宙の蜜屋さん

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覚醒~ラン~

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「ふう…」
腕に抱き上げた体は軽い。
まだ子どもだと言っても通用する。

だが、うっかりそんなことを口にしてしまえば、尊敬してやまない小さな存在は口を尖らせるだろう。
それはそれで可愛いのだが。

「しっかり効いたな」
まじないの言葉は、素直に彼女に届いたらしい。
眠りの効果で、サーヤは健やかに寝ている。

詠唱してしまうと、サーヤに気付かれてしまう。
だから、いくつかの魔法は無詠唱でも発動するようにしていた。
眠りの魔法は、サーヤの体を疲れさせないためのものだ。

だから、彼の者にも干渉はされない。
腕の中に納まる存在に、その重みにふと笑みが零れる。
瞼を閉じていると、更に幼く感じる。
本当に、17際には見えない。
東の地で初めて会った時と、あまり変わっていない姿。

南の地の住人は、総じて小柄だ。
そして生命力に溢れている。
常に日の光に触れていることで、肌は血色の良い小麦色。
そして人懐こい性格。

だけど、腕の中でスヤスヤと眠る顔も手も今は白い。
東の地に来たことで、常に外にいるという状態ではなくなったからだろう。
「これだから、うちのお姫様は…」
開いたままだった玄関が目に入り、今度は詠唱して扉を閉める。
両手が塞がって居ても、そのくらいは簡単なことだ。

しっかりと施錠もして。
この家は、サーヤを守るために色々な術を施している。
家のあちこちを改装し、護符で家の状態を高め魔法で常に快適に過ごせるようにしてある。
外からの侵入はまず出来ない。

高度な魔法使いや魔女でも、すぐには破れない構造。
仕組みを知っている俺ですら、簡単には入れないようにしてある。
無理に侵入しようとすると、怪我では済まないように複雑に魔法を組んであるから。
サーヤの錬金術ともいえる蜜の精製や、紡ぐ作業など悪用したい人間はどこにでもいる。
そう、どこにでも悪意は存在する。

サーヤの存在は、もうすでに周知の事実だ。
無邪気な錬金術師。
それが、彼女の通り名だ。

サーヤを無理にでも攫おうとする人間が、どこにいるか分からない。
利用できる価値はいくらでもある。
だから、用心に用心を重ねる。

それは、この地に移住している者や、生活している者の家にも施されている技術だ。
今やこの地は、貴族や上流階級の癒しの地として人気を博している。
サーヤのおかげで。
不毛の地、衰退した土地、枯れた大地。
そんな不吉な名で呼ばれることはもうない。

北の地が人気がなかったのはサーヤが来る前までのことだから。
紡ぎ司の技量によって、その土地は繁栄する。
それは世界の常識だ。
サーヤも、過ごしやすいと感じているようにこの地にいる者達は恩恵にあやかっている。

サーヤ以外の周知の事実として。
特に我儘な貴族は、無理にでも家を建ててこの地に住もうとしているらしい。
しかし、それは出来ない。
この地の権利を持っているのは、現領主の伯爵のみだから。

この地に住む彼の者に気に入られた一族のためか、伯爵以外が権利を持つとその土地や権利者はこれでもかと不幸に見舞われる。
それは過去に実際にあったことだ。

東の地で手広く領地を経営していたはずの公爵家が、北の地の権利を持った途端自然災害に見舞われ極めていた栄華が崩れ去ったこと。
西の地で格式ある騎士の侯爵家が、北の地の権利を欲しがり無理に手にした途端水難事故に遭い地位も誇りも失ったこと。

有名過ぎる出来事のためか、それ以来声を大にして北の地の権利を欲しがる貴族はいなくなった。
過去に戻れば、小さい物はいくつもあった。
権利は伯爵の物だが、自由に行き来し北の地で住む貴族がいた。
しかし、その貴族は北の地に来た途端、原因不明の病にかかってしまった。
同じく居住権のみを無理に奪った貴族は、眠りが深くなり起きている時間がほとんどなくなってしまった。

この貴族たちは口を揃えて、夢の中で忠告されたと何度も繰り返した。
この土地を自己満足に使うこと、土地を利用することは即ち制裁の対象になるのだと。
逆にこの地を豊かにしようとする者や、北の地で心地良く過ごす人間は滞在時間がどんどんと長くなっていく。

伯爵はそれでも、住民用ではない家屋を8世帯程所有している。
その8世帯は、入れ替わりで避暑地やホームステイのように色々な貴族達が仮住まいをするために利用している。
だから、貴族達は巡って来る居住権を待つことしか出来ない。
それでしか出入りが出来ない土地が現在の北の地だ。
そのおかげか、伯爵への利益が跳ね上がっているらしい。

最も、収入が増えても北の地の設備や公共の建物など、冬に備えることで一定の金額がすぐになくなってしまう。
得た資金を惜しみなく使う領主だからこそ、北の地は更に潤っているのだろう。

