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お迎え
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「着替えるのは良いけれど、転ばないようにね?」
林先生の声に、ゆっくりと頷く。
「はい、分かりました」
「行こ、春川」
乃田さんが、私の左手をゆっくりと握ってくれた。
私が右手を痛めてしまったから。
私も左手に力を入れて、ゆっくりと握り返す。
お迎えの時間は、きっとすぐに来てしまう。
でも、私がいなくてもお母さんと林先生で話をしながら過ごしているので、急ごうという気持ちは湧かなかった。
廊下でも、乃田さんは私の手をしっかり握ってくれた。
布之さんは、右隣にいる気がする。
「春川、バスケに興味を持ったらしい」
乃田さんの言葉に、慌てて否定する。
「あの、やってみたいとかじゃ…なくて、そのね。ルールとか、歴史とかちゃんと知りたいなって、思ったの…」
「そう?勉強家ね。でも、ボールは硬いし危険だから、気を付けてから触らないと…」
布之さんの声が聞こえる。
やっぱり、右側にいるのが布之さんだ。
さっきとは逆になるけれど、2人に挟まれてすごく嬉しい…。
「最初は触るところから…」
喋っていた乃田さんの言葉が、途中で止まった。
不思議に思い、左側を見る。
見えていないけれど、何かあったのだろうか?
「あ、ごめん。何でもないよ。バスケットボールって硬いだろ?だから、ドリブル1つだって突き指とか気を付けないといけないなって思ってさ」
「そうなんだ」
ドリブルなんて、いつ以来だろう?
と言うか、ボールに触ることをいつからしていないのかすら思い出せなかった。
「乃田さんも布之さんも、活躍してすごいなって思ったの。高杉君もそうだけど、みんな活躍してすごいね」
「活躍っていうか、きちんと試合するのがスポーツマンシップだろ?相手が誰でも、全力でちゃんと試合をしないと」
「あかりは熱すぎ」
「良いだろ別に。春川だって、そう思うだろ?」
相手が誰でも、私でも良いのかな?
「…私が、試合に出ても、乃田さんは全力で試合をしてくれるの?」
私の問いかけに、乃田さんが唸った。
さっき、得点係を引き受けると言ってくれた時と同じように。
「迷うな」
「あかりって、馬鹿正直だから」
「ほんとお前は、一言多いな」
仲の良い2人のやり取りに、私も笑う。
「ほら、そろそろ更衣室よ?」
布之さんの声に、やっぱり移動が速いことを思う。
「任せろ?春川が着替えている間はちゃんと外で待っててやるから」
「え?」
2人は着替えないのかな?
「私達は、午後に体育祭の準備があるのよ」
「体育祭…」
「そ、あかりにはもってこいの行事」
そうか、春にやることになっていたんだ。
小学生の頃は秋に行っていた運動会も、中学生になったら春に行うことになっていた。
名前も運動会から、体育祭に変わる。
「そっか、運動会じゃなくて体育祭だもんね」
私の呟きに、2人とも「そ、体育祭」と返事をしてくれる。
そんなことが、やっぱり嬉しい。
扉が開く音がした。
「安心して、中は誰もいないから」
布之さんだ。
「あ、ありがとう…」
何か至れり尽くせりで申し訳ない気持ちになる。
「気にすんなって。かすみは好きでやってるんだから」
「うん」
更衣室で1人になり、少しホッとする。
緊張しているのが、自分でも分かる。
家族以外と過ごすことって、こんなにドキドキするものなのかな?
