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「あれー?春川さん、また見えないふりしてんの?」
声で判別するのは、もう慣れた。
見えていても、見えていなくても…。
面白がる人間を、相手にしないことも、だ。
乃田さんと、布之さんがいないことで、からかわれているんだと思う。
自分のクラスを、急ぎ足で通り過ぎる。
このまま保健室に行くことにしか、気持ちが向いていなかった。
本当は、自分の荷物を持たないといけないのに…。
でも、今の私はそんなことを気にしている所ではなかった。
さっきの話も、2人の表情も、何もかもを上手に受け取れなかったから。
乃田さんも、布之さんも私に何度も謝ってくれた。
そのくらいに気にしていたいたということ。
5年。
私と同じ時間が流れている。
途方もない時間のように思えた。
2人は言っていた。
「ずっと」と。
それだけ、私のことを考えてくれたということだろう。
もっと早くに気付いて、私から聞いていたら良かったのに…。
『何で、私に優しくしてくれるの』って。
そうしたら、きっと2人はさっきのように悩みながらも応えてくれたのだろう。
『昔のことを気にしていたから…』と。
正直に、私に返してくれたのだろう。
それができなかったのは、素直に怖かったから。
2人が離れてしまうのが、とてもとても怖かったから。
だから、聞けなかった。
でも、それは間違いだ。
優しい2人を、こんな私に付き合わせてしまうのは違う。
それだけは、してはいけない。
自分では急いでいるつもりでも、その進みはゆっくりだ。
気持ちだけはすごく、急いでいるのに…。
「壁なんか触ってないで、自分の目で見ながら歩けば良いじゃん」
「昔から、春川さんてそういうところあったもんねー?」
後ろから聞こえて来た声。
自分に興味など、持たないでほしい。
それすらも通り過ぎて、俯きがちに通り過ぎる。
「耳も聞こえないフリー?」
探るような、差別するような声。
それも、聞こえないように通り過ぎる。
「ねー?聞こえてるんでしょ?」
「また、うそなのー?」
「だって、本当は見えているんだもんね?」
早く彼女たちの視界から消えたい。
教室を通り過ぎて、角を曲がれば階段だ。
階段を降りたら、保健室はもうすぐだ。
早く進みたいが、焦ると危ないのでなるべく深い呼吸をしながら歩き続ける。
しかし、私は思っているよりも焦っていたのだろう。
自分で覚悟していたよりも遥かに早く、そこには段差があった。
いつもは、足で確認する床の突起が感じられなかった。
その位、動揺していたのだろう。
「春川!」
声と同時に、自分の体が宙に浮く。
わけが分からず、呼ぶ声に反応するのと同時に平衡感覚が一気になくなった。
え?と言おうと思っていた自分の口からは、実際には何の音も出ていなかった。
両足に、痛みが走る。
そのまま、体が前に傾く。
咄嗟に前に両手を出すが、やっぱり平衡感覚が取り戻せずに、全身が鈍い痛みに包まれた。
何が起きたのか、全く分からなかった。
床に、蹲るようなうつ伏せの状態で、踊り場にいるのだと気付いた。
自覚した時には、誰かの足音が静かに響いていた。
誰かが、階段を降りている。
誰の足音かが分からない。
早く体を起こさないと。
でも、開いているはずの目には何も映らない。
試しに、手を動かしてみる。
指先は普通に動く。
そのまま床の感覚を確かめ、床に手をつく。
