鷹村商事の恋模様

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それは打算?

違ったらしい

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『明日、尚さんが無職になっても、私が養いますとかカッコいいことは言えないけれど、私の家にお迎えする準備は万端です。だって、好きだから。すぐにでも来てほしいと思うくらいには、尚さんを支えたいと思っています』

あの日、言った言葉に嘘はない。
その時は、私にできる精一杯があれだっただけ。

目が覚めて、懐かしい夢を見たことをぼんやりと考える。
幾度となく告白を繰り返した末、あの言葉で尚さんが私に振り向いてくれたんだっけ?
22歳で初めて出会って、何だか尚さんが気になって、どうにか接点がないか探りに探って告白をした私。

初めて自分からした告白は、思い出すのも恥ずかしい立派な黒歴史だ。打算だと思われて「はいはい」とあしらわれた。会社に玉の輿狙いに来ていると思われたのは心外で、そのことには何度も楯突いた。
だからなのか、尚さんは振った私に対しても、気まずい思いを抱くことはなかったのか、距離感がずれることがなかった。
私が何度でも、尚さんに絡みにいったから。
今思い出しても、恥ずかしくて埋まりたくなる。

22歳の小娘が、何を生意気に年上を口説いているんだって。
お姉さま方から呼び出されても、説教やイジメなんて一切なかったのが不思議だった。
逆に私の心配をされ、何ならセクハラでも受けているのではないかと、社内会議にかけられそうになった。
全力で否定し、チーフが好きなのは私の一方的な思い込みで、被害者はむしろ尚さんの方だった。
なのにも関わらず、フロアで、会社で私のことでずっと揶揄われる尚さんは、穏やかな表情のまま静観していた。

ようやく付き合うことができた私は、とんでもなく浮かれていた。
そんな私のことを、尚さんはしっかりと相手にしてくれた。
「一緒にいて、心地良いと言われたのは初めてだったから。今までの相手には言われたことがないし、印象に残っただけだ」
「それでも、尚さんの中の何かには響いた?」
「おーよ」
何回かのデートの後、尚さんがポツリとそう私に告げた。
尚さんからの、分かりにくい矢印。

22歳の新卒には、すでに30歳の尚さんは大人に見えた。
実際に尚さんは優しかったし、私には印象が悪くなかっただけ。
過去に付き合った彼女さんは、今の会社に入ってからでも4人いたとのこと。
親切な人が、尚さんの恋愛歴をことこまかに教えてくれた。
それでも長続きしなかったのは、彼女さんが耐えきれなかったとかなんとか。

甘い言葉を言うわけでも、特に何かを記念にするわけでもない尚さんに、彼女さんたちが離れていったらしい。
本当に好きなのか不安になり、「私のことをどう思う?」や「私のこと好きなの?」なんて言葉を投げかける。
尚さんは淡々としているから、面倒になり「なら別れるか?」なんてあっさり言うことで、女性たちのハートは粉々に砕け散ったんだろう。
それでも、人としての魅力なのか、尚さんの評判が落ちることはあまりなく、男性職員からは僻みや嫉妬もほとんどなく、何だか羨ましいというポジションに落ち着いたらしい。

私にしてみたら、22歳から付き合い始めて、特に不満を感じたことはなかった。
いつでも、私をきちんと彼女として扱ってくれるし、言葉はないけれど、目線や接し方が優しかったから。
だから、『こういうもの』として私はそれを日常にしていった。
初めての彼氏との、初めてのお付き合いは、乾いた砂が水を吸うようにぐんぐんとそれに慣れていった。
だって、尚さんの側にいられれば、それで良かったから。

面白いもので、「私のこと好きなの?」なんて聞かなくても、私には不安になる要素は全く生まれなかった。
職場も同じで、アフターもそこそこ一緒。ほとんどを会社か営業先で過ごす尚さんに、浮気をするような活力は見られなかったし、そんな気配も感じなかった。
4年の歳月を、それなりに満ちたお付き合いを続け、再度転機が訪れる。