休み時間が終わってしまうと、慌てて着替えをする。
さっき置いたままの制服は、ちゃんとここにあった。
その制服を、慣れたように着ていく。
毎朝している動作だから、迷うことはない。
そんなに時間がかからず、着られたと自分でも思う。
手の感触だけで、衣類が捲れていないか、ずれずにきちんと着られているか2回確認した。
深呼吸をして、更衣室の外に出る。
「ごめんなさい。休み時間が終わってしまうのに…」
「だから、気にすんなって」
乃田さんの言葉に、それでも見えないことで気になってしまうことを感じる。
「保健室に行きましょう」
「…うん」
布之さんの言葉に、頷く。
保健室に行ったら、もう私にとっての今日は終わりだ。
「乃田さん、布之さん。もう大丈夫」
「え?」
寂しいから、一緒に行くのはここで終わりにしてもらおう。
「休み時間が終わってしまうし…その、そこまで付き合ってもらうのも…」
「春川は、着いてこられるの嫌かしら?」
布之さんの言葉に、首を振る。
「嫌じゃないの。…でも、保健室はもうそこだし、お迎えが来ていると思うから」
嘘ではない。
でも、申し訳ない気持ちも本当だ。
「ま、春川が良いって言うなら、無理に着いていかないよ」
「乃田さん、本当に嫌なわけじゃなくて」
私の言葉に、繋がれた左手が揺れた。
「分かってるって、休み時間が終わるから気になるんだろ?」
乃田さんの声は、変わりがなかった。
それに気付いてホッとする。
「…うん」
「本当に、春川って真面目」
布之さんの声に、曖昧に頷く。
真面目なのかな?自分では分からない。
「お前は委員のくせに、不真面目すぎんだろ?」
「あら、勝手に押し付けられているのに、何でそこまで真面目にならないといけないの?」
「たくさん一緒にいてくれて、ありがとう」
自分から乃田さんの手を離そうと、左手の力を抜く。
「どういたしまして」
乃田さんの手からも、力が抜ける。
気配が遠ざかり、2人が私の前に移動した気がする。
多分、教室に戻るのだろう。
「走ったら間に合うから平気よ」
「そうそう、楽勝」
予想通り、2人は目の前に移動したみたいだ。
乃田さんと布之さんの言葉に、羨ましい気持ちが湧く。
私だって、本当なら早退じゃなくていられるはずなのに。
黒い視界は、変わらない。
目の前に2人がいるはずなのに。
「また明日ね。春川」
布之さんの言葉に、乃田さんも「また明日」と言ってくれる。
「うん、また明日」
保健室を前にして、2人に小さく手を振る。
つい右手で振ってしまったけれど、痛みはほとんどなかった。
ゆっくりと壁伝いに歩き、保健室を目指す。
近付くにつれ、開いたままの部屋から話し声が聞こえてくる。
予想通り、お母さんがお迎えに来ているのだろう。
入る前に、少し躊躇い深呼吸をする。
よし、大丈夫。
「失礼します」
「のぞみ、大丈夫なの?」
入ると同時に会話が止まり、そう聞かれる。
さっきの体育のことを聞いているのかな?
「…うん、大丈夫」
「さっき、大谷先生も来たんだけど、次の授業があるからってすれ違ったんだね」
「…あ」
忘れていた。
そう言えば、大谷先生も体育が終わる頃にお迎えに来てくれるって言ってくれたのに。
私の馬鹿。
乃田さんと布之さんがいることで、すっかり舞い上がっていたのだろう。
先生、困っていたかな?
明日必ず、先生に謝ろう。
「のぞみ?」
お母さんの声に、ハッとする。
「あの、お母さん?」
「なあに?」
待たせているのに、困らせてしまうかな?
「図書室に、行って来ても良い?」
「え?」
ダメかな?
私の伺うような視線。
目線は合わないけれど、いるであろうお母さんに向けてしまう。
「今日じゃないと、ダメなのかしら?」
お母さんの言葉には、『見えていないことで危ないのでは?』が含まれていた。
お母さんは、きっと気付いている。
私が見えていないことに。
そして、気になっているはず。
“いつから”見えていなかったのかを…。
まさか、家を出てすぐにサインがあったなんて言えない。
でも、聞かれたらごまかせる自信はない。
深呼吸をして、お母さんを見る。
見えていないけれど。
「あの、借りたい本があるの…」
私が言うと、小さな溜め息が聞こえた。
「…待っていた方が良いのかしら?それとも着いて行った方が良い?」
「大丈夫、1人で行けるから」
「そう…」
話していると、チャイムが聞こえた。
次の授業が始まったのだろう。
乃田さんと布之さんは、間に合ったかな?
