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非、日常

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「で?どうしたって?」
私が転んでしまったと言っていた時に溜め息をついたのは、多分林先生だろう。
気まずいけれど、ドキドキする鼓動を感じながら短く息を吸う。

「あの、転んで…しまいました」
訪れる沈黙。
見えていないので、余計なことは言えなかった。
「転んで?…どうやって?」

林先生の声は、変わらず鋭かった。
「あ、足を滑らせて…です」
「…どんな風に滑ったの?勢いよく?それとも、急に?」

矢継ぎ早に聞かれ、しどろもどろになる。
「あの…、あの」
見えていなかったこともあって、本当に分からなかった。
急に体が浮いたと思ったら、その後には足には痛みが走っていた。
そして、多分階段を転がり落ちたのだろう。

それを、どうやって説明すれば良いのだろう。
「前向きに転んだの?後ろ向きに転んだの?体は、どうやって動いたの?」
次から次に聞かれ、言葉が出て来ない。
「春川?」

林先生の問いかけに、膝の上に置いた手をぎゅっと握る。
「前向きに…、転んで、えぇと…。急に、滑らせて…しまったので」
「…靴を脱いで」
溜め息の後に、先生の声が聞こえた。

足だけで靴を脱ごうかと思ったけれど、足首が痛くてすぐには動かせなかった。
なので、ゆっくりと体を前に屈めて、足首に手を伸ばす。
沈黙が重い。
林先生は、私のことをじっと見ているはず。

林先生が、どんな表情をしているのかが分からず戸惑ってしまう。
怒っているのか、呆れているのか。
「高杉、悪いけれど大急ぎで、職員室の大谷先生を呼んで来てくれる?」
先生の言葉に、「はい」と言う返答が聞こえた。

私の右斜め前辺り、少し上の位置から聞こえて来た声で高杉君がいたことを思い出す。
足首が痛いので、ゆっくりしか動かせない。
紐靴がついている上履きは、紐をきちんと通しているので、すぐには緩まない。

本当は、足首を支えるために必要なのだけれど、今日はそのおかげで指先の感覚のみで緩めるのはすごく時間がかかっていた。
震える両手で、左足の上靴の紐を緩める。
右足は、動かしていないのにズキズキが響く。

なので、先に左足からそろそろと動かすしかなかった。
指先の感覚だけで、靴紐を緩めるように上から順番に隙間を作っていく。
少しの空間にほっとする。
時間はかかるけれど、これなら少しずつできるはずだ。

「靴下も脱げるか?」
ノロノロと動いているけれど、林先生は見届けているのだろう。
「…はい」
動かすと痛いことで、本当にゆっくりしか動かせない。

私が左足の上履きを脱いでいると、右足がそっと持ち上がった。
何かに足を乗せられ、上履きの紐が外されたのだろうか、圧迫感がなくなった。
足首を動かさなくてもいいように、乗せられている台のような物は柔らかかった。
丁寧な動作に、先生がやってくれているのだと思っていた。

靴下もするすると脱がされ、裸足になる。
私も遅いながら左足の靴を脱ぎ、靴下を脱ぐ。
両足とも裸足になったところで、ジンジンしている足首を強く感じる。
「高杉、それは良いから。早く職員室に行ってくれないか?」

「はい」
林先生の言葉が、自分の前辺りから聞こえた。
そして、それよりも近い距離の高杉君の声。
「少し、動かすよ」
林先生の声に、右足の柔らかい台のようなものから足を下ろされる。

「台座に足を乗せるから、力を抜いて」
目の前にいたと思う気配がなくなり、新しい気配が増えた。
「え?…えぇっ?」

状況が分からず、混乱する。
「あれ、高杉君?あれ…?林先生?」
林先生だと思っていたのは、高杉君だった。
ということは、高杉君が靴を脱がせてくれたということで…。