私が26歳の時に、丁度アパートの更新があって尚さんの側が良いこと、近くに住んでも良いか相談した時に「なら一緒に住むか」ってあっさり言ってくれたこと。
それが、とても嬉しかった。
尚さんの内側にいると思っていたけれど、意外な所にまで私は入っていたらしい。
そんな近いテリトリーに入れるなんて、と感動したのを覚えている。

私と尚さんの関係は、昔は何かにつけて引き合いに出されていたけれど、もうなんか一周して認知されているはずなのに、忘却の彼方にあるってこと。
そのくらい、私たちの関係は変化がない。らしい。
確かに菊田と真澄のように、いつの間にか2人の世界とか行かないし、他人を置いてどこかに飛んだりもしない。
現実的な恋人同士、またはお互いに利害関係の一致で付き合っていると思われている。


「かすみ?」
「何?」
「明日の休み、何か予定あるか?」
「ん-、特には。どうしたの?」

急に聞かれたいつもの週末。
洗濯と掃除をしてから、不意に訪れた2人の時間。
聞き返す私に、尚さんが不思議そうな顔をする。

「…尚さん?」
「いや…この間、キラキラしい小物を、買いに行きたいって言ってなかったか?」
「あー、あの2人に憧れて、『何かそれらしいニューアイテムを』とか言ってたね。忘れて良いよ」
考えないで発言したことなんて、流して良いのに。
というか、いつもなら流してるじゃん。

「何か目ぼしいものがあったんじゃないのか?」
「と言っても、買いたい物が出てこない。思いついたらネットで買えるし、尚さんは好きなことしていて良いよ」
「…じゃ、昼でも食いに行くか?」
気を血取り直したように言う尚さんに、少しの違和感を感じる。

「どうしたの?急に。仕事で疲れているんだから、家でゆっくりしよ?」
なので、いつもの休日を過ごそうと提案する。
なのにやっぱり違和感を感じる尚さんの雰囲気。

「俺と出かけたくないのか?」
何でよ?
「言っていないでしょ?」
即答する私に、尚さんがムッとする。

「デートに誘って振られたら、俺と行きたくないのかと思うだろ?」
「あ、デートの誘いだったの?ごめん」
「行きたくないか?」
「無理に、行く理由を作ってまで、行きたいとは思わない。尚さんが外に行きたいなら、私が着いて行く」
私の返答に、尚さんが何とも言えない表情をする。

「あの2人のデートは、羨ましいって言ってたのに?」
「あ、そういえば言っていたね。でも、それは菊田と真澄だから良いなって話。それと、私たちがデートするのはまた別の話」

応える私に、尚さんが溜め息を付く。
「…俺に、合わせ過ぎてないか?」
躊躇ったような言葉。
「尚さんこそ、急にどうしたの?」
「いや、お前が最近『カップルセラピー癒される』ってやたら言うから…」

私が尚さんの言葉を覚えているように、尚さんだって私の言葉を記憶している。
当たり前のことに、少し嬉しくなった。
「私が2人に意識を向けるのが、尚さんは嫌だったの?」
困ったように、尚さんは顎をかく。
「嫌、というのとはまた少しずれるが…。あの2人の初々しい感じに当てられて、こんなおっさんとの枯れた恋じゃなくて新しい恋にでも目覚めたくなっていたら、と思ってさ」

「別に良いのに。尚さんが嫌がっていない間は、私が側にいるから」
「だから、そうじゃなくて」
「何?」
「俺じゃなくて。…お前が離れたいと思った時に、俺が離れてやれるかは、また別の話だってことだ」
「え?」

認識した言葉が、嘘だと判断していた。
何だこれ、確かに尚さんから言われているのに、自分の脳が“尚さんはこんなこと言わない”って勝手に誤認識している。
確かに言われたのに。

