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宵
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「ありがとうございましたー!」
元気良く、お客さんをお見送りしホッとする自分。
時計を見てそわそわ、ワクワク?
もうすぐ今日も、バイトの終了時間がやって来る。
近所の雑貨屋。
それが、私のバイト先。
アンティーク的なアイテムも、地域推奨のアイテムも所狭しと並んでいる、街の便利屋さん。
進学を機に引っ越して、すぐにハマった可愛いアイテムたち。
持っていなくても、別に困らない日用品。
でも、あったらほっこりする日用品。
そんな小物たちを売っているお店。
私の好きなお店。
でも、好きなのはお店だけじゃない。
「お疲れ様でーす」
夜の担当になっている、先輩アルバイトの声が聞こえ、思わずドキッとする。
「…お疲れ様でーす」
小さく応え、何となく店内にある鏡を見てぎょっとした。
テカテカの私の顔。
今日は、暑くて汗をたくさんかいてしまった。
こんな顔でお客さんと話していたの?
恥ずかしい。
今日は2コマだけだからと、少し気を抜いていたのがいけなかった。
バイトに来るのに浮かれていた自分の愚かさに顔を顰める。
汗シューしていない自分に、ハタと気付く。
臭くないかな?
汗の匂い、出ているかもしれない。
咄嗟に、自分の二の腕を摩りそのベタベタ具合いに軽く引く。
終わったら、速攻でシートで拭こう。
「あれ、今日は引継ぎないの?」
姿は見えないけれど、裏でエプロンを付けているであろう先輩の様子が伝わって来る。
いつもは、先輩の声が聞こえるや否や「今日の引継ぎでーす」って調子に乗っていた自分。
先輩の声が聞こえた段階で、早く会話をしたくて話し出す私なのに。
『ちょっと待ってよ!』そんな風に苦笑する先輩に、聞いて聞いてと私から話しかけていた。
だけど、今日は違う。
テカテカの顔と、汗ばんだ腕が現実に気付かせてくれる。
話せることが嬉しくて、先輩が苦笑していても“必要なことだから”と自分に言い聞かせて喋っていた自分。
でも今日は、自分の汗に意識を取られ、すぐ側に来ていた先輩に「ひょっ」と変な声を出してしまった。
「お疲れ。今日、元気ない?」
入り口からではなく、後ろから入って来たのだろう。
「お疲れ様です。あの、元気ですよ?今日は引継ぎ、そんなにないです」
レジスターの後ろにやって来た先輩は、外の暑さの影響が全く感じられない爽やかさだった。
爽やかに加え、良い匂いもする。
来ただけで良い匂いのする人ってすごいなぁ。
はぁ、今日もカッコいい。
私のテカテカの顔とは大違い。
まさに雲泥の差。
思わず、手で額と小鼻を隠すように片手をかざす。
「あー、今日暑かったもんね、お客さん多かった?」
私が暑がっていると思ったのか、そう先輩は言った。
「…はい」
「じゃ、あんまり休憩できなかったんだ?」
「はい」
今日の、引継ぎは長く感じる。
おかしい。
いつもは、もっと早いのに。
「先週入荷した、新しい冷感グッズはどう?」
私が話さないことを不思議に思ったのか、先輩からそう聞かれる。
「…ちらほらですね」
「やっぱ、今の時期はまだ需要があるね」
「そうですね…」
いつもは、私の方から多く話しかけるのに、変な気分。
「スイミングチームの応援グッズは?」
「…全くです」
「そっかー」
残念そうな先輩の声に、私も苦笑を浮かべる。
地域に存在する、サッカーや野球など運動系のクラブは人気だ。
先月、たまたま体操クラブで使用しているトートバックを入荷したら、デザインが可愛かったのかすぐに売り切れてしまった。
それに店長が注目して、地域で活動しているクラブのアイテムや、応援グッズなどを調べて売ってみたらどうかという話をしたのは少し前のこと。