2階にある自分の教室を思い浮かべ、“間に合っていますように”と思う。
「じゃ、待っているわ」
「ありがとう」
ホッとしたことで、思わず笑う。
保健室を出てすぐに階段がある。
そこから3階まで行けば、図書室はすぐだ。
同じ階段から行けることで、図書室は良く利用している。
今日のように、早退する日などはタイミングが良い。
2階には教室がある。
さっき別れたばかりの2人と高杉君を想う。
通り過ぎる時に、様子だけ伺おうかな?
でも、見えないのにやめておいた方が良いかな?
気になる。
今日の私は、いつもと違うことで少しの冒険心が湧いている。
さっき、得点係をやったことで、こんな自分にでもできることがあると分かって嬉しいんだ。
ワクワクする気持ち。
だけど、それは右手のスースーした感覚で我に返る。
今は、やめておこう。
焦らないで、ゆっくりと…。
そう、焦らないのが大事。
焦ってしまうと、何もできなくなる。
また明日が、やってくるから。
だから、焦らないで。
ゆっくり呼吸をしながら、階段を上がって行く。
学校の図書室は、昼には何人かいても、放課後になるとほぼ無人となる。
今は、授業中なので当然人がいるわけもない。
そのことに安心して、ゆっくりと向かう。
2階に着いた。
A組が私のクラスだ。
少し、ざわざわしている?
何か楽しいことが、あったのだろうか。
顔は出さないで、ぐっと我慢して通り過ぎる。
階段を上がりきり、少し呼吸を整える。
今は図書室には誰もいないはず。
だから、焦らないで行こう。
「失礼します」
開いている扉から、本を収納している図書室独特の匂いがした。
入ると乾燥した空間を感じる。
図書室だと分かる空間を感じて、自分でも安心しているのが分かった。
「春川?」
司書の、葵先生がいたのだろう。
「はい、春川です。あの、バスケットの本を借りたいんです」
「バスケ?何でまた?」
先生の言葉に、思わず苦笑する。
「あの、今日の体育で…その試合をしていたので、興味が湧きました」
私の言葉に、葵先生は「バスケね…」と小さく呟いた。
葵先生は、去年図書委員をしていたことで交流があった。
私が知らない児童書や、面白い物語などを教えてくれる。
本を読むのが好きなので、葵先生の話はとてもタメになった。
私がどういう本を探しているのかなど、気にかけてくれる先生。
「少し、待っていて?他は、何か希望はある?」
「あと、児童書を2~3冊くらい」
「分かった。ここで待っていて」
葵先生は、本を探しに行ったのだろう。
去年も、『自分で探せる』と言っていたけれど、とても優しいからか何でも本を探そうとしてくれる。
頼りにされるのが嬉しいと言ってくれたので、見えない時は素直に甘えるようにしている。
先生は、私の目のことを知っているのか…。
多分、知らないだろう。
目が悪いとは思っていると思うが、見えなくなるということには気付いていないと思う仕草。
私が人見知りで、口数の少ない生徒だと思っている。
はず…。
後ろで物音がし、思わずびくりとしてしまう。
「やっぱり、春川さんだ。良かった…。見間違いじゃなくて…」
クラスメイトのような声がした。
追いかけて来たのか、小さく息切れをしているようで「はぁはぁ」と呼吸音が聞こえてくる。
さっき、私は顔を覗かせていない。
でも、クラスメイトは私を追いかけて来たのだろうか?
何のために?
私がぼんやり考え事をしている間に、クラスメイトは私に近付いてきたようだ。
「あのさ、こんなことを言ったら悪いとは…思うけど。高杉君に、優しくされたからって、勘違いしないでね?」
「…あの?」
小さい声で、早口に言われた言葉。
「バスケの時に、得点係って言っても春川さんは仕事の少ない方になっていたの、気付いていなかったでしょ?」
仕事の少ない?
どういうことだろう?
