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井上香澄
(ええと私、どこに行こうとしていたんだっけ)
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なにも聞こえないけれど、自分という存在がこの場所にいるのだと理解する。こんな感覚ははじめてで、怖いようなうれしいような、新鮮なようでなつかしい不思議な気持ちが湧き上がった。
(私……ねえ、私)
そうっと小声で呼びかける。自分の中心に自分がいる。自分がいるなんて当たり前のはずなのに、ちっとも当たり前じゃなかったんだと香澄は知った。
(それじゃあいままで、私はどこに行っていたの?)
自分の疑問に自分で驚き、香澄はパチリと目を開けた。自分はここにいるのだから、どこにも行けないはずなのに。なんて変な疑問だろう。
「おばあちゃん」
ん? と祖母が目じりを細める。
「私は私から離れてどこかに行くなんてできないのに、私を見つけた気分なの。――なんでだと思う?」
奇妙な疑問でも、祖母ならそのまま受け止めてくれる。そんな確信を香澄は持っている。でなければ、こんな質問できるわけがない。クラスメイトに知られたら、哲学的と揶揄られるか、漫画のヒロインにでもなったつもりかとバカにされるか、なにそれウケると冗談にされるか……とにかく真面目な会話にはならない。両親だっておなじだろう。なにをバカなことをと、受け取ることすらしてくれない。
(あ、そっか)
だから気になっても言えないし、話せないのかと香澄は気づいた。香澄の表情の変化にあわせて、笑みに細まっていた祖母の目が開く。
「自分の居場所さえ忘れなければ大丈夫。しかたがない……だけど、しかたがないの中で、できることを見失わなければいいのよ」
「しかたがないの中で、できること」
そんなもの、あるのだろうか。
「ちいさなことでも、みつけられるのよ」
「そうやって、前向きに生きていけってこと?」
うーんと祖母はちょっと考え、そうじゃないわねと自分に向けてつぶやきながらうなずいた。
「どういうこと?」
「前向きになれないことだって、あるもの」
あっけらかんとした言い方に、香澄はきょとんとした。
「でも、しかたがないってあきらめながら、できることを探すんでしょう?」
「あきらめるんじゃないわ。受け入れるの」
「受け入れる」
どう違うのか、香澄にはピンとこない。
「あきらめると受け入れるって、どう違うの?」
「それは、むずかしいわねぇ」
難関大学の問題に取り組むみたいな顔で祖母がうなる。
「あきらめたらそこで終わってしまうけど、受け入れたらできることを探せるのよ」
そう言われても、香澄にはまだよくわからない。
「たとえばね、おばあちゃんの子どものときは戦争が終わったばかりで、いろいろなものがなかったの」
うん、と香澄は首を動かす。
「だから、ほしくても買えなかったりしたわ」
うん、と香澄はまたうなずいた。
「でも、それに代わるものはできないかなって探したの」
ふうん、と香澄は鼻息をもらす。
「そういうことよ」
(そういうことって……どういうこと?)
