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それこそ
きっかけは
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それは、些細なことだった。
「岡吉、この企画またダメだった。何がいけない?どこが甘い?現実的に出来そうじゃないか?だって、予算だって、発注先だって、無茶なんかしてないんだから」
「ねえ、今ってデート中じゃなかった?」
「そうだった。すまん、でも岡吉の意見を聞きたい」
彼の長所は、まっすぐなところ。
それは時に、短所になる。
「言うなら、現実的過ぎて、あまり購買意欲が湧かないところかしら?」
「と言うと?」
「何か、話がうますぎて、騙されてるんじゃないかって思うところ。鍋さんだって、お膳立てされ過ぎていると、怪しいなって思わない」
「なるほどな!やっぱり岡吉は冷静だな」
「そうかしら?」
嬉しそうに言う彼に、私も困ったように笑ってしまった。
デート中なのに関わらず、彼の頭の中は仕事のことでいっぱいだ。
でも、そんな彼も愛おしい。
私のことを片隅にやっていても、こうやって側にいることを当たり前と思ってくれるのなら、私は満足だ。
私が高校を卒業して、すぐに就職した時、同期の彼は4つ上だった。
進学に意味が見いだせず、すぐに就職して家庭を助けたかった私には、彼は十分大人に見えた。
でも、働き始めて先輩の補助がなくなって、仕事に対しての気持ちなんてなかったのに、大人のはずの彼が楽しそうに仕事をするのを見て、こういう人になりたかったと憧れを持つのは、ごく自然な流れだった。
石鍋 嵐さん。
就職した時に、老け顔でいることと体格のせいですでに、年数社員のような風貌をしていることで『鍋さん』とあだ名を付けられていた。
思ったことをすぐ口に出し、先輩や女性職員の反感を買っても「すんません!」とあっさりしているのは、彼のすごいところだった。
憎まれることも多いけど、可愛がれらる部分も多い鍋さんを私は尊敬している。
私は、父親が早くに亡くなり、母1人に苦労をさせるのは申し訳ないと、父親の縁故を頼り就職させてもらった会社で、ステキな人と巡り合った。
学生時代の先輩に誘われて入社したという彼は、その先輩の期待に応えようと、入社直後から張り切っていた。張り切るうちに、企画と言う会社の土台になる部分をいたく気に入ったようだった。
しかし、彼はそのまっすぐな性格故か、売り上げに直結する企画を生み出せずにいた。
企画とは、あくまで購入する人の意識を促し、買いたいなと思われる気持ちを作り出すもの。
私はそう思っていたけれど、彼の場合は“買わせたい”が強く、そのことをその都度伝えている内に、距離が縮まって行った。
何故か同期の、それも年下の私に彼は遠慮なく意見を求めてくるようになった。
彼は、女性職員に敵視されていることを何となく察し、自分からは近付かなくなっていった。
でも誰かの意見を聞きたい、その対象にぴったりだったのが私だったようだ。
自分でも冷めていると思う性格で、鍋さんの言葉にあまり傷つかない私。
それでも、鍋さんの発言に「今のは失礼よ?」と言えば、素直に「すまん!」と謝る彼。
意見を交換する内に、鍋さんの側が心地良いこと、私も彼の側で楽しく仕事できることを意識した。
自然と、私たちは付き合いだした。
私が好きなのを隠していなかったことで、回りから言われたのだろう、頭を掻きながら「付き合うか?」と言われ、すぐに了承した。
入社して2年目、私が20歳で彼が24歳の時だった。
