平成版保管庫

秋乃晃

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『聖夜祭』

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 白井海斗は腕時計を見ました。
 千円ショップで購入された安物ではありますが、過去二回電池交換に出してしまう程には気に入っています。
 電池交換は一回五百円なので、もう元は取れてしまっていますが、今日この日まで愛用しているのは、これこそが菊川凛から贈られた最初のプレゼントだからでした。
 ですが、彼女は海斗の左腕を見る度に「まだそんなのつけてるの?」だとか「新しいの買わないの?」などとおっしゃいます。
 そのたびに、海斗は永遠と続かせようとする恋に動かされて、寂しく笑うのでした。

 思い出は物にすら宿ります。
 贈り物ならなおさらでしょう。  

 針が刻んだその時々を振り返りました。
 あの時その時を思い起こし、反省します。

 傷つけてしまわないようにと熟考して発言するのが正しいとは限りませんが、しかし海斗には配慮が不足していました。
 そこまで人の出来た人間ではありません。
 だからこそ、過ぎ去ってしまった時だけは大事にしようと、考えているようです。

 *

 未来は見えません。  
 どんな人間にも、未来だけは変えられません。  
 時が止まらないのと同じように。  

 未来は既に確定しているのです。

 *

 とある接続駅の前にあります時計塔の下にて。

 イルミネーションが視界に入りますと、どうも、菊川凛はため息を吐きたくなるようです。

 あの行事が近付いていました。  

 何がサンタクロースなのでしょうか? 

 ――凛の家には来てくれませんでした。
 毎年十二月二十五日は、両親からその時一番欲しい物を買ってもらう日。
 年齢が上がるにつれて、価格も上昇しまして、終いには紙幣そのものをもらっていました。
 夢も何もありません。
 そこには現実だけがありました。 
 
 前日の二十四日の夕食にはケーキが用意されます。
 七面鳥は滅多に手に入りませんからと、鶏の丸焼きがテーブルの真ん中に鎮座しました。
 鶏卵の薫製が載ったサラダも、チキンライスも並べられます。
 鶏肉尽くしでした。  

 凛は九月九日生まれですので、一〇四日振り誕生日以来の豪勢な食事を、惜し気もなくお腹一杯に押し込めました。

 幸せな二日間だったと、当時を振り返って話します。 
 ささやかなパーティーは凛が高校を卒業し大学に入るにあたって下宿されるまで続きました。

 それが五年前までの話です。 

「はぁ……」  

 また、ため息を一つ吐きます。  
 待ち人の名は白井海斗。  

 白井海斗はいつでも遅刻してきました。 

「ごめんごめん」 

 いつも、笑いながら走ってくるのです。  
 汗がシャツにべったりと染み付いて、たまに寒風が吹けば震え上がる姿が可愛らしく可笑しくもありました。  

 どんなに立腹していても、許せてしまいそうになるのはどうしてでしょう。  

 今日も、当然のごとく遅刻してきました。  
 遅刻するなら遅刻すると連絡を入れれば怒られるなんてことにはならないのに、入れられないのは携帯電話を持ち歩いていないからです。  
 携帯しないケータイは携帯電話である理由がありません。
 海斗の携帯電話はほとんど固定電話のように、充電器に置いたまま持ち歩きませんので、何の為の連絡手段だかわかりません。  

 凛は海斗が携帯電話を持ち歩かないことをよく御存知なので、電話をかけたりメールを送ったりはしませんが、事情を知らない人間は一日に何十通と送ってきます。
 海斗が家に帰って最初にすることは着替えることではなく、その一通一通に返事を書くことでした。 

「お疲れさま」  

 走ってきた勢いでそのまま地に頭を着けてしまいそうな海斗に、凛は優しく声をかけました。
 きょとんとした顔が自然に作られます。  

 けれども今度は凛がいじわるそうに、「時計見てないの?」となじりました。

 この腕時計、凛が海斗に誕生日プレゼントとして買い与えました最初の贈り物です。  

 今年の五月に大破しました。
 何者かに踏みつぶされてしまったかのように、アナログの針が折れ曲がり電池から液が漏れだし時計盤は真っ二つに折れて、見るも無惨な形となります。