その手にも、微かな痛みが走る。
頬に感じる冷たい床の感触が自分を追い詰める。
痛みが響く手を動かして、顔の側に手を着く。
両手をついて、ゆっくりと体を起こす。
震える足にも力を入れる。
手も、足も、震えていた。
自分を落ち着かせるように、体に力を入れる。
そのまま立とうとして、両足に痛みがあることが分かった。
浮遊する前に感じた両足の痛みは、現実のものだった。
右手を伸ばして、足首を触る。
そして、自分の状態を想像する。
想像できない。
見えない。
分からない。
怖い。
後ろには、まだ誰かがいる。
沈黙でも誰かがいること、見られていることが分かる。
こくりと、自分の喉が鳴る。
震える手で、壁を確認しそのまま上に手を伸ばして行く。
階段の手すりが、手に触れる。
両手で掴み、自分を立たせようとする。
そうだ、手すりをきちんと掴んでいれば動揺していてもバランスを崩すことはなかった。
私はきっと、階段を落ちてしまったのだろう。
手すりを掴む手に力を入れて、ゆっくりと体を立たせて行く。
静かに立ち上がる。
足首は痛いけれど、前に左足を出すとどうにか体は支えられる。
これなら、歩けなくはない。…多分だけれど。
右足は、何故か前に出なかった。
一度、深呼吸をする。
踊り場から、ゆっくりと残りの階段を降りようと動き出す。
そして、血が通い始めて自覚する。
足がとても震えていることに。
痛みによる震えなのか、今の出来事を理解していないことからの震えなのか、自分でも判断できないくらいに全身が震えている。
それでも、歩くしかない。
「歩ける?」
後ろから、静かに声が聞こえた。
そのまま気配は、ゆっくりと自分の前に動いた。
高杉君だった。
「…だ、大丈夫。少し痛い、けれど…ちゃんと歩けるから」
足音は進まず、自分の前に彼がいるような気がした。
これは、焦燥感だ。
早く、見られている内に、きちんと歩かないと。
できることを、見せないと。
「あの、私のことは、気にしないで…」
前は向けなかった。
両手で手すりを掴みながら、壁に顔を向けながらそう告げる。
もし、高杉君が先に下に行っていたなら、この声は届いていない。
「何で?」
思っていたたより、自分の横で声が聞こえた。
「わ、私…、歩くのが遅いから、先に…進んで、ほしい」
「歩くのが遅いからじゃなくて、足が痛いからじゃないのか?」
ぐっと口を噤む。
何か会話をして、違和感を感じても今の私では何もできない。
動揺した私では、高杉君には何も言えない。
今の私は、高杉君に「見えない」なんて言えなかった。
高杉君が、どういうつもりで私を助けてくれるのか、分からなかったから。
乃田さんや、布之さんのように、自分の意識とは違う所に高杉君がいたらと思うと、助けてもらうことがとても悪いことのように思ってしまったから。
その手を借りることが、怖くなった。
ゆっくりと、1歩ずつ階段を降りる。
動く度に足が痛くて、震えているのが分かった。
なので、手すりで体重を支えながら、階段をそろそろと降りていく。
段数なんて数えていないけれど、途方もない距離を歩いたくらい時間をかけて1階に着いた。
ここから、保健室はもうすぐだ。
教室を2つ通り過ぎれば辿り着く。
自分を落ち着けるように深呼吸をする。
壁を伝おうとして、手すりが終わっていることに気付いた。
つるつるの手触りは変わらず、ぺたぺたしていても手すりは見つからなかった。
自分の体重を預けるものがないこと。