地域の応援にもなるし、クラブチームの運営にも協力できるしトントン拍子で決まったものの、スイミングクラブのタオルやバックはイマイチのようだった。
「個別に、スイミングチーム用のポップ作ろうかな?」
先輩は、デザイン系の学校に通っている。
雑貨屋のポスターや、お勧め用ミニ看板(ポップ)を作るのが得意みたい。
店内にも、いくつか、先輩が作った可愛くてお洒落な用紙が飾ってある。
「スイミングチーム応援週間みたいな感じでさ?」
「それ、良いですね」
「何だかんだで、ポップの力って大きいよね」
「はい」
先輩は、私の様子を気にしていないように紙の束や画用紙がある棚を確認している。
早速ポップに取り掛かろうとしているのだろう。
私に気を取られていない内に、と無意識に動いてしまう。
先輩から後ろに下がるのはもう仕方ないだろう。
先輩と話している時間は、毎日一瞬なのに。
楽しい時間は、あっという間と言うのは本当だと思う。
ほぼ、毎日の引継ぎは話しているのが楽しくて、本当に数秒に感じるのに。
でも今日は、先輩の側にいたくない。
汗だくで、妙にじめっとしているこんな自分の側にいてほしくない。
レジ後ろにあるのれんに、少しずつ体をずらしていく。
レジの横にある時計を見つめつつ、秒針の進む速さがいつもより遅く感じる。
そんなの気のせいだって分かっている。
充分、理解している。
いつもも今日も、1秒は同じ1秒だ。
でも、体感としてはいつもの5倍は長く感じた。
時計がピピッと18:00を示した。
「じゃ、お疲れさまでした」
のれんに手をかけながらも、腕を上げ過ぎないように気を付ける。
そしてそのまま、そそくさとバックヤードに引き下がる。
このまま、ロッカールームで汗とか皮脂とかシートで拭い去る。
そのことにしか、意識が行っていなかった。
だから、慌てて下がったまま意識はロッカールームに向いていた。
「あのさ!」
後ろから声が聞こえて、思わず振り向く。
レジの後ろは、バックヤードと事務所に繋がっている。
そして裏口にも。
さっさと上がろうとする私は、廊下を走る勢いでホールから離れていた。
距離が遠いけれど、声は聞こえる。
廊下は狭いから。
「はい?」
何も言わない先輩を不思議に思い、返事で応える。
先輩がのれんを腕で押し上げながらこっちを見ていた。
距離があったことで、少しホッとしている自分。
数メートル離れているだけで、匂いは届かないだろう。
首を傾げてみるけれど、その先は続かない。
廊下は、微かに先輩の残り香が漂っているようだった。
「…あの、先輩?」
言葉が続かないけれど、どうしたのかと気にしてしまう。
「…あ、今日、ずいぶん急いでいるなって思って、その、この後用事とか…あるのかなって」
言われた言葉を理解して、何もないことを再確認する。
お風呂に入って、夕ご飯を食べてSNSをチェックしながら、課題を済ませる。
テレビを点けたまま、明日の準備をして夜更かしをする。
そんな日常。
多分。
そもそも予定を入れていたら、バイトになんか来ない、と思う。
「えーと、びっくりするくらい、何もないです、よ?」
「そうなんだ」
ホッとしたような表情に、再度首を傾げる。
何で、ホッとしたような表情?
「その、可愛い服とか着ているし、どこかに出かけるのかな?とか、時間とか気にしていたから、このあと待ち合わせなのかな?って思ったら、つい…ごめんね」
「いいえ」
可愛い?
この絶妙にくたびれたトップスが?
しっかり履き慣れたジーパンが?
エプロンを付けているから、よく見えていなかったのかもしれない。
きっとそうだ。
そうに違いない。
先輩は気が付いていないのか、こんなにテカテカな私の顔に。
廊下が薄暗いことで、気付いていない可能性がある。
それとも、どうでも良い?
