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それは、何で?
これで?
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「始業時間が過ぎているのに、何を騒いでいるのかしら?」
倉橋部長の登場に、一瞬誰もが言葉を失う。
確かに、こんな狭い喫煙所に何人いるのやら?
「沙、菜先輩、助けてください。友成さんが、友成さんがひどいんですぅぅ。たか…高田さんに、ひどっ、ひどいことを、言うんですっ!」
みんな、言葉を発さずに様子見をしていたのに、高橋さんが思い切り大きい声を出した。
高橋さんのみが、まだ感情の頂点にいたからだろう。
というか、正しい情報を言ってほしい。
友成さんにひどいことなんて、まだ言われていない。
高橋さんは、私がいじめられているとでも勘違いしているんだろうか?
そのくらい興奮し、先生に告げ口をする生徒のような…。
高橋さんの言葉を聞いて、倉橋部長の視線が私と友成さんに動く。
「友成さんの馬鹿ー!新人イジメ!パワハラ!」
しゃくりあげる高橋さんの背中をさすり、「よしよし」という錦織君。
本当にカオス。
「おまっ!高橋、余計なことを言うな。違います!部長これは」
「何でしょう?」
倉橋部長の言葉に、友成さんが黙る。
倉橋部長の目力は、ものすごく強い。
「友成さん、ファイ」
富川さんが、呟いた。
「…勝ち目ねーだろ」
力なく言った友成さんに、思わず笑ってしまった。
「高田さん」
厳しい口調のまま、倉橋部長に声をかけられる。
笑っている場合ではないのに…。
「はい!」
「何か、困っていることはありますか?」
さしずめ、先輩社員に絡まれて困っている新人社員の図、なのだろう。
倉橋部長は、どんな女性だったとしても、女性の味方をしてくれるという話を聞いた。
要さんから。
総務部にいた頃から、女性の味方をしているという、女性のための人だという。
頼もしい。
でも、それは私には必要なさそうだ。
何故なら、困っていないから。
「特に、問題ないです」
私の言葉が意外だったのか、倉橋部長が少し眉を緩めた。
「本当に?遠慮しているのなら、少し場所を移しましょうか?」
真剣な表情。
こんなに可愛げのない私でも、倉橋部長は私を優先してくれるということだろう。
それが分かっただけでも…今、この場で“守られている”と理解しただけでも、この会社に入って良かったと思えた。
昭和風が残るこの会社の中でも、女性だという理由で差別されない環境。
仕事も、そうではないと意識を変えないといけない。
そう気付いた私がいた。
「本当に、大丈夫です。お気遣いありがとうございます」
なので、しっかりと倉橋部長に視線を合わせて、問題ないことを返答する。
「…そう?なら、この状況は?」
「他職員と、意識の齟齬があったようです。倉橋部長が来る少し前に、解決する所でした」
私の言葉に、友成さんが何とも言えない表情をした。
「では、何故高橋さんは泣いているの?」
それこそ、私には何とも…。
「あの、すみません。口を挟んで、公報の錦織です」
錦織君だった。
錦織君の発言に、倉橋部長が向き直る。
「はい、何でしょう?」
「喫煙所にいた男性陣、僕を覗く広報課の男性陣と東田課長がいたようです。そこに偶然、高橋さんが通りかかり、本当に偶然高田さんの話題が上がっていたようで、それが気になってしまったようです。友成さんに色々聞いている内に、高橋さんがこうなってしまい…」
その横では、ハンカチに顔を埋めてまだべそべそしている高橋さん。
いや、だから子どもか。
何その状況。
「そうですか。では、錦織くんは、何故ここに?」
倉橋部長の声は、錦織君のことも疑っている。
偶然通りかかった高橋さんは、まだ分かる。
でも、錦織君はなんでここにいたのかってことだろう。
「高橋さんがとても心配で」
ものすごく良い笑顔で、錦織君がゴリ押しした。
「…そう」
倉橋部長が、少し引いている。
「では、東田君?この状況、それで概ね合っている?」
「…そうですね」
答える声は、飄々としているものの、少し硬い。
「東田課長が公認で、ケンカをして良いと言っていましたから」
錦織君の、容赦のない追撃。
ここまで、この人は怖いもの知らずだったっけ?