面白い。
それが不思議と嬉しかった。
「…お前はさ、ここ最近俺を優先するだろ?」
「そうかな?」
「そうだ」

そんなことは、ないつもりなんだけど。
「お前が無意識にそうしてるんだろ?」
「尚さんが言うなら、そうなのかな?」

「ほら」
「え?」
「それ、最近増えた。お前のクセ。俺が言ったことを、そのまま流すようになった」
「…だって、それで尚さんが納得するなら」
「だから!」

初めて、尚さんの大きな声を聞いた。驚いたことで、目が開いてしまった。
6年も付き合っていて、まだ初めてなことがあったんだって。
ビックリしている私に、尚さんは「すまん」と咳払いした。

「お前が、かすみが俺の言ったことで反応しなくなるってことは、俺にもう興味がないってことだろ?」
「そんなことない」
「そんなことなくない」
尚さんと、会話がかみ合わない。

さっきのデートのくだりもそうだし、尚さんの言っていることが掴めない。
尚さんが何を話したいのか、私には見当もつかなかった。
いつもなら、もう少しスムーズに話が進むのに。

「今日の尚さんおかしいよ?どうしたの?」
「それはお前の方だろ?お前の方が、最近変だぞ」
「どこが?」
「…かすみは、俺の言うことを最初から否定してきた」
「だから?」

「俺がどう言っても、お前は自分が言いたいことを言い続けて、どれだけ怒っても…違うな。たとえ、拗ねていても俺にきちんと返してくれた」
尚さんのゆっくりとした言葉に、「尚さん、分かってたんだ」と驚く自分がいた。
そう、私はいつも怒ってなんかいない。
ただ、尚さんが私の話を聞いてくれない、理解してくれない、と1人で拗ねていた。
いじけていたんだ。

「俺が言うことで、自分の意見はこうだ。だから、俺にこうしてくれっていつも訴えてた」
「だって、尚さんが私のこと怒らせキャラにさせるから。それが嫌なんだもん」
つい出た言葉に、尚さんがほっとしたような表情を浮かべる。
あれ?ほっとした表情?

「だから、それがないと俺は少し物足りない」
「でも、尚さんのせいで私、会社でも怒らせキャラになってる。ただでさえお局だって言われているのに、これ以上ヒステリックなキャラいらないよ」
「それは、俺の我儘かな?」
「意味が分からない。何で?」
「お前が、そうやって俺に聞いてくれる内は、俺に意識があるだろ?」
「当たり前じゃん」

「あのな、毎日のように」
尚さんが困ったように、少し呼吸を整える。
「毎日好意を寄せられて…。当たり前に言われていたら、それが無くなったら、俺のこと嫌いになったのかと、思うようになるだろ…」

最後の方はごにょごにょしていて、ちゃんと聞き取れなかった。
でも、今の言葉の意味を考えるに、何だか変な気持ちになった。
「え?尚さん、メンヘラ彼氏だったの?」
「……だから、嫌だったんだよ。俺だってそう思うよ。ガキじゃあるまいし、何が言われないと不安なのかって」
「…そんなこと、思っていたんだ?」

「まぁ、な…。今までの相手にも、そんなこと言ってこなかったし。俺から言わなかったことで、終わった関係もあったから…」
「でも、それで良いって私も思っているし」
「“だから”俺が良くないんだ」
「何で?別に尚さんに無理をさせたいわけじゃないから…」
「そうじゃなくて、かすみに『私のことをどう思っている?』って言わせたい自分がいたと、今なら思える」

「?」
「かすみから『私のことを嫌い?』とか、『告白されたい』とか、俺の気持ちを言わなきゃいけない状況にできないかと、しばらく考えていた。…ここ最近」
「…分からなかった」

うん、全く気付いていなかった。
それは無理ゲーですよ。
私の呆れた目線に、尚さんが困ったように笑う。
「そうすりゃ、告白でも愛の言葉でも、義務のように言えたのに。大義名分があれば、それを言い訳にできたのに」