私の気持ちを全部理解するのは、彼には難しいようだったが、大きな衝突もなく揉めることもなく、お付き合いは順調だった。
この会社内でカップルになる人たちは多く、寿退社や妊娠を機に職場を離れる女性社員も少なくなかった。
私も、いずれそうなるのかと、ぼんやり考えていた。
彼の隣で過ごす時間が、彼を家で待つ時間に変わるのだと、信じて疑わなかった。
「ゆり」
「なあに、鍋さん?」
「お前も、憧れがあるのか?その…結婚とかに」
「まあ、人並みには?」
そんなやり取りも増えて行った。
しかし、彼は働くこと、会社で生きていくことを何よりも優先していた。
私が彼を理解しているのなら、その時はいつでも良い、そう思っていた。
そんな時に、母が体調を崩し、入院することになった。
母は私に心配をかけまいと、言わないでいたらしい。
頼ってもらえなかったことにショックを受けながら、母に言われた言葉に戸惑いが生まれる。
「ゆり?お付き合いしている人と、その…将来のことは考えているの?」
入院する母に付き添い、病室で過ごす中言われた言葉。
言われた言葉に、漠然とした未来しか思っていなかったことを後悔した。
「あなたはしっかりしているし、大丈夫だと思うけれど。その…ね?私は先にいなくなる人間でしょ?その時にあなたを支えてくれる人なら、お母さんは何も言わないわ」
言葉が出なかった。
「別に今すぐ、結婚しなさいとか言うつもりはないわ」
「そうね」
母との会話で、自分の立ち位置をしっかり認識することができた。
母の入院を知り、鍋さんが慌てた様子で確認しに来た。
「ゆり、お母さんの体調は?」
プライベートなことを、仕事中に話すのを好まない私を知っているはずなのに、彼はなりふり構わなかったのか、そう会社で聞いて来た。
「心配ありがとう。でも、ここでする話じゃないわ」
私の小さな拒絶に、鍋さんが困った顔をした。
「なら、今日の夜話せる時間はあるか?」
「あるわ」
「じゃ、ゆりの家に行くから」
「…分かった」
鍋さんは、家に寝に帰るだけの生活をしているから、家が乱雑になっている。
私も彼の家に行く時は、まず掃除から始める。
「すまんな」
申し訳なさそうに言う彼を、愛おしいと毎回感じていた。
だから、大事な話や決めなくてはいけないことがあると、彼は私の家に来ることが決まっていたのも当たり前だった。
こういう時でも、彼は自分の家に呼んでくれるわけではないのね。
少し浮かんだ考えに、これはただの八つ当たりだと反省した。
先に帰宅し、彼が来るのをそれとなく待つ。
「すまん、少し遅くなった」
「ごはんは?」
「いや、先に話がしたい」
こういうところも、まっすぐなんだから。
「お母さんのことも、知りたいから」
「ありがとう、病院で良くしてもらっているみたいで、心配はないのよ?」
「そうなのか?」
「そうなの。心労と、働きすぎみたい」
「俺もお見舞いに行った方が良いだろう?」
鍋さんの言葉に、母の言葉が思い出される。
そんなことを考えていると、躊躇いがちに「ゆり?」と声がかかる。
彼が病室に行ったら、純粋に母に聞かれるだろう。
「結婚のこと、せっつかれても良いの?」
「うーん、そんな話になっているのか?」
「そうよ、だって私は1人娘だもの」
「それは困ったな、なんて言ったらお母さんは納得してくれるのか…」
『納得させないと、いけないような話になるの?』
その時に思ったことは、私からは聞けなかった。
「良いのよ、鍋さんは仕事に集中して?」
「でも…」
「鍋さんが、母に言い負かされるところが目に浮かぶもの。だから、来ない方が良いわ」
それは、私なりの優しさだった。
しかし、鍋さんには違ったらしい。
「俺は、そんなに頼りないか?」
「え?」
「ゆりのお母さんに、認めてもらえない男なのか」
「うーん、どうだろう。だって、鍋さん、まだ結婚のこと具体的に決めていないでしょう?だって、私たちだって話してこなかったんだから」
「それを言われると、何も言えないが」
「それに、今の母は気弱になっているから、曖昧な言葉を伝えても不安にさせるだけだし」
「じゃあ、籍を入れる話をしたらどうだろうか?」
「え?籍を入れるの?」
「それなら、お母さんも安心してくれるんじゃないか?」
「待って、鍋さん。籍を入れるのって、そんなに簡単なことじゃない」
「何で?」
「鍋さん、家にお婿に来るの?それとも、私が鍋さんの家に嫁ぐの?」
「あ…」
「ほら、この場だけで決めるのは、今はやめましょう。この話はここでおしまい」
「そう言って、お前は何か希望があるのか?」
「え?」
「俺にどうしてほしいとか、ここは汲み取ってほしいとか」
「んー?」
「今まで、ゆりは文句らしい文句も言わないし、ケンカになるようなことはなかっただろう?それは、ゆりが俺を優先してくれたからだ」
「そんな風に思っていたの?」
「そうだろう?倉橋先輩に言われた。ゆりが気を遣っていてくれるから、俺たちの関係は維持できているって」
もう、沙菜先輩も余計なことを。
入社して、彼の先輩だという総務部の鷹村さんと、その同級生だという倉橋沙菜さんは彼と私のことを、とても気にかけてくれ、ことあるごとに話しかけてくれるようになった。
特に沙菜先輩はややデリカシーに欠ける彼を、いつも注意してくれる。
彼は沙菜先輩が苦手なようだけど、私は沙菜先輩がとても好きだった。
1人っ子の私を可愛がり、さりげなく甘やかしてくれる存在は、本当の姉のようで自然と慕うことができた。
彼とは違う尊敬を、沙菜先輩には感じていた。
「鷹村先輩にも言われた」
「え?何て?」
鷹村さんは彼の先輩だと言うが、彼とは全くタイプの違う人だ。
この会社の跡取り息子だという割に、バリバリ働くというタイプではなかった。
私が言うのもなんだか、鷹村さんはとても冷静だ。
いつでも人のことを観察し、常に相手を知ろうとしているその感じが、私は少し怖かった。
彼は彼で、純粋に鷹村さんを慕っている。
鷹村さんも彼のまっすぐなところを認め、可愛がってくれているらしい。
だから、鷹村さんに誘われて、彼は一も二もなくこの会社に入社した。
鷹村さんの会社で、鷹村さんの役に立ちたいと本気で思っている。
「ゆりに、我儘を言われたことがあるかって」
「我儘…?」
「鷹村先輩が言うには、彼女に我儘も言われない男はどうしようもないって」
「そんなこと…どうしようもないなんて思ってないわ」
「じゃ、ゆりの希望はあるのか?」
「え?」
「ゆりの希望とか、俺に対する要望はあるのか?」
そんなことを言われたら…。
「私に、鍋さんの中の優先順位を譲って、って言ったら?」
「え?」
「今、鍋さんは企画の仕事が楽しいでしょう?ベタなことを言うけど、私と仕事どっちが大事?って聞かれたら、鍋さんは何て応えるの?」
意地悪なことを、聞いている自覚はあった。
でも、こうでも言わないと、鍋さんは気付いてくれない。
「ほらね、だから大丈夫」
「何が?」
「え?」
「何が大丈夫なんだ?」
「いますぐに籍を入れなくても、平気ってこと」
「でも、それじゃ…」
「じゃ、いつになったら、私に優先順位が移るの?何年待ったら、鍋さんは私とのことを具体的に形にしてくれるの?」
「それは…」
ほら、迷ってしまう。
真っすぐなあなただから、こうなることは分かっていた。
でもこんな時に、嘘でも『私が1番』って言ってほしかったって思うのは、私の我儘かしら?
「1年?2年?それとも10年くらい?」
「10年って、俺を馬鹿にしているのか?」
「していないわ、現実的な話をしているつもりよ」
「俺は、ゆりとゆりのお母さんを10年も待たせると、思われているのか?」
鍋さんが、神妙な顔をしている。
「流石に言い過ぎたわね、ごめんなさい」
「いや」
「鍋さん?」
「何だ?」
「私は働いている鍋さんが好きよ。仕事でイキイキしている鍋さんを、側で見られることが私も好きだから」
そう言いながら、多分私の心は泣いていた。
このまま彼の側にはいられない。
そう思っていた。
「岡吉、この企画またダメだった。何がいけない?どこが甘い?現実的に出来そうじゃないか?だって、予算だって、発注先だって、無茶なんかしてないんだから」
「ねえ、今ってデート中じゃなかった?」
「そうだった。すまん、でも岡吉の意見を聞きたい」
彼の長所は、まっすぐなところ。
それは時に、短所になる。
「言うなら、現実的過ぎて、あまり購買意欲が湧かないところかしら?」
「と言うと?」
「何か、話がうますぎて、騙されてるんじゃないかって思うところ。鍋さんだって、お膳立てされ過ぎていると、怪しいなって思わない」
「なるほどな!やっぱり岡吉は冷静だな」
「そうかしら?」
嬉しそうに言う彼に、私も困ったように笑ってしまった。
デート中なのに関わらず、彼の頭の中は仕事のことでいっぱいだ。
でも、そんな彼も愛おしい。
私のことを片隅にやっていても、こうやって側にいることを当たり前と思ってくれるのなら、私は満足だ。
私が高校を卒業して、すぐに就職した時、同期の彼は4つ上だった。
進学に意味が見いだせず、すぐに就職して家庭を助けたかった私には、彼は十分大人に見えた。
でも、働き始めて先輩の補助がなくなって、仕事に対しての気持ちなんてなかったのに、大人のはずの彼が楽しそうに仕事をするのを見て、こういう人になりたかったと憧れを持つのは、ごく自然な流れだった。
石鍋 嵐さん。
就職した時に、老け顔でいることと体格のせいですでに、年数社員のような風貌をしていることで『鍋さん』とあだ名を付けられていた。
思ったことをすぐ口に出し、先輩や女性職員の反感を買っても「すんません!」とあっさりしているのは、彼のすごいところだった。
憎まれることも多いけど、可愛がれらる部分も多い鍋さんを私は尊敬している。
私は、父親が早くに亡くなり、母1人に苦労をさせるのは申し訳ないと、父親の縁故を頼り就職させてもらった会社で、ステキな人と巡り合った。
学生時代の先輩に誘われて入社したという彼は、その先輩の期待に応えようと、入社直後から張り切っていた。張り切るうちに、企画と言う会社の土台になる部分をいたく気に入ったようだった。
しかし、彼はそのまっすぐな性格故か、売り上げに直結する企画を生み出せずにいた。
企画とは、あくまで購入する人の意識を促し、買いたいなと思われる気持ちを作り出すもの。
私はそう思っていたけれど、彼の場合は“買わせたい”が強く、そのことをその都度伝えている内に、距離が縮まって行った。
何故か同期の、それも年下の私に彼は遠慮なく意見を求めてくるようになった。
彼は、女性職員に敵視されていることを何となく察し、自分からは近付かなくなっていった。
でも誰かの意見を聞きたい、その対象にぴったりだったのが私だったようだ。
自分でも冷めていると思う性格で、鍋さんの言葉にあまり傷つかない私。
それでも、鍋さんの発言に「今のは失礼よ?」と言えば、素直に「すまん!」と謝る彼。
意見を交換する内に、鍋さんの側が心地良いこと、私も彼の側で楽しく仕事できることを意識した。
自然と、私たちは付き合いだした。
私が好きなのを隠していなかったことで、回りから言われたのだろう、頭を掻きながら「付き合うか?」と言われ、すぐに了承した。
入社して2年目、私が20歳で彼が24歳の時だった。
私の気持ちを全部理解するのは、彼には難しいようだったが、大きな衝突もなく揉めることもなく、お付き合いは順調だった。
この会社内でカップルになる人たちは多く、寿退社や妊娠を機に職場を離れる女性社員も少なくなかった。
私も、いずれそうなるのかと、ぼんやり考えていた。
彼の隣で過ごす時間が、彼を家で待つ時間に変わるのだと、信じて疑わなかった。
「ゆり」
「なあに、鍋さん?」
「お前も、憧れがあるのか?その…結婚とかに」
「まあ、人並みには?」
そんなやり取りも増えて行った。
しかし、彼は働くこと、会社で生きていくことを何よりも優先していた。
私が彼を理解しているのなら、その時はいつでも良い、そう思っていた。
そんな時に、母が体調を崩し、入院することになった。
母は私に心配をかけまいと、言わないでいたらしい。
頼ってもらえなかったことにショックを受けながら、母に言われた言葉に戸惑いが生まれる。
「ゆり?お付き合いしている人と、その…将来のことは考えているの?」
入院する母に付き添い、病室で過ごす中言われた言葉。
言われた言葉に、漠然とした未来しか思っていなかったことを後悔した。
「あなたはしっかりしているし、大丈夫だと思うけれど。その…ね?私は先にいなくなる人間でしょ?その時にあなたを支えてくれる人なら、お母さんは何も言わないわ」
言葉が出なかった。
「別に今すぐ、結婚しなさいとか言うつもりはないわ」
「そうね」
母との会話で、自分の立ち位置をしっかり認識することができた。
母の入院を知り、鍋さんが慌てた様子で確認しに来た。
「ゆり、お母さんの体調は?」
プライベートなことを、仕事中に話すのを好まない私を知っているはずなのに、彼はなりふり構わなかったのか、そう会社で聞いて来た。
「心配ありがとう。でも、ここでする話じゃないわ」
私の小さな拒絶に、鍋さんが困った顔をした。
「なら、今日の夜話せる時間はあるか?」
「あるわ」
「じゃ、ゆりの家に行くから」
「…分かった」
鍋さんは、家に寝に帰るだけの生活をしているから、家が乱雑になっている。
私も彼の家に行く時は、まず掃除から始める。
「すまんな」
申し訳なさそうに言う彼を、愛おしいと毎回感じていた。
だから、大事な話や決めなくてはいけないことがあると、彼は私の家に来ることが決まっていたのも当たり前だった。
こういう時でも、彼は自分の家に呼んでくれるわけではないのね。
少し浮かんだ考えに、これはただの八つ当たりだと反省した。
先に帰宅し、彼が来るのをそれとなく待つ。
「すまん、少し遅くなった」
「ごはんは?」
「いや、先に話がしたい」
こういうところも、まっすぐなんだから。
「お母さんのことも、知りたいから」
「ありがとう、病院で良くしてもらっているみたいで、心配はないのよ?」
「そうなのか?」
「そうなの。心労と、働きすぎみたい」
「俺もお見舞いに行った方が良いだろう?」
鍋さんの言葉に、母の言葉が思い出される。
そんなことを考えていると、躊躇いがちに「ゆり?」と声がかかる。
彼が病室に行ったら、純粋に母に聞かれるだろう。
「結婚のこと、せっつかれても良いの?」
「うーん、そんな話になっているのか?」
「そうよ、だって私は1人娘だもの」
「それは困ったな、なんて言ったらお母さんは納得してくれるのか…」
『納得させないと、いけないような話になるの?』
その時に思ったことは、私からは聞けなかった。
「良いのよ、鍋さんは仕事に集中して?」
「でも…」
「鍋さんが、母に言い負かされるところが目に浮かぶもの。だから、来ない方が良いわ」
それは、私なりの優しさだった。
しかし、鍋さんには違ったらしい。
「俺は、そんなに頼りないか?」
「え?」
「ゆりのお母さんに、認めてもらえない男なのか」
「うーん、どうだろう。だって、鍋さん、まだ結婚のこと具体的に決めていないでしょう?だって、私たちだって話してこなかったんだから」
「それを言われると、何も言えないが」
「それに、今の母は気弱になっているから、曖昧な言葉を伝えても不安にさせるだけだし」
「じゃあ、籍を入れる話をしたらどうだろうか?」
「え?籍を入れるの?」
「それなら、お母さんも安心してくれるんじゃないか?」
「待って、鍋さん。籍を入れるのって、そんなに簡単なことじゃない」
「何で?」
「鍋さん、家にお婿に来るの?それとも、私が鍋さんの家に嫁ぐの?」
「あ…」
「ほら、この場だけで決めるのは、今はやめましょう。この話はここでおしまい」
「そう言って、お前は何か希望があるのか?」
「え?」
「俺にどうしてほしいとか、ここは汲み取ってほしいとか」
「んー?」
「今まで、ゆりは文句らしい文句も言わないし、ケンカになるようなことはなかっただろう?それは、ゆりが俺を優先してくれたからだ」
「そんな風に思っていたの?」
「そうだろう?倉橋先輩に言われた。ゆりが気を遣っていてくれるから、俺たちの関係は維持できているって」
もう、沙菜先輩も余計なことを。
入社して、彼の先輩だという総務部の鷹村さんと、その同級生だという倉橋沙菜さんは彼と私のことを、とても気にかけてくれ、ことあるごとに話しかけてくれるようになった。
特に沙菜先輩はややデリカシーに欠ける彼を、いつも注意してくれる。
彼は沙菜先輩が苦手なようだけど、私は沙菜先輩がとても好きだった。
1人っ子の私を可愛がり、さりげなく甘やかしてくれる存在は、本当の姉のようで自然と慕うことができた。
彼とは違う尊敬を、沙菜先輩には感じていた。
「鷹村先輩にも言われた」
「え?何て?」
鷹村さんは彼の先輩だと言うが、彼とは全くタイプの違う人だ。
この会社の跡取り息子だという割に、バリバリ働くというタイプではなかった。
私が言うのもなんだか、鷹村さんはとても冷静だ。
いつでも人のことを観察し、常に相手を知ろうとしているその感じが、私は少し怖かった。
彼は彼で、純粋に鷹村さんを慕っている。
鷹村さんも彼のまっすぐなところを認め、可愛がってくれているらしい。
だから、鷹村さんに誘われて、彼は一も二もなくこの会社に入社した。
鷹村さんの会社で、鷹村さんの役に立ちたいと本気で思っている。
「ゆりに、我儘を言われたことがあるかって」
「我儘…?」
「鷹村先輩が言うには、彼女に我儘も言われない男はどうしようもないって」
「そんなこと…どうしようもないなんて思ってないわ」
「じゃ、ゆりの希望はあるのか?」
「え?」
「ゆりの希望とか、俺に対する要望はあるのか?」
そんなことを言われたら…。
「私に、鍋さんの中の優先順位を譲って、って言ったら?」
「え?」
「今、鍋さんは企画の仕事が楽しいでしょう?ベタなことを言うけど、私と仕事どっちが大事?って聞かれたら、鍋さんは何て応えるの?」
意地悪なことを、聞いている自覚はあった。
でも、こうでも言わないと、鍋さんは気付いてくれない。
「ほらね、だから大丈夫」
「何が?」
「え?」
「何が大丈夫なんだ?」
「いますぐに籍を入れなくても、平気ってこと」
「でも、それじゃ…」
「じゃ、いつになったら、私に優先順位が移るの?何年待ったら、鍋さんは私とのことを具体的に形にしてくれるの?」
「それは…」
ほら、迷ってしまう。
真っすぐなあなただから、こうなることは分かっていた。
でもこんな時に、嘘でも『私が1番』って言ってほしかったって思うのは、私の我儘かしら?
「1年?2年?それとも10年くらい?」
「10年って、俺を馬鹿にしているのか?」
「していないわ、現実的な話をしているつもりよ」
「俺は、ゆりとゆりのお母さんを10年も待たせると、思われているのか?」
鍋さんが、神妙な顔をしている。
「流石に言い過ぎたわね、ごめんなさい」
「いや」
「鍋さん?」
「何だ?」
「私は働いている鍋さんが好きよ。仕事でイキイキしている鍋さんを、側で見られることが私も好きだから」
そう言いながら、多分私の心は泣いていた。
このまま彼の側にはいられない。
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