錦織君の言葉に、倉橋部長が下がったはずの眉を再び上げた。
「誰と、誰の、ケンカを?」
言葉を区切り、少し強めに確認する。
「友成さんと、高田さんです」
淀みなく応えた錦織くんの表情は、変わらず爽やかだ。
「そういうこと…。東田君、友成君、私のデスクに…。他の社員は、業務に戻りなさい」
倉橋部長の言葉に、名指しされた2名が少し項垂れた。
「では、彼女は少し時間給をいただきますね」
錦織君が、にこやかに高橋さんをお姫様抱っこした。
ナニコレ。
高橋さんは、まだ状況が掴めず「沙菜先輩、カッコイイ」と言っていた。
いや、今抱き上げられている貴女は、抱き上げている彼こそカッコいいと思わないとおかしいでしょ!?
表情も変わらず、錦織君は高橋さんをしっかりと抱きかかえた。
それがしたかっただけじゃないの。
実は。
「高橋さん、無理はしないで。何なら、午前中の業務は友成君に任せるわ」
倉橋部長は、高橋さんの頭を困ったように笑いながら撫でた。
「はぃぃ。何から何まで、本当に、沙菜先輩!沙菜先輩、本当にありがとうございます」
「では、失礼します」
颯爽と歩き出す錦織君。
完全に役得じゃないの。
高橋さんを抱えたまま、錦織君は医務室に連れていくのだろう。
さっさといなくなった。
「では、戻ります」
富川さんが、私の手を握った。
「え?」
「僕は、抱える程の筋肉ないので」
小沢さんとともに、何とも言えないまま広報課に戻った。
戻った私達に、少し機嫌の悪そうな主任がいた。
「始業時間は過ぎているぞ。何してたんだ?」
揃いも揃って、広報課の人間がいない空間。
そこで1人、朝会のために待つ主任。
シュール過ぎるわ。
「すみません」
「すみませんでした」
「少し、トラブルがありました」
富川さん、私、小沢さんの順番でそう言った。
「トラブル?何をした?」
え?私達が何かしたと思われている?
違うでしょ。
ここにいない誰かさんが、何かをしているって思わないの?
「失礼」
副社長がやって来た。
「これは!副社長」
不機嫌もどこかに、主任が席を立つ。
「ごめんね、少し広報課の人達に話を聞きたくて、始業時間を過ぎてしまったね」
正確には、倉橋部長が話を聞きたくて、なのだろうが主任には関係なかったようだ。
「そうでしたか!すみません、わざわざ副社長自ら来ていただくなんて!そういうことなら、何でそう言わない?」
主任の、どこかとんちんかんな言葉に、3人とも曖昧な表情で目配せをする。
「君たちは、通常業務に…。そうそう、高田さん?午後、少し時間をもらえるかな?」
副社長の言葉に、背筋を伸ばす。
「はい」
「では、14:30に私の部屋に」
「はい」
副社長は、そのままふらっと退室した。
「…仕事を」
主任の言葉に、各々返事をし本日の業務に取り掛かる。
まぁ、朝礼どころじゃないものね。
初めて朝礼のない始業を迎えた。
少し落ち着いた頃、錦織君が戻って来た。
「すみませんでした。高橋さんは、少し体調が悪いので、午前中は半休をいただきます。倉橋部長から許可はもらっていますので」
錦織君は、用意周到に半休届を主任に出した。
「高橋は大丈夫なのか?」
印を押しながら、主任は高橋さんの心配をしている。
「そうですね、もしダメでしたら午後も休んで…、年休消化でも良いですかね?」
錦織君の言葉に、判断に困るといった表情を浮かべる主任。
「倉橋部長に相談します」
錦織君てば、もう主任を操作できるようになっている。
早い。
案の定、主任はホッとしたような顔をした。
「…そうしてくれ」
午前中、何も考えないように黙々とスキャンをする。
高橋さんのいない公報、何と言うか少しだけ暗い気がする。
ふとした時に気が付いた。
いつもは、スキャンとしか向き合っていないのに。
それが、こんな風に意識するなんて。
高橋さんの賑やかさがあって、私の集中力に繋がっていたのかしら?
