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江田元子
(どうして今日にかぎって、聞こえてくるんだろう)
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江田元子はイライラしながら地面をにらんで歩いていた。
(なんなのよ、なんなのよ!)
腹立たしい腹立たしいとはらわたを煮えくりかえしながら、ヒールを鳴らしてズンズン歩く元子は、うつむきながらも足元を見ていなかった。
(私がなんだっていうのよ)
あなたたちよりずっと優秀だし、がんばっているのよと腹の底で叫ぶ元子は自分の怒りに呑まれていた。
「私が……行き遅れそうですって? 八方美人でいいように使われているだけって、なによそれ!」
会社の給湯室で後輩たちが会話しているのを偶然、耳にしてしまった。誰かがいることはわかっていた。そこにちょっと割って入って、コーヒーを淹れてデスクに戻って仕事を続ける。そしていつものように定時まで仕事をし、退勤してスーパーに寄って夕食の買い物をする。もしかしたら今日は、定時で帰れるかもしれないという希望を含んだ予定を胸に、給湯室に踏み込もうとした元子の足は止まった。
「――さんって、ほんと悪いよねぇ」
「江田さんも、いいかげんに気づけばいいのに」
「そこそこイケメンの独身に頼まれたら、やっぱ断れないんじゃん? そろそろ相手を見つけないとヤバイって慌ててるんだよ。だって、めちゃくちゃイイ顔しいの、八方美人って言うの? 誰にでもヘラヘラしてさ、仕事を押しつけられまくってんじゃん。いいように使われてるだけっての? 私、ムリぃ」
「あれじゃない? どんな仕事がきてもこなせますってヤツかも。私、優秀なんですアピール」
「あー、そっちかぁ。まあ、あんなキツそうな人だったら、結婚できなさそうだしね。バリバリ働いて、稼がないとってことか」
「それか、ヒモな彼氏がいるかもよ。私が養ってあげなくちゃ、てきな?」
「それも、ありうるぅ。てかさ、江田さん、もちょっとかわいげあるようにしたらいいのにね。化粧とか服装とか、なんかスキなさすぎで怖い」
「たしかに、たしかに! もうちょっとこう、できないとこアピールしたらモテそうなのにねぇ」
「かっこいいっちゃ、かっこいいんだけど……女としては残念だよね」
「まあでも、アレにあこがれてる人もいるわけだし?」
「好き好きってことかぁ。私は苦手だし、なりたくないけど。だって、行き遅れそうじゃん」
「がんばるなら、仕事より合コンだよねぇ」
ねーっと毒のある甘い声に後ずさり、元子は何事もなかった顔でデスクに戻って仕事をはじめた。鉛玉を飲み込んだ気分だ。喉の奥が無理やりこじ開けられたみたいに苦しくて、みぞおちのあたりがズシリと重い。
(気にしなくていい)
会話をしていた後輩たちが戻ってきた。心臓がバクンと跳ねる。それを無視して仕事をしていると、上司から残業を頼まれた。目の端で後輩たちを気にしながら、いつも通りに「いいですよ」と言おうとした元子の口は意外な言葉を吐き出した。
「すみません、今日はちょっと用事が」
弱々しく、けれどきっぱりとした拒絶の声に元子自身がおどろいていると、上司はわずかに眉を上げて「そうか」とつぶやく。あわてて「ああでも、すこしだけなら」と声を出すと、いいよいいよと上司は笑った。
「いつも江田に頼ってばかりだからな。代わりに……坂崎、いけるか」
声をかけられた元子の同期は、苦笑いしながら受け入れた。
「ごめんね、坂崎くん」
「べつに。前に仕事、手伝ってもらったしな」
用事もないのに断ってしまったことで、同僚に残業を押しつけた。そんな罪悪感が元子の胸に兆す。それと同時に、断ることのできた自分に奮えた。
さりげなく後輩たちの様子を探る。彼女たちは元子の存在など気にせずに、仕事をしていた。けれど心中ではどうなのか。見えないことが惜しくて、元子はそっと息を吐くと仕事に戻った。
(私は八方美人じゃないし、残業代だってきちんと出るし)
サービス残業ではないのだから、時間があれば受けるのは当然だと元子は胸の裡で後輩たちに反論する。
(私だって、こうやって断ったりもするんだから)
そこでふと、彼女たちが「自分たちの会話が、元子に届いた」と感じないかと心配になった。