未だに手すりの終わりを、両手で掴んでいる自分。
そこで、自分の足のことが気になった。
痛いのは変わらない。
体を支えられている内に、足首を動かしてみようと思った。
左足の痛みは、曲げ伸ばしをすると鈍い痛みが伝わるものになっていた。
右足の痛みは、左足とは比べものにならないくらいに痛く、動かす度に激痛だと思える刺激が響いて行く。
捻挫とは確実に違う、でも、折れているのかは疑問。
そんなことを、ちらりと考えた。
自分でも順番に足首を動かし、この先の距離を思う。
そして、高杉君の他に誰かいないのか、少し気になった。
昼休みのざわざわとした空間、遠いクラスでの笑い声と校内放送の控えめな音楽くらいしか、感じ取れなかった。
試しに一歩を踏み出す。
自分の足では支えきれず、壁にもたれるように寄りかかった。
じわりと嫌な汗が浮かぶ。
体が熱い。
距離はないはずなのに、保健室までの距離が無限に感じた。
壁に寄りかかりながら、手で体を支える。
そのまま少し前の壁を伝っていると、急に何もなくなった。
慌てて手を引く。
空間があるということは、そこはドアなのだろう。
まだ、少ししか進んでいない。
しっかりしないと。
空間が開いている部分は、壁に寄りかかれない。
もし、この先もドアがあいていたら、あと4か所分に難所があるということ。
覚悟を決めて空間の部分に、踏み出す。
痛かったはずの右足を出してしまったことに気付いたのは、痛みで進まずその場にへなへなと座り込んでしまってからだった。
自分の足が、自分のものではないみたいだ。
震える足首。
痛みなのか、恐怖からなのか…。
自分でも区別がつかない。
見えなくなった目と同じ、何も意味をなさない。
それでも、立ち上がろうと左手を床に着ける。
まずは、まだある壁に右手を伝いながら、少しずつ立ち上がる。
壁についている右手に、自分の体重を預けるように少しずつ立ち上がる。
まだ泣くな。
泣いている場合じゃない。
お迎えが来て、車に乗るまでは我慢するんだ。
よろよろと、自分を支えながらその場に立つ。
両足に、しっかりと力を入れる。
立ち上がって、左足を踏み出す。
間違えないように、少しだけ先に足を伸ばした。
さっきよりは、我慢できる。
引き摺るように、少しずつ右足を動かして開いた分の距離を縮める。
呼吸をしながら、痛みに耐えながら、必死に右足を動かした。
多分、ドアの真ん中辺りに立てたのだろう。
少し伸ばした手は、空間を撫でた。
今度は少しだけ、左足を前に出す。
さっきと同じように、右足を引きずるように前に出していく。
少しずつ行かないとまたへたり込んでしまうから。
両足でしっかりと立ち、少し腕を伸ばす。
ドアの淵に手が触れた。
2枚分ある、重ねられたドアが。
思わずほっとして、両手で掴む。
そこで、私は自分が焦っていたことを思い出す。
ドアは、スライドすることを。
当たり前のことなのに、触れた存在に嬉しくなってしまったのだろう。
ドアの下には、ローラーが付いている。
力を込めてしまってから、思わず後悔した。
だって、ドアが2枚とも動いたから。
反動で、自分の体が不自然に引っ張られる。
引っ張ったはずなのに、戻る力に引き寄せられるように体が動いた。
だけど、不自然に動いたはずの反動はぴたりと止まった。
思い当たるのは、1つしかない。
「…ごめんなさい」
呟いた声は、とてもちっぽけだった。
ずっと、いてくれたのだろうか?
それとも、仕方なく戻って来てくれたのだろうか?