恥ずかしい。
何で何も言わなかったんだろう。
自分でやります、くらいは言えば良かったのに。
「…やっぱり、今日はもうダメ?」

今度は硬い台に、両足を揃えて置かれる。
そして、離れる気配。
ドアの閉まる音で、林先生が保健室のドアを閉めたのだろうと気が付く。

「春川、今日はもう終わりなんだな?」
高杉君がいなくなったのだろう。
林先生に問いかけられる。
目のことを言われていると思ったので、素直に頷く。

「そっか。それにしても、これは、相当痛いだろ?」
林先生の言葉に、再度頷く。
痛くない、なんて言えなかった。
「大丈夫…です」
でも、口癖になっている言葉はつい出てしまった。

「どんな風に痛い?」
林先生の声が、少し遠くなった。
棚を開ける音だろうか、何かを取り出す音、何かを動かす音が聞こえてくる。

ガシャ。
この音は知っている。
冷凍庫の氷だ。
そして、水道の流れるザーッという音。

「右足は、動かさなくても…ズキズキ響くような感じ?がします。左足は、ジンジンするような、ビリビリするような…感じです」
氷を袋に入れているのか、ポチャポチャと水に飛び込む音が聞こえた。

「高杉がいて、良かった。不幸中の幸いだ」
「…はい」
先生の声が近付き、風が動く。
自分の前に気配が増えた。

先生の温かい手が、足首や脛ふくらはぎに当たる。
無理な動かされ方はしていないが、痛みは引かない。
「これは、すぐに病院が良いか。タクシーか…。冷やすぞ?」
声と共に、両足首とも冷たい感覚に包まれる。

思わず「わっ」と声が出てしまった。
いきなり触れた冷たい刺激。
「あ、あの…母を、呼んでもらえれば」
「だから今、大谷先生を呼んでいるんでしょ?」

「…はい」
コンコンとノックの音がし、保健室の扉が勢いよく開いた。
「失礼します!春川さん、大丈夫?」
大谷先生の、声がした。

息が上がっているのは、走って来てくれたのだろう。
直線とも言える距離を、一気に走って来てくれたのか。
「す、すみません…。大谷先生」

「足の具合はどうなの?頭は打っていないのかしら?どこか他に痛い所は?顔は擦りむいていないかしら?あぁ、顔も、ぶつけているじゃないの、アザが…。痛かったでしょう?腕も、体中、心配だわ」

俯きがちにしていたけれど、頬に触れる温かい手が大谷先生のものだと知り少しホッとしてしまった。
近い距離で色々なことを言われ、言葉を挟めなかった。
どんな顔をして、何を答えれば良いのか分からずに戸惑う。

「あの、すみません。大谷先生、大丈夫ですから…あの、すみません」
「大丈夫なわけないでしょう?階段から落ちたのなら、全身を打っていても仕方ないのよ?頭も検査をしてもらわないといけないし、打ち所が悪かったら、命にだって関わるのだから!」
真剣な声に、口をぎゅっと噤む。

「…階段から落ちた?」
林先生の声は、平坦だった。
大谷先生の手が頬から離れた。

「はい。さっき高杉君が『とにかく、急いで。早く来てください』って珍しく慌てているから、どうしたのか聞くと春川さんが階段から落ちたって、歩き方がおかしくて歩けないなんて言うものですから」
「…なるほどね、これを見てください」

両足が包まれていた冷たさが、少し離れた。
「これでも、本人は『転んだ』『大丈夫』の繰り返し。これだけ腫れていて、どうやって転んだのかも分からないって答えるし」

林先生も、大谷先生もさっぱりとしていると常に感じている。
信じられる大人の人、そう思っている。
でも、目のことも怪我のことも許してくれる人達ではない。
特に、誤魔化そうとする私のことは、絶対に許してはくれないと理解している。

「春川、頭痛とか、気持ち悪さはないの?」
林先生の言葉に、ふるふると首を振る。
隠したかった林先生にばれてしまい、目も見えていない今の状況はすごく良くない。
ただ、気まずい。

2人の溜め息が聞こえ、ハッとする。
「す、すみません!ご迷惑をおかけしてしまって、すみませんでした」
私の小さな声。
「そうじゃないのよ」
大谷先生が、2回私の頭を撫でた。

「すぐに、精密検査と救急で行ける所で…。中央病院に行きましょう」
林先生の言葉に、病院に行くのかと更に体を小さくする。
「はい、タクシーですぐに行きましょう。春川さんに連絡しますので、少しお待ちください」
大谷先生の言葉に、お母さんとさやかにまた心配をさせてしまうとガッカリする。