どうしよう。
やだ。尚さんが可愛い。
毎日のように好きだって言っていたのは、私の黒歴史だ。
だって、それじゃただの重たい女だ。
私には語彙力がない。
だから、ストレートに言い続けた。

聞いているのかいないのか、反応しているのかしていないのか、全く変わらない表情の尚さんに、それこそ呪いのように言い続けた。
毎日毎日飽きもせず『好き』なんだって、尚さんに言い続けた。

「だって、先に尚さんが言ったんじゃん」
思わず口が尖っていく。
「そうだよ」
「『俺は言葉で言うのも、言われるのも苦手だ』って」

「だから、そうだって」
「私が言う分には、嫌でも我慢してって言って、尚さんも納得して始まったんじゃん」
「そうだな」

「尚さんが言う打算をずっと否定していたけど、本当は私だって打算はあったよ?毎日好きって言っていたら、その内絆されてくれるんじゃないかって、呑気に思っていたよ?勿論、玉の輿じゃなくてね」
「だからって、俺からの告白も愛情表現もないことを当たり前にされたら、それをそのまま日常にされたら、俺って本当にただのダメ男じゃ」
「ダメじゃないよ」
それは、違う。
私が一方的に、尚さんに付きまとっただけ。

「…ダメだろ?……惚れた女に、好きだの一言も言えないまま、かすみがいなくなったら。…滑稽だろ」
言い終わらない内から、尚さんの赤くなった耳が可愛すぎる。
しかも、今サラッと。「好き」だって、私のことを「好きだ」って言ってくれた。
脳が蒸発しそう。

さっきの誤認識もそうだし、今日は私の脳への負荷が大きすぎる。
一気に熱くなった頬を抑えて、その破壊力に耐える。
「一生分の告白を受けたから、もう十分」
今度は私が挙動不審になる番だ。
6年も全くなかった愛情表現をいきなり受けたら、そりゃこうなりますよ。

変な汗は出るし、きっと脳汁?とかいう奴だってきっと溢れるほど出てる。
顔は熱いし、視線は定まらないし。
何なのこれ。
というか、見ないでほしい。

「尚さんに言ってほしいと思っているわけじゃないし、急にそんなことを言うのはズルい」
「…俺が告白したらダメなのか?」
「ダメじゃないけど…。何か、変にドキドキするからやめてほしい、かな?」
赤くなった顔を覆いながら、見ないでほしいことを暗に伝える。

「だから、そうやって俺を不安にさせるのか?」
「させないよ?また復活させれば良いんでしょ?私から、ことあるごとに好きって言えば良いんだもん」
「それじゃ割に合わない」
尚さんの言葉が理解できなくて、視線が彷徨う。
もう止めてよ、私の脳の処理機能が追いつかない。

「何の割?」
「今まで言われていた分、俺が返していないこと」
「だから、良いってば!恥ずかしくて私が悶える」

「あの2人に当てられて、恋に浮かれているお前には逃げられる」
「だから、逃げないって」
「じゃ、取られる」
「誰も取らないよ?やめよう。この会話寒いし、現実味がない」

「会社の奴らに、可愛がられているのに?」
「誰が?」
「かすみが」
「真澄じゃなくて?」
「お前だよ」

「BBAって言われているのに?」
「それは軽口だろ?」
「軽口?本気でしょ?」
「じゃ、猶更悪い」
「何で?」
「お前が何でも受け入れる寛容さで、年下の男にでも口説かれたら」
「だから、身も蓋もない話はやめよう」

「見も蓋もあるから、言ってるんだよ。喫煙所で、新人に毎年聞かれんだよ」
「何て?」
「『和田さんて、本当にチーフの彼女ですか?』って、『可愛い彼女ですね』とか、『でも、チーフはあまり好きじゃないんですよね?』って言われているこっちの身にもなれ」