呟いたのは、反省ではなく謝罪だった。
動いたドアを止めてくれたのは、きっと高杉君だろう。
泣かないで、良かった。
そう思い、掴んだままのドアに力を込める。
それを支えに、歩みを進める。
必死に動かしていることでか、前に進みたい気持ちからか、足の痛みは慣れたように感じた。
痛みを無視して、動かすことくらいは出来た。
そのくらい必死だった。
「ごめん、なさい…」
ドアから手を離して、再度壁にもたれるように両手を着く。
この先も、ドアが開いていたらどうしよう。
自分だけで歩けるか、不安がやって来る。
次も、ドアは空いていたようで、空間がぽっかりとしていた。
絶望だと思った。
もう、自分でも歩けるかが分からない。
教室は残り1つ分と少し。
ここから、先生を呼ぼうか…。
だけど、気付いてもらえなかったら…。
考えても、仕方ない。
時間だけが、無駄に過ぎて行くような気がした。
ふと、考えが過った。
もう1つ、できることがあったことを。
怖いけれど、相手を信じないとできない手段。
「…高杉君?」
沈黙の中に、震える声がした。
自分の声だと気付くのに、数秒かかった。
小さな呼び声に、同じく小さな呼吸音がした。
「うん?」
きちんと返答があった。
「…肩を、借りても…良い?」
「いいよ」
私の戸惑いをよそに、返答はすぐだった。
「手、痛い?」
まごまごしている内に、高杉君の問いかけがあった。
「…ううん!」
答えてすぐに、壁側ではない左手がぬくもりに包まれた。
「体重をかけても、大丈夫だから」
高杉君の肩なのだろうか。
少し高い位置に、自分の手が置かれた。
「…ごめんなさい」
言葉に甘えて、右足の感覚を感じなくても良いように、大きく左足を踏み出す。
そろそろと、右足を引き寄せ一呼吸を置く。
壁の右手と、高杉君の左手に力を入れる。
そして、両足が揃ったらまた、左足を大きく踏み出す。
そして、右足を引き寄せる。
それを繰り返した。
「もう、着くから」
静かな声。
「うん、ありがとう」
息を吸い込む。
「先生」
私の声に、「春川?」と林先生の声が聞こえた。
「どうした?」
近くなった声に、何て言えば良いのか分からず、声が出なかった。
「足、どうした?」
私の立ち方が変だったのだろう。
さっきよりも声が、険しい気がした。
「えっと…」
困っている私の返事を待たずに、林先生が「待っていて」と離れて行った。
ゴロゴロと音がしたのは、聞き覚えがあったけれど何の音か思い出せなかった。
「ほら、座って?」
先生の声が硬い。
膝の裏に、何かが当たった。
高杉君の肩が下がって、肩に置いた手が離れる。
温かいぬくもりに、再度手が包まれる。
手を握られ、支えられている気がした。
座って気が付く。
膝に当たったのは、クッションだということ。
林先生がいつも座っている、椅子だったのだろう。
「あ、ありがとうございます」
座ったのを確認すると、椅子が動き出した。
動いていると、空間が変わったのを感じた。
消毒液と、乾燥したシーツ、というかベッドの匂いがする。
「し、失礼します」
「で、どうしたの?」
林先生の、問いかけ。
「あ、あの…転んでしまって」
答えた私の声に、溜め息が聞こえて来た。
声で判別するのは、もう慣れた。
見えていても、見えていなくても…。
面白がる人間を、相手にしないことも、だ。
乃田さんと、布之さんがいないことで、からかわれているんだと思う。
自分のクラスを、急ぎ足で通り過ぎる。
このまま保健室に行くことにしか、気持ちが向いていなかった。
本当は、自分の荷物を持たないといけないのに…。
でも、今の私はそんなことを気にしている所ではなかった。
さっきの話も、2人の表情も、何もかもを上手に受け取れなかったから。
乃田さんも、布之さんも私に何度も謝ってくれた。
そのくらいに気にしていたいたということ。
5年。
私と同じ時間が流れている。
途方もない時間のように思えた。
2人は言っていた。
「ずっと」と。
それだけ、私のことを考えてくれたということだろう。
もっと早くに気付いて、私から聞いていたら良かったのに…。
『何で、私に優しくしてくれるの』って。
そうしたら、きっと2人はさっきのように悩みながらも応えてくれたのだろう。
『昔のことを気にしていたから…』と。
正直に、私に返してくれたのだろう。
それができなかったのは、素直に怖かったから。