自意識過剰だろうか。
そんなことはないと、すぐさま否定する。
こっちが思ってもいなかったことで文句を言われるのだから、こちらが自意識過剰なのではなく向こうがそうなのだ。それを気にするのは当然で……だけどどうして気にするのだろう。
終業時間が近づくにつれて、元子はこれからどうしようと考えた。
用事はなにもない。けれど用事があると残業を断った。誰かに連絡をして用事を作ってしまおうか。といって、誰に連絡をすればいいかわからない。友人はいる。けれどいきなり誘って、迷惑をかけてしまわないか。向こうには用事があるかもしれない。残業をしているかも。いきなり食事に誘って、なにかあったと勘ぐられて心配されて、仕事を途中で切り上げさせることになりはしないか。そして誘ってきた理由を聞かれたら、どう答える? 気を使ってなにも言わずに、ただこちらに合わせてくれたとしても相手は楽しくないのでは。
(ああ)
どうしようと内側で頭を抱えて、表面上はいつもどおりの顔で仕事を片づけていく元子は、チラチラと時計に視線を投げつつ気をもんだ。
(こんなことなら、あの子たちの会話なんて気にせずに残業を受けておけばよかった)
誰かから連絡がきたフリをして、やっぱり残業できますと言おうか。しかしそんな演技をして、よけいにみじめになりはしないか。どうしてあんな会話を聞いてしまったんだろう。あのときコーヒーを飲もうと思わなければ、いつもどおり平穏でいられたのに。
「それじゃあ、お疲れ様です」
明るい後輩の声に顔を上げると、かろやかな笑顔を浮かべた後輩がカバンを肩にかけるのが見えた。
「なんだなんだ。おまえたちはいつも定時ぴったりだなぁ」
「仕事はちゃんと終わってますよぉ」
ねぇ、と顔を見合わせて、元子の話をしていた後輩たちが愛らしく笑う。苦笑する上司は「まあそうだ」とつぶやいて、元子に視線を向けた。
(私も片づけなくっちゃ)
自分の仕事は切りのいいところまで終わっている。あとは明日にまわしても問題ない。今日中にする必要のない仕事だから、ここで席を立っても誰にも迷惑をかけない。なにより用事があると言ったのだから、ここで退勤しなければ妙に思われる。
手早く作業を終えて机の上を片づけていると、上司の声が耳に届いた。
「江田は新人のころから仕事熱心で、だから頼られるくらいのスキルを身に着けたんだぞ」
ふわりと元子の胸が熱くなった。評価されているとうれしくなる。
「私たちだって真剣にやってますよぉ。でもほら、ほかにもいろいろとしたいことがあるので」
「仕事だけが人生じゃないっていうか……ねぇ」
なんてことを言うのだと、片づけをしながら元子はヒヤヒヤした。怖いもの知らずにもほどがある。上司や残業をしている先輩たちに、どう受け取られるのか気にならないのか。
「それでまた、合コンか」
「やだぁ! なんで牧田先輩がそれ知ってるんですかぁ」
重苦しい空気になるのではという元子の危惧は、杞憂に終わった。どうして和やかでいられるのかが、元子にはわからない。あれほどあけすけに、自分よりも目上の人間を否定する発言をしているのに――。
きゃっきゃとはしゃぐ彼女たちが、元子より先に事務所を出ていく。すこし遅れて元子も「お先に失礼します」と言って、席を離れた。この後の予定はなにもないままで、誰かを誘おうと思いつつ決めかねながら。
「てかさ。江田さんの用事って、なんなんだろうね」
化粧室から声が聞こえて、元子の足は勝手に止まった。
(どうして今日にかぎって、聞こえてくるんだろう)
無視をすればいいと思う元子の足は動かない。
「なんでもいいじゃん」
「えー。だって珍しいし、気にならない?」
「合コン相手ほどは気にならないよぉ」
「もしかして私らの話、聞いてたとか」
「それって、給湯室での?」
「うん」
「それ気にして用事もないのに残業断ったとかなら、ウケル」
「そんな言い方したら、かわいそうじゃん」
そう言いながらも声は愉快と言いたげに震えていた。
「――っ」
息をのんだ元子の足指に力がこもって、床を蹴った。走るよりは遅く、けれど確実に急いでいる速度で会社を飛び出した元子は、さきほどの嘲笑に意識を包まれながら得体の知れないものから逃げようと、やみくもに顔を伏せて歩き続けた。
(なんなのよ、なんで……なんで私があんなことを言われなくっちゃいけないのよ!)