私が汗臭かろうが、顔がテカっていようが…。
それが、私と先輩の認識の違いだろう。
“ザ、オシャレ”みたいな先輩に『可愛い』と言われても、嫌味なのかなと思ってしまう私は多分終わっているのだろう。
隣に並ぶのもおこがましい。
専門学校でも、地味な方に位置する私は自分の容姿をきちんと認識している。
…中の中。
よく見積もっても、…中の中。
絶対。
変わらないんかい。
よく見ても、結局中の中からは脱することができない。
写メでどれだけ盛ったって、プリでどれだけ編集したって、現実の自分がちゃんと待っている。
それが、あの鏡の中に映った私だ。
自分で良く分かっている。
でも、可愛いと言われたことは素直に嬉しい。
だから、先輩が好きなんだろう。
「こんなくたびれたトップスなのに、よく可愛いって言えますね。でも、嬉しいのでありがとうございます」
なので、素直にお礼を言う。
「くたびれたって」
先輩が吹き出したことで、気分が軽くなった。
「きっと、エプロンで見えなかったんですよ先輩。襟とか、すごいくたくたですよ」
「そうなの?じゃ、上がる時に、もっかいちゃんと見よ」
「汗かいて恥ずかしいので、早く上がりたかっただけですよ」
なので、馬鹿正直に言ってしまう。
「そうなの?暑かったら仕方ないじゃん?全然気にならないよ?てか、良く見せてよ?」
「やめてくださいよ!そんなこと言われたら、後ろから出ますよ」
「嘘嘘、ちゃんと見ないから、明るい所からしっかり帰って?」
すぐアパートなのに、先輩は優しい。
田舎から出て来たばかりの私にも、超絶優しい。
だから、好きなんだろう。
優しいから好きなんて、安直な自分。
でも、それで良い。
憧れくらいが丁度良い。
初恋もまだだった私には、おつりが出るくらい勿体ない先輩。
美化されるのが初恋だって言うけれど、現在進行形で美化され続けているこの関係。
ありがたや。
「暗い所から出たらダメだよ?女の子なんだから」
「はい、分かりました」
「それに…」
チリチリーン
ドアが開くと鳴る、連なった鉄の棒の音がした。
ちゃんと正式名称があるはずだけど、チリチリと私は呼んでいる。
「あ、すみませんお客さんですね」
何か言いたそうな先輩にお辞儀して、私はそそくさと後ろを向く。
今度こそ急いで、ロッカールームに入る。
着替えるというほどのことはない。
エプロンを付けるか外すかのみ。
だけど、今日は汗拭きシートでちゃんと拭かないと。
顔用のシートで、まずは顔のテカテカを拭う。
拭うと言っても、ゴシゴシはしません。
顔が赤くなってしまうので…。
抑えるようにシートを当て、顔の皮脂を取り除く。
次に体用のシートを取り出し、丁寧に折り畳む。
脇や腕、首の後ろなどを素早く拭いていく。
スースーした感覚が、すごく気持ち良い。
「エプロン、汗臭いかな?多分、汗臭いよね」
持って帰って洗おう。
エプロンを小さく畳んでバックに入れる。
自分の腕とか、服をスンスンする。
「大丈夫、多分」
ロッカーの鏡で顔を確認し、テカテカじゃないことを確認する。
ついでに手櫛で髪の毛を梳かして、さっさと帰ろう。
明日も、先輩との引継ぎタイムはあるんだから。
お客さんがいると思っていたけれど、今日は先輩の知り合い?お友達が2人来ているようだった。
「あー、もう終わり?」