2人が離れてしまうのが、とてもとても怖かったから。
だから、聞けなかった。
でも、それは間違いだ。
優しい2人を、こんな私に付き合わせてしまうのは違う。
それだけは、してはいけない。
自分では急いでいるつもりでも、その進みはゆっくりだ。
気持ちだけはすごく、急いでいるのに…。
「壁なんか触ってないで、自分の目で見ながら歩けば良いじゃん」
「昔から、春川さんてそういうところあったもんねー?」
後ろから聞こえて来た声。
自分に興味など、持たないでほしい。
それすらも通り過ぎて、俯きがちに通り過ぎる。
「耳も聞こえないフリー?」
探るような、差別するような声。
それも、聞こえないように通り過ぎる。
「ねー?聞こえてるんでしょ?」
「また、うそなのー?」
「だって、本当は見えているんだもんね?」
早く彼女たちの視界から消えたい。
教室を通り過ぎて、角を曲がれば階段だ。
階段を降りたら、保健室はもうすぐだ。
早く進みたいが、焦ると危ないのでなるべく深い呼吸をしながら歩き続ける。
しかし、私は思っているよりも焦っていたのだろう。
自分で覚悟していたよりも遥かに早く、そこには段差があった。
いつもは、足で確認する床の突起が感じられなかった。
その位、動揺していたのだろう。
「春川!」
声と同時に、自分の体が宙に浮く。
わけが分からず、呼ぶ声に反応するのと同時に平衡感覚が一気になくなった。
え?と言おうと思っていた自分の口からは、実際には何の音も出ていなかった。
両足に、痛みが走る。
そのまま、体が前に傾く。
咄嗟に前に両手を出すが、やっぱり平衡感覚が取り戻せずに、全身が鈍い痛みに包まれた。
何が起きたのか、全く分からなかった。
床に、蹲るようなうつ伏せの状態で、踊り場にいるのだと気付いた。
自覚した時には、誰かの足音が静かに響いていた。
誰かが、階段を降りている。
誰の足音かが分からない。
早く体を起こさないと。
でも、開いているはずの目には何も映らない。
試しに、手を動かしてみる。
指先は普通に動く。
そのまま床の感覚を確かめ、床に手をつく。
その手にも、微かな痛みが走る。
頬に感じる冷たい床の感触が自分を追い詰める。
痛みが響く手を動かして、顔の側に手を着く。
両手をついて、ゆっくりと体を起こす。
震える足にも力を入れる。
手も、足も、震えていた。
自分を落ち着かせるように、体に力を入れる。
そのまま立とうとして、両足に痛みがあることが分かった。
浮遊する前に感じた両足の痛みは、現実のものだった。
右手を伸ばして、足首を触る。
そして、自分の状態を想像する。
想像できない。
見えない。
分からない。
怖い。
後ろには、まだ誰かがいる。
沈黙でも誰かがいること、見られていることが分かる。
こくりと、自分の喉が鳴る。
震える手で、壁を確認しそのまま上に手を伸ばして行く。
階段の手すりが、手に触れる。
両手で掴み、自分を立たせようとする。
そうだ、手すりをきちんと掴んでいれば動揺していてもバランスを崩すことはなかった。
私はきっと、階段を落ちてしまったのだろう。
手すりを掴む手に力を入れて、ゆっくりと体を立たせて行く。
静かに立ち上がる。
足首は痛いけれど、前に左足を出すとどうにか体は支えられる。
これなら、歩けなくはない。…多分だけれど。
右足は、何故か前に出なかった。
一度、深呼吸をする。
踊り場から、ゆっくりと残りの階段を降りようと動き出す。
そして、血が通い始めて自覚する。
足がとても震えていることに。
痛みによる震えなのか、今の出来事を理解していないことからの震えなのか、自分でも判断できないくらいに全身が震えている。
それでも、歩くしかない。
「歩ける?」
後ろから、静かに声が聞こえた。
そのまま気配は、ゆっくりと自分の前に動いた。
高杉君だった。
「…だ、大丈夫。少し痛い、けれど…ちゃんと歩けるから」
足音は進まず、自分の前に彼がいるような気がした。
これは、焦燥感だ。
早く、見られている内に、きちんと歩かないと。
できることを、見せないと。
「あの、私のことは、気にしないで…」
前は向けなかった。
両手で手すりを掴みながら、壁に顔を向けながらそう告げる。
もし、高杉君が先に下に行っていたなら、この声は届いていない。
「何で?」
思っていたたより、自分の横で声が聞こえた。