腹立たしいより悔しくて。悔しいよりも情けなくて。元子の鼻はツンとして、鎖骨と胸の間がきしむほどに冷たくなる。
(私なんにも悪いことしてないのに、真面目にしているだけなのに! それなのになんで、あんなことを言われなくちゃならないの?)
足がもつれて、元子はその場にへたり込んだ。喉の奥に冷たい感情の塊がせり上がってくる。それをグッと飲み下した元子は立ち上がり、膝に着いた砂利を払い落した。
「――え」
コンクリートの道を歩いていたのに、どうして砂利がつくのだろう。軽く汗の拭きだした額を手の甲でぬぐいながら周囲を見回し、元子はふたたび「え」とつぶやいた。
まず目に入ったのはこげ茶色の木の幹だった。それがずらっと途切れることなく並んでいる。見上げるとうっそりと茂った木の葉が見えた。真上に視線を向けると、真っ青な空が広がっている。
「なんで」
会社を出たのは夕方なのに、いくらなんでも青すぎる。これではまるで昼間のようだ。そもそもここはどこなのか。会社の近くにこれほど木々が密集している場所があるなど、聞いたことがない。
(それになにより、これってなんだか登山っぽい)
道は元子が両腕を広げた程度の幅しかなく、両端は人の足が踏み込んでいないと言いたげに木々が並び立ち、その根元には草花が密集していた。
まっすぐに伸びているゆるやかな坂道をながめ、振り向いた元子は顔をしかめた。
(なんで)
人工物らしきものがすこしも見えない。道はコンクリートではなく、道の両端は林、あるいは森と表現しても差し支えのない状態だ。
(電車か車に乗った記憶なんてないし)
いったいどこに紛れ込んでしまったのかと、恐怖が元子を包み込む――と、めまいがした。
ふわりと意識が浮かんで揺れて、上あごのあたりに吐き気がわだかまる。目元を抑えてふらついて、身をかがめてゆっくりとした呼吸を意識する。しばらくそうしていると、じょじょに感覚が戻ってきた。
「ふう」
最後に大きな息の塊を吐き出して背を伸ばす。
「ああ、そうだ」
今日は有給を取って散策に来たのだった。この道は穴場のレストランへ続いている。なにかの雑誌に載っていて、とくにすることもないから運動がてら遠出をしようと決めたのだった。
「それなのに、会社に行くのとおなじ格好しているなんて」
笑いながら自分にあきれる。けれど出かける用の服なんて、あまり持っていない。職場はスーツでなくともいいし、その後で友人と食事をしたりすることもあるので、服を買うときには仕事にも遊びにも着ていけるものを選んでいた。
(先輩とか後輩とかも、そんな感じだし)
だから元子のオンとオフは、誰かと会うか会わないかで分断されて、服もそれで決まっていた。
(でも、こんな山道っぽいところを歩くなんて思わなかったな)
もっとカジュアルでスポーティーな服装をと考えて、頭に浮かんだのは寝間着代わりにしているジャージだった。
(あれで出かけるのは、ちょっとね)
肩をすくめた元子は、ヒールの低いパンプスで地面を踏みしめ登っていった。
すぐに坂は終わり、開けた場所に出た。
「わぁ」
目の前にあるのは、どう見ても古民家だった。庭では鶏がのんびりと歩いたり座ったりと、思い思いに過ごしている。レストランというよりは、立派な農家の屋敷といった風情の建物を、元子はぽかんと口を開けてながめた。