じゃあ、これからもいてもらわないと、か。
目の前にいない存在に、少しだけ、本当に少しだけど寂しいと感じたような気がする。
「寂しい?」
ふと、富川さんに話しかけられた。
初めてだ。
この人が、声をかけてきたのは。
「え?…いいえ」
でも、否定しておく。
さっきの富川さんの様子を見ると、友成さんと同じ部類の匂いがした。
怒っているであろう倉橋部長を前にし、友成さんを焚きつけたり。
あのカオスの空間を、じっと観察しているような。
真澄さんも、そういう意味では観察していた。
言葉は挟まず、でも話題を振られたらきちんと答えます、という雰囲気。
そういう意味では、富川さんの方がいい加減かもしれない。
「いつも」
「はい?」
真後ろに、主任がいるのに気にしないように富川さんは、ポツリと言った。
「高田さん、黙々と作業しているから」
「あぁ、まぁ、はい」
「今日は、少しだけゆとりがある」
「はぁ…」
スキャンの効率が悪いということだろうか?
「でも、その方が良い」
何で?
早く終わらせて、公報の仕事をしたいのに。
…じゃなかった。
これが、私の公報の業務だ。
いけない。
さっき思い直そうと思ったのに…。
それでも、半月以上していた作業は、やはり仕事と思うには少し楽過ぎた。
「すみません。戻りました」
やや、やつれた友成さんが戻って来た。
思わず席を立つ。
「友成さん、すみませんでした」
「謝るな。あ、違う。謝らなくて良い。その、俺も悪かった」
言いにくそうに、謝罪を口にする。
「いいえ」
だって、私には何のダメージもない。
負傷ゼロ。
「どうでした?部長のマシンガン攻撃」
「…聞くな」
富川さんの言葉に、友成さんがげんなりしていた。
「仕事してるか?」
主任の言葉に、友成さんと席に着く。
お互いの席が斜めなので、姿は見えない。
「錦織」
「はい、何でしょう?」
「お前、性格良いな」
「はい?」
「とぼけんな」
「何でしょう?」
見えないけれど、声は聞こえる。
こっそりと。
「東田課長から、伝言」
「はい?」
「いつかのお返しか?って」
「はい?」
「東田課長は、言えば分かるって…」
「何でしょうね?思い当たる節がないです」
「そうなのか?」
本当に意味の分からない人間が、そんなに爽やかにとぼけるわけがない。
「はい、東田課長もお忙しいんでしょうね」
錦織君がにこやかに答えていた。
黒い。
多分、この人はすごく黒い人だ。
あの日、自分の中に芽生えた気持ちを摘み取った自分の選択肢は正解だった。
こんな人は、相手にしたらダメだ。
と、いけないいけない。
自分の手が止まっていることに気付き、新しい広報誌をスキャンする。
「暇?」
横から、富川さんがそう言って来た。
この人も、視線はパソコンを向いている。
なのに、こちらの動向を確認しているの?
「違います」
作業する手を止めないように、意識する。
今日のペースはもうガタガタだ。
自分でざっくりと決めた配分まで到達しない。
昼食で、リセットできるかしら?
あぁ、でも午後には副社長に呼ばれていたんだっけ?
余計に進まないであろう作業効率の悪さに、思わずため息をつく。
「暇?」
再度声をかけられる。
「ですから、暇ではないです」
「そっか」
私も手を止めないように手を動かす。
手。
さっき、富川さんは私の手を引いてくれた。
深い意味はないのだろうけれど…。
彼の右手と私の左手が、繋がれていた。
丁度、今の位置と同じだ。
私の左手が、彼の右手の近くで動いている。
あれ?
あれれ?
どうしたの?
私。
照れているのかしら?