「いや、なれって言われても、お世辞でしょ?」
「好きでもない女、彼氏に対して褒めねえだろ」
「いや、今時の子は簡単に褒めるよ?ちなみに誰が言っていたの?」
「嫌だね、誰が教えるか」
「ただ、知りたいだけなのに?」
「それで、相手に興味を持たれるのが気に食わない」

「テレビドラマの見すぎだって。尚さん、思考が女子になっているよ」
「きっかけが何であれ、それでお前が誰かに口説かれるようになったら、それこそ業腹だ」
「そんなに安易に、恋には落ちないもんだよ?」
「分からないだろ?」
何だろう、いつもの尚さんと少し違って、会話が進まない。

「だから、そんな若い男に騙されて」
「だから騙されないって」
「じゃ、取られたら」
「誰も取らないって!しつこいなー」
「おっさんが捨てられたら、目も当てられないぞ」
「だから!捨てないっての」

つい、釣られて私も大きな声を出してしまった。
「もう!本気で腹立たしいな!!」
怒る私に、嬉しそうな尚さんが更に腹立たしい。
何で嬉しそうなの!
馬鹿なの?

「良いぞ、存分に怒って」
「何が!こんなに話の合わない尚さんは、初めての告白の時以来だし!!」
「そうだろ?今の俺は疑ってるからな」

呼吸も荒くなりながら、少し切れかけている私がいた。
「さっきからおかしいよ!何?私が尚さんと別れるつもりだって?」
「…そうだ」
「まずその根拠は何?」

「お前が俺の言うことに、反発しなくなってきたから」
「だから、怒りBBAとか言われるのもう嫌なんだって」
「そういうところで、俺がかすみを適当に相手しているって思われているのに、お前の興味が俺にないって思ったら、それこそ若い男に」

「もう!!いちいち『若い』を強調しないで良い」
「…他の男に口説かれて、持って行かれたら」
「私は、どれだけ薄情な女だと思われているの?」

「そうじゃなくて、こう…。お前が躊躇っている隙に入り込むような、タチの悪い奴にでも強引に口説かれたら」
「私が!血迷うとでも?」
血圧の上がる私に、逆に落ち着いていく尚さんが本当に腹が立つ。
「そうじゃなくて…。何でこんなに、伝わらないかな?」
「さっきから、尚さんが私を浮気者に見立てるから、それが納得いかないだけ」

「…浮気じゃない」
「なら何?」
食い気味に応える私に、尚さんがまた小さく顎を掻く。

「…無理強いでもされて、その…既成事実なんか作られて、つけこまれたら、とか……。どうにも断れない状況にでもなって、お前を好きな相手なら、その内絆されて、とか……。相手の気持ちが強すぎて、お前の気持ちが段々変わって、とか……。そうなったら、俺を見限って置いていかれるのかと思ったら」

「十分薄情じゃん。尚さんに後ろめたい気持ちができたら、離れるような女だとでも思われているのね」
私の言葉に、尚さんは反論を止めた。
「そういうことで?」
生意気な私の目線に、尚さんが気まずいように言葉を止める。

屁理屈合戦なら、絶対に負けない。
私の態度に、尚さんがぐっと黙る。
勝機が見えたことで、少し落ち着いて来た。

「もしも!もしもね?本当にもし仮に、そういう状況になったって仮定します」
『仮定』を殊更強調し、尚さんをガン見する。
「だとしても、私はそっと離れて尚さんと距離を置くなんて方法は絶対に取らない。それは逃げるのとイコールだから。私の言葉で、尚さんにちゃんと離れる意思を伝えに来る。尚さんとの『終わり』をきちんと残すもの」
はっきりとした決別を思い浮かべたのか、尚さんの目が揺れた。