「すっごい」
ちかごろ古いものをリメイクするのがはやっているが、この店もきっとそういうたぐいのものだろう。外観は古いが清潔そうだと近づいて、看板らしいものが見当たらないことに元子は気がついた。
(ここじゃない……の、かな)
きょろきょろとしてみるが、ほかに建物らしきものはない。一本道だったので迷いようもなかったのだから、目的地はここのはず。
(でも)
お店っぽいなにかがないかと玄関回りをじっくり見ていると、カラリと引き戸が開けられた。
「おや」
着物姿の青年が、戸の奥から顔を出す。年のころは二十代半ばから後半くらいだろうか。だいたい自分とおなじくらいだろうと元子は判断した。にっこりと笑った顔は色白で、気品のようなものが漂っている。年に似合わぬ落ち着きがあると感じるのは、着物姿がしっくりとあっているからかもしれない。艶やかな黒髪を首のあたりでひとつに結んでいる彼は、引き戸を大きく空けて手のひらで元子を招いた。
「さあ、どうぞ。いらっしゃいませ」
「え、ああ……ええと」
(やっぱり、お店はここでよかったんだ)
おそるおそる近づいた元子は、入る前に足を止めて確認した。
「あの、ここって――」
店名が思い出せない。ええと、と口ごもった元子を青年はうながす。
「お待ちいたしておりました」
「あ、はい」
戸の外に出てこない青年を不思議に思いつつ、元子は屋内に足を踏み入れた。
(なんなのよ、なんなのよ!)
腹立たしい腹立たしいとはらわたを煮えくりかえしながら、ヒールを鳴らしてズンズン歩く元子は、うつむきながらも足元を見ていなかった。
(私がなんだっていうのよ)
あなたたちよりずっと優秀だし、がんばっているのよと腹の底で叫ぶ元子は自分の怒りに呑まれていた。
「私が……行き遅れそうですって? 八方美人でいいように使われているだけって、なによそれ!」
会社の給湯室で後輩たちが会話しているのを偶然、耳にしてしまった。誰かがいることはわかっていた。そこにちょっと割って入って、コーヒーを淹れてデスクに戻って仕事を続ける。そしていつものように定時まで仕事をし、退勤してスーパーに寄って夕食の買い物をする。もしかしたら今日は、定時で帰れるかもしれないという希望を含んだ予定を胸に、給湯室に踏み込もうとした元子の足は止まった。
「――さんって、ほんと悪いよねぇ」
「江田さんも、いいかげんに気づけばいいのに」
「そこそこイケメンの独身に頼まれたら、やっぱ断れないんじゃん? そろそろ相手を見つけないとヤバイって慌ててるんだよ。だって、めちゃくちゃイイ顔しいの、八方美人って言うの? 誰にでもヘラヘラしてさ、仕事を押しつけられまくってんじゃん。いいように使われてるだけっての? 私、ムリぃ」
「あれじゃない? どんな仕事がきてもこなせますってヤツかも。私、優秀なんですアピール」
「あー、そっちかぁ。まあ、あんなキツそうな人だったら、結婚できなさそうだしね。バリバリ働いて、稼がないとってことか」
「それか、ヒモな彼氏がいるかもよ。私が養ってあげなくちゃ、てきな?」
「それも、ありうるぅ。てかさ、江田さん、もちょっとかわいげあるようにしたらいいのにね。化粧とか服装とか、なんかスキなさすぎで怖い」
「たしかに、たしかに! もうちょっとこう、できないとこアピールしたらモテそうなのにねぇ」