「得点係っていったって、選手がラインを出ていないか、ボールの主導権がどっちのチームになるのかとか、見ていないといけないのに、春川さん知らんふりして座っているだけで、ほとんど高杉君がやってくれたんだからね?それは、ずるいと思う」
知らなかった。
高杉君が、そんなことをしてくれているなんて。
見えないのに、堂々と座っていただけの自分。
なんて、ただの言い訳だ。
「春川さん、バスケのルール知らないとか言って、高杉君に甘えてさ。見てて恥ずかしかったから」
私の姿は、客観的に見て恥ずかしいものだったのだろうか?
見えていないから、それは自分では判断できない。
「ご、ごめんなさい」
「得点なんて、見ていたら分かるのに、わざとらしく高杉君に聞いたりして…。そういうの、色目を使うって言うんじゃないの?得点票をめくるのなんて、練習しなくたって出来るじゃない?」
『知らなかった』も言い訳だ。
でも、優しくされて勘違いされたのは事実だから、何も言い返せない。
それに、言い返すのも違う気がする。
「ごめんなさい…」
謝るしかない。
それしか出来ない自分。
「つい、頼ってしまって…。次からは気を付けるから…」
「そう言って、今もわざとらしくバスケの本を借りに来たりして、図々しく媚びるなんてやっぱりずるいよ」
小さくても私に告げる言葉には、悔しさが溢れていた。
私と葵先生のやり取りも、聞こえていたのだろう。
「媚び…」
私がしていることは、ただの甘えなんだろう。
それが客観的に見えた、私の姿。
「それで、分からないこととか、不思議なことを高杉君に聞くの?高杉君が優しいのは、みんなにだからね?春川さんだけじゃないんだから」
「春川?バスケの本、いくつか種類があるけど?」
遠くから聞こえて来た声。
クラスメイトのハッとしたような雰囲気が伝わる。
「それだけ。言いたかっただけだから…」
「はい、ごめんなさい」
私が言い終わる前に、彼女は図書室から走り去って行く。
多分、走って行ったんだろう。
足音もなく、彼女はいなくなったと思う。
「春川?どうした?」
先生が戻って来ても、彼女に何も言わなかったことから、きっと先生がいない内に図書室を後にしたのだと判断する。
先生の声に、小さく笑う。
林先生の声に、ゆっくりと頷く。
「はい、分かりました」
「行こ、春川」
乃田さんが、私の左手をゆっくりと握ってくれた。
私が右手を痛めてしまったから。
私も左手に力を入れて、ゆっくりと握り返す。
お迎えの時間は、きっとすぐに来てしまう。
でも、私がいなくてもお母さんと林先生で話をしながら過ごしているので、急ごうという気持ちは湧かなかった。
廊下でも、乃田さんは私の手をしっかり握ってくれた。
布之さんは、右隣にいる気がする。
「春川、バスケに興味を持ったらしい」
乃田さんの言葉に、慌てて否定する。
「あの、やってみたいとかじゃ…なくて、そのね。ルールとか、歴史とかちゃんと知りたいなって、思ったの…」
「そう?勉強家ね。でも、ボールは硬いし危険だから、気を付けてから触らないと…」
布之さんの声が聞こえる。
やっぱり、右側にいるのが布之さんだ。
さっきとは逆になるけれど、2人に挟まれてすごく嬉しい…。
「最初は触るところから…」
喋っていた乃田さんの言葉が、途中で止まった。
不思議に思い、左側を見る。
見えていないけれど、何かあったのだろうか?
「あ、ごめん。何でもないよ。バスケットボールって硬いだろ?だから、ドリブル1つだって突き指とか気を付けないといけないなって思ってさ」
「そうなんだ」
ドリブルなんて、いつ以来だろう?
と言うか、ボールに触ることをいつからしていないのかすら思い出せなかった。
「乃田さんも布之さんも、活躍してすごいなって思ったの。高杉君もそうだけど、みんな活躍してすごいね」
「活躍っていうか、きちんと試合するのがスポーツマンシップだろ?相手が誰でも、全力でちゃんと試合をしないと」
「あかりは熱すぎ」
「良いだろ別に。春川だって、そう思うだろ?」
相手が誰でも、私でも良いのかな?