「帰っちゃうの?」
多少の顔見知りになったことで、私にも気さくに話しかけてくれる。
「はい、いらっしゃいませ。ごゆっくりどうぞ」
なので、スルーして帰ろう。
都会の人は怖い。
イメージが。
先輩以外は、みんな怖い。
「お喋りしていこうよ?」
「まだ時間あるんだよね?」
「しつこくすんなって、怖がってるだろ?ごめんね?」
先輩に謝られたら、『大丈夫』しか選択肢はない。
「…大丈夫です」
「まだ、明るいから大丈夫だと思うけど、気を付けてね?」
「はい、ありがとうございます」
毎日のように、このやり取りは行っている。
そう、『お疲れさま』と同じくらいの言葉のやり取り。
でも、先輩のお友達にはそうは見えなかったのか。
「ヒュー」
「過保護ー」
何故か、からかわれる。
でも、先輩の顔色は変わらない。
なので、私も動揺を隠さないといけない。
「今日の夜って、何している?」
「えっと、課題をしていますね、多分」
大したことはない課題をね。
「ラインしても良い?」
「もし、気付かなかったらごめんなさい。寝落ちとかしていたら、本当にごめんなさい」
必殺技。
学生なので、それに忙殺されていますアピール。
「気にしないで?何か、今日全然話せなかったじゃん?だから、話し足りない気分」
「え?」
キュンしてしまう。
うまい返しもできない私に、先輩はにこりと笑った。
「お疲れ。じゃ、また夜ね?」
「…お疲れさまでした」
さっさと店を後にし、つい深呼吸。
もう沈むであろう夕焼けを感じながら、商店街を歩く。
この時間帯は、不思議な感覚になる。
切ないような、寂しいような、家に帰るワクワクとか、夕ご飯の期待とか、色々な感情が混ざり合う。
そして、好きだと思う気持ち。
あぁ、先輩が好きだな。
そう今日も実感する。
明日も引継ぎの時間を楽しみに、1日を過ごそう。
この少しのすれ違いの時間が、毎日を楽しくしてくれる。
だから、明日はちゃんと汗対策をしよう。
反省と対策。
大事ですね。
夕焼けに照らされながら、そんなことを考える。
瞬く間に、暗くなるこの時間帯。
さっきの幸せを感じながら歩く帰路。
だけど私にとっては、何よりも愛おしい宵の時間。
元気良く、お客さんをお見送りしホッとする自分。
時計を見てそわそわ、ワクワク?
もうすぐ今日も、バイトの終了時間がやって来る。
近所の雑貨屋。
それが、私のバイト先。
アンティーク的なアイテムも、地域推奨のアイテムも所狭しと並んでいる、街の便利屋さん。
進学を機に引っ越して、すぐにハマった可愛いアイテムたち。
持っていなくても、別に困らない日用品。
でも、あったらほっこりする日用品。
そんな小物たちを売っているお店。
私の好きなお店。
でも、好きなのはお店だけじゃない。
「お疲れ様でーす」
夜の担当になっている、先輩アルバイトの声が聞こえ、思わずドキッとする。
「…お疲れ様でーす」
小さく応え、何となく店内にある鏡を見てぎょっとした。
テカテカの私の顔。
今日は、暑くて汗をたくさんかいてしまった。
こんな顔でお客さんと話していたの?
恥ずかしい。
今日は2コマだけだからと、少し気を抜いていたのがいけなかった。
バイトに来るのに浮かれていた自分の愚かさに顔を顰める。
汗シューしていない自分に、ハタと気付く。
臭くないかな?
