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それから
未定のこと
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『今日も、一緒に帰れる?』
17:00に送られてきたラインにいつも通り『大丈夫です』と返事をする。
今日も、私は定時で上がった。
あれから考えた後、やっぱりこれは話さないといけないという結論になった。
自分の中で。
問題は、何を話すかということ。
愁君が仕事に慣れたら、改めてこの関係について話そうと思うくらい。
でも、彼は2ヶ月前から「ほぼ慣れた」を繰り返している。
入社して1ヶ月もしない内に、そう言っていた彼。
補助が外れて、すでに1ヶ月は経つ。
マイペースに、総務課の仕事をしている。
会社で、何となく私とのことを匂わせたいらしい。
というか、総務課の人達はすでに知っている。
愁君がはっきり言ったらしい。
だからか、すでに総務課とどこまでだろうか?
時々、会社の人に聞かれている。
「総務の新人と付き合っているのか?」と。
ただただ、肯定しかできない自分。
ここまで来て破局はきつい。
気持ち的にではなく、社会的に…だ。
すでに社会人として働いている私。
今、駄目になったら年度末まで働くのはきついなぁ。
かと言って、途中で辞めるのも違う。
無責任すぎる。
いや、何で破局して会社を辞める方向になるのか…。
ネガティブすぎでしょ。
良い方向に考えないと。
でも、良い方向って、どんなこと?
そう言えば、友成君と要さんはうまくまとまったらしい。
良いなぁ。
友成君は本人いわく『腹を括った』とのこと。
高額ローンが無駄にならずに済んだことにホッとしたらしい。
それはそうだろう。
要さんに何も聞かずに、勝手に家を決めるとかどうかしている。
でも、要さんは素直に喜んでくれたらしい。
あの2人ならではの結果だろう。
要さんは、本当に友成君を尊敬している。
そして、純粋に好きだ。
思い込みでも何でも、友成君しか好きじゃない。
そう言い切っている。
それだけ思われ、友成君はついに覚悟を決めたらしい。
といっても、その覚悟は元々持っていた物だ。
確実に常備していたものだから、本人の意識の差だけとも言えるだろう。
友成君にそんなことを言えば、また嫌そうな顔をするだけだ。
だから、余計なことは言わない。
「お疲れ、紗枝さん」
後ろから慣れたように、岡田君が手を握る。
「…お疲れ様」
勿論振り払わずに、そのまま繋がれる。
もう、手についても言うのは止めた。
諦めたとも言うのかな?
言っても言わなくても、愁君はしたいことをする。
シンプルな彼。
『だって、付き合っているのに隠す理由はないでしょ?』
そう言われてしまった。
確かに、社内恋愛は禁止されていない。
むしろ推奨されている。
本部長から。
それを考えると、彼のしていることはおかしいことではない。
「紗枝さん」
考え事をしていても、愁君の声にはきちんと反応する。
「何?」
「今日、家に行っても良い?」
「良いよ」
「やった」
ほぼ毎日のように家に来ていることも、もうどうしたら良いのか分からない。
泊まることは、流石に週末以外は譲らないけれど。
私が1人でこそこそとしていることが、無駄に思えたから。
他の社員さんのように、付き合っているのなら肩肘張らずに過ごせば良い。
それに、恋愛しているからと言って、私の仕事に影響は出ていない。
広報の高田さんと営業の田中さんは、少しぎくしゃくしているとか…。
初々しい。
良いなぁ。
恋愛に仕事に、煌めているように見える。
「紗枝さん」
「ん?」
「疲れている?」
「ううん、どうして?」
「何となく、そう思っただけ」
愁君が、私の体調を気遣うようになった。
元々、私の意識や行動の変化に気付く子だった。
髪型の変化や、シャンプーや洗剤類の違いもすぐに分かる子。
だからか、いつもと違うと疲れていると思われてしまう。
「紗枝さん」
「はい?」
「もうすぐ、夏休みでしょ?」
「そうだね」
「どこかに出かけない?」
「どこかって?」
「有休を合わせて、一緒にお泊りとか?」
「お泊り」
「ボーナスも入ったし、少しなら奮発しても良いでしょ?」
こういう所が、愁君の可愛い所。