「…私が、試合に出ても、乃田さんは全力で試合をしてくれるの?」
私の問いかけに、乃田さんが唸った。
さっき、得点係を引き受けると言ってくれた時と同じように。
「迷うな」
「あかりって、馬鹿正直だから」
「ほんとお前は、一言多いな」
仲の良い2人のやり取りに、私も笑う。
「ほら、そろそろ更衣室よ?」
布之さんの声に、やっぱり移動が速いことを思う。
「任せろ?春川が着替えている間はちゃんと外で待っててやるから」
「え?」
2人は着替えないのかな?
「私達は、午後に体育祭の準備があるのよ」
「体育祭…」
「そ、あかりにはもってこいの行事」
そうか、春にやることになっていたんだ。
小学生の頃は秋に行っていた運動会も、中学生になったら春に行うことになっていた。
名前も運動会から、体育祭に変わる。
「そっか、運動会じゃなくて体育祭だもんね」
私の呟きに、2人とも「そ、体育祭」と返事をしてくれる。
そんなことが、やっぱり嬉しい。
扉が開く音がした。
「安心して、中は誰もいないから」
布之さんだ。
「あ、ありがとう…」
何か至れり尽くせりで申し訳ない気持ちになる。
「気にすんなって。かすみは好きでやってるんだから」
「うん」
更衣室で1人になり、少しホッとする。
緊張しているのが、自分でも分かる。
家族以外と過ごすことって、こんなにドキドキするものなのかな?
休み時間が終わってしまうと、慌てて着替えをする。
さっき置いたままの制服は、ちゃんとここにあった。
その制服を、慣れたように着ていく。
毎朝している動作だから、迷うことはない。
そんなに時間がかからず、着られたと自分でも思う。
手の感触だけで、衣類が捲れていないか、ずれずにきちんと着られているか2回確認した。
深呼吸をして、更衣室の外に出る。
「ごめんなさい。休み時間が終わってしまうのに…」
「だから、気にすんなって」
乃田さんの言葉に、それでも見えないことで気になってしまうことを感じる。
「保健室に行きましょう」
「…うん」
布之さんの言葉に、頷く。
保健室に行ったら、もう私にとっての今日は終わりだ。
「乃田さん、布之さん。もう大丈夫」
「え?」
寂しいから、一緒に行くのはここで終わりにしてもらおう。
「休み時間が終わってしまうし…その、そこまで付き合ってもらうのも…」
「春川は、着いてこられるの嫌かしら?」
布之さんの言葉に、首を振る。
「嫌じゃないの。…でも、保健室はもうそこだし、お迎えが来ていると思うから」
嘘ではない。
でも、申し訳ない気持ちも本当だ。
「ま、春川が良いって言うなら、無理に着いていかないよ」
「乃田さん、本当に嫌なわけじゃなくて」
私の言葉に、繋がれた左手が揺れた。
「分かってるって、休み時間が終わるから気になるんだろ?」
乃田さんの声は、変わりがなかった。
それに気付いてホッとする。
「…うん」
「本当に、春川って真面目」
布之さんの声に、曖昧に頷く。
真面目なのかな?自分では分からない。
「お前は委員のくせに、不真面目すぎんだろ?」
「あら、勝手に押し付けられているのに、何でそこまで真面目にならないといけないの?」
「たくさん一緒にいてくれて、ありがとう」
自分から乃田さんの手を離そうと、左手の力を抜く。
「どういたしまして」
乃田さんの手からも、力が抜ける。
気配が遠ざかり、2人が私の前に移動した気がする。
多分、教室に戻るのだろう。
「走ったら間に合うから平気よ」
「そうそう、楽勝」
予想通り、2人は目の前に移動したみたいだ。
乃田さんと布之さんの言葉に、羨ましい気持ちが湧く。
私だって、本当なら早退じゃなくていられるはずなのに。
黒い視界は、変わらない。
目の前に2人がいるはずなのに。
「また明日ね。春川」
布之さんの言葉に、乃田さんも「また明日」と言ってくれる。
「うん、また明日」
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つい右手で振ってしまったけれど、痛みはほとんどなかった。
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入る前に、少し躊躇い深呼吸をする。
よし、大丈夫。
「失礼します」
「のぞみ、大丈夫なの?」
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「さっき、大谷先生も来たんだけど、次の授業があるからってすれ違ったんだね」
「…あ」
忘れていた。
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私の馬鹿。
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先生、困っていたかな?