祖母の透明な瞳を見ながら、香澄は頭の中で祖母の言葉を繰り返した。
(あきらめるのと受け入れるのは違ってて、それは、ほしいけどなかったから、代わりのものがないかって探すってことで。それは、しかたがないって思うこと)
そして、しかたがないは、あきらめることじゃない。
「わかるような、わからないような」
つぶやく香澄の手の甲を、それでいいのよと祖母がやさしく叩いた。
「いますぐ、わからなくてもいいの」
「でも」
不満に唇を尖らせた香澄に、祖母が饅頭を薦める。
「いっぱい考えて疲れたでしょう? 甘いものを食べて、ホッとしたらわかるかもしれないわよ」
モヤモヤしながら香澄は饅頭をかじった。やさしい甘さが口の中に広がる。お茶を含むと、甘さがさらにふくらんだ。
(ああ、おいしい)
これだけでも、ここに来られてよかったと思う。
「はー、しあわせ」
目を細めた香澄は、心の底からつぶやいた。目の前には美しい庭園。わずかに流れてくる風はやさしく、すばらしく心地いい。どこまでも続く高い空は、親しげな光で地上を包んでいる。
時間がのんびりと進んでいた。
誰かのペースで歩かなくてもいい。
なにも気にしなくていい。
ただ単に、自分であるだけでいい。
それがとてつもなく贅沢に思えて、それってどうなの? と香澄は思った。
横目でチラリと祖母を見る。
いろいろとままならない人生を歩いてきたであろう祖母は、とてもおだやかな顔をしている。そういう表情になるまでに、どれほどの紆余曲折があったろう。
(嫌なこと、たくさんあったって言ってた。戦争のあとで、ほしくても手に入らないものもあったって。できなかったことも、きっと私よりもずっと多いはず)
それなのに祖母は、なんの悩みもなく生きてきたような平和な顔で庭をながめている。どうしてそんな表情になれるのか、香澄にはわからない。
(私がおばあちゃんになったら、眉間にすっごいシワがありそう)
思い通りにならなくて、誰かのせいにして。流されて流されて、気がついたら年を取っていそうだ。
「香澄は、ちゃんと意見を言っていい時代に生まれているのよ」
「えっ」
「それを、忘れないようにね」
にっこりする祖母に、香澄はポカンとする。
(そりゃあ、おばあちゃんの時代からすればそうかもしれないけど。でも、私には私の悩みがあるわけで)
昔と比べればとか、ほかの国と比べればなんて言葉は、いま抱えている悩みを無視する便利な言葉だ。そんなものでごまかされて、解決しないまま生きていける人なんていやしない。
(すくなくとも、私はそう)
抱えている悩みを、ほかよりはマシだなんて言葉でごまかして、気にしないなんて不可能だ。
(でも……私の悩みってなんだろう)
漠然とした不満や不安がわだかまっている。紐解いていけば、ちいさな問題はあれやこれやと、細かなグチとして吐き出せる。だけどそれはその場しのぎに文句を言って、スッキリした気になるだけで、根本解決にはならない。
それは友人たちのグチを聞きながら気づいたことだ。
文句を言って「だよねぇ」とか「わかるぅ」とか、共感をもらってとりあえず満足はするけれど、それで終わり。だから似たような文句が何度も何度も繰り返される。誰も反対意見をあまり言わない。あまり……ということは、まったくないというわけでないということで、だけど基本は共感を求められる。
違うんじゃないかなって、厳しく言う人はいない。軽い口調で反論とか別の意見がはさまれることもあるけれど、だいたいはそれにも「かもねぇ」なんて適当な共感が入って、なんら解決することなく、とりあえず会話は流れていく。
(私も、ひっかかりがあっても適当に返事してるし)
だから真剣な相談なんてしない。する子がまったくいないってわけじゃないけど、それをするにはかなり勇気がいる。誰もが同情をするくらいの出来事か、ものすごく腹が立って言わなきゃ気が済まないくらいの相談か。そうでなければ深い話はそうそう出ない。
そんな感じで、本気の相談は出てこない。誰かの出方を待って、空気を乱さないように、落ちることも飛び出ることもしないように、まわりの子たちの反応をうかがいながら生活している。
学生はいいよな、なんて言っている大人がいるけれど、その人たちは学生時代にそういう経験をしていないのだろうか。
(忘れているだけかも)
きっとそうだ。そして目の前の問題にいっぱいいっぱいで、とりあえず笑顔で調子を合わせている私たちを、気楽そうだと勝手にうらやんでいるんだ。
(でも、もしそうなら……大人になるの、嫌だな)
香澄は横目で祖母を見た。