「出し合えば、もう少しグレード上がるもんね」
「違う違う、これは俺が出すの。紗枝さん、俺の卒業と入社祝いで時計くれたでしょ?高いやつ」
「高いと言っても、きちんと使えるし…。必要な物だからね」
「でも、嬉しかったし。だから、俺からのお返しでお泊りに行きたいです。というか、仕事頑張ったから俺にもご褒美ください」
「ご褒美って…」
思わず笑ってしまった。
これは、彼の変な癖だ。
ご褒美なんて、言い方次第なのに。
中学の時に、受験前の模試で合格圏内の判定が出たら、私からご褒美があると伝えた。
それがきっかけだった気がする。
その時のご褒美なんて、可愛いもの。
私の大学の構内見学と、彼が興味のあったプログラミングの講義受講をサプライズで設けただけだ。
高校を飛ばして、大学にご招待。
彼は、すごく目を輝かせていた。
高校の先にこんな未来があると、しっかりとした未来を意識したそうだけど。
愁君は、偏差値の高い高校に合格した。
そして、公立の中でも名門の大学に合格した。
あの頃受講した講義より、レベルの高い講義を受けられるようになった。
そう、喜んでいた。
でも、それは彼の努力の賜物だ。
私がしたことなんて、すごく些細な世界を見せただけ。
それに、彼が恩を感じることなんてないのに…。
繋がれた手に、力が入り思わず我に返る。
「紗枝さん?」
「あ、ごめん。無理をしないでほしいけど…。私も、愁君と一緒ならどこでも良いから」
暗に、高い所じゃなくても良いことを返答する。
「やった。場所はどこが良い?」
自然に離される手。
駅に着き、改札を通るからだろう。
こういう所も、スマートになった。
本当に、良い子になって。
というか、愁君は贔屓目を覗いても、十分良い子だ。
性格も明るいし、相手を気遣えるし、空気も読める。
一緒にいて、安心するというか。
本当に、私だけが良いとこ尽くし。
愁君とお付き合いすることは、私だけに有利な気がする。
「行きたい所ある?」
「…どこでも?暑いから涼しい所が良いかな?」
私の言葉に、愁君は少し考える。
「少し上の方に行く?」
「上?」
「紗枝さんが何をしたいかによるけど…。体験とか、テーマパークとか」
「うーん、あんまり希望はないかな?」
「そう?」
「うん、涼しい所でのんびりしたいくらい」
「そっか、じゃあ後でパンフ観よ?検索したら、ネットでも予約できるかな?」
嬉しそうに言う顔に、私もつられて嬉しくなる。
「もう、気が早いなぁ。愁君は」
「そう?だって、早く取らないと、良いホテルなくなりそう」
電車の中でも、愁君はウキウキしていた。
夏になって、汗をかいていても愁君は爽やかだ。
私は、暑いのは苦手だ。
寒い方が、個人的に好きだしどうにか動ける。
「紗枝さん、暑い?電車の中、クーラー効いているけど」
「あぁ、うん。でも、楽になったかな?」
愁君はサッカー部だったこともあり、暑いのは慣れている。
そう言っていた。
私は引きこもりが多かったし、バイトも夏は極力しなかった。
だから、余計に苦手だ。
動かないことで、暑さに慣れない。
駄目な流れのまま大人になった。
「駅に着いたら、早く紗枝さんの所に避難しよ」
「そうだね」
そう言いながら、今朝はゴミ出しをしたから良いけれどゴミ出しをしていない日は生活臭とでも言うのか、アパートに帰ると匂いが気になる。
だから、少しだけ密封性の高いゴミ箱に買い替えたのは秘密だ。
すぐに愁君には気付かれたけれど、もう古くなったからという何とも微妙な言い訳を返してしまった。
「暑いから、そうめん食べよ?俺、茹でるから」
「いいよ?特に変わった工程はないし、準備も簡単だし」
「じゃ、一緒にやろ?その方が暑いのも早く終わるし」
こういう所が、本当に良いなぁ。
愁君のすごさを感じながら、2駅過ぎる。
すぐにアパートなので、鍵を開け愁君に入ってもらう。
「ただいま。お邪魔します」
「おかえり。いらっしゃい」
この奇妙なやり取りも、不思議。
普通は私が『ただいま』のはずなのに。
先に愁君が言うから、つい反射で『おかえり』と言ってしまう。
荷物を置き、着替えをしようかと考えていると手を引かれた。
強引ではないけれど、誘導するような動きだった。
立ったまま向かい合い、愁君を見上げる。
愁君は、少し視線を彷徨わせたけれどしっかりと私と目を合わせた。
どうしたんだろう?