 しかしながら、海斗が自力で直しました。

 この時計に込められました思い出は新品を購入するのでは代わりになりません。  
 記憶に値段は付けられないものです。  
 たとえ元が千円だとしても、電池を交換したとしてと、ちっとも惜しくありません。
 簡単に切り捨ててしまってはいけない存在ですから。

「ちゃんとほら、今日は五分しか遅刻してない!」 

 接着剤まみれの腕時計を凛に見せつけながら、誇らしげに主張しました。
 凛は自分の携帯電話を取り出し、時刻を見ます。 

「……その時計が遅れてるの」  

 うぇ? と、海斗は擬音を発して、凛の頭上にある時計を見ました。
 凛の言う通りに、まったく時刻が合っていません。
 海斗は凛を一時間待たせています。  

 いよいよ青ざめて、アスファルトに頭を擦り付けてしまいそうな海斗に、「去年は一時間半だったからいいじゃないの」と、凛が慰めます。  

 去年。
 一人はある一匹の子猫を、もう一人はとある少女=白菊美華を思い出す、一年前の話。

 *

『風車宗治を讃える会』の責任者が滞在する部屋に、霜降伊代は呼び出された。
   
 結露一つもない、少ないお給金でも喜んで働いてくれる人々が何回も何回も丁寧に拭き直した窓は、百万ドルには適わないが百万セントには届くだろう景色を見せてくれる。  
 惜しいかなこの部屋の主はあまり外を見ない。
 どんなに美しくとも同じ風景を十年以上も見せられれば飽きてしまう。  
 横長の程度を知らない机のその端には年代物の蓄音機が置かれている。
 残念ながら、これは飾りであって実際に聴くことは出来ない。  
 その奥、部屋の片隅には巨人が作ったような大きさのスピーカーが装備された、総額にしていくらかかったのだかわからないオーディオ機器が整然と並べられている。  

 照明はクリスマスが今日なこともあってか、赤緑が順番に、白青が互い違いに、直列つなぎで照らされている。
 逆に目がチカチカしてしまいそうだ。  
 壁には日替わりで世界の国旗が貼ってある。
 入室者に問題を出し、もし正解すればそれなりの景品を与えようと考えているが、正解者は未だにいない。
 そろそろ年も明けるというのに。  

 自由奔放に居場所を造り上げた作倉卓は伊代を見てにっこりと微笑んだが、彼女は憮然とした表情を崩すことはなかった。
 理不尽だが、半ばキレ気味に「なんでしょうか?」と訊ねる。  
 世間はクリスマス。  
 つまらない用事でも押し付けようものならば。

「誰か相手でも居ましたかねぇ」

 耳障りなことを呟くが無視することにする。 
 
 一九九七年の能力者保護法によって設立されたこの組織は、さほど上下関係が厳しいわけでもない。
 実力主義と言えば聞こえがいい。 

 拒否権はあるが、それは自分の首を絞める結果に陥る危険性を孕んでいる。
 つまりは、拒否権がないのと同じだ。  

 能力者が社会に跋扈すれば、何が起こるのか、排他されて病状悪化し事件を招く。
 それこそ警備隊に死傷者が多数出てしまった香春隆文の起こした事件の類型が頻繁に起こってしまっては保護法どころか撲滅法になりかねない。  

 冷静さを失い、感情に任せて短絡な行動を取れず、隔離されて飼い殺されている非情な現実こそが、人間第一主義の中で能力者が生き残る為の『理想の世界(=第三文明)』だった。

 霜降伊代、いや、作倉卓も、能力者の中では理解のある方だった。
 自得に繋がらない行為は慎むべしとしている。
 そうでもなければ重役には就けない。  

 そうではあるが、しかしながら、伊代は作倉に命ぜられるのを快く思っていなかった。

 まあまあ、と伊代を宥めると、積年の恨み辛みが籠もった睨みを利かされる。
 作倉は白髪の一本もない頭を軽く掻いて、その手で虚空に手招きした。  

 すると、奥から某会社が作った映画の主人公のようなロボット――クリスマス仕様なのかトナカイの角を頭にくっつけている――がからころと音の立つキャスターを滑らせてやって来た。
 絨毯で転んでしまうといったお茶目さも兼ね備えている。

