宙の蜜屋さん

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新生活

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朝は、いつも通りに目が覚めた。
空気が澄んでる。
窓を開けると、朝のひんやりとした風が入って来る。

「うー、ねむ」
微かに聞こえて来た声は、小鳥の声と…?
「何だっけ?」
何か、懐かしいような夢を見た気がする。

でも、思い出せない。
こういうことはよくあった。

何か楽しい夢を見たはずなのに、覚えてないとか。
すごく、ワクワクする出来事に出会ったはずなのに、思い出せないとか。
とても勉強したはずなのに、忘れてるとか。
懐かしい夢を見たのと同じ記憶。

でも、心地良い。
「さて、起きるか」
起きて顔を洗って、髪を梳かして…。
毎日していることを繰り返す。

朝ごはんは…。
「おはよう、サーヤ」
ランはすでにそこにいた。
正装で。

「…どうしたの?」
久しぶりに見た気がする。
ランの正装。
いつから、しなくなったんだっけ。
思い出せない。

ま、いっか。
「カッコいいね、ラン」
「そうですか?」

紡ぎ司の協会員である証。
緑色の石が嵌められた腕章をしている。
「綺麗だね」
石が。

刺繡も綺麗だ。
「やはり、この糸は王都でも人気商品のようですね」
あ、見慣れていると思ったのは間違いじゃなかった。

「サーヤが紡いでくれた糸は、最高級です」
「そうなんだ?ランに良く似合ってる」
え?てことは、私も正装するの?

「サーヤは、好きなようにしてください」
私の表情だけで、何を言いたいのか分かるの?
すごいな、ランは。

朝ごはんは、昨日余ったスープを温めて、パンと共に食べた。
ホットミルクも忘れずに。


「候補生として来ましたエリザと申します。今日から宜しくお願い致します」
ザ、お嬢様という恰好で来た女の子。
一応、見習い生のローブをしている。
そして、候補生としてのローブが控えている。
ランの手に。

私は喋らないで良いと言われた。
ランに。
面倒なので、それに従うことにした。

「私は、ノア・リースだ。ここに、候補生としての認証を」
ノアさんが何かを読み上げ、ランがローブを手渡した。
「あら?羽織ってはくださらないの?」
エリザさんはそう言った。
お嬢様だ。

「ご自身でどうぞ」
ランの素っ気ない返答。
エリザさんは、少し物足りなさそうな顔をしていたが、素直にローブを受け取った。
「ありがとうございます。嬉しいですわ」

「では、早速エリザは朝のお祈りを」
ランの言葉に、はてと首を傾げる。
私、来てから1回もお祈りとかしてない。

確かに、見習い生時代や候補生時代はやっていた。
朝のお祈りは、必ず行う朝の儀式?
そうだ。
何で、紡ぎ司になった途端やらなくなったんだっけ。

考える私をよそに『あのぅ』と間延びした声が聞こえた。
考え事をしている場合ではないと、意識をエリザさんに向ける。
エリザさんは、ローブを手にしたまま所在なさげにしていた。

「どこで、するんですの?」
エリザさんは、キョロキョロと回りを見る。
そうですよね?

ここは、祈りの場がない。
西の地の本部には、教会のような空間がある。
東の地では、作業場の一角に神棚のように祀られた空間がある。
南の地では作業場ではないが、大きな滝がありそのすぐ側が祈りの場にされていた。