明日必ず、先生に謝ろう。
「のぞみ?」
お母さんの声に、ハッとする。
「あの、お母さん?」
「なあに?」
待たせているのに、困らせてしまうかな?
「図書室に、行って来ても良い?」
「え?」
ダメかな?
私の伺うような視線。
目線は合わないけれど、いるであろうお母さんに向けてしまう。
「今日じゃないと、ダメなのかしら?」
お母さんの言葉には、『見えていないことで危ないのでは?』が含まれていた。
お母さんは、きっと気付いている。
私が見えていないことに。
そして、気になっているはず。
“いつから”見えていなかったのかを…。
まさか、家を出てすぐにサインがあったなんて言えない。
でも、聞かれたらごまかせる自信はない。
深呼吸をして、お母さんを見る。
見えていないけれど。
「あの、借りたい本があるの…」
私が言うと、小さな溜め息が聞こえた。
「…待っていた方が良いのかしら?それとも着いて行った方が良い?」
「大丈夫、1人で行けるから」
「そう…」
話していると、チャイムが聞こえた。
次の授業が始まったのだろう。
乃田さんと布之さんは、間に合ったかな?
2階にある自分の教室を思い浮かべ、“間に合っていますように”と思う。
「じゃ、待っているわ」
「ありがとう」
ホッとしたことで、思わず笑う。
保健室を出てすぐに階段がある。
そこから3階まで行けば、図書室はすぐだ。
同じ階段から行けることで、図書室は良く利用している。
今日のように、早退する日などはタイミングが良い。
2階には教室がある。
さっき別れたばかりの2人と高杉君を想う。
通り過ぎる時に、様子だけ伺おうかな?
でも、見えないのにやめておいた方が良いかな?
気になる。
今日の私は、いつもと違うことで少しの冒険心が湧いている。
さっき、得点係をやったことで、こんな自分にでもできることがあると分かって嬉しいんだ。
ワクワクする気持ち。
だけど、それは右手のスースーした感覚で我に返る。
今は、やめておこう。
焦らないで、ゆっくりと…。
そう、焦らないのが大事。
焦ってしまうと、何もできなくなる。
また明日が、やってくるから。
だから、焦らないで。
ゆっくり呼吸をしながら、階段を上がって行く。
学校の図書室は、昼には何人かいても、放課後になるとほぼ無人となる。
今は、授業中なので当然人がいるわけもない。
そのことに安心して、ゆっくりと向かう。
2階に着いた。
A組が私のクラスだ。
少し、ざわざわしている?
何か楽しいことが、あったのだろうか。
顔は出さないで、ぐっと我慢して通り過ぎる。
階段を上がりきり、少し呼吸を整える。
今は図書室には誰もいないはず。
だから、焦らないで行こう。
「失礼します」
開いている扉から、本を収納している図書室独特の匂いがした。
入ると乾燥した空間を感じる。
図書室だと分かる空間を感じて、自分でも安心しているのが分かった。
「春川?」
司書の、葵先生がいたのだろう。
「はい、春川です。あの、バスケットの本を借りたいんです」
「バスケ?何でまた?」
先生の言葉に、思わず苦笑する。
「あの、今日の体育で…その試合をしていたので、興味が湧きました」
私の言葉に、葵先生は「バスケね…」と小さく呟いた。
葵先生は、去年図書委員をしていたことで交流があった。
私が知らない児童書や、面白い物語などを教えてくれる。
本を読むのが好きなので、葵先生の話はとてもタメになった。
私がどういう本を探しているのかなど、気にかけてくれる先生。
「少し、待っていて?他は、何か希望はある?」
「あと、児童書を2~3冊くらい」
「分かった。ここで待っていて」
葵先生は、本を探しに行ったのだろう。
去年も、『自分で探せる』と言っていたけれど、とても優しいからか何でも本を探そうとしてくれる。
頼りにされるのが嬉しいと言ってくれたので、見えない時は素直に甘えるようにしている。
先生は、私の目のことを知っているのか…。
多分、知らないだろう。
目が悪いとは思っていると思うが、見えなくなるということには気付いていないと思う仕草。
私が人見知りで、口数の少ない生徒だと思っている。
はず…。
後ろで物音がし、思わずびくりとしてしまう。
「やっぱり、春川さんだ。良かった…。見間違いじゃなくて…」
クラスメイトのような声がした。
追いかけて来たのか、小さく息切れをしているようで「はぁはぁ」と呼吸音が聞こえてくる。
さっき、私は顔を覗かせていない。
でも、クラスメイトは私を追いかけて来たのだろうか?
