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水戸けい

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宇梶和彦

(いま俺は、なんて思った?)

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 顔を上げた和彦が道の先を見据えて歩いていると、木々の切れ間に古い日本家屋が見えてきた。大学が郊外にあるとはいえ、そういう建物が残っているなどめずらしい。

 好奇心を刺激された和彦は太腿に力を込めて、ゆるやかな坂を上った。

「おお」

 道の終わりに立ち止まった和彦は、目の前の光景に目をまるくした。資料でしか見たことのないような、これぞ日本家屋といったたたずまいの家に胸の奥が浮かれ疼いた。こんな気持ちはいつ以来だろうと、和彦はなつかしさを抱えて建物に近づいた。

 広い庭で鶏が遊んでいる。放し飼いにしても逃げないのかと、和彦は口元に子どもじみた笑みを浮かべて近づいた。

 しゃがんで手を伸ばし、触ろうとするとかわされる。慣れているのか警戒しているのか、絶妙な距離を保つ鶏に誘われて、和彦は少年のころに戻って目を輝かせ、両手で鶏を捕まえようと追いかけた。するりするりと逃げる鶏は、慌てているようにも悠々とかわしているようにも見える。なんとも心憎い、こちらに追いかけさせたくなる行動だ。

 鶏からすれば迷惑な話だろうと、和彦の大人の部分が冷静に状況を判断している。好奇心いっぱいの幼い部分は、捕まえたいというよりは鶏と遊びたいと感じていた。無垢な部分がたのしいと、うれしいと言っている。こだわりもなにもない、まっさらな部分をむき出しにして、和彦は鶏と戯れていた。

「はぁ……あーあ」

 けっきょく一羽も捕まえられず、疲れた和彦は縁側に腰かけた。悔しさはすこしもない。

「あとちょっとだったのになぁ」

 両手に鶏が触れた瞬間、やったと思って高揚すると同時に、するりと逃げられてしまった。残念な悲鳴を上げつつも、ちっとも落胆しなかった。それも込みで和彦は状況をまるごと味わっていた。

「はー、ああ」

 笑顔でため息をついて空を見上げる。真っ青な空に、ぽかりぽかりとのんきな雲が浮かんでいた。それがゆっくり流れていくさまをながめながら、和彦はあおむけに寝転がった。腕を左右に広げると、ひやりとした床が熱を持った肌に心地いい。

「はー」

 わざと音を立てて息を吐くと、余計な力が抜けた。

(きもちいいな)

 こんなふうに過ごすのは、どのくらいぶりだろう。誰の目もなく、声もない。そのことがどれだけ居心地がいいか、和彦は解放感とともに思い知らされていた。

(窮屈だなんて考えたこと、なかったのにな)

 それでもどこかで人の目や声を気にしていたから、これほど爽快な気持ちになっているのだろう。

(不思議だ)

 意識しなかったことを知るのは、とても奇妙な感覚だ。それも意図せず得られたとなると、より不可思議だ。だが、悪い気持ちではない。

 深く息を吸い、吐き出す。

 たったそれだけの、常に無意識にしている行為でさえ大切で特別なものに思える。

(きっと、就職活動で疲れていたんだな)

 理由をつけた和彦は目を閉じた。やわらかな風が吹きすぎて、土と草の香りに鼻孔がくすぐられる。ひとりでいるはずなのに、ひとりだと思えない空間は居心地がよく、ふんわりと真綿に包まれているみたいだった。鶏の気配が足元にある。いまなら捕まえられるかなと思ったが、起き上がりたくなかった。

 寄せては返す波のように、じわりじわりと眠りの世界が和彦に近づいてくる。風が眠れとささやいてくる。

 和彦は全身の力を抜いて、いざなわれるまま意識を手放した。


 ふっと目を開けた和彦は、自分がどこでなにをしているのかわからなかった。見慣れぬ古い家屋の庇の向こうに青空がある。かすかに土と草の香りがして、背中や腕が固いものに支えられている。

(ここ、どこだ)

 じょじょに目覚める脳みそが、いままでの経緯を確かめる。

(ああ、そうだ。俺はここにのんびりしに来たんだっけ)

 就職活動に疲れ、張り詰めた気を休ませたくて、ちょっとした旅行に出たんだったと和彦は思い出した。

 誰もいない、誰も来ない穴場スポットがあると、ふらりと立ち寄った旅行代理店に勧められ、それほど値段も高くなく、いまの季節なら宿が貸し切りになるかもしれないと教えられた。誰にも会わずにのんびりと過ごせば、きっと意識も開くだろう。無意識に視野が狭まっているから、ちょっとしたことがおもしろくないと感じるに違いない。