「先に、話がしたいです」
愁君の声に、首を傾げる。
「あ、旅行の?」
「違う」
愁君の声は、少しだけ緊張している響きだ。
私も、ドキドキしてしまう。
「紗枝さん?」
「はい、何でしょう?」
「まずは、紗枝さん。最近どうしたの?ここ1~2週間くらい、変じゃない?暑さとか、疲れとか、そういうのじゃなくて…」
愁君の声に、『とうとう聞かれてしまったか…』という諦めの気持ちが生じる。
どう伝えようか迷いながら、やっぱり愁君との平穏な生活に未練があって言い出せなかった。
何が『愁君が仕事に慣れたら』だ。
何が『どう伝えようか』だ。
私が何かを伝えるのは、もしかしたら軋轢を生みだす。
それは、取り戻せるのか。
もし、取り戻せなかったら?
修復も、補修もできなかったら?
そんなことを思うと、やっぱり言い出せなかった。
でも、愁君はあっさりとその質問を問いかけてくる。
これが、若さなのかな?
愁君が成長して嬉しいはずなのに。
「紗枝さん?」
「…はい」
「座ろ?」
「そうだね」
リビングに腰を下ろす。
ソファは小さい。
2人が座ったら、窮屈過ぎるほど。
ここは、愁君のお気に入りの場所だった。
「狭いけど、紗枝さんとくっつける」
そう嬉しそうに言ってくれた愁君。
「これなら、くっついても仕方ないよね?」
私といることを、望んでくれた愁君。
今は、ラグの上だ。
手を引かれながら、ゆっくりと座る。
愁君と向かい合うように、ゆっくりと。
「紗枝さんが、何かを考えているのは知っているよ?」
愁君の顔は真剣だ。
「それは、俺に話せないこと?」
違うけれど、そうではない。
迷っていると、手を握られる。
「じゃ、先に言うよ?俺は紗枝さんが好きだよ。付き合った2年前から変わらず、もっと言えば、知り合った7年前から、ずっと」
こんなに嬉しいことはない。
愁君の素直な言葉。
聞いていて、色々な思い出がさっと通り過ぎる。
別れ話じゃない。
でも、私が間違ったらどうなるの?
