
(私は……望みをかなえようとして、望みから離れていたのではないか)
政治に介入し、世の中を導こうとした。しかしそれでは乙若の望む世にはならなかった。人々が飢えることのないよう、誰もが幸福になれる世の中を乙若は欲した。生きるために人を屠る世などあってはならない。そう思い、しかし権力を手にしたものは栄華のために戦を望んだ。それから民を守るために武器を持つ領主がいて、またそれを奪うために武器を持つ人々が現れる。
その連鎖をどうにかしてなくしたいと望んだ乙若自身が、平和のための戦を引き起こしていた。直接的ではなくとも、新たな争いに関係していた。
それに気づいた乙若は、己の望みがわからなくなった。
どのようにすればいいのかを考えるために、あてどなく歩き回っていた。
(私は、私の救いを求めていたのか)
人を救う手立てをと望んでいたのではなく、己の迷いを救われたかった。ゆるゆると溶けていく、いままで積み上げてきたもろもろのことの内側に、単純で純粋なものが隠れていた。
フフッと乙若は軽やかな息を漏らす。
(私自身を救えぬまま、他者を救おうなどと……なんという驕った心を持っていたのだ)
ゆるゆると首を振って、湯で顔を洗う。
(いや)
そうではないと乙若は己の言葉を否定した。
(己が迷っているからこそ、他者の迷いを理解できるのではないか)
そしてそれこそが、わずかな救いにつながるのではと、乙若は湯を揺らしつつ考える。
迷いがあるからこそ、迷いに寄り添える。
それは乙若にとって新しい発見だった。
悟りを開くことで救われる。けれど誰もが悟りを手に入れられるわけではない。幼少のころ寺に預けられ、いっしんに精進をしてきた乙若だが、己はまだ悟りには程遠いと感じている。
人々の悩みは尽きることがない。しかしそれが“生きる”ことであると乙若は唐突に理解した。
(私は、思い違いをしていたのか)
解脱をすれば救われる。しかしそれは“人の生”ではなくなるのではないか。
(私が求めているものは、人の救いだ)
そしてそれは大きな悩みを解消したいわけではなく、ただ飢えをなくし安息の時間を得て、やわらかな闇に抱かれて眠りを得るという、基本的な幸福を世の中に広めたいというものだった。
(私は見当違いの悩みを抱え、望むものとは違う道をいつの間にか目指していたのか)
政治に介入するのは間違いではなかった。だが、それでは乙若の望みは叶えられなかった。
(ひとつの幸福を得るために、ひとつの不幸を生み出すのは本意ではなかった。戦のない、飢えることのない世を作りたかったのだ。――しかし権力や富がそれを阻んだ)
無形の望みに立ちはだかるのは、無形のものだった。
立ち上がった乙若は湯につかりすぎてふやけた指先を見つめ、物憂く息を落とした。体を拭い、真新しい衣に袖を通す。爽やかな感触とは裏腹に、乙若の心は沈んだ。
(こういう感覚を、誰もが得られる世は望めないのか)
ふらふらと部屋に戻った乙若は、贅沢なもてなしに心を痛めた。目の奥が膨らんで熱い涙となり、頬を伝い落ちる。
「私は……私は……どうすれば」
老齢となった己が残りの人生で、なにができるのか。
無力感に襲われて、乙若は泣きむせんだ。
これまでの人生は無駄だったのではないか。さまざまな人を知り、さまざまな人生を見て、千差万別な価値観に触れてきた。好悪は別として、おびただしい考え方や捉え方を受け止めてきた。だが、それだけだった。
(なにひとつとして、私は救えていなかったのだ)
政治を変えようと働きかけはしたが、それは権力を持つものにいいように解釈されて終わった。憤り、別の誰かにそれを訴え、その結果として新たな争いが起こった。
(私は、ああ……私はいままでなにをしてきたのか)
人生の終幕が近づいてきたころになって、ようやく間違いに気づけたなんてと乙若は嘆いた。
(時間が足りぬ。いや、時間があったとして、はたして私は望む世をめざす礎となれるのか)
苦しみ悶える乙若の心が絶望に苛まれる。体を折ってむせび泣く乙若は指先で救いを求め、なめらかな敷物に触れた。たっぷりと綿の入ったやさしい感触に、乙若の胸が押しつぶされる。
(誰もがこのような寝床に潜り、明日は食えるかと案じることもなく眠る世となるにはどうすればいいのか)
時間が足りないと乙若は魂で叫んだ。
声を出して叫ぶ代わりに、乙若は喉の奥で獣じみたうなりを上げた。
(時間が欲しい……人の心を安寧へと導きうるだけの時間が……ああ、私にもっと時間があれば)
はつらつとした若さと時間が欲しい。多くの人の心に寄り添える体力と、柔軟な思考が欲しい。
(世のすべての人ではなくともいい……せめて、せめてこの目に映る人だけでも)
ささいな悩みを聞き、それを解消する手伝いができればいいと、乙若は世の中の変革から個人の救いへと視点を変えた。
(私にできるのは、そのくらいでしかない)
しかし、その程度のことが多くの人を救うのではと乙若は、この屋の主のもてなしに教えられた。
与えられるものが、相手の欲しているものを適切な形で差し出す。それは救いの根源ではないかと乙若は涙の奥で発見した。
霧に迷った乙若に休息の屋根を与え、空腹と知って滋味に富んだ鍋をふるまい、垢を落とす湯を馳走して寝床を提供する。
それらは贅を尽くしたもてなしではない。けれど質素すぎてもいない。乙若が遠慮をせずにいられる範囲内で、最大限のものを与えてくれている。
(この屋の主は、なんと相手を見抜く技に長けているのか)
その徳が己にあれば、よかれとおこなったものを過ちにせずにいられたのではないか。
過去のあれこれを振り返り、己の未熟が引き起こした傲慢ともいえる救済の方策に歯噛みする。
(空を見上げるばかりで、足元を……大地を見てはいなかったのだ)
民衆を見ていると自負していた。しかしそうではなかったのだと、この屋のもてなしに気づかされた。
(私は野にあって人々の声を聞き、人々をつなぎ、個人の安寧を説いていくべきであったのだ)
衆生を救うという大願を抱えるには、自分はあまりに些末だった。
(分をわきまえぬ己であったから、私は忌むべきいさかいを生んできたのだ)
多くの者を救うために少数を排するのは本意ではない。だが結果として、そうなった。
(私は排される側に立った人の心を救いたい――ああ、そうだ。心を救いたいのだ)
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