汗の匂い、出ているかもしれない。
咄嗟に、自分の二の腕を摩りそのベタベタ具合いに軽く引く。
終わったら、速攻でシートで拭こう。
「あれ、今日は引継ぎないの?」
姿は見えないけれど、裏でエプロンを付けているであろう先輩の様子が伝わって来る。
いつもは、先輩の声が聞こえるや否や「今日の引継ぎでーす」って調子に乗っていた自分。
先輩の声が聞こえた段階で、早く会話をしたくて話し出す私なのに。
『ちょっと待ってよ!』そんな風に苦笑する先輩に、聞いて聞いてと私から話しかけていた。
だけど、今日は違う。
テカテカの顔と、汗ばんだ腕が現実に気付かせてくれる。
話せることが嬉しくて、先輩が苦笑していても“必要なことだから”と自分に言い聞かせて喋っていた自分。
でも今日は、自分の汗に意識を取られ、すぐ側に来ていた先輩に「ひょっ」と変な声を出してしまった。
「お疲れ。今日、元気ない?」
入り口からではなく、後ろから入って来たのだろう。
「お疲れ様です。あの、元気ですよ?今日は引継ぎ、そんなにないです」
レジスターの後ろにやって来た先輩は、外の暑さの影響が全く感じられない爽やかさだった。
爽やかに加え、良い匂いもする。
来ただけで良い匂いのする人ってすごいなぁ。
はぁ、今日もカッコいい。
私のテカテカの顔とは大違い。
まさに雲泥の差。
思わず、手で額と小鼻を隠すように片手をかざす。
「あー、今日暑かったもんね、お客さん多かった?」
私が暑がっていると思ったのか、そう先輩は言った。
「…はい」
「じゃ、あんまり休憩できなかったんだ?」
「はい」
今日の、引継ぎは長く感じる。
おかしい。
いつもは、もっと早いのに。
「先週入荷した、新しい冷感グッズはどう?」
私が話さないことを不思議に思ったのか、先輩からそう聞かれる。
「…ちらほらですね」
「やっぱ、今の時期はまだ需要があるね」
「そうですね…」
いつもは、私の方から多く話しかけるのに、変な気分。
「スイミングチームの応援グッズは?」
「…全くです」
「そっかー」
残念そうな先輩の声に、私も苦笑を浮かべる。
地域に存在する、サッカーや野球など運動系のクラブは人気だ。
先月、たまたま体操クラブで使用しているトートバックを入荷したら、デザインが可愛かったのかすぐに売り切れてしまった。
それに店長が注目して、地域で活動しているクラブのアイテムや、応援グッズなどを調べて売ってみたらどうかという話をしたのは少し前のこと。
地域の応援にもなるし、クラブチームの運営にも協力できるしトントン拍子で決まったものの、スイミングクラブのタオルやバックはイマイチのようだった。
「個別に、スイミングチーム用のポップ作ろうかな?」
先輩は、デザイン系の学校に通っている。
雑貨屋のポスターや、お勧め用ミニ看板(ポップ)を作るのが得意みたい。
店内にも、いくつか、先輩が作った可愛くてお洒落な用紙が飾ってある。
「スイミングチーム応援週間みたいな感じでさ?」
「それ、良いですね」
「何だかんだで、ポップの力って大きいよね」
「はい」
先輩は、私の様子を気にしていないように紙の束や画用紙がある棚を確認している。
早速ポップに取り掛かろうとしているのだろう。
私に気を取られていない内に、と無意識に動いてしまう。
先輩から後ろに下がるのはもう仕方ないだろう。
先輩と話している時間は、毎日一瞬なのに。
楽しい時間は、あっという間と言うのは本当だと思う。
ほぼ、毎日の引継ぎは話しているのが楽しくて、本当に数秒に感じるのに。
でも今日は、先輩の側にいたくない。
汗だくで、妙にじめっとしているこんな自分の側にいてほしくない。
レジ後ろにあるのれんに、少しずつ体をずらしていく。
レジの横にある時計を見つめつつ、秒針の進む速さがいつもより遅く感じる。
そんなの気のせいだって分かっている。
充分、理解している。
いつもも今日も、1秒は同じ1秒だ。
でも、体感としてはいつもの5倍は長く感じた。