何のために?
私がぼんやり考え事をしている間に、クラスメイトは私に近付いてきたようだ。
「あのさ、こんなことを言ったら悪いとは…思うけど。高杉君に、優しくされたからって、勘違いしないでね?」
「…あの?」
小さい声で、早口に言われた言葉。
「バスケの時に、得点係って言っても春川さんは仕事の少ない方になっていたの、気付いていなかったでしょ?」
仕事の少ない?
どういうことだろう?
「得点係っていったって、選手がラインを出ていないか、ボールの主導権がどっちのチームになるのかとか、見ていないといけないのに、春川さん知らんふりして座っているだけで、ほとんど高杉君がやってくれたんだからね?それは、ずるいと思う」
知らなかった。
高杉君が、そんなことをしてくれているなんて。
見えないのに、堂々と座っていただけの自分。
なんて、ただの言い訳だ。
「春川さん、バスケのルール知らないとか言って、高杉君に甘えてさ。見てて恥ずかしかったから」
私の姿は、客観的に見て恥ずかしいものだったのだろうか?
見えていないから、それは自分では判断できない。
「ご、ごめんなさい」
「得点なんて、見ていたら分かるのに、わざとらしく高杉君に聞いたりして…。そういうの、色目を使うって言うんじゃないの?得点票をめくるのなんて、練習しなくたって出来るじゃない?」
『知らなかった』も言い訳だ。
でも、優しくされて勘違いされたのは事実だから、何も言い返せない。
それに、言い返すのも違う気がする。
「ごめんなさい…」
謝るしかない。
それしか出来ない自分。
「つい、頼ってしまって…。次からは気を付けるから…」
「そう言って、今もわざとらしくバスケの本を借りに来たりして、図々しく媚びるなんてやっぱりずるいよ」
小さくても私に告げる言葉には、悔しさが溢れていた。
私と葵先生のやり取りも、聞こえていたのだろう。
「媚び…」
私がしていることは、ただの甘えなんだろう。
それが客観的に見えた、私の姿。
「それで、分からないこととか、不思議なことを高杉君に聞くの?高杉君が優しいのは、みんなにだからね?春川さんだけじゃないんだから」
「春川?バスケの本、いくつか種類があるけど?」
遠くから聞こえて来た声。
クラスメイトのハッとしたような雰囲気が伝わる。
「それだけ。言いたかっただけだから…」
「はい、ごめんなさい」
私が言い終わる前に、彼女は図書室から走り去って行く。
多分、走って行ったんだろう。
足音もなく、彼女はいなくなったと思う。
「春川?どうした?」
先生が戻って来ても、彼女に何も言わなかったことから、きっと先生がいない内に図書室を後にしたのだと判断する。
先生の声に、小さく笑う。
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2話完結 1/14に2話の内容を増やしました
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神社のゆかこさん
秋野 木星
児童書・童話
どこからともなくやって来たゆかこさんは、ある町の神社に住むことにしました。
これはゆかこさんと町の人たちの四季を見つめたお話です。
※ 表紙は星影さんの作品です。
※ この作品は小説家になろうからの転記です。
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