分からない。
だから、怖い。
「俺さ、紗枝さんに無理をさせてる?」
「…ううん」
「俺のこと、嫌になった?」
「そんなことない」
「じゃあ、何を悩んでいるの?何を考えているの?」
愁君の言葉が、折り重なるように降って来る。
「俺には言えないこと?俺に知られたら困ること?」
積み重なって、怖さが増す。
「違うよ?愁君」
声は震えてしまったけれど、きちんと否定する。
「じゃあ、ゆっくりで良いから。ちゃんと教えて」
「…そうだね」
「あ、これも先に言っておくけど、俺は別れないよ?」
「え?」
愁君の言葉に、私の思考が止まる。
「え?って何?俺が言い出すとか考えているなら、本当時間の無駄。紗枝さんの時間で俺に使って良いのは、俺へのお願いごとか俺への我儘くらいかな?」
「…ん?」
「紗枝さんが、安心して甘えられるように、もっともっと働いてしっかり出世するから」
愁君の言葉が、しっかりと残る。
「紗枝さんが、産休とか育休とか取れるように、俺が経理やろうか?」
とんでもないことを言う愁君。
「そうだ、それが良いよね。鷹村の経理って紗枝さんしかいないじゃん?それっておかしいもんね?誰に言えば良いのかな?副社長?倉橋部長?」
私の言葉を待たずに、愁君は1人で喋る。
「紗枝さん、何か言ってよ」
急に、顔を顰める愁君。
私はさっきから、コロコロ変わる愁君の表情と言葉に、ついていくのがやっとなのに。
「ねえ?俺は、そんなに簡単に紗枝さんの中からいなくなる存在?俺のこと、何とも思っていない?他の新人、相田とか錦織とかの方が良い?何か言ってよ」
何も言わない私に、愁君に握られた手に力が入る。
「俺は嫌だよ。そんな簡単に別れられる男だと思わないで?面倒だよ?俺、紗枝さんに別れ話なんて言われたら、仕事行かないからね」
「えぇ?」
「そうしたら、責任感の強い紗枝さんは俺のこと養ってくれるよね?俺、紗枝さんのアパートから出て行かないよ?家のことは、何でもやるし家事も全部する。ヒモでもなんでも、紗枝さんが見捨てないでくれるなら」
愁君の言葉は、極論過ぎる。
私が仕事を辞めるのとか、もう稚拙な程に。
「そうだ。それも良い。俺、明日から仕事行かない。紗枝さんは毎日定時で上がってくれるし、朝も比較的ゆっくりだし。まずは籍を入れて、俺が紗枝さんのお家にお婿さんに行くのもありだし。紗枝さんが妊娠したら、俺が働けば良いのか?」
「…」
絶句。
そうだ。
これは、まさに絶句というのかな?
というか、愁君は長男だ。
お婿さんに来るとか、それはいけない気がする。
本当に、愁君のご両親に恨まれそう。
「待って待って、愁君。ストップ!」
さっきまでの悲壮な感じは全くなく、本当に仕事のようなはっきりとした頭になる。
こんな未定のことで、愁君の将来を決めるのは違う。
愁君はやると言ったらやる子だ。
それが不安を煽る。
17:00に送られてきたラインにいつも通り『大丈夫です』と返事をする。
今日も、私は定時で上がった。
あれから考えた後、やっぱりこれは話さないといけないという結論になった。
自分の中で。
問題は、何を話すかということ。
愁君が仕事に慣れたら、改めてこの関係について話そうと思うくらい。
でも、彼は2ヶ月前から「ほぼ慣れた」を繰り返している。
入社して1ヶ月もしない内に、そう言っていた彼。
補助が外れて、すでに1ヶ月は経つ。
マイペースに、総務課の仕事をしている。
会社で、何となく私とのことを匂わせたいらしい。
というか、総務課の人達はすでに知っている。
愁君がはっきり言ったらしい。
だからか、すでに総務課とどこまでだろうか?
時々、会社の人に聞かれている。
「総務の新人と付き合っているのか?」と。
ただただ、肯定しかできない自分。
ここまで来て破局はきつい。
気持ち的にではなく、社会的に…だ。
すでに社会人として働いている私。
今、駄目になったら年度末まで働くのはきついなぁ。
かと言って、途中で辞めるのも違う。
無責任すぎる。
いや、何で破局して会社を辞める方向になるのか…。
ネガティブすぎでしょ。
良い方向に考えないと。
でも、良い方向って、どんなこと?
そう言えば、友成君と要さんはうまくまとまったらしい。
良いなぁ。
友成君は本人いわく『腹を括った』とのこと。
高額ローンが無駄にならずに済んだことにホッとしたらしい。
それはそうだろう。
要さんに何も聞かずに、勝手に家を決めるとかどうかしている。
でも、要さんは素直に喜んでくれたらしい。
あの2人ならではの結果だろう。
要さんは、本当に友成君を尊敬している。
そして、純粋に好きだ。
思い込みでも何でも、友成君しか好きじゃない。
そう言い切っている。
それだけ思われ、友成君はついに覚悟を決めたらしい。
といっても、その覚悟は元々持っていた物だ。
確実に常備していたものだから、本人の意識の差だけとも言えるだろう。
友成君にそんなことを言えば、また嫌そうな顔をするだけだ。
だから、余計なことは言わない。
「お疲れ、紗枝さん」
後ろから慣れたように、岡田君が手を握る。
「…お疲れ様」
勿論振り払わずに、そのまま繋がれる。
もう、手についても言うのは止めた。
諦めたとも言うのかな?