「かっこいいっちゃ、かっこいいんだけど……女としては残念だよね」
「まあでも、アレにあこがれてる人もいるわけだし?」
「好き好きってことかぁ。私は苦手だし、なりたくないけど。だって、行き遅れそうじゃん」
「がんばるなら、仕事より合コンだよねぇ」
ねーっと毒のある甘い声に後ずさり、元子は何事もなかった顔でデスクに戻って仕事をはじめた。鉛玉を飲み込んだ気分だ。喉の奥が無理やりこじ開けられたみたいに苦しくて、みぞおちのあたりがズシリと重い。
(気にしなくていい)
会話をしていた後輩たちが戻ってきた。心臓がバクンと跳ねる。それを無視して仕事をしていると、上司から残業を頼まれた。目の端で後輩たちを気にしながら、いつも通りに「いいですよ」と言おうとした元子の口は意外な言葉を吐き出した。
「すみません、今日はちょっと用事が」
弱々しく、けれどきっぱりとした拒絶の声に元子自身がおどろいていると、上司はわずかに眉を上げて「そうか」とつぶやく。あわてて「ああでも、すこしだけなら」と声を出すと、いいよいいよと上司は笑った。
「いつも江田に頼ってばかりだからな。代わりに……坂崎、いけるか」
声をかけられた元子の同期は、苦笑いしながら受け入れた。
「ごめんね、坂崎くん」
「べつに。前に仕事、手伝ってもらったしな」
用事もないのに断ってしまったことで、同僚に残業を押しつけた。そんな罪悪感が元子の胸に兆す。それと同時に、断ることのできた自分に奮えた。
さりげなく後輩たちの様子を探る。彼女たちは元子の存在など気にせずに、仕事をしていた。けれど心中ではどうなのか。見えないことが惜しくて、元子はそっと息を吐くと仕事に戻った。
(私は八方美人じゃないし、残業代だってきちんと出るし)
サービス残業ではないのだから、時間があれば受けるのは当然だと元子は胸の裡で後輩たちに反論する。
(私だって、こうやって断ったりもするんだから)
そこでふと、彼女たちが「自分たちの会話が、元子に届いた」と感じないかと心配になった。
自意識過剰だろうか。
そんなことはないと、すぐさま否定する。
こっちが思ってもいなかったことで文句を言われるのだから、こちらが自意識過剰なのではなく向こうがそうなのだ。それを気にするのは当然で……だけどどうして気にするのだろう。
終業時間が近づくにつれて、元子はこれからどうしようと考えた。
用事はなにもない。けれど用事があると残業を断った。誰かに連絡をして用事を作ってしまおうか。といって、誰に連絡をすればいいかわからない。友人はいる。けれどいきなり誘って、迷惑をかけてしまわないか。向こうには用事があるかもしれない。残業をしているかも。いきなり食事に誘って、なにかあったと勘ぐられて心配されて、仕事を途中で切り上げさせることになりはしないか。そして誘ってきた理由を聞かれたら、どう答える? 気を使ってなにも言わずに、ただこちらに合わせてくれたとしても相手は楽しくないのでは。
(ああ)
どうしようと内側で頭を抱えて、表面上はいつもどおりの顔で仕事を片づけていく元子は、チラチラと時計に視線を投げつつ気をもんだ。
(こんなことなら、あの子たちの会話なんて気にせずに残業を受けておけばよかった)