時計がピピッと18:00を示した。
「じゃ、お疲れさまでした」
のれんに手をかけながらも、腕を上げ過ぎないように気を付ける。
そしてそのまま、そそくさとバックヤードに引き下がる。
このまま、ロッカールームで汗とか皮脂とかシートで拭い去る。
そのことにしか、意識が行っていなかった。
だから、慌てて下がったまま意識はロッカールームに向いていた。
「あのさ!」
後ろから声が聞こえて、思わず振り向く。
レジの後ろは、バックヤードと事務所に繋がっている。
そして裏口にも。
さっさと上がろうとする私は、廊下を走る勢いでホールから離れていた。
距離が遠いけれど、声は聞こえる。
廊下は狭いから。
「はい?」
何も言わない先輩を不思議に思い、返事で応える。
先輩がのれんを腕で押し上げながらこっちを見ていた。
距離があったことで、少しホッとしている自分。
数メートル離れているだけで、匂いは届かないだろう。
首を傾げてみるけれど、その先は続かない。
廊下は、微かに先輩の残り香が漂っているようだった。
「…あの、先輩?」
言葉が続かないけれど、どうしたのかと気にしてしまう。
「…あ、今日、ずいぶん急いでいるなって思って、その、この後用事とか…あるのかなって」
言われた言葉を理解して、何もないことを再確認する。
お風呂に入って、夕ご飯を食べてSNSをチェックしながら、課題を済ませる。
テレビを点けたまま、明日の準備をして夜更かしをする。
そんな日常。
多分。
そもそも予定を入れていたら、バイトになんか来ない、と思う。
「えーと、びっくりするくらい、何もないです、よ?」
「そうなんだ」
ホッとしたような表情に、再度首を傾げる。
何で、ホッとしたような表情?
「その、可愛い服とか着ているし、どこかに出かけるのかな?とか、時間とか気にしていたから、このあと待ち合わせなのかな?って思ったら、つい…ごめんね」
「いいえ」
可愛い?
この絶妙にくたびれたトップスが?
しっかり履き慣れたジーパンが?
エプロンを付けているから、よく見えていなかったのかもしれない。
きっとそうだ。
そうに違いない。
先輩は気が付いていないのか、こんなにテカテカな私の顔に。
廊下が薄暗いことで、気付いていない可能性がある。
それとも、どうでも良い?
私が汗臭かろうが、顔がテカっていようが…。
それが、私と先輩の認識の違いだろう。
“ザ、オシャレ”みたいな先輩に『可愛い』と言われても、嫌味なのかなと思ってしまう私は多分終わっているのだろう。
隣に並ぶのもおこがましい。
専門学校でも、地味な方に位置する私は自分の容姿をきちんと認識している。
…中の中。
よく見積もっても、…中の中。
絶対。
変わらないんかい。
よく見ても、結局中の中からは脱することができない。
写メでどれだけ盛ったって、プリでどれだけ編集したって、現実の自分がちゃんと待っている。
それが、あの鏡の中に映った私だ。
自分で良く分かっている。
でも、可愛いと言われたことは素直に嬉しい。
だから、先輩が好きなんだろう。
「こんなくたびれたトップスなのに、よく可愛いって言えますね。でも、嬉しいのでありがとうございます」
なので、素直にお礼を言う。
「くたびれたって」
先輩が吹き出したことで、気分が軽くなった。
「きっと、エプロンで見えなかったんですよ先輩。襟とか、すごいくたくたですよ」
「そうなの?じゃ、上がる時に、もっかいちゃんと見よ」
「汗かいて恥ずかしいので、早く上がりたかっただけですよ」
なので、馬鹿正直に言ってしまう。
「そうなの?暑かったら仕方ないじゃん?全然気にならないよ?てか、良く見せてよ?」
「やめてくださいよ!そんなこと言われたら、後ろから出ますよ」
「嘘嘘、ちゃんと見ないから、明るい所からしっかり帰って?」
すぐアパートなのに、先輩は優しい。
田舎から出て来たばかりの私にも、超絶優しい。
だから、好きなんだろう。
優しいから好きなんて、安直な自分。