良い年して、男性と手を繋いだからって何も変わらないでしょ?
繋ぐでしょ?
手くらい。
意識してしまうと、少しだけぎこちない自分がいた。
これは新しい、何かの始まりなのだろうか。
そう思ってしまうと、結局横にいる富川さんを意識することになる。
こんなはずじゃなかったのに…。
仕事に慣れたら、いずれはそういう相手に出会って、っていうのが通常の流れじゃないの?
おかしいな。
「今日の昼は?」
私の動揺に気付かず、いや、この場合は気付いている可能性がある富川さんが、ふと口にした。
「はい、昼?」
「いつも、同期で固まってる」
「あぁ、はい」
「今日も行くの?」
さぁ。
予定はないけれど、集まるつもりでいるんじゃないの?
「そろそろ、同期意外とも、交流したら?」
交流。
交際じゃない。
何を勘違いしているの。
「そうですね」
私のやや挙動不審な答えに、富川さんが気配だけで笑う
「一緒に行く?」
思いもよらない誘いに、少しだけ答えに困る。
「嫌?」
嫌ではない。
嫌ではないけれど…。
「富川、勤務中だぞ」
斜め前から、友成さんの声がした。
「残念」
富川さんの手も顔も、パソコンから動いていない。
器用な人。
それに引き換え、私は少しだけ精度の落ちた動きで作業を進める。
本当に、何があるのか分からない。
社会人になったら、もう少し簡素化するものと思っていた人間関係。
なのに、ここまで狭い環境で、何かが起きそうな気配がした。
あんなに暇だと思っていたのに、今日だけで暇なんて思えないほどの出来事が起きていた。
できれば仕事で忙しいことが望みだったけれど、こういう慌ただしさもいるのかも。
生きていく内に、ではなくて生きているからこその日常。
このドキドキも、少しの期待も会社人ではないと味わえない。
多分。
それが何であれ、これが私の生きていく世界なのだろうから。
倉橋部長の登場に、一瞬誰もが言葉を失う。
確かに、こんな狭い喫煙所に何人いるのやら?
「沙、菜先輩、助けてください。友成さんが、友成さんがひどいんですぅぅ。たか…高田さんに、ひどっ、ひどいことを、言うんですっ!」
みんな、言葉を発さずに様子見をしていたのに、高橋さんが思い切り大きい声を出した。
高橋さんのみが、まだ感情の頂点にいたからだろう。
というか、正しい情報を言ってほしい。
友成さんにひどいことなんて、まだ言われていない。
高橋さんは、私がいじめられているとでも勘違いしているんだろうか?
そのくらい興奮し、先生に告げ口をする生徒のような…。
高橋さんの言葉を聞いて、倉橋部長の視線が私と友成さんに動く。
「友成さんの馬鹿ー!新人イジメ!パワハラ!」
しゃくりあげる高橋さんの背中をさすり、「よしよし」という錦織君。
本当にカオス。
「おまっ!高橋、余計なことを言うな。違います!部長これは」
「何でしょう?」
倉橋部長の言葉に、友成さんが黙る。
倉橋部長の目力は、ものすごく強い。
「友成さん、ファイ」
富川さんが、呟いた。
「…勝ち目ねーだろ」
力なく言った友成さんに、思わず笑ってしまった。
「高田さん」
厳しい口調のまま、倉橋部長に声をかけられる。
笑っている場合ではないのに…。
「はい!」
「何か、困っていることはありますか?」
さしずめ、先輩社員に絡まれて困っている新人社員の図、なのだろう。
倉橋部長は、どんな女性だったとしても、女性の味方をしてくれるという話を聞いた。
要さんから。
総務部にいた頃から、女性の味方をしているという、女性のための人だという。
頼もしい。
でも、それは私には必要なさそうだ。
何故なら、困っていないから。
「特に、問題ないです」
私の言葉が意外だったのか、倉橋部長が少し眉を緩めた。
「本当に?遠慮しているのなら、少し場所を移しましょうか?」
真剣な表情。
こんなに可愛げのない私でも、倉橋部長は私を優先してくれるということだろう。