誰かから連絡がきたフリをして、やっぱり残業できますと言おうか。しかしそんな演技をして、よけいにみじめになりはしないか。どうしてあんな会話を聞いてしまったんだろう。あのときコーヒーを飲もうと思わなければ、いつもどおり平穏でいられたのに。
「それじゃあ、お疲れ様です」
明るい後輩の声に顔を上げると、かろやかな笑顔を浮かべた後輩がカバンを肩にかけるのが見えた。
「なんだなんだ。おまえたちはいつも定時ぴったりだなぁ」
「仕事はちゃんと終わってますよぉ」
ねぇ、と顔を見合わせて、元子の話をしていた後輩たちが愛らしく笑う。苦笑する上司は「まあそうだ」とつぶやいて、元子に視線を向けた。
(私も片づけなくっちゃ)
自分の仕事は切りのいいところまで終わっている。あとは明日にまわしても問題ない。今日中にする必要のない仕事だから、ここで席を立っても誰にも迷惑をかけない。なにより用事があると言ったのだから、ここで退勤しなければ妙に思われる。
手早く作業を終えて机の上を片づけていると、上司の声が耳に届いた。
「江田は新人のころから仕事熱心で、だから頼られるくらいのスキルを身に着けたんだぞ」
ふわりと元子の胸が熱くなった。評価されているとうれしくなる。
「私たちだって真剣にやってますよぉ。でもほら、ほかにもいろいろとしたいことがあるので」
「仕事だけが人生じゃないっていうか……ねぇ」
なんてことを言うのだと、片づけをしながら元子はヒヤヒヤした。怖いもの知らずにもほどがある。上司や残業をしている先輩たちに、どう受け取られるのか気にならないのか。
「それでまた、合コンか」
「やだぁ! なんで牧田先輩がそれ知ってるんですかぁ」
重苦しい空気になるのではという元子の危惧は、杞憂に終わった。どうして和やかでいられるのかが、元子にはわからない。あれほどあけすけに、自分よりも目上の人間を否定する発言をしているのに――。
きゃっきゃとはしゃぐ彼女たちが、元子より先に事務所を出ていく。すこし遅れて元子も「お先に失礼します」と言って、席を離れた。この後の予定はなにもないままで、誰かを誘おうと思いつつ決めかねながら。
「てかさ。江田さんの用事って、なんなんだろうね」
化粧室から声が聞こえて、元子の足は勝手に止まった。
(どうして今日にかぎって、聞こえてくるんだろう)
無視をすればいいと思う元子の足は動かない。
「なんでもいいじゃん」
「えー。だって珍しいし、気にならない?」
「合コン相手ほどは気にならないよぉ」
「もしかして私らの話、聞いてたとか」
「それって、給湯室での?」
「うん」
「それ気にして用事もないのに残業断ったとかなら、ウケル」
「そんな言い方したら、かわいそうじゃん」
そう言いながらも声は愉快と言いたげに震えていた。
「――っ」
息をのんだ元子の足指に力がこもって、床を蹴った。走るよりは遅く、けれど確実に急いでいる速度で会社を飛び出した元子は、さきほどの嘲笑に意識を包まれながら得体の知れないものから逃げようと、やみくもに顔を伏せて歩き続けた。
(なんなのよ、なんで……なんで私があんなことを言われなくっちゃいけないのよ!)
腹立たしいより悔しくて。悔しいよりも情けなくて。元子の鼻はツンとして、鎖骨と胸の間がきしむほどに冷たくなる。
(私なんにも悪いことしてないのに、真面目にしているだけなのに! それなのになんで、あんなことを言われなくちゃならないの?)