  おかげでウィーリー(という名前らしい)がその腕に載せていたサンタクロースコスチューム一式は床に散らばった。
  
 作倉は「やれやれ」と言うだけで動きそうにないので、伊代が拾ってあげる。
 腕を一回転させて、よいしょと立ち上がった作倉が趣味の一環として自主制作したお手伝い用ロボットは、拾った相手に合成音声で「ありがとうございます」とよくある片言の日本語ではなく、とても流暢に言った。
 ボーカロイドでもここまでは望めないだろう。  

 伊代が「どういたしまして」と答えると、そいつは頬を赤らめた(ように見えた)。
 それから、いそいそと退散してしまう。 

「これを着て、溶石君のところにでも行ってあげてください。喜ばれるでしょう、クリスマスですしねぇ」  

 作倉は愉快な言葉を発している。
 視線は伊代に向けられておらず、手元の設計図のようなものに下ろされていた。   

「……楽しそうですね」  

 伊代が皮肉ると、悪びれることもなく「この子のプログラムを組むのが面白くて仕方ありませんからねぇ」とのたまう。

 きっと未来を見ているに違いない。
 作倉はそんな能力者だった。

 左目で過去、右目で未来を視る、『予見』の能力者。 

「知りませんよ」  

 そんな捨て台詞を吐いて、伊代は出て行った。
 サンタクロースの服装もちゃんと持って行ったので、よしとする。  

 *

 ある日、こんな問題が起こりました。
   
 三人の住む場所です。  
 菊川凛は白井海斗の住居で白菊美華を育てようとしましたが、一足踏み入れる隙もありませんでした。  

 玄関にはカップ麺やペットボトルの空が散らばり、部屋にはシャツと下着が一丸となっており、キッチンには洗われていない皿にコップが積み重なり……あまりにもひどく臭いがきついので、凛は「こんなところで育てられるわけないじゃないの」と海斗に片付けを要求し、渋る海斗の背を蹴り飛ばしました。

 結局、凛の下宿先で預かることになったのです。   

 風呂、トイレ付きのワンルームに女性二人内一人幼子。  

「あれ、俺は……?」  

 がちゃん、と扉を閉められた後に、海斗が一言呟きました。
 初めて凛の家に上がれる、とちょっとした期待を込めていましたが、この時はまだ叶いませんでした。
 今現在も叶っていません。  

 しょうがなくすごすごと帰った海斗は、不要物をゴミ袋に詰め込みました。
 割と丈夫に出来ているはずですが、一枚二枚と破けてしまい、とうとう二重にして使用する始末。
 汚れがこびり着いてしまってなかなか取れない食器類も、だいぶ捨ててしまいました。  

 こうして片付けて行き、ようやく美華を迎え入れる準備が出来た頃には、美華は凛の家を気に入ってしまい、海斗の部屋に来ても勝手に帰ってしまうようになってしまいました。

 困った二人は、海斗がなけなしの貯蓄をはたくことで三人が住めるような部屋を借りるという結論に至ったのでした。  

 *

 こんな事件がありました。  

 海斗の大事な大事な時計が壊されていたのです。
 いや、壊されたと言うと悪く聞こえます。
 訂正しましょう。
 壊れていたのです。  

 海斗は毎晩、防水仕様ではない腕時計を風呂場にまで付けたままにしてしまう程に、まさしく“肌身離さず”所持していました。  
 にもかかわらず。  
 腕時計は大破していました。
 もうボロボロです。

 間違えて踏み付けてしまったかのように押し潰されていましたが、ちょうど三と九の数で半分にされていました。  
 中に組み込まれていた大小様々の歯車が、右から大きい順に並べられています。
 いたずらもここまで来ると一種の芸術でした。
 意図的でないとしたら偶然なのでしょうか。 