それが分かっただけでも…今、この場で“守られている”と理解しただけでも、この会社に入って良かったと思えた。
昭和風が残るこの会社の中でも、女性だという理由で差別されない環境。
仕事も、そうではないと意識を変えないといけない。
そう気付いた私がいた。
「本当に、大丈夫です。お気遣いありがとうございます」
なので、しっかりと倉橋部長に視線を合わせて、問題ないことを返答する。
「…そう?なら、この状況は?」
「他職員と、意識の齟齬があったようです。倉橋部長が来る少し前に、解決する所でした」
私の言葉に、友成さんが何とも言えない表情をした。
「では、何故高橋さんは泣いているの?」
それこそ、私には何とも…。
「あの、すみません。口を挟んで、公報の錦織です」
錦織君だった。
錦織君の発言に、倉橋部長が向き直る。
「はい、何でしょう?」
「喫煙所にいた男性陣、僕を覗く広報課の男性陣と東田課長がいたようです。そこに偶然、高橋さんが通りかかり、本当に偶然高田さんの話題が上がっていたようで、それが気になってしまったようです。友成さんに色々聞いている内に、高橋さんがこうなってしまい…」
その横では、ハンカチに顔を埋めてまだべそべそしている高橋さん。
いや、だから子どもか。
何その状況。
「そうですか。では、錦織くんは、何故ここに?」
倉橋部長の声は、錦織君のことも疑っている。
偶然通りかかった高橋さんは、まだ分かる。
でも、錦織君はなんでここにいたのかってことだろう。
「高橋さんがとても心配で」
ものすごく良い笑顔で、錦織君がゴリ押しした。
「…そう」
倉橋部長が、少し引いている。
「では、東田君?この状況、それで概ね合っている?」
「…そうですね」
答える声は、飄々としているものの、少し硬い。
「東田課長が公認で、ケンカをして良いと言っていましたから」
錦織君の、容赦のない追撃。
ここまで、この人は怖いもの知らずだったっけ?
錦織君の言葉に、倉橋部長が下がったはずの眉を再び上げた。
「誰と、誰の、ケンカを?」
言葉を区切り、少し強めに確認する。
「友成さんと、高田さんです」
淀みなく応えた錦織くんの表情は、変わらず爽やかだ。
「そういうこと…。東田君、友成君、私のデスクに…。他の社員は、業務に戻りなさい」
倉橋部長の言葉に、名指しされた2名が少し項垂れた。
「では、彼女は少し時間給をいただきますね」
錦織君が、にこやかに高橋さんをお姫様抱っこした。
ナニコレ。
高橋さんは、まだ状況が掴めず「沙菜先輩、カッコイイ」と言っていた。
いや、今抱き上げられている貴女は、抱き上げている彼こそカッコいいと思わないとおかしいでしょ!?
表情も変わらず、錦織君は高橋さんをしっかりと抱きかかえた。
それがしたかっただけじゃないの。
実は。
「高橋さん、無理はしないで。何なら、午前中の業務は友成君に任せるわ」
倉橋部長は、高橋さんの頭を困ったように笑いながら撫でた。
「はぃぃ。何から何まで、本当に、沙菜先輩!沙菜先輩、本当にありがとうございます」
「では、失礼します」
颯爽と歩き出す錦織君。
完全に役得じゃないの。
高橋さんを抱えたまま、錦織君は医務室に連れていくのだろう。
さっさといなくなった。
「では、戻ります」
富川さんが、私の手を握った。
「え?」
「僕は、抱える程の筋肉ないので」
小沢さんとともに、何とも言えないまま広報課に戻った。
戻った私達に、少し機嫌の悪そうな主任がいた。
「始業時間は過ぎているぞ。何してたんだ?」
揃いも揃って、広報課の人間がいない空間。
そこで1人、朝会のために待つ主任。
シュール過ぎるわ。
「すみません」
「すみませんでした」
「少し、トラブルがありました」
富川さん、私、小沢さんの順番でそう言った。
「トラブル?何をした?」
え?私達が何かしたと思われている?