善良な人間が領主で良かった。
それに尽きる。
今の所、サーヤは危険に晒されたことは1度もない。
攫おうとする人間も、虫の知らせなのか妖精や精霊の手助けなのか露見する前に捕えることが出来ている。

どこでも休まらないなんて、サーヤにとっては地獄のような土地のはずなのに。
それでも、サーヤは楽しそうだ。
危険など微塵も感じず、のびのびと生活をしている。

危険を感じるような土地では、サーヤの紡ぎ司としての仕事は捗らないだろう。
何にでも好奇心旺盛で、自分から危険そうなことに近付いていく彼女。

そもそも、人だけじゃない者の方が最初から脅威だったりする。
妖精や精霊がそれに該当する。
人間の道理が通らないから、厄介なのはこっちの方かもしれないが。
サーヤは、その性格から妖精やこの地に住まう聖なるものに好かれている。
時々疲れているのは、その地に連れて行かれているからだろう。

サーヤの自覚がないまま。
その地に行くことで、サーヤの中の魔力が増幅する。
そう、サーヤは全く自覚がないまま。
それは、神隠しと言われてもおかしくない状況なのに。

それは、サーヤが南の地にいた時から日常的に繰り返されていたことが想像できる。
そのくらい、警戒心が薄い。
連れて行かれても、ケロリとしている。
本当に大物だ。

昨日の昼間もそうだ。
祠の側で眠るなんて、彼の者に『連れて行って』とお願いしているようなものだろう。
しっかりとお供えもの手土産まで持参して。
サーヤ自身は、何も考えていない。
だから“心地良いから”なんて理由で過ごす彼女が好かれるのは、当たり前なのかもしれないが…。

そのまま帰って来られないことだって容易に想像できるのに。
色濃く残った魔力は、サーヤが彼の者と一緒に出掛けていた証拠だ。
昨日、祠の側で見かけたサーヤに軽く意識が遠のいた。
どこまで深い場所に行ったのだろうか。
その位はっきりとした魔力に包まれていた。

だけど、本人にその意識は全くない。
夢だと思っているから。
「眠いなぁ」くらいにしか感じていない。

魔法使いになるため努力していた自分は、力の流れやこの世のものではない残滓を視ることが出来る。
サーヤは、見習い生から候補生になるまで、そして候補生から紡ぎ司になるまでが早かった。
彼の者達の後押しだろう。
最速と言われる早さでこの地位に着いた。
その自覚は全くないまま。

候補生が行う魔法の勉強やその学習もそうだ。
都心部へ来た思春期の子どもは、学園への入学に目を輝かせる。
一定の資格と、決して安くない入学金が必要だから。
それを免除されると聞いて見習い生や候補生は学園に通う場合が多い。

しかし、サーヤは見向きもしなかった。
折角“特待生”として、優遇されるのに。
難しい学習や試験なども、点数が低くても落第にされない仕組みだ。
サーヤも、本部の人間に勧められたはずだ。

しかし、即答で断ったと本人が言っていた。
学習することも、学びたいこともない。
あっさりとそう言っていた。
学園のごはんには少しだけ興味があったようだけど…。

本来なら憧れる、魔法にも興味がない。
魔女になりたいという気持ちも微塵もない。
稀有な存在。
紡ぐことしか彼女の中にはなかったようだ。
その性格は人間の考えよりも、どちらかと言えば妖精に近いかもしれない。

だから、波長が合うという意味でも気に入られているのかもしれない。
側にいるこちらはいつでもヒヤヒヤなのだが。
サーヤは全く気付いていない。

「…ただ、お転婆が過ぎるからなぁ」
さっきは少しだけ焦った。
サーヤが起きたことは気配で分かった。

だけど、まさか玄関の扉を開けて自分で外に出るとは思っていなかったから。
護符のおかげで、彼女が完全に外に出る前に捉まえることが出来た。
こんなに暗い中を、どこに行こうとしていたのか。
また無意識に誘われたのかと思ったが、そうではなかったようだ。

そのことにホッとして、ゆっくりと歩き出す。
こうやって、彼女の姿をしっかりと見ていないとすぐにいなくなってしまいそうなのが心配の種だ。
そうじゃなくても、ノアとエリザが来たことでサーヤにとって日常ではなくなってしまったのに。

考え事の多い彼女には、しっかりと休んでもらわないと。
軽くて細い体をしっかりと支え、彼女の部屋に静かに運ぶ。
彼女に誂えたベッドに、そっと降ろす。

あの頃の自分は、まさかここまで彼女の生活に踏み込めるとは思っていなかった。
これは、完全に俺だけの特権だ。
誰にも譲れない、大事な権利。
そのためにも、俺もしっかりと休む必要がある。

家の中の護符が機能しているか再度確認し、魔法が作動していることを感じてから俺も自分用の部屋に戻る。
まだ朝の気配には早い時間だから、しっかりと眠らないと…。
また明日、サーヤのために動けるように。

サーヤのためだけの助手でいられるように。
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