 競争の中に身を投じていれば、緊張や焦りが知らず知らずに伝染してくるものだ。だから神経が尖ってしまって、気にしなくてもいいことを気にしてしまう。

(そうだ。俺はもともと、生徒のプライベートなんか気にしないタイプなんだ。楠本は俺という人間を勘違いしていたから、あんなことを言ったんだ)

 だが、そう思わせておけばいい。それは和彦にとってプラスになる誤解になる。ニヤリとして起き上がった和彦は、茶と饅頭の乗った盆が置かれているのに気がついた。

(いつの間に)

 店の誰かが運んでくれたのだろう。それはいいが、人の気配に気づかず眠りこけていたのは恥ずかしい。

(まあでも、客商売をしていれば、客の寝姿なんて見慣れていて、どうということもないだろう)

 そういえば甘いものを求めていたと思いつつ、和彦は茶で口を湿らせてから饅頭にかぶりついた。ふんわりとした薄皮の奥に、上品な甘さの餡子がある。舌触りはなめらかで、茶を口に含むと餡子の甘味が嫌味なく広がった。茶の苦味に後味がさっぱりする。和彦は無心に饅頭を食べ、茶を飲んだ。

 もうすこし欲しいと思いながら視線を巡らせれば、開いた障子の奥にテーブルがあり、その上に饅頭があった。

(ああ、あれは俺の客室だったな)

 立ち上がった和彦は靴を脱いで縁側から室内に入った。部屋の隅にポットと茶筒、急須があった。茶をうまく淹れる自信なんてないが、できないわけではない。饅頭のうまさを引き立てる茶を淹れられるだろうかと思いつつ、和彦は茶筒を手にした。

(ええと、蓋に茶葉を入れて量って、それを急須に落として湯を注ぐんだよな)

 どのくらいの分量がちょうどいいのか、いつも母親がしていたのでわからない。

(まあ、すくないよりは多い方がいいだろう)

 甘い饅頭があるのだから、苦くなっても問題ない。

「失礼いたします」

 茶葉を蓋に出そうとすると、声をかけられた。見れば和彦と同年代くらいの青年がいる。漆黒の髪は長く、首の後ろでひとつにくくられている。着物を着てほほえんでいる姿からは、上品さがにじみ出ていた。落ち着いた物腰と愛想のよさに、店の者だとすぐにわかった。

「なにか不都合があれば、なんなりとお気軽にお申しつけください」

 丁寧な声音には、細かなこだわりを溶かす魅力があった。これといって役には立たない“カッコ悪い”という意識を捨てて、和彦は素直に「茶の淹れ方がわからない」と彼に聞いた。

 青年はにっこりと目じりをゆるめて膝でにじり入ると、するりと和彦の手から茶筒を取って手際よく作業をこなした。それを和彦は、はじめて見るもののようにながめる。

(こんなふうに淹れるのか)

 それは日常のなかのなんでもない行為のはずなのに、和彦の目には新鮮で珍しいものと映った。

 そしてそんな自分の感じ方をも、珍しいと受け止める。

(俺は、なんでこんな感覚に――?)

 優雅な手つきで青年に湯呑を差し出され、受け取った和彦は口をつけた。

「……うまい」

 ぽろりとこぼした和彦は、信じられないと青年を見る。なんでもないことと笑顔で告げる青年に、和彦はうなった。

「どうかなさいましたか」

「いや……俺だったら、こんなにうまい茶は淹れられなかったと思う。ありがとう」

 茶を淹れられて礼を言うなど、和彦にとってははじめての経験だった。気負って言ったのではなく、するりと自然に口から出た。胸の奥がすっきりとして、和彦は知らず笑顔になっていた。

「いえ。お役に立てて光栄です」

 仕事だから当然ではなく、あなたのためにと言われた気がした。なんて心地のいい雰囲気をまとった人なのだろうと、和彦は感心する。押しつけがましくはない、自然な「相手のために」という行為は、これほど素直によろこべるものだったのか。

(――ん?)

 引っ掛かりを覚えて、和彦は首をかしげた。

「なにか、ございましたか」

「ああ、いえ」

(いま俺は、なんて思った?)