香澄の知っている祖母は、いつもおだやかでにこにこしている。知らない場所では、想像もつかない悩みに苛まれているのだろうか。
(なんか、すごく気持ちが重くなってきた)
そもそもなんで、こんな話になったんだったか。
話のとっかかりを思い出そうとするけれど、ずいぶんと遠回りをしたからか、疑問があれこれ出てきたからか、思い出せない。
だけど不思議と、当初の問題からは大きく離れていない気もする。
(なんだろう、これ)
問題のすべてが、ひとつの根っこから生えている。
そんな感覚がある。
(わけわかんない)
「さて、と」
祖母が腰を上げて、まぶしそうに目を細めた。
「おばあちゃん、そろそろ行くわね」
「え」
「帰らなくっちゃ」
きょろきょろと周囲を見回しながら、香澄も立ち上がった。
「帰らなきゃって……まだ、なにもしてないよ。おばあちゃん」
「したわよ。大事なことは、ちゃんと終わったわ」
「施設の人のお迎えもきてないし」
差し出した香澄の手を、祖母は取らずに笑みを深めた。
「おばあちゃん?」
なにかがおかしい。
「また、会いにきてちょうだいね」
どういうこと? と言いかけた香澄の喉に声が引っかかる。くらりとめまいがして、瞼を落として息を吐く。頭の中に霧が立ち込めて気持ち悪い。
首を振って頭を押さえながら目を開けると、家から商店街に向かって伸びている道にいた。
「あ、れ……?」
いつの間に、こんなところに来たんだろう。まったく思い出せない。頭の隅がズキズキしている。
(なんだっけ)
なにか、大切でおもしろい体験をした気がする。だけどそれがなんなのか、さっぱり覚えていない。
(ええと私、どこに行こうとしていたんだっけ)
三者面談で母親が「この大学に行かせたい」と担任に伝え、担任もそれを受けて「井上さんの学力なら」と返事をしたことに腹が立った。腹が立っているのに「勝手に決めないで」と言えない自分にイライラしながら、ふたりの会話をおとなしく聞いているうちに悲しくなった。
家に帰って、母がもうその大学に進学するものと決めていることに落ち込んで、だけど「ここに行きたい」と強く言える進路も希望も、未来の展望でさえ持っていない自分が情けなくて、やるせなくて、家にいたくなくなって出てきたのだった。
とくに目的もなくて、だけどにぎやかなところに行けば気がまぎれるんじゃないかと考えて、商店街をぶらぶらしようと思ったのだ。
けれど家を出てからここまでの道中、どう歩いたのか記憶がない。ぼんやりしすぎていたから、あるいは落ち込みすぎてグルグルと思考をループさせていたから、覚えていないだけかもしれない。
(でも、なんか……なにか、ちょっといいことがあった気がする)
そう。大切な言葉を誰かにもらった気がする。
胸に手を当てた香澄は、ふっと脳裏に浮かんだ言葉に目を開いた。
(しかたがないって受け入れて、そこからできることを探す)
自分の力ではどうしようもないことは、山ほどある。だけどその中で、なにもかもできなくなったわけじゃない。
「うーん」
悩みながらでいいのかな、と香澄は顔を上げた。空は茜色に染まりはじめている。とてもやさしい青空を見ていた気がしたのは、なぜだろう。
なんだかよくわからないけど――モヤモヤは相変わらず胸の奥にあるけれど、それでもなにか希望の種が見つかった気分になって、香澄は胸を張って商店街に向かった。
(ドーナツ、買って帰ろう)
たしかいま、キャンペーンで安くなっているはずだ。母と自分のぶんを買って、それを食べながら母と会話をしてみよう。
とりあえず、どうして勝手に行かせたい大学を決めて教師に伝えたのか、どうしてそこなのかを聞いてみたい。
(私が勝手に進路を決められたって、思っているだけかもしれないし。ていうか私、どこの大学に行きたいとかなんか、そんな話をしたことなかった)
どうせ聞いてはもらえないと、あきらめて言われたとおりにするんじゃなくて、どうしてなのかと話をしよう。そして自分の、いまの気持ちをぶつけてみよう。
いまよりずっと嫌な気分になるかもしれない。だけど「気持ちを伝える努力はした」と、前を向いていられそうだ。それはきっと、いまのままよりマシのはず。
(よくなるかどうかはわからないけど、どうしてなのかを知ったら違う考えも出るかもしれない)
そう考えた香澄の足取りが軽くなる。
ほんのちょっと弾みながら、香澄はドーナツ店のドアをくぐった。
(私……ねえ、私)
そうっと小声で呼びかける。自分の中心に自分がいる。自分がいるなんて当たり前のはずなのに、ちっとも当たり前じゃなかったんだと香澄は知った。
(それじゃあいままで、私はどこに行っていたの?)