「海斗、そんなにがっかりしないの」  

 玄関先にあった腕時計の残骸どもを見つけてしまったのは凛でした。
 第一発見者です。

 美華はこの頃にはもう八歳程度の外見をしておりましたが、まだすやすやと寝息を立てていました。  

 海斗は破片を一つ残さず拾い集めて、テーブルの上に並べ直します。
 無言でした。
 ただひたすらに接着剤やドライバーを用いて直そうとしています。  

 凛は心配そうに見つめ、ようやく起き上がった美華はきょとんとしていました。  

 この作業は一昼夜続きます。

 海斗はその間、食を絶ちました。
 思い出に憑かれ、体力も気力も果てて精根尽きたその時、机に突っ伏して寝込みました。  

 四〇度近い高熱を出し、三日三晩布団に包まり眠り続けました。
 その後起き上がると、また腕時計を直そうとしました。  

 アルバイトは休みました。

 親からの仕送り金が望めない家庭の経済状況であるが故に海斗は高校在学時からバイトをしてお金を貯蓄し、大学の入学金に充てていました。
 凛との約束に毎度遅れてしまうのはバイトのせいでした。

 ここまでして直そうとする海斗を、凛は止めることが出来ませんでした。
 内心思うのです。

 もう少し高いのを買ってあげればよかったな、と。

  「出来た、眠い!」  

 日常生活やや崩壊から二週間後に、腕時計は完治しました。
 直った直ったと飛び跳ねて喜び、やがては全身の疲労を思い出して布団に飛び込みました。
 数秒もしない内に夢の中へ。  

 海斗が直した腕時計を、海斗の次に眺めたのは美華でした。
 手に取り、見事に接着されていることに感動しまして、涙が一筋溢れました。   

 白菊美華という識別記号を授けたのは海斗でした。

 白井海斗の白と、菊川凛の菊を貰って白菊という名字にし、文字の並びの良さから美華と名前を繋げたと言います。  

 どうして名字から一つずつ取ったのかを問えば「二人(海斗と凛)の子供だから」とよくわからない理由を押し付けられました。

 海斗の中の常識では、名字はお互いの両親から取るものだそうです。
 となると、美華は井川という名字になっていたかもしれません。  

 美華は海斗と凛の子供ではありません。  

 二〇〇七年のクリスマスに、海斗が河川敷から拾って来た子供でした。

 何故、そんな所に段ボール箱に入れられていたのかとお尋ねしますと、我が主は「にゃにゃにゃーにゃにゃーにゃ、にゃ? みゃー」とおっしゃいました。

 日本語で訳せば、「その方が拾っていただけるでしょう、ね? みゃー」となります。 

 *

 白菊美華は子猫でした。
 海斗から見れば。  

 白菊美華は少女でした。
 他人から見れば。   

 海斗の目が錯覚を起こしていました。   

 それは雨が飴に見えてしまうように。  
 それは飴が雨に見えてしまうように。   

 第三文明の不可思議が引き起こす一つの可能性でした。 

 *

「どこに行くの?」  

 しんみりとした雰囲気を打開したのは凛でした。

 過去の記憶に縛られがちなのは海斗の困った性分ではありますが、悲しい思い出は早くも脳内から露となって消え去り、「海行こう、海!」とはしゃぎ始めました。  
 ちなみに季節は冬です。  

 何度も書くようですが本日はクリスマスです。  

 最低気温二度。
 最高気温八度。 

「寒中水泳したいの?」  

 馬鹿は風邪を引かないとは言うようですが、冗談ではなく身の凍る話です。
 明日の新聞に載ってしまうでしょう。

『クリスマスに海に飛び込んだカップル、行方不明』
 とでも書かれてしまいます。
 捜索隊が出てきてしまいます。  

 世間の迷惑です。  
 恥さらしとも言います。 

「じゃあさ、あれだよ、ツリー見に行こう、ツリー。どこだっけ、ほら昨日テレビでやってた……有名人の誰かが昨日の点灯式で……」 
「段差に躓いて転けちゃったって?」 
「そうそうそれそれ。そこ行こう」 

 *  

 私は「名付け親はこのように元気です。能力者になることなく人間として生きています。きっと、白菊美華のことなどどうでもいいのでしょう。……それで構いません。思っていたよりも人間は強いようです」と言いました。  

 そんな二〇〇八年も過ぎ行きます。  
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