言っても言わなくても、愁君はしたいことをする。
シンプルな彼。
『だって、付き合っているのに隠す理由はないでしょ?』
そう言われてしまった。
確かに、社内恋愛は禁止されていない。
むしろ推奨されている。
本部長から。
それを考えると、彼のしていることはおかしいことではない。
「紗枝さん」
考え事をしていても、愁君の声にはきちんと反応する。
「何?」
「今日、家に行っても良い?」
「良いよ」
「やった」
ほぼ毎日のように家に来ていることも、もうどうしたら良いのか分からない。
泊まることは、流石に週末以外は譲らないけれど。
私が1人でこそこそとしていることが、無駄に思えたから。
他の社員さんのように、付き合っているのなら肩肘張らずに過ごせば良い。
それに、恋愛しているからと言って、私の仕事に影響は出ていない。
広報の高田さんと営業の田中さんは、少しぎくしゃくしているとか…。
初々しい。
良いなぁ。
恋愛に仕事に、煌めているように見える。
「紗枝さん」
「ん?」
「疲れている?」
「ううん、どうして?」
「何となく、そう思っただけ」
愁君が、私の体調を気遣うようになった。
元々、私の意識や行動の変化に気付く子だった。
髪型の変化や、シャンプーや洗剤類の違いもすぐに分かる子。
だからか、いつもと違うと疲れていると思われてしまう。
「紗枝さん」
「はい?」
「もうすぐ、夏休みでしょ?」
「そうだね」
「どこかに出かけない?」
「どこかって?」
「有休を合わせて、一緒にお泊りとか?」
「お泊り」
「ボーナスも入ったし、少しなら奮発しても良いでしょ?」
こういう所が、愁君の可愛い所。
「出し合えば、もう少しグレード上がるもんね」
「違う違う、これは俺が出すの。紗枝さん、俺の卒業と入社祝いで時計くれたでしょ?高いやつ」
「高いと言っても、きちんと使えるし…。必要な物だからね」
「でも、嬉しかったし。だから、俺からのお返しでお泊りに行きたいです。というか、仕事頑張ったから俺にもご褒美ください」
「ご褒美って…」
思わず笑ってしまった。
これは、彼の変な癖だ。
ご褒美なんて、言い方次第なのに。
中学の時に、受験前の模試で合格圏内の判定が出たら、私からご褒美があると伝えた。
それがきっかけだった気がする。
その時のご褒美なんて、可愛いもの。
私の大学の構内見学と、彼が興味のあったプログラミングの講義受講をサプライズで設けただけだ。
高校を飛ばして、大学にご招待。
彼は、すごく目を輝かせていた。
高校の先にこんな未来があると、しっかりとした未来を意識したそうだけど。
愁君は、偏差値の高い高校に合格した。
そして、公立の中でも名門の大学に合格した。
あの頃受講した講義より、レベルの高い講義を受けられるようになった。
そう、喜んでいた。
でも、それは彼の努力の賜物だ。
私がしたことなんて、すごく些細な世界を見せただけ。
それに、彼が恩を感じることなんてないのに…。
繋がれた手に、力が入り思わず我に返る。
「紗枝さん?」
「あ、ごめん。無理をしないでほしいけど…。私も、愁君と一緒ならどこでも良いから」
暗に、高い所じゃなくても良いことを返答する。
「やった。場所はどこが良い?」
自然に離される手。
駅に着き、改札を通るからだろう。
こういう所も、スマートになった。
本当に、良い子になって。
というか、愁君は贔屓目を覗いても、十分良い子だ。
性格も明るいし、相手を気遣えるし、空気も読める。