 湯呑を膝に置いて考える。そんな和彦の傍から青年は離れない。それは居心地が悪いものではなく、そうされるのが自然と受け取れる行為だった。それもまた、和彦には不思議に映る。

(なんで)

 わからない。わからないが、心がひろびろと伸びをしている。疑念を浮かべて思考にふけりたいときは、誰の目も気配もない空間が望ましい。そのはずなのに、青年を邪魔とは思わない。むしろ、そこにいてくれるのがありがたい。

 考える傍から次々に疑問が湧いてくる。この答えはどこで見つけられるのか。ふうむと鼻息を漏らした和彦の視界の端に、ひかえめに饅頭が差し出された。考える前に手を伸ばし、ムシャムシャ食べて茶をすする。

「あの」

 顔を上げて声をかけると、青年は笑みを深めた。無言で「なんでしょう」と示される。相手の表情が明確な言葉よりも安心する。そういえば対峙する相手の顔をきちんと見たのは久しぶりだと、和彦は気づきに背筋を震わせた。

 緊張した喉がゴクリと鳴る。

「俺のほかに、客はいないんですか」

 なぜそんな問いを発したのか、自分でもわからない和彦に「ええ」と青年は答えた。

「それじゃあ、忙しくなければ……すこし俺につきあってもらえませんか」

「かまいませんよ」

 わずかも悩まずに即答されて、和彦はホッとした。

「いや、その……なんというか」

 彼にいてほしい理由が、さっぱりわからない。けれど傍にいてほしい。なにか用事があるわけではなく、彼といればなにかが見つかりそうな気がするのだ。

 ふっと視線を泳がせた和彦は、部屋の奥から差し込む光に気がついた。表の庭から縁側に上がって部屋に入ったはずなのに、部屋の奥も障子だ。建物の大きさと部屋の広さから考えて、そちらは壁なり廊下なりがありそうなのにと首をかしげた和彦の意識が、ふわぁんと揺れた。

(なんだ)

 眠気と酔いを同時に味わったような感覚に、和彦は目を閉じた。指でこめかみを抑えて深呼吸すると、その感覚はすぐに引いた。

(うん……ああ、なんだったっけ。ああ、そうだ。縁側から入って、廊下を回って奥の部屋に案内されたんだった)

 そして彼に茶を淹れてもらったのだったと和彦は思い出した。

 障子の向こうで、やわらかな日差しが外においでと誘うように輝いている。和彦の視線に気づいた青年が、すらりと障子を開けた。

「おお」

 広がる光景に、和彦は思わず声を上げた。なんてうつくしい景色なのだろう。これほど見事な庭園を、和彦は見たことがなかった。

 ひろびろとした庭には大岩に囲われた池があり、ちいさな滝が流れ込んでいて目に涼しい。手入れのされた庭木はいきいきと輝き陽光とたわむれている。

 庭の風情に引き寄せられて立ち上がった和彦は、池で泳ぐ鯉の姿を見つけた。庭に向かって進んだ和彦の足先が、縁側の隅に気づく。足元を確認した和彦は、沓脱石と草履を見つけた。

「どうぞ。お好きなだけ、庭を散策なさってください。なんでしたら、上流の川に入っていただいてもかまいませんよ」

 やわらかな青年の声に、からかいの響きはなかった。

「上流の川、ですか?」

「ええ。あの、滝の上です」

 ゆるりとした動作で青年は池の奥を指した。滝の周辺には低い庭木がある。その奥に、道のありそうな雰囲気があった。

「でも」

 大学生にもなって、ひとりで川遊びなんてと和彦は尻込みする。青年はにこにこと手拭いを差し出してきた。

「どうぞ。美しい川ですし、浅いですから」

「いや、そういう意味では」

 ためらいの理由を勘違いされたと、和彦はとまどった。青年はなんの屈託もなく、素直な笑顔で見上げてくる。子どもでもあるまいしと、鼻先で笑うのは失礼な気がした。

「それじゃあ」

 ぎこちなく和彦が手拭いを受け取ると、青年に「いってらっしゃいませ」と丁寧に頭を下げられた。胸がほっこりとする声音を受け止めて、和彦は草履を履いて庭に出た。

 まず池をのぞき込み、鯉の背をながめる。悠々と泳ぐ鯉は、とても居心地がよさそうに見えた。水は澄んでいて、池の底まで透けて見える。ちいさな滝はとめどなく水を落として池の面を揺らしていた。わずかに立ったしぶきの粉が流れてくる。それに触れたくなって手を伸ばした和彦は、岩の上に身を乗り出した。指先はしぶきに届かない。

(そりゃ、そうだよな)
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