「あぁ、高杉君ありがとうね。必死に知らせてくれてありがとう」
大谷先生の言葉で、高杉君がいたことをまた思いだす。
さっき、靴を脱がしてくれた時も、きちんとお礼をしていなかった。

気付かない自分。
呑気に座っている今の状況に、申し訳ない気持ちが増していく。
1人で焦って、勝手に怪我をして。
そして、今これだけ迷惑をかけている。

「すみません、怪我なんかして。あの…ご迷惑に。高杉君も、ごめんなさい」
私が無理をして学校に来なければ、こんなことにはならなかった。
とりあえず、謝るしか自分にはできない。

「怪我をした本人が、すみませんなんて言わないで良いのよ?先生こそ、春川さんに気を遣わせてしまって、ごめんなさい。少し動転してしまったんだわ」
でも、やっぱり謝罪の言葉しか出て来ない。

「私も、悪かった。春川が痛いのに、問い詰めてごめん」
林先生の言葉にも、ふるふると首を振る。
「いえ、そんな…」
違う。
誤魔化そうとした私がいけないのに。

何で、いつもこうなんだろう。
私の行動は、誰かに迷惑しかかけない。
頑張っているつもりでも、本当に『つもり』なんだ。
いつも、いつもそう。
段々と顔が下を向いてしまう。

「失礼します。先生!春川ってここに…」
乃田さんの声が響いた。
「こら、保健室で騒がない。じゃ、大谷先生、私は車椅子の準備に行くので、少し外します」
林先生の声に、大谷先生が「よろしくお願いします」と返事をしていた。

「…すみません」
乃田さんの声は、少し小さくなっていた。
林先生が保健室を出て行ったのだろう。
声が聞こえなくなった。
「どうしたんだよ?足、どうしたんだって?」

震える乃田さんの声に、どう答えたら良いのか分からなかった。
「先生は、今から春川さんのお母さんに電話をします」
大谷先生の言葉で、沈黙が訪れる。

「お話なら、廊下でしてください。でも、春川さんが行きたくないのなら、3人でお話をしてきてください」
大谷先生なりに、私のことを考えてくれているような言い方だった。
「春川は、嫌かもしれないけど…でも、私は話したい。一緒に、話をしたい」

乃田さんの言葉に、じわりと涙が浮かぶ。
さっき、すごく嫌な態度をしてしまったのに…。
私が、いることを拒んだのに。
それでも、乃田さんの「一緒」にこんなに嬉しくなる。

「嫌でも、って何をしたのかしら?乃田さん?布之さん?」
「…個人的な話です。私と、あかりと、春川の…ごく、プライベートな話題です」
布之さんの言葉に、大谷先生は溜め息をついた。
「布之さんと、乃田さんに何か困っているの?春川さん」

違う。
困らせているのは私だ。
いつも、ダメなのは私の方だ。

「違い…ます。乃田さんも、布之さんも…。ずっと、いつも私に優しいです。…私が、私の方がずっとずっと、駄目な存在で…」
「春川!」
「春川が、駄目なわけないでしょう」
乃田さんと布之さんが、すぐに返事をくれる。

そんなことに、嬉しくなる。
まだ、私のことを心配してくれて、話をしたいと望んでくれる。
馬鹿みたいに、嬉しくて喜んでいる弱い私。

「先生、春川の家に連絡するんですよね?ここで時間を使うのは、あまり良くないと思います」
高杉君の声が聞こえた。
沈黙に、早く反応したのは大谷先生だった。

「そうね、そうだったわ。高杉君、ありがとう」
「いえ」
「廊下で、話をしてきます。それなら、問題ないですよね?」
布之さんの言葉に、首を傾げそうになる。

「春川さん、大丈夫かしら?」
大谷先生の声は、とても真剣だった。
迷う気持ち。

だけど…。
「行きます。私も、話をしたい、です」
さっき、撥ねのけてしまった私だけれど。
でも、まだ間に合うのなら…。

私も、ちゃんと伝えないといけない。
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