一緒にいて、安心するというか。
本当に、私だけが良いとこ尽くし。
愁君とお付き合いすることは、私だけに有利な気がする。
「行きたい所ある?」
「…どこでも?暑いから涼しい所が良いかな?」
私の言葉に、愁君は少し考える。
「少し上の方に行く?」
「上?」
「紗枝さんが何をしたいかによるけど…。体験とか、テーマパークとか」
「うーん、あんまり希望はないかな?」
「そう?」
「うん、涼しい所でのんびりしたいくらい」
「そっか、じゃあ後でパンフ観よ?検索したら、ネットでも予約できるかな?」
嬉しそうに言う顔に、私もつられて嬉しくなる。
「もう、気が早いなぁ。愁君は」
「そう?だって、早く取らないと、良いホテルなくなりそう」
電車の中でも、愁君はウキウキしていた。
夏になって、汗をかいていても愁君は爽やかだ。
私は、暑いのは苦手だ。
寒い方が、個人的に好きだしどうにか動ける。
「紗枝さん、暑い?電車の中、クーラー効いているけど」
「あぁ、うん。でも、楽になったかな?」
愁君はサッカー部だったこともあり、暑いのは慣れている。
そう言っていた。
私は引きこもりが多かったし、バイトも夏は極力しなかった。
だから、余計に苦手だ。
動かないことで、暑さに慣れない。
駄目な流れのまま大人になった。
「駅に着いたら、早く紗枝さんの所に避難しよ」
「そうだね」
そう言いながら、今朝はゴミ出しをしたから良いけれどゴミ出しをしていない日は生活臭とでも言うのか、アパートに帰ると匂いが気になる。
だから、少しだけ密封性の高いゴミ箱に買い替えたのは秘密だ。
すぐに愁君には気付かれたけれど、もう古くなったからという何とも微妙な言い訳を返してしまった。
「暑いから、そうめん食べよ?俺、茹でるから」
「いいよ?特に変わった工程はないし、準備も簡単だし」
「じゃ、一緒にやろ?その方が暑いのも早く終わるし」
こういう所が、本当に良いなぁ。
愁君のすごさを感じながら、2駅過ぎる。
すぐにアパートなので、鍵を開け愁君に入ってもらう。
「ただいま。お邪魔します」
「おかえり。いらっしゃい」
この奇妙なやり取りも、不思議。
普通は私が『ただいま』のはずなのに。
先に愁君が言うから、つい反射で『おかえり』と言ってしまう。
荷物を置き、着替えをしようかと考えていると手を引かれた。
強引ではないけれど、誘導するような動きだった。
立ったまま向かい合い、愁君を見上げる。
愁君は、少し視線を彷徨わせたけれどしっかりと私と目を合わせた。
どうしたんだろう?
「先に、話がしたいです」
愁君の声に、首を傾げる。
「あ、旅行の?」
「違う」
愁君の声は、少しだけ緊張している響きだ。
私も、ドキドキしてしまう。
「紗枝さん?」
「はい、何でしょう?」
「まずは、紗枝さん。最近どうしたの?ここ1~2週間くらい、変じゃない?暑さとか、疲れとか、そういうのじゃなくて…」
愁君の声に、『とうとう聞かれてしまったか…』という諦めの気持ちが生じる。
どう伝えようか迷いながら、やっぱり愁君との平穏な生活に未練があって言い出せなかった。
何が『愁君が仕事に慣れたら』だ。
何が『どう伝えようか』だ。
私が何かを伝えるのは、もしかしたら軋轢を生みだす。
それは、取り戻せるのか。
もし、取り戻せなかったら?
修復も、補修もできなかったら?
そんなことを思うと、やっぱり言い出せなかった。
でも、愁君はあっさりとその質問を問いかけてくる。
これが、若さなのかな?