違うでしょ。
ここにいない誰かさんが、何かをしているって思わないの?
「失礼」
副社長がやって来た。
「これは!副社長」
不機嫌もどこかに、主任が席を立つ。
「ごめんね、少し広報課の人達に話を聞きたくて、始業時間を過ぎてしまったね」
正確には、倉橋部長が話を聞きたくて、なのだろうが主任には関係なかったようだ。
「そうでしたか!すみません、わざわざ副社長自ら来ていただくなんて!そういうことなら、何でそう言わない?」
主任の、どこかとんちんかんな言葉に、3人とも曖昧な表情で目配せをする。
「君たちは、通常業務に…。そうそう、高田さん?午後、少し時間をもらえるかな?」
副社長の言葉に、背筋を伸ばす。
「はい」
「では、14:30に私の部屋に」
「はい」
副社長は、そのままふらっと退室した。
「…仕事を」
主任の言葉に、各々返事をし本日の業務に取り掛かる。
まぁ、朝礼どころじゃないものね。
初めて朝礼のない始業を迎えた。
少し落ち着いた頃、錦織君が戻って来た。
「すみませんでした。高橋さんは、少し体調が悪いので、午前中は半休をいただきます。倉橋部長から許可はもらっていますので」
錦織君は、用意周到に半休届を主任に出した。
「高橋は大丈夫なのか?」
印を押しながら、主任は高橋さんの心配をしている。
「そうですね、もしダメでしたら午後も休んで…、年休消化でも良いですかね?」
錦織君の言葉に、判断に困るといった表情を浮かべる主任。
「倉橋部長に相談します」
錦織君てば、もう主任を操作できるようになっている。
早い。
案の定、主任はホッとしたような顔をした。
「…そうしてくれ」
午前中、何も考えないように黙々とスキャンをする。
高橋さんのいない公報、何と言うか少しだけ暗い気がする。
ふとした時に気が付いた。
いつもは、スキャンとしか向き合っていないのに。
それが、こんな風に意識するなんて。
高橋さんの賑やかさがあって、私の集中力に繋がっていたのかしら?
じゃあ、これからもいてもらわないと、か。
目の前にいない存在に、少しだけ、本当に少しだけど寂しいと感じたような気がする。
「寂しい?」
ふと、富川さんに話しかけられた。
初めてだ。
この人が、声をかけてきたのは。
「え?…いいえ」
でも、否定しておく。
さっきの富川さんの様子を見ると、友成さんと同じ部類の匂いがした。
怒っているであろう倉橋部長を前にし、友成さんを焚きつけたり。
あのカオスの空間を、じっと観察しているような。
真澄さんも、そういう意味では観察していた。
言葉は挟まず、でも話題を振られたらきちんと答えます、という雰囲気。
そういう意味では、富川さんの方がいい加減かもしれない。
「いつも」
「はい?」
真後ろに、主任がいるのに気にしないように富川さんは、ポツリと言った。
「高田さん、黙々と作業しているから」
「あぁ、まぁ、はい」
「今日は、少しだけゆとりがある」
「はぁ…」
スキャンの効率が悪いということだろうか?
「でも、その方が良い」
何で?