岩で作られたような空間。
いつでも、少しだけ涼しい空間。
特に暑さの激しい夏場は、子ども達の憩いの空間だった。

私も、例に漏れず通っていた。
いつでも、穏やかな空間。
そこで、ヤシの実を削ったり花の蜜を吸ったり、花冠を編んだり…。

見習い生になり、そこでお祈りをするのが不思議だったのを思い出した。
子どもの頃、定期的に遊びに行っていたあの場所。
あそこは確かに祈りの空間だった。

「裏に、泉があります。そこに小さな祠があるので、そこで行うように」
ランはやはり、素っ気ない。
「案内はしてくださらないの?」

「出れば分かります」
「…はい」
エリザさんは、そのまま作業場から出て行った。

「じゃあ、サーヤは巻き直しを?」
「…あぁ、そうだね」
調子が狂う。
「あのさ?ラン」

「サーヤは、お祈りをしなくても大丈夫ですよ」
「そうなの?」
「はい、この地の者たちに、すでに認められているので」
「…そうなんだ」

確かに、住民には紡ぎ司として認められている。
「あ、いや住民ではなく」
「ん?」
首を傾げると、ランは目を泳がせた。

「サーヤは、そのままで良いんだ」
ランの言葉に、そうなのかと頷く。
良いと言うのなら、良いのだろう。

見習い生時代と、候補生時代では少し活動内容が違った。
でも、どちらも大事だったと思う。
どっちの方が大事、ではなく。
どちらも大事。

ランが言うことなら、間違いはないだろうし。
「サーヤ?」
ランの言葉に、また違うことを考えていたことを思う。
「ごめん、何でもない」

「具合いが悪いですか?何か違和感がありますか?」
ランが心配している。
違うのに。
「ううん、元気だよ?心配してくれてありがと」
「いいえ」

「サーヤ?何かあったら、すぐに教えて欲しい」
真面目な顔をしているラン。
すごいなぁ。
これで、いくつもの仕事を常に同時に行ってる。

私とは大違い。
仕事の出来るラン。
「うん、分かった」
私が返事をすると、ランはにこりと笑った。

「じゃ、お言葉に甘えて」
「いや、その前に…」
ノアさんの声に、再度首を傾げる。

「サーヤ、申し訳ないが案内を頼みたい」
ノアさんの言葉に頭に?マークしか浮かばない。
案内?
この地の?

観光地とかあったっけ?
それとも、住民や領主への挨拶?
案内って何?
「それは、素敵ですわ!わたくしも行きたいです」

案内?
「それは、紡ぎ司が行うものではない。そして、エリザ?君はもう、見習い生ではない。学生気分は卒業してもらおう」
ランの冷ややかな声がした。

え?と思いランを見る。
顔も怖い。
エリザさんも固まってる。
「ですが…」

「そもそも、お祈りの時間は?こんなに早く終わるものなのか?」
「…終わりましたわ」
エリザさんの返答に、ランの表情が険しくなる。
「では、再度ここでお祈りの祝詞を」

「え?」
「え?ではなく、ここで口上で述べてみてくれないか?」
それには、私も「え?」だわ。

言えないもん。
私、もう言えないやつだ。
忘れてる。

ヤバい。
どうしよう?
この流れでエリザさんが『お手本を』とか言い出したら。
それって、絶対私にやってくるよね?

言われたら、すっごく困る。
ここで、急にエリザさんがそんなことを私に向かって言い出したら。
終わる。
私が終わる。

「そんな…」
「言えないのか?」
ランが厳しい。
怖いなぁ。
私も言えないのに…。

一緒になって怒られてる気分になる。
エリザさんと共に。
落ち込む。
厳しいことに。

「…サーヤ、すみません。折角の作業をする空間なのに、これでは迷惑ですね。では、エリザ?本部に行きましょう。さ、ノアも一緒に」
何でさ?
私だけ、置いてけぼり?

「では」
ノアさんは何か言いたそうにしていたけど、昨日と同じようにぐいぐいとゲートに押されてた。
エリザさんに至っては、もう顔が真っ白だ。
私も同じような顔をしてるんだろうか?
ランは、エリザさんとノアさんを促していなくなった。

ゲートから本部に行ったのだろう。
てか、ラン怖かったなぁ。
あんなに、厳しいのはエリザさんが上弦の儀をしなかったから?

見たことないくらい厳しいし。
私には、いつでも優しかった。
そうだ。
初めて会った時から。

『初めまして、新たな紡ぎ司として就任されることを、お祝い申し上げます。そして、あなたの手足となり働けることを、心より感謝申し上げます。これから、どうぞよろしくお願い致します』
今より少しだけ幼い、ぎこちない表情で笑っていたラン。

それでも、怖いと思うことはなかった。
いや、最初は思っていたのかも。
その内、私の考えていることをすぐに分かることが不思議だと思った。

言いたいことや、考えてることを察して先に応えてくれる姿。
それで、ランの仕事の早さに驚いたんだっけ?
いつでも先回りしてるラン。
何でこの地で助手なんてやってるんだろ?

考えても仕方がないので、巻き直しをする。
考え事をするのには、丁度良いだろう。
シュンシュンと回る音は、いつもよりゆっくりだ。
だけど、その音が心地良い。

金具を回している内に、何か色々あったことが流れてった。
考えてたことも、忘れちゃった。
「あの、サーヤ様!」
エリザさんの声に、ハッとする。

そこには、目元の赤いエリザさん?
もう、本部から帰って来た?
というか、本部で何があった?
私だって行くのに気が重くなる空間。

そこで、エリザさんはどうしたのだろう?
ランはまだ向こうなのだろうか?
「サーヤ様?」
エリザさんの声に、考えても仕方がないと思う。

「…どうしたんですか?」
一呼吸おいて、どうにか聞き返す。
「あの、サーヤ様」
「…はい?」

わたくし、先日の上弦の儀の際に、助けていただいたのに、お礼も言っていなかったのを思い出しまして…」
「は?」

私の間抜けな声に、エリザさんもポカンとする。
「だって、上弦の儀ってあんなに大変なのだと思っていなかったので…」
“大変なのだと思っていなかった”
この子は、何を言ってるんだろ?