自分の疑問に自分で驚き、香澄はパチリと目を開けた。自分はここにいるのだから、どこにも行けないはずなのに。なんて変な疑問だろう。
「おばあちゃん」
ん? と祖母が目じりを細める。
「私は私から離れてどこかに行くなんてできないのに、私を見つけた気分なの。――なんでだと思う?」
奇妙な疑問でも、祖母ならそのまま受け止めてくれる。そんな確信を香澄は持っている。でなければ、こんな質問できるわけがない。クラスメイトに知られたら、哲学的と揶揄られるか、漫画のヒロインにでもなったつもりかとバカにされるか、なにそれウケると冗談にされるか……とにかく真面目な会話にはならない。両親だっておなじだろう。なにをバカなことをと、受け取ることすらしてくれない。
(あ、そっか)
だから気になっても言えないし、話せないのかと香澄は気づいた。香澄の表情の変化にあわせて、笑みに細まっていた祖母の目が開く。
「自分の居場所さえ忘れなければ大丈夫。しかたがない……だけど、しかたがないの中で、できることを見失わなければいいのよ」
「しかたがないの中で、できること」
そんなもの、あるのだろうか。
「ちいさなことでも、みつけられるのよ」
「そうやって、前向きに生きていけってこと?」
うーんと祖母はちょっと考え、そうじゃないわねと自分に向けてつぶやきながらうなずいた。
「どういうこと?」
「前向きになれないことだって、あるもの」
あっけらかんとした言い方に、香澄はきょとんとした。
「でも、しかたがないってあきらめながら、できることを探すんでしょう?」
「あきらめるんじゃないわ。受け入れるの」
「受け入れる」
どう違うのか、香澄にはピンとこない。
「あきらめると受け入れるって、どう違うの?」
「それは、むずかしいわねぇ」
難関大学の問題に取り組むみたいな顔で祖母がうなる。
「あきらめたらそこで終わってしまうけど、受け入れたらできることを探せるのよ」
そう言われても、香澄にはまだよくわからない。
「たとえばね、おばあちゃんの子どものときは戦争が終わったばかりで、いろいろなものがなかったの」
うん、と香澄は首を動かす。
「だから、ほしくても買えなかったりしたわ」
うん、と香澄はまたうなずいた。
「でも、それに代わるものはできないかなって探したの」
ふうん、と香澄は鼻息をもらす。
「そういうことよ」
(そういうことって……どういうこと?)