愁君が成長して嬉しいはずなのに。
「紗枝さん?」
「…はい」
「座ろ?」
「そうだね」
リビングに腰を下ろす。
ソファは小さい。
2人が座ったら、窮屈過ぎるほど。
ここは、愁君のお気に入りの場所だった。
「狭いけど、紗枝さんとくっつける」
そう嬉しそうに言ってくれた愁君。
「これなら、くっついても仕方ないよね?」
私といることを、望んでくれた愁君。
今は、ラグの上だ。
手を引かれながら、ゆっくりと座る。
愁君と向かい合うように、ゆっくりと。
「紗枝さんが、何かを考えているのは知っているよ?」
愁君の顔は真剣だ。
「それは、俺に話せないこと?」
違うけれど、そうではない。
迷っていると、手を握られる。
「じゃ、先に言うよ?俺は紗枝さんが好きだよ。付き合った2年前から変わらず、もっと言えば、知り合った7年前から、ずっと」
こんなに嬉しいことはない。
愁君の素直な言葉。
聞いていて、色々な思い出がさっと通り過ぎる。
別れ話じゃない。
でも、私が間違ったらどうなるの?
分からない。
だから、怖い。
「俺さ、紗枝さんに無理をさせてる?」
「…ううん」
「俺のこと、嫌になった?」
「そんなことない」
「じゃあ、何を悩んでいるの?何を考えているの?」
愁君の言葉が、折り重なるように降って来る。
「俺には言えないこと?俺に知られたら困ること?」
積み重なって、怖さが増す。
「違うよ?愁君」
声は震えてしまったけれど、きちんと否定する。
「じゃあ、ゆっくりで良いから。ちゃんと教えて」
「…そうだね」
「あ、これも先に言っておくけど、俺は別れないよ?」
「え?」
愁君の言葉に、私の思考が止まる。
「え?って何?俺が言い出すとか考えているなら、本当時間の無駄。紗枝さんの時間で俺に使って良いのは、俺へのお願いごとか俺への我儘くらいかな?」
「…ん?」
「紗枝さんが、安心して甘えられるように、もっともっと働いてしっかり出世するから」
愁君の言葉が、しっかりと残る。
「紗枝さんが、産休とか育休とか取れるように、俺が経理やろうか?」
とんでもないことを言う愁君。
「そうだ、それが良いよね。鷹村の経理って紗枝さんしかいないじゃん?それっておかしいもんね?誰に言えば良いのかな?副社長?倉橋部長?」
私の言葉を待たずに、愁君は1人で喋る。
「紗枝さん、何か言ってよ」
急に、顔を顰める愁君。
私はさっきから、コロコロ変わる愁君の表情と言葉に、ついていくのがやっとなのに。
「ねえ?俺は、そんなに簡単に紗枝さんの中からいなくなる存在?俺のこと、何とも思っていない?他の新人、相田とか錦織とかの方が良い?何か言ってよ」
何も言わない私に、愁君に握られた手に力が入る。
「俺は嫌だよ。そんな簡単に別れられる男だと思わないで?面倒だよ?俺、紗枝さんに別れ話なんて言われたら、仕事行かないからね」
「えぇ?」
「そうしたら、責任感の強い紗枝さんは俺のこと養ってくれるよね?俺、紗枝さんのアパートから出て行かないよ?家のことは、何でもやるし家事も全部する。ヒモでもなんでも、紗枝さんが見捨てないでくれるなら」
愁君の言葉は、極論過ぎる。
私が仕事を辞めるのとか、もう稚拙な程に。
「そうだ。それも良い。俺、明日から仕事行かない。紗枝さんは毎日定時で上がってくれるし、朝も比較的ゆっくりだし。まずは籍を入れて、俺が紗枝さんのお家にお婿さんに行くのもありだし。紗枝さんが妊娠したら、俺が働けば良いのか?」
「…」
絶句。
そうだ。
これは、まさに絶句というのかな?
というか、愁君は長男だ。
お婿さんに来るとか、それはいけない気がする。
本当に、愁君のご両親に恨まれそう。
「待って待って、愁君。ストップ!」
さっきまでの悲壮な感じは全くなく、本当に仕事のようなはっきりとした頭になる。
こんな未定のことで、愁君の将来を決めるのは違う。
愁君はやると言ったらやる子だ。
それが不安を煽る。
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