上弦の儀は、見習い生にとって大事な試験の場だ。
それが出来てないことは、即ち紡ぎ司への道が少し狭くなったのと同意だ。
そのことが分かっていないのだろうか?

エリザさんが、紡ぎ司を目指していないのなら問題はない。
だけど、もし選択肢の中に紡ぎ司があるのなら、それは叶わない可能性が高い。
「エリザ。今は作業中だ。作業の邪魔をすることは許されない。そもそも、勝手に戻って来てどういうつもりだ?」
止めた金具に手をかけたままの私に、ランの冷たい声。

びっくりした。
ランは、私の怯えた眼差しに少しだけ居心地が悪そうだった。
いや、居心地が悪いのは私の方ね?

「お説教の時間は、もう終わりでしたわ!」
あ、お説教だったんだ。
それは、泣くね。
私でも、多分泣く。

エリザさんのはっきりとした口調。
きちんと言いたいことは主張する性格なのだろう。
「君が勝手に終わりにしたんだろう?」
「違いますわ!ノア様は、もう良いと仰いましたもの!」

「ノアが言ったから、勝手に終了だと?」
「ですが…」
「ですが、じゃない。先程も言ったはずだ。学生気分でいるのはやめるんだ。それとも、また本部で講習から始めるか?」
ランが怖い。

昨日の、ノアさんに注意をしていたのと同じくらい厳しい。
「そもそも、見習い生の試験をパスしていない君に、紡ぎ司の資格があるとでも?君は何か勘違いしていないか?」
「…え?」
ランの言葉に、エリザさんの不思議そうな顔。

ん?
根本的に、何かがずれてる。
そう思った。

「上弦の儀は、この間済みましたよね?」
エリザさんの声に、ランは『何を言ってる?』と低い声を出した。
「だって、おじ様が仰ってましたわ。上弦の儀は誰が紡いでも同じだって」
「…おじ様とは?」

ランの聞き返す雰囲気は、もうある種の拷問だ。
「おじ様は、紡ぎ司をしていたんですのよ?その方の仰ることに、間違いなどないでしょう?」
びっくり。
エリザさんは、紡ぎ司の関係者だったのか。

「…その人の名は?」
ランの声に、エリザさんは少しだけ自信があるように微笑んだ。
「ラスおじ様ですわ。ラッセル・クローツおじ様」

あれ?
ラッセルって…。
どこかで聞いたことが…。

「…ノア」
ランの声は、とても冷えていた。
朝の空気くらい。
ノアさんもいつの間にか戻っていたらしい。

「ノアさんが、何か?」
思わず口を開いていた。
「いや、ノア?エリザへの聞き取りを…」
「分かった」

ノアさんは、静かに何かを呟いた。
これは聞き覚えがある。
何かを残す時の詠唱だ。

「エリザ、向こうで話を…」
ノアさんが示したのは、応接室だ。
「出来れば、本部でやってくれないか?」
ランの声に、ノアさんが溜め息をついた。

「ラン…」
「ここは、紡ぎ司の作業場だ。そういう処理は、作業に影響が出る」
え?出るの?
糸巻きに?

「サーヤ、手が止まっている」
ランの言葉に、糸巻きを行おうとするが手は動かなかった。
金具に乗せていた手を離す。

もう10分もあれば、終わるだろう。
だけど、気になる。
「巻いたら、私も聞ける?その話」
「え?」
ランの、驚いた顔。

何で?
「サーヤが聞いても、気分を害する恐れが…」
「そうなの?」
じゃあ、多分聞かないといけない。
何となくそう思った。

「うん、聞きたい」
ランの顔を見ると、それでも気まずそうに笑ってくれた。
「では、サーヤは残りを先に…」
「うん」

ゆっくりと回る金具の音が、静かに響く。
どこかで切れていないか確認するが、どうにか繋がっていたらしい。
作業は、誰も何も言わないまま終了した。

新生活は、思ったよりも大変そうな始まりになった。
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