足がもつれて、元子はその場にへたり込んだ。喉の奥に冷たい感情の塊がせり上がってくる。それをグッと飲み下した元子は立ち上がり、膝に着いた砂利を払い落した。
「――え」
コンクリートの道を歩いていたのに、どうして砂利がつくのだろう。軽く汗の拭きだした額を手の甲でぬぐいながら周囲を見回し、元子はふたたび「え」とつぶやいた。
まず目に入ったのはこげ茶色の木の幹だった。それがずらっと途切れることなく並んでいる。見上げるとうっそりと茂った木の葉が見えた。真上に視線を向けると、真っ青な空が広がっている。
「なんで」
会社を出たのは夕方なのに、いくらなんでも青すぎる。これではまるで昼間のようだ。そもそもここはどこなのか。会社の近くにこれほど木々が密集している場所があるなど、聞いたことがない。
(それになにより、これってなんだか登山っぽい)
道は元子が両腕を広げた程度の幅しかなく、両端は人の足が踏み込んでいないと言いたげに木々が並び立ち、その根元には草花が密集していた。
まっすぐに伸びているゆるやかな坂道をながめ、振り向いた元子は顔をしかめた。
(なんで)
人工物らしきものがすこしも見えない。道はコンクリートではなく、道の両端は林、あるいは森と表現しても差し支えのない状態だ。
(電車か車に乗った記憶なんてないし)
いったいどこに紛れ込んでしまったのかと、恐怖が元子を包み込む――と、めまいがした。
ふわりと意識が浮かんで揺れて、上あごのあたりに吐き気がわだかまる。目元を抑えてふらついて、身をかがめてゆっくりとした呼吸を意識する。しばらくそうしていると、じょじょに感覚が戻ってきた。
「ふう」
最後に大きな息の塊を吐き出して背を伸ばす。
「ああ、そうだ」
今日は有給を取って散策に来たのだった。この道は穴場のレストランへ続いている。なにかの雑誌に載っていて、とくにすることもないから運動がてら遠出をしようと決めたのだった。
「それなのに、会社に行くのとおなじ格好しているなんて」
笑いながら自分にあきれる。けれど出かける用の服なんて、あまり持っていない。職場はスーツでなくともいいし、その後で友人と食事をしたりすることもあるので、服を買うときには仕事にも遊びにも着ていけるものを選んでいた。
(先輩とか後輩とかも、そんな感じだし)
だから元子のオンとオフは、誰かと会うか会わないかで分断されて、服もそれで決まっていた。
(でも、こんな山道っぽいところを歩くなんて思わなかったな)
もっとカジュアルでスポーティーな服装をと考えて、頭に浮かんだのは寝間着代わりにしているジャージだった。
(あれで出かけるのは、ちょっとね)
肩をすくめた元子は、ヒールの低いパンプスで地面を踏みしめ登っていった。
すぐに坂は終わり、開けた場所に出た。
「わぁ」
目の前にあるのは、どう見ても古民家だった。庭では鶏がのんびりと歩いたり座ったりと、思い思いに過ごしている。レストランというよりは、立派な農家の屋敷といった風情の建物を、元子はぽかんと口を開けてながめた。
「すっごい」
ちかごろ古いものをリメイクするのがはやっているが、この店もきっとそういうたぐいのものだろう。外観は古いが清潔そうだと近づいて、看板らしいものが見当たらないことに元子は気がついた。
(ここじゃない……の、かな)
きょろきょろとしてみるが、ほかに建物らしきものはない。一本道だったので迷いようもなかったのだから、目的地はここのはず。
(でも)
お店っぽいなにかがないかと玄関回りをじっくり見ていると、カラリと引き戸が開けられた。
「おや」
着物姿の青年が、戸の奥から顔を出す。年のころは二十代半ばから後半くらいだろうか。だいたい自分とおなじくらいだろうと元子は判断した。にっこりと笑った顔は色白で、気品のようなものが漂っている。年に似合わぬ落ち着きがあると感じるのは、着物姿がしっくりとあっているからかもしれない。艶やかな黒髪を首のあたりでひとつに結んでいる彼は、引き戸を大きく空けて手のひらで元子を招いた。
「さあ、どうぞ。いらっしゃいませ」
「え、ああ……ええと」
(やっぱり、お店はここでよかったんだ)
おそるおそる近づいた元子は、入る前に足を止めて確認した。
「あの、ここって――」
店名が思い出せない。ええと、と口ごもった元子を青年はうながす。
「お待ちいたしておりました」
「あ、はい」
戸の外に出てこない青年を不思議に思いつつ、元子は屋内に足を踏み入れた。
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