でも、それで良い。
憧れくらいが丁度良い。
初恋もまだだった私には、おつりが出るくらい勿体ない先輩。
美化されるのが初恋だって言うけれど、現在進行形で美化され続けているこの関係。
ありがたや。
「暗い所から出たらダメだよ?女の子なんだから」
「はい、分かりました」
「それに…」
チリチリーン
ドアが開くと鳴る、連なった鉄の棒の音がした。
ちゃんと正式名称があるはずだけど、チリチリと私は呼んでいる。
「あ、すみませんお客さんですね」
何か言いたそうな先輩にお辞儀して、私はそそくさと後ろを向く。
今度こそ急いで、ロッカールームに入る。
着替えるというほどのことはない。
エプロンを付けるか外すかのみ。
だけど、今日は汗拭きシートでちゃんと拭かないと。
顔用のシートで、まずは顔のテカテカを拭う。
拭うと言っても、ゴシゴシはしません。
顔が赤くなってしまうので…。
抑えるようにシートを当て、顔の皮脂を取り除く。
次に体用のシートを取り出し、丁寧に折り畳む。
脇や腕、首の後ろなどを素早く拭いていく。
スースーした感覚が、すごく気持ち良い。
「エプロン、汗臭いかな?多分、汗臭いよね」
持って帰って洗おう。
エプロンを小さく畳んでバックに入れる。
自分の腕とか、服をスンスンする。
「大丈夫、多分」
ロッカーの鏡で顔を確認し、テカテカじゃないことを確認する。
ついでに手櫛で髪の毛を梳かして、さっさと帰ろう。
明日も、先輩との引継ぎタイムはあるんだから。
お客さんがいると思っていたけれど、今日は先輩の知り合い?お友達が2人来ているようだった。
「あー、もう終わり?」
「帰っちゃうの?」
多少の顔見知りになったことで、私にも気さくに話しかけてくれる。
「はい、いらっしゃいませ。ごゆっくりどうぞ」
なので、スルーして帰ろう。
都会の人は怖い。
イメージが。
先輩以外は、みんな怖い。
「お喋りしていこうよ?」
「まだ時間あるんだよね?」
「しつこくすんなって、怖がってるだろ?ごめんね?」
先輩に謝られたら、『大丈夫』しか選択肢はない。
「…大丈夫です」
「まだ、明るいから大丈夫だと思うけど、気を付けてね?」
「はい、ありがとうございます」
毎日のように、このやり取りは行っている。
そう、『お疲れさま』と同じくらいの言葉のやり取り。
でも、先輩のお友達にはそうは見えなかったのか。
「ヒュー」
「過保護ー」
何故か、からかわれる。
でも、先輩の顔色は変わらない。
なので、私も動揺を隠さないといけない。
「今日の夜って、何している?」
「えっと、課題をしていますね、多分」
大したことはない課題をね。
「ラインしても良い?」
「もし、気付かなかったらごめんなさい。寝落ちとかしていたら、本当にごめんなさい」
必殺技。
学生なので、それに忙殺されていますアピール。
「気にしないで?何か、今日全然話せなかったじゃん?だから、話し足りない気分」
「え?」
キュンしてしまう。
うまい返しもできない私に、先輩はにこりと笑った。
「お疲れ。じゃ、また夜ね?」
「…お疲れさまでした」
さっさと店を後にし、つい深呼吸。
もう沈むであろう夕焼けを感じながら、商店街を歩く。
この時間帯は、不思議な感覚になる。
切ないような、寂しいような、家に帰るワクワクとか、夕ご飯の期待とか、色々な感情が混ざり合う。
そして、好きだと思う気持ち。
あぁ、先輩が好きだな。
そう今日も実感する。
明日も引継ぎの時間を楽しみに、1日を過ごそう。
この少しのすれ違いの時間が、毎日を楽しくしてくれる。
だから、明日はちゃんと汗対策をしよう。
反省と対策。
大事ですね。
夕焼けに照らされながら、そんなことを考える。
瞬く間に、暗くなるこの時間帯。
さっきの幸せを感じながら歩く帰路。
だけど私にとっては、何よりも愛おしい宵の時間。
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