「わ、私…、歩くのが遅いから、先に…進んで、ほしい」
「歩くのが遅いからじゃなくて、足が痛いからじゃないのか?」
ぐっと口を噤む。
何か会話をして、違和感を感じても今の私では何もできない。
動揺した私では、高杉君には何も言えない。
今の私は、高杉君に「見えない」なんて言えなかった。
高杉君が、どういうつもりで私を助けてくれるのか、分からなかったから。
乃田さんや、布之さんのように、自分の意識とは違う所に高杉君がいたらと思うと、助けてもらうことがとても悪いことのように思ってしまったから。
その手を借りることが、怖くなった。
ゆっくりと、1歩ずつ階段を降りる。
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そこで、自分の足のことが気になった。
痛いのは変わらない。
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右足の痛みは、左足とは比べものにならないくらいに痛く、動かす度に激痛だと思える刺激が響いて行く。
捻挫とは確実に違う、でも、折れているのかは疑問。
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自分でも順番に足首を動かし、この先の距離を思う。
そして、高杉君の他に誰かいないのか、少し気になった。
昼休みのざわざわとした空間、遠いクラスでの笑い声と校内放送の控えめな音楽くらいしか、感じ取れなかった。
試しに一歩を踏み出す。
自分の足では支えきれず、壁にもたれるように寄りかかった。
じわりと嫌な汗が浮かぶ。
体が熱い。
距離はないはずなのに、保健室までの距離が無限に感じた。
壁に寄りかかりながら、手で体を支える。
そのまま少し前の壁を伝っていると、急に何もなくなった。
慌てて手を引く。
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まだ、少ししか進んでいない。
しっかりしないと。
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もし、この先もドアがあいていたら、あと4か所分に難所があるということ。
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自分の足が、自分のものではないみたいだ。
震える足首。
痛みなのか、恐怖からなのか…。
自分でも区別がつかない。
見えなくなった目と同じ、何も意味をなさない。
それでも、立ち上がろうと左手を床に着ける。
まずは、まだある壁に右手を伝いながら、少しずつ立ち上がる。
壁についている右手に、自分の体重を預けるように少しずつ立ち上がる。
まだ泣くな。
泣いている場合じゃない。
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よろよろと、自分を支えながらその場に立つ。
両足に、しっかりと力を入れる。
立ち上がって、左足を踏み出す。
間違えないように、少しだけ先に足を伸ばした。
さっきよりは、我慢できる。
引き摺るように、少しずつ右足を動かして開いた分の距離を縮める。
呼吸をしながら、痛みに耐えながら、必死に右足を動かした。
多分、ドアの真ん中辺りに立てたのだろう。
少し伸ばした手は、空間を撫でた。
今度は少しだけ、左足を前に出す。
さっきと同じように、右足を引きずるように前に出していく。
少しずつ行かないとまたへたり込んでしまうから。
両足でしっかりと立ち、少し腕を伸ばす。
ドアの淵に手が触れた。
2枚分ある、重ねられたドアが。
思わずほっとして、両手で掴む。
そこで、私は自分が焦っていたことを思い出す。
ドアは、スライドすることを。
当たり前のことなのに、触れた存在に嬉しくなってしまったのだろう。
ドアの下には、ローラーが付いている。
力を込めてしまってから、思わず後悔した。
だって、ドアが2枚とも動いたから。
反動で、自分の体が不自然に引っ張られる。
引っ張ったはずなのに、戻る力に引き寄せられるように体が動いた。
だけど、不自然に動いたはずの反動はぴたりと止まった。
思い当たるのは、1つしかない。
「…ごめんなさい」
呟いた声は、とてもちっぽけだった。
ずっと、いてくれたのだろうか?