祖母の透明な瞳を見ながら、香澄は頭の中で祖母の言葉を繰り返した。
(あきらめるのと受け入れるのは違ってて、それは、ほしいけどなかったから、代わりのものがないかって探すってことで。それは、しかたがないって思うこと)
そして、しかたがないは、あきらめることじゃない。
「わかるような、わからないような」
つぶやく香澄の手の甲を、それでいいのよと祖母がやさしく叩いた。
「いますぐ、わからなくてもいいの」
「でも」
不満に唇を尖らせた香澄に、祖母が饅頭を薦める。
「いっぱい考えて疲れたでしょう? 甘いものを食べて、ホッとしたらわかるかもしれないわよ」
モヤモヤしながら香澄は饅頭をかじった。やさしい甘さが口の中に広がる。お茶を含むと、甘さがさらにふくらんだ。
(ああ、おいしい)
これだけでも、ここに来られてよかったと思う。
「はー、しあわせ」
目を細めた香澄は、心の底からつぶやいた。目の前には美しい庭園。わずかに流れてくる風はやさしく、すばらしく心地いい。どこまでも続く高い空は、親しげな光で地上を包んでいる。
時間がのんびりと進んでいた。
誰かのペースで歩かなくてもいい。
なにも気にしなくていい。
ただ単に、自分であるだけでいい。
それがとてつもなく贅沢に思えて、それってどうなの? と香澄は思った。
横目でチラリと祖母を見る。
いろいろとままならない人生を歩いてきたであろう祖母は、とてもおだやかな顔をしている。そういう表情になるまでに、どれほどの紆余曲折があったろう。
(嫌なこと、たくさんあったって言ってた。戦争のあとで、ほしくても手に入らないものもあったって。できなかったことも、きっと私よりもずっと多いはず)
それなのに祖母は、なんの悩みもなく生きてきたような平和な顔で庭をながめている。どうしてそんな表情になれるのか、香澄にはわからない。
(私がおばあちゃんになったら、眉間にすっごいシワがありそう)
思い通りにならなくて、誰かのせいにして。流されて流されて、気がついたら年を取っていそうだ。
「香澄は、ちゃんと意見を言っていい時代に生まれているのよ」
「えっ」
「それを、忘れないようにね」
にっこりする祖母に、香澄はポカンとする。
(そりゃあ、おばあちゃんの時代からすればそうかもしれないけど。でも、私には私の悩みがあるわけで)
昔と比べればとか、ほかの国と比べればなんて言葉は、いま抱えている悩みを無視する便利な言葉だ。そんなものでごまかされて、解決しないまま生きていける人なんていやしない。
(すくなくとも、私はそう)
抱えている悩みを、ほかよりはマシだなんて言葉でごまかして、気にしないなんて不可能だ。
(でも……私の悩みってなんだろう)
漠然とした不満や不安がわだかまっている。紐解いていけば、ちいさな問題はあれやこれやと、細かなグチとして吐き出せる。だけどそれはその場しのぎに文句を言って、スッキリした気になるだけで、根本解決にはならない。
それは友人たちのグチを聞きながら気づいたことだ。
文句を言って「だよねぇ」とか「わかるぅ」とか、共感をもらってとりあえず満足はするけれど、それで終わり。だから似たような文句が何度も何度も繰り返される。誰も反対意見をあまり言わない。あまり……ということは、まったくないというわけでないということで、だけど基本は共感を求められる。
違うんじゃないかなって、厳しく言う人はいない。軽い口調で反論とか別の意見がはさまれることもあるけれど、だいたいはそれにも「かもねぇ」なんて適当な共感が入って、なんら解決することなく、とりあえず会話は流れていく。
(私も、ひっかかりがあっても適当に返事してるし)
だから真剣な相談なんてしない。する子がまったくいないってわけじゃないけど、それをするにはかなり勇気がいる。誰もが同情をするくらいの出来事か、ものすごく腹が立って言わなきゃ気が済まないくらいの相談か。そうでなければ深い話はそうそう出ない。
そんな感じで、本気の相談は出てこない。誰かの出方を待って、空気を乱さないように、落ちることも飛び出ることもしないように、まわりの子たちの反応をうかがいながら生活している。
学生はいいよな、なんて言っている大人がいるけれど、その人たちは学生時代にそういう経験をしていないのだろうか。
(忘れているだけかも)
きっとそうだ。そして目の前の問題にいっぱいいっぱいで、とりあえず笑顔で調子を合わせている私たちを、気楽そうだと勝手にうらやんでいるんだ。
(でも、もしそうなら……大人になるの、嫌だな)