早く終わらせて、公報の仕事をしたいのに。
…じゃなかった。
これが、私の公報の業務だ。
いけない。
さっき思い直そうと思ったのに…。
それでも、半月以上していた作業は、やはり仕事と思うには少し楽過ぎた。
「すみません。戻りました」
やや、やつれた友成さんが戻って来た。
思わず席を立つ。
「友成さん、すみませんでした」
「謝るな。あ、違う。謝らなくて良い。その、俺も悪かった」
言いにくそうに、謝罪を口にする。
「いいえ」
だって、私には何のダメージもない。
負傷ゼロ。
「どうでした?部長のマシンガン攻撃」
「…聞くな」
富川さんの言葉に、友成さんがげんなりしていた。
「仕事してるか?」
主任の言葉に、友成さんと席に着く。
お互いの席が斜めなので、姿は見えない。
「錦織」
「はい、何でしょう?」
「お前、性格良いな」
「はい?」
「とぼけんな」
「何でしょう?」
見えないけれど、声は聞こえる。
こっそりと。
「東田課長から、伝言」
「はい?」
「いつかのお返しか?って」
「はい?」
「東田課長は、言えば分かるって…」
「何でしょうね?思い当たる節がないです」
「そうなのか?」
本当に意味の分からない人間が、そんなに爽やかにとぼけるわけがない。
「はい、東田課長もお忙しいんでしょうね」
錦織君がにこやかに答えていた。
黒い。
多分、この人はすごく黒い人だ。
あの日、自分の中に芽生えた気持ちを摘み取った自分の選択肢は正解だった。
こんな人は、相手にしたらダメだ。
と、いけないいけない。
自分の手が止まっていることに気付き、新しい広報誌をスキャンする。
「暇?」
横から、富川さんがそう言って来た。
この人も、視線はパソコンを向いている。
なのに、こちらの動向を確認しているの?
「違います」
作業する手を止めないように、意識する。
今日のペースはもうガタガタだ。
自分でざっくりと決めた配分まで到達しない。
昼食で、リセットできるかしら?
あぁ、でも午後には副社長に呼ばれていたんだっけ?
余計に進まないであろう作業効率の悪さに、思わずため息をつく。
「暇?」
再度声をかけられる。
「ですから、暇ではないです」
「そっか」
私も手を止めないように手を動かす。
手。
さっき、富川さんは私の手を引いてくれた。
深い意味はないのだろうけれど…。
彼の右手と私の左手が、繋がれていた。
丁度、今の位置と同じだ。
私の左手が、彼の右手の近くで動いている。
あれ?
あれれ?
どうしたの?
私。
照れているのかしら?
良い年して、男性と手を繋いだからって何も変わらないでしょ?
繋ぐでしょ?
手くらい。
意識してしまうと、少しだけぎこちない自分がいた。
これは新しい、何かの始まりなのだろうか。
そう思ってしまうと、結局横にいる富川さんを意識することになる。
こんなはずじゃなかったのに…。
仕事に慣れたら、いずれはそういう相手に出会って、っていうのが通常の流れじゃないの?
おかしいな。
「今日の昼は?」
私の動揺に気付かず、いや、この場合は気付いている可能性がある富川さんが、ふと口にした。
「はい、昼?」
「いつも、同期で固まってる」
「あぁ、はい」
「今日も行くの?」
さぁ。
予定はないけれど、集まるつもりでいるんじゃないの?
「そろそろ、同期意外とも、交流したら?」
交流。
交際じゃない。
何を勘違いしているの。
「そうですね」
私のやや挙動不審な答えに、富川さんが気配だけで笑う
「一緒に行く?」
思いもよらない誘いに、少しだけ答えに困る。
「嫌?」
嫌ではない。
嫌ではないけれど…。
「富川、勤務中だぞ」
斜め前から、友成さんの声がした。
「残念」
富川さんの手も顔も、パソコンから動いていない。
器用な人。
それに引き換え、私は少しだけ精度の落ちた動きで作業を進める。
本当に、何があるのか分からない。
社会人になったら、もう少し簡素化するものと思っていた人間関係。
なのに、ここまで狭い環境で、何かが起きそうな気配がした。
あんなに暇だと思っていたのに、今日だけで暇なんて思えないほどの出来事が起きていた。
できれば仕事で忙しいことが望みだったけれど、こういう慌ただしさもいるのかも。
生きていく内に、ではなくて生きているからこその日常。
このドキドキも、少しの期待も会社人ではないと味わえない。
多分。
それが何であれ、これが私の生きていく世界なのだろうから。
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仕事のパートナーから始まる二人の関係は、やがて揺るぎない愛情へと発展していく――。オフィスラブならではの緊張感と温かさ、そして心揺さぶるロマンティックな展開が詰まった、大人の純愛ストーリー。



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月樹《つき》
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