それとも、仕方なく戻って来てくれたのだろうか?
呟いたのは、反省ではなく謝罪だった。
動いたドアを止めてくれたのは、きっと高杉君だろう。
泣かないで、良かった。
そう思い、掴んだままのドアに力を込める。
それを支えに、歩みを進める。
必死に動かしていることでか、前に進みたい気持ちからか、足の痛みは慣れたように感じた。
痛みを無視して、動かすことくらいは出来た。
そのくらい必死だった。
「ごめん、なさい…」
ドアから手を離して、再度壁にもたれるように両手を着く。
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絶望だと思った。
もう、自分でも歩けるかが分からない。
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だけど、気付いてもらえなかったら…。
考えても、仕方ない。
時間だけが、無駄に過ぎて行くような気がした。
ふと、考えが過った。
もう1つ、できることがあったことを。
怖いけれど、相手を信じないとできない手段。
「…高杉君?」
沈黙の中に、震える声がした。
自分の声だと気付くのに、数秒かかった。
小さな呼び声に、同じく小さな呼吸音がした。
「うん?」
きちんと返答があった。
「…肩を、借りても…良い?」
「いいよ」
私の戸惑いをよそに、返答はすぐだった。
「手、痛い?」
まごまごしている内に、高杉君の問いかけがあった。
「…ううん!」
答えてすぐに、壁側ではない左手がぬくもりに包まれた。
「体重をかけても、大丈夫だから」
高杉君の肩なのだろうか。
少し高い位置に、自分の手が置かれた。
「…ごめんなさい」
言葉に甘えて、右足の感覚を感じなくても良いように、大きく左足を踏み出す。
そろそろと、右足を引き寄せ一呼吸を置く。
壁の右手と、高杉君の左手に力を入れる。
そして、両足が揃ったらまた、左足を大きく踏み出す。
そして、右足を引き寄せる。
それを繰り返した。
「もう、着くから」
静かな声。
「うん、ありがとう」
息を吸い込む。
「先生」
私の声に、「春川?」と林先生の声が聞こえた。
「どうした?」
近くなった声に、何て言えば良いのか分からず、声が出なかった。
「足、どうした?」
私の立ち方が変だったのだろう。
さっきよりも声が、険しい気がした。
「えっと…」
困っている私の返事を待たずに、林先生が「待っていて」と離れて行った。
ゴロゴロと音がしたのは、聞き覚えがあったけれど何の音か思い出せなかった。
「ほら、座って?」
先生の声が硬い。
膝の裏に、何かが当たった。
高杉君の肩が下がって、肩に置いた手が離れる。
温かいぬくもりに、再度手が包まれる。
手を握られ、支えられている気がした。
座って気が付く。
膝に当たったのは、クッションだということ。
林先生がいつも座っている、椅子だったのだろう。
「あ、ありがとうございます」
座ったのを確認すると、椅子が動き出した。
動いていると、空間が変わったのを感じた。
消毒液と、乾燥したシーツ、というかベッドの匂いがする。
「し、失礼します」
「で、どうしたの?」
林先生の、問いかけ。
「あ、あの…転んでしまって」
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生贄姫の末路 【完結】
松林ナオ
児童書・童話
水の豊かな国の王様と魔物は、はるか昔にある契約を交わしました。
それは、姫を生贄に捧げる代わりに国へ繁栄をもたらすというものです。
水の豊かな国には双子のお姫様がいます。
ひとりは金色の髪をもつ、活発で愛らしい金のお姫様。
もうひとりは銀色の髪をもつ、表情が乏しく物静かな銀のお姫様。
王様が生贄に選んだのは、銀のお姫様でした。
ローズお姉さまのドレス
有沢真尋
児童書・童話
最近のルイーゼは少しおかしい。
いつも丈の合わない、ローズお姉さまのドレスを着ている。
話し方もお姉さまそっくり。
わたしと同じ年なのに、ずいぶん年上のように振舞う。
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