香澄は横目で祖母を見た。
香澄の知っている祖母は、いつもおだやかでにこにこしている。知らない場所では、想像もつかない悩みに苛まれているのだろうか。
(なんか、すごく気持ちが重くなってきた)
そもそもなんで、こんな話になったんだったか。
話のとっかかりを思い出そうとするけれど、ずいぶんと遠回りをしたからか、疑問があれこれ出てきたからか、思い出せない。
だけど不思議と、当初の問題からは大きく離れていない気もする。
(なんだろう、これ)
問題のすべてが、ひとつの根っこから生えている。
そんな感覚がある。
(わけわかんない)
「さて、と」
祖母が腰を上げて、まぶしそうに目を細めた。
「おばあちゃん、そろそろ行くわね」
「え」
「帰らなくっちゃ」
きょろきょろと周囲を見回しながら、香澄も立ち上がった。
「帰らなきゃって……まだ、なにもしてないよ。おばあちゃん」
「したわよ。大事なことは、ちゃんと終わったわ」
「施設の人のお迎えもきてないし」
差し出した香澄の手を、祖母は取らずに笑みを深めた。
「おばあちゃん?」
なにかがおかしい。
「また、会いにきてちょうだいね」
どういうこと? と言いかけた香澄の喉に声が引っかかる。くらりとめまいがして、瞼を落として息を吐く。頭の中に霧が立ち込めて気持ち悪い。
首を振って頭を押さえながら目を開けると、家から商店街に向かって伸びている道にいた。
「あ、れ……?」
いつの間に、こんなところに来たんだろう。まったく思い出せない。頭の隅がズキズキしている。
(なんだっけ)
なにか、大切でおもしろい体験をした気がする。だけどそれがなんなのか、さっぱり覚えていない。
(ええと私、どこに行こうとしていたんだっけ)
三者面談で母親が「この大学に行かせたい」と担任に伝え、担任もそれを受けて「井上さんの学力なら」と返事をしたことに腹が立った。腹が立っているのに「勝手に決めないで」と言えない自分にイライラしながら、ふたりの会話をおとなしく聞いているうちに悲しくなった。
家に帰って、母がもうその大学に進学するものと決めていることに落ち込んで、だけど「ここに行きたい」と強く言える進路も希望も、未来の展望でさえ持っていない自分が情けなくて、やるせなくて、家にいたくなくなって出てきたのだった。
とくに目的もなくて、だけどにぎやかなところに行けば気がまぎれるんじゃないかと考えて、商店街をぶらぶらしようと思ったのだ。
けれど家を出てからここまでの道中、どう歩いたのか記憶がない。ぼんやりしすぎていたから、あるいは落ち込みすぎてグルグルと思考をループさせていたから、覚えていないだけかもしれない。
(でも、なんか……なにか、ちょっといいことがあった気がする)
そう。大切な言葉を誰かにもらった気がする。
胸に手を当てた香澄は、ふっと脳裏に浮かんだ言葉に目を開いた。
(しかたがないって受け入れて、そこからできることを探す)
自分の力ではどうしようもないことは、山ほどある。だけどその中で、なにもかもできなくなったわけじゃない。
「うーん」
悩みながらでいいのかな、と香澄は顔を上げた。空は茜色に染まりはじめている。とてもやさしい青空を見ていた気がしたのは、なぜだろう。
なんだかよくわからないけど――モヤモヤは相変わらず胸の奥にあるけれど、それでもなにか希望の種が見つかった気分になって、香澄は胸を張って商店街に向かった。
(ドーナツ、買って帰ろう)
たしかいま、キャンペーンで安くなっているはずだ。母と自分のぶんを買って、それを食べながら母と会話をしてみよう。
とりあえず、どうして勝手に行かせたい大学を決めて教師に伝えたのか、どうしてそこなのかを聞いてみたい。
(私が勝手に進路を決められたって、思っているだけかもしれないし。ていうか私、どこの大学に行きたいとかなんか、そんな話をしたことなかった)
どうせ聞いてはもらえないと、あきらめて言われたとおりにするんじゃなくて、どうしてなのかと話をしよう。そして自分の、いまの気持ちをぶつけてみよう。
いまよりずっと嫌な気分になるかもしれない。だけど「気持ちを伝える努力はした」と、前を向いていられそうだ。それはきっと、いまのままよりマシのはず。
(よくなるかどうかはわからないけど、どうしてなのかを知ったら違う考えも出るかもしれない)
そう考えた香澄の足取りが軽くなる。
ほんのちょっと弾みながら、香澄はドーナツ店のドアをくぐった。
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