「だからって、私がそういうことを言い出すのかと疑うのはやめて。何なら、無理強いした男だってそのままにはしない。絶対に泣き寝入りもしない!どんな手を使ってでも、法廷に引きずり出す。転んだってタダじゃ起きない。好きでもない男に、私の人生を決めさせるわけがない。私の彼氏は尚さん1人で、恋愛したいのも尚さんだけ。私が現在進行形で好きなのも、尚さん1人だけ!これでもまだ疑う?」

私の啖呵に、尚さんが苦笑する。
どうだ、貴方の彼女はこんなにも面倒なんだって。
男に振り回されるだけが、女の恋愛じゃない。
私は引っ張ってくれる相手よりも、こうやってお互いの意見を言いながら進んで行く方が合っている。
だから、6年も続いたんじゃないの?

もう1度溜め息をつき、尚さんが「そうだよな」と呟いた。
「この前のマンション更新の時だって、反発しないまま出ていくのかと思って」
あー、丁度私が『打算』について悟りを開く前か。

「そう思ったら、おっさんは不安になるんだってこと」
珍しく会話の途中で尚さんがタバコに手を伸ばす。
「…と、悪い」
「良いよ。珍しく、尚さんもイライラしてるんでしょ?」
架空の話でイライラする尚さん、シュールすぎる。

「いや良い、真剣な話をしているのに、聞く気がないと思われるから」
「良いって。気にしないから吸って」
「いや、良い」
「じゃ、お茶休憩にしようか?」
「そうやって中断する気か」
「喉渇かない?」
「…渇いた」

「じゃ、私はコーヒーで尚さんは紅茶ね」
「お湯沸かすか」
2人でキッチンに行き、さっきまでの言い合いがなかったかのような雰囲気になる。
尚さんがカップを用意し、私がコーヒーと紅茶のセットをしていく。
お湯が沸き始め、先に私のコーヒーの香りがキッチンに広がっていく。
その後で、尚さんの紅茶の方に取り掛かる。

いつもの習慣もあり、沸騰するお湯を前に鼻歌が出てしまう。
「…なあ、かすみ?」
「ん-?」
「俺は、お前が何をしてほしいとか、何をされたら喜ぶとか、これだけ一緒にいても、そうだな…一緒に暮らしていても、ちっとも分からない。それでも、楽しそうにしているお前を、側で見ていたいたいとは思ってるんだ」
「…うん」

「だから、籍を入れないか?」

尚さんの言葉に、ヤカンを持つ手が止まる。
「ちょっと!熱湯持ってるんだから、驚かすのやめてよね」
「…すまん」
尚さんの分の紅茶を準備し、蒸らしの時間に入ってから。
止まっていた思考が、動き出す。

『だから、籍を入れないか?』
言われた言葉を反芻し、やっぱり理解できていない私がいた。
今日の私はもう機能が出来ない。

え?今の尚さん、籍って言っていた?
籍って?籍って!?
あの、戸籍とかいう?

どういうこと、それはつまり…。
「かすみ?」
「っ!はい!」
ビックリしながら返事をしてしまった。

「お前大丈夫か?」
「大丈夫じゃない!」
今日の尚さんは、やっぱりおかしい。
人の浮気を疑ったり、急に好きだなんて言ったり、それに、変なタイミングで、プ、プロポーズとか。
私の挙動不審さに、尚さんが気付き、ややニヤニヤしている。
腹立つ。

「お前がさ、26の時にさ?」
「…うん」
「急に、四捨五入の話をしただろ?」
「あー、したね」
懐かしい話だ。

「俺はまだ34だから、四捨五入すると2人とも30になるって」
「アホの子だと思ったんでしょ?」
「いやー、アホよりも、こいつは何て可愛いんだって思ったな」
「っ!」
「そこまで無理に俺と“同じ”を見付けなくても良いのに、俺なんかに合わせて。それで1人で、楽しそうにしてる。大発見だって言ってな」

「もう、馬鹿にするのは止めてよ。もう言わないから」
「それを見て、一緒に生きるのはコイツだって、自然と思えたんだ。だから、一緒に住まないかって話になったのに…」
「うん?」
「そのまま順応するとかな、何の生殺しだって思ってたよ」
「生殺し?」

「一緒に暮らすのにあっさり了承して、ほいほい家に来ても俺に対しての責任追及もないし」
「何の責任?」
「一緒に暮らすってなったら、お互いの親に挨拶に行ったりとかさ」
「したじゃん」
「…お前が、おふくろとライン仲間になるとか意外すぎるだろ?」

「今でも仲良く、情報交換してますよ?」
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「仲が悪いよりは、良い方が尚さんが板挟みにならなくて良いでしょ?」
「かすみの家は、思っていたよりもフランクだったし」
「あー、真ん中って、放置されるから。それに、3姉妹の中では私が1番しっかりしてるし、うちの両親も同棲が先だったからね」

「お前から、そういう空気が出てくるかと思っても全くの皆無だし」
「それは、尚さんがいけないと思います」
「何でだよ?」
「だって、尚さんに対して『好き?』も『どう思ってる?』も禁句だって、前例があったからでしょ?」
「それを言われると、何も言えないが…」

「だから、それを言って「なら別れるか?」なんて拒絶されるくらいなら、このままの方が断然良いし」
「拒絶なんかしないっての」
「分かりませんもの。過去に4人も元カノがいる方のセリフなんて…」
「ほんと、根に持つな」
「だって私にとっては、尚さんが初めての彼氏で初めてのお付き合い。全部初心者、何を期待していたの?」

「今までの彼女は1年も持たずに、何か煽って来てたから。お前もそうなのかと思って」
「あ、過去の彼女と一緒にされてるわけですね?」
「そうじゃなくて」
「そうでしょ?」
「…悪かった」

「別に謝らなくても良いのに、私が尚さんの最後の彼女になれれば、それで満足だもん」
「そうか」
「尚さんは、私にとってこの先もずっと“初めての彼氏”だし…」
「お前の彼氏は、一生1人のままな」
「そんな食い気味に被せてこなくても」
まだ、浮気するかもしれない未来を憂いている?

「そんなに心配しなくても」
「心配はするだろ?」
「そうですか?」

「さっきのプロポーズ、嬉しかったのに」
素直な言葉に、尚さんが黙る。
「嬉しいのか?」
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「だから、尚さんが年寄りって言う時は、私も一緒に年を取って行くって錯覚するからね?私の脳が」
「謎の理論だな」
「謎じゃないもん」
「お前はまだ若い。実際に8歳はでかいぞ?」
「嘘ばっかり。私、尚さんと暮らしていても、なんなら付き合いだしてからだって、年齢差を感じたことほとんどないし」

私の言葉に、尚さんが黙る。
「負けたよ、俺の完敗。お前には、何をしても勝てる感じがない」
「今日の尚さんは、情緒面がグラグラだね?初めて見る尚さんがいっぱいで、私は嬉しい」
「…やめろよ。揶揄うなって」

「揶揄ってないよ!だけど、思い返してみてよ?自分でもおかしいって思わなかった?」
「…そうだな、ジェットコースターに乗ってる気分だ」
「そんな尚さんも、やっぱり好きだわ」

だから、尚さん。ずっと一緒にいようね?
耳元で囁いてから、紅茶を注ぐ。
尚さんは赤い耳を隠すこともなく、煙草に手を伸ばす。
呆れたようにタバコを吸い、じっと見ている私に気付くと照れたように笑う。

私たちの関係に、キラキラはないと思っていたけれど、実はそこら辺にキラキラは潜んでいたのかもしれない。
あの2人のようにはなれないけれど、私たちの生活にも、繰り返す日常にも、実はたくさんキラキラポイントはあったんだろう。
今度からは、それを探しながら暮らしていくのも、ワクワクするのではないかと、落としたコーヒーを飲